【125】 紫禁城の黄昏(下) 
     (RFジョンストン、(訳)中山 理、祥伝社)         2007.11.04


 帝師となったジョンストン氏は、皇帝溥儀の13歳から、結婚した16歳、日本公使館へ保護を求めた18歳を経て、職を辞する19歳までの7年間、このラストエンペラーを見つめてきた。
 13歳の皇帝は物心ついてからほとんどの日々を紫禁城で暮らし、全くといってよいほど外の世界を見たことがない。多くの家臣に傅(かしず)かれながら、周りを革命主義者・共和国政府・軍閥らに囲まれ、宮廷内を固める官吏・宦官たちはおびただしい皇室の宝物を持ち出して換金し、自分たちの私財を蓄えるばかりである。
 90%が文盲であったという当時のシナにあっては、人々は民主主義や参政権の何たるかを知らず、地税の支払いと日々の生活の糧を得ることだけが全てであって、顔を合わすと「宣統帝陛下はお達者か」「俺たちには、ひとつもいいことがない。本物の龍(皇帝)が、もう一度お出ましにならねば…」と言い合うばかり。北にはソ連邦が成立し、国内では「5・4運動」の波が広がる中、シナの民衆は、なおほとんどが皇帝の支持者であった。



『 満州は清室の古い故郷であった。その後は(清朝成立後は)、独自の言語と風習を持つ独立民族としての満州族が徐々に姿を消しつつあったけれど、王朝に忠節を尽くす人々がすこぶる大勢いた。だからこそ満州は、革命で積極的な役割を演じなかったのである。
 …、外蒙古は、1911年(辛亥革命)まで自国が「シナに従属」するのでなく、「大清国に従属」するものだとみなしていた。だから皇帝が退位し、シナが共和国となった1912年に外蒙古独立したのだ。…、ここにロシアのつけ入る隙が出来たのである。 』
 このような事実を知っている私には、リットン報告書の「満州の独立運動について、1931年(満州事変)以前、満州地内では耳にもしなかった」という一説は説明しがたく思われる


 1923年、16歳になった皇帝溥儀は内務府に対して宮殿の宝物目録を提出するように指示した。何世紀にも渡って封印されていた宝物が溥儀の前に並べられて次々と検閲されていったが、やがて目録と実物とが符合せず、いくつかの宝物が紛失していることが判明した。溥儀は、自ら宝物が保管されている部屋や宮殿を調べると言い出した。
 …、宝物の収められた「建福宮」が炎上したのは、6月27日の夜明けであった。内務府の役人たちは大騒ぎしながら、駆けつけたイタリア人消防士が火を消さないようにと仕向けていた。
 消失した宝物(仏像・仏具・絵画・磁器・宝石・装身具・青銅器・衣服・書物など)は6643点に上ったという。内務部の調査が行われたが、はっきりした出火原因は判らず、当然ながら責任者(放火犯人)もあやふやに終わってしまった。
 火災から18日後、溥儀は数千年間もシナ宮廷に存続した制度を廃止し、宦官職員全員を紫禁城から追放した(宦官は周王朝(BC11世紀)以来の制度)。解雇される宦官の略奪など不法行為を防ぐため、宦官を中庭に集合させ、皇軍兵士の監視下でそのまま城外に退去させたのである。その後、私物整理と退職交付金を受け取るために、数名ずつが城内に入り、また退去していった。
 ただ、3人の先帝の皇太后を世話する50人ほどの宦官だけは、溥儀にも手のつけられない聖域であった。
 シナの新聞は、皇帝の宦官廃止を一様に褒め称え、品性と知性の向上、近代思想を進んで受容しようという姿勢に賛辞を贈った。


 1924年、北京近郊にいた馮玉祥の軍隊がクーデターを起こし北京を制圧した。内乱はさらに頻繁になり、シナとシナの国民にとってますます悲惨で残酷な状況が続いた。
 馮玉祥の軍は紫禁城を封鎖、自由な出入りが出来なくなった。
 紫禁城に向かった私(ジョンストン)は城内に入ることを拒否され、英国公使のマクリー卿と会いオランダ公使(外交団の長)、日本公使(芳沢健吉)を交えて皇帝の身を守ることを確認した。
 11月5日、紫禁城に現れた馮玉祥の軍隊は、宮殿の近衛兵の武装解除を命じ、皇帝の3時間以内の城外退去を命じた。交付された書状には、馮玉祥軍参謀の鹿鐘麟、北京市長の王芝祥、警察長官の張壁が連名していて、彼らは中華国民政府と自称している小派閥に属している連中だ。
 溥儀は身の回りのものを持って、父親である醇親王の屋敷に移った。莫大な皇室財産は、1912年に中華民国政府との間に取り決められた「帝室優待条件(帝位の保障・皇室財産の保持)」を
一方的に破棄して没収された。


 11月、馮玉祥の新たなクーデターの噂を聞いて、私(ジョンストン)は君主派の忠臣である鄭孝胥と珍宝?と相談して、皇帝の身を醇親王の屋敷からもっと安全なところへ移そうと計画した。
 一切の荷物を持たずに皇帝を車に乗せ、馮玉祥軍の兵士がいる本通りを避けて、公使館区域内のドイツ病院へ入った。
 皇帝を病院のディッパー博士に預けて、私(ジョンストン)はまず日本公使館に向かった。(なぜ、真っ先にジョンストン氏の母国である英国大使館に保護を求めなかったかというと、以前にマクリー英国公使に溥儀の受け入れを打診したとき、シナへの内政干渉と受け取られかねない行動であると難色を示したいきさつがある。)ところが、芳沢日本公使は留守で、オランダ公使館の公使もやはり外出中…。最後に英国公使館へ行き、マクリー公使に、「皇帝が公使館区域に来ている」ことだけを話した。
 午後3時、芳沢日本公使と面談。「日本公使館で皇帝を受け入れて欲しい」と懇願したが、すぐには返事をくれなかった。しばらくして「皇帝は受け入れるが、ここは一旦ドイツ病院に戻り、伝言を届けるまで待機して欲しい」と言う。
 私(ジョンストン)がドイツ病院に戻ると、皇帝はいない。「どこへ行ったのか」と聞くと、「日本公使館に行かれた」と言う。謎は、じきに解けた。私が出かけてしばらくしてから、一刻も早くどこか安全なところへ皇帝を非難させたいと望んでいた鄭孝胥は、個人的に面識のあった日本公使館護衛隊長の竹本中佐に保護を求めたのである。皇帝は、竹本中佐の私邸にいたのだ。それから1時間ほどして、皇帝は日本公使館の公私邸に移った。


 のちにシナ・満州・日本を巻き込んだ政治的事件を考慮に入れると、シナの新聞やその他のいたるところで、「日本公使が皇帝を受け入れたのは、日本の帝国主義の狡猾な策略の結果であり、彼らは皇帝がやがて高度な政治の駆け引きのゲームで有力な人質になりうることを見越していたからだ」という宣伝があるが、日本公使は、私(ジョンストン)本人が知らせるまで、皇帝が公使館区域まで来ていることを知らなかったのである。また、私本人が熱心に懇願し、皇帝が望んだからこそ、芳沢公使は皇帝を日本公使館で保護することに同意したのである。日本の帝国主義は、龍の飛翔(溥儀の満州皇帝就任のこと)とは何の関係もない。


 皇帝は、1924年11月29日から翌年2月23日までの数ヶ月間、日本公使館の賓客であった。私たちはときに一緒に公使館区域の中を散歩したりしたが、皇帝がその区域の外に出ることはなかった。


 1925年、孫文、北京で客死。


 1925年2月から1931年11月まで、天津の人目につかない日本租界内で、皇帝の物寂しい逗留生活が7年間も続いた。
 シナの新聞の中には嘘偽りを並べるものもあって、「日本人は皇帝を口説いて日本に行かせようとしている」とか「シナに対する政治道具として利用するかもしれない」などと書き立てていた。だが、日本政府は「日本や日本の租借地に皇帝がいては、ひどく困惑する」との旨を、私を通して皇帝に伝えていた。


 1925年、ジョンストン、帝師を辞任。翌26年、一時 英国へ帰国。
 1926年、蒋介石の北伐開始。張作霖、北京占拠。
 1927年、蒋介石の国民党が南京政府樹立。
ジョンストン、弁務官として威海衛へ再来。


 1928年7月、清帝室の御陵(墓所)が、何者かに破壊・冒涜された。東陵はダイナマイトで爆破され、乾隆帝や西太后の遺骨は散乱して、埋葬品が略奪された。皇帝は、皇陵の保護を約束していた国民政府からの同情や遺憾の言葉が寄せられるものと思っていたが、国民党も南京政府も哀悼や悔恨のそぶりもなかった。
 このとき以来、皇帝のシナに対する態度が一変した。いつかシナも正気に戻り、関係も上手くいくだろうという希望を捨て、300年前に帝国の礎を築いた満州に視線を転じよと、先祖の霊魂にせきたいられているのではないかと思ったほどだ。


 1928年、張作霖、爆死。
 1930年、威海衛が中華民国に返還され、ジョンストンは帰国するが、その翌年、また
      義和団事件の後始末と太平洋会議の英国代表団の一員として、再々來支。


 1931年、柳条湖事件(満州事変)が起こった。10月、再々度シナを訪れた私(ジョンストン)は、直ちに天津に向かい皇帝と会った。そのときの話題はただひとつ…。
 11月13日、上海にいた私の元に届いた1通の電報で、皇帝が天津を去り、満州へ向かったことを知った。
 シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。この説は、ヨーロッパでも広く流布し、それを信じるものも大勢いたが、それは真っ赤な嘘である。
 いうまでもないが、皇帝は蒋介石や張学良のような連中を頼るはずがない。満州に連れ去られるのが嫌ならば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話である。皇帝は自分の意思で満州へ向かったのであり、その旅の忠実な道連れは鄭孝胥とその息子の鄭垂だけであった。
 (7年間、日本の保護の下、天津の外国公館租界で過ごした溥儀は、陸相南次郎大将に「満州国皇帝となって、龍座に復することを願う」との書簡を送り、その希望の通り、彼は皇帝として祖先の土地に帰ったのである。)


 北へ向かう皇帝の列車はあちこちで停車し、地方官吏や人々が君主のもとへ敬意を表しに集まった。
 皇帝溥儀は、シナの政府への忠誠をことごとく拒み、シナの宗主権の要求もすべて拒絶することを全世界に知らしめるために、帝号と身分を継承し、「大満州国」(満州民族の国)の皇帝となったのである。』


 「紫禁城の黄昏」は、溥儀が満州へ向かったところで終わっている。この書の読後感は、やはり満州帝国の皇帝となった溥儀と、東京裁判で「私は日本軍閥の強制で皇帝にさせられた傀儡であった」と証言した溥儀をなしにしては語ることは出来まい。
 その3として、満州へ渡った以後の溥儀を見つめ、その上で総括したいと思う。



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