【126】「 溥 儀 −清朝最後の皇帝−」 (入江曜子、岩波新書)  2007.11.30


 愛新覚羅溥儀は、前項「紫禁城の黄昏」にも紹介したとおり、清朝最後の皇帝であり、辛亥革命によって皇帝の座を追われたのち、北京の外国租界にあった日本公使館に匿われ、のちに天津の日本租界から長春(満州国の首都 新京)へ移って、満州帝国皇帝となった。


 この間の経緯を年表式に示すと、以下の通りである。
1924.11.29 溥儀(19歳)、日本公使館へ匿われる。
1925.02.22 北京を去り、天津の日本租界内「張園」へ移る。
1931.09.18 満州事変が起こる。


 9月30日、溥儀のもとへ、関東軍は溥儀の復位を望んでいるが諾否はいかがかとの連絡が伝えられた。溥儀は、陸軍大臣南次郎と黒竜会代表頭山満に宛てて、皇帝の印である黄絹に親筆で帝位につく意思を述べ、同時に蒙古の王たちに宛てては日本軍への基準を進める書簡をしたためた。


     11.10 比冶山丸にて天津を脱出、満州へ
1932.03.01 満州国建国宣言
        09 溥儀(27歳)、執政に就任。
1934.03.01 満州は帝政となり、帝号を康徳と改める(満州国康徳皇帝溥儀)


1942.08.12 溥儀の夫人・譚玉齢が粟粒結核で危篤となった。溥儀の日本側補佐官であった吉岡安直参謀は中国人医師がさじを投げた後、溥儀の懇請で日本人医師の橋本元文(新京特別市立病院内科医長)に治療を依頼する。
 すでに治療の域を超えている患者に、アンプルの1本にも中国人侍医団の確認を取りながら治療を施し、最後に看護学校の中国人生徒5人を呼んで、輸血を行った。ほのかに顔に紅がさした譚玉齢を見て、溥儀は橋本医師の両手を取って「ありがとう、ありがとう」と日本語で繰り返した。
 輸血によって、わずかに延命した譚玉齢であったが、13日未明に息を引き取った。溥儀は盛大な葬儀を済ませたあと、橋本医師を帝宮に招き、感謝を述べてその労を謝している。


 1943年4月 南嶺女子校の学生・李玉琴を冊立する(皇后として立てること)。


 1945年、日本の敗戦により、日本への亡命の途中、8/19瀋陽(奉天)にてソ連軍に拘束され、ハバロフスクの第45収容所に収容された。
 収容所では、皇帝として上級将校以上の待遇を受け、食事は日に4回、たっぷりの肉にパン、アルコール類も出された。もちろん強制労働などはなく、彼の部屋にはピアノが運び込まれ、世話係として若い女性3人がついた。
 ここで溥儀は、ソ連の指示で、特に満州建国を中心として、経緯を文書にまとめた。


 1946年8月16〜27日、極東国際軍事裁判所に、検事側商人として出席。


 その証言の内容は、替え玉説がささやかれるほど、主席検事キーナンの操る手綱のままに、「満州国元首になったのは日本軍の圧迫の結果であり、その後は傀儡にすぎなかった」と証言するのである。
 第2回、8月19日の証言では、「私の妻は、日本軍の吉岡安直中将によって毒殺された」と異様な興奮を見せて中国語で告発した。


 反対尋問に立った清瀬一郎弁護人は、「証人(溥儀)が満州国の帝位に就くことは、南次郎陸軍大臣に宛てた書簡で、自ら希望する旨を書いている」と指摘するが、溥儀は「日本軍に強要された」と主張した。
 「夫人毒殺」の告発を新聞で知った橋本医師は、満州から引き揚げてきたばかりであったが、溥儀の告発は事実に反することを証言すると弁護団に申し出た。これに対して弁護側は、「溥儀の証言が、ソ連に言わされている嘘であることはわかっている。今、証言いただいて、橋本先生に迷惑を掛けてもいけないので…」と辞退している。弁護団は、日本国天皇から兄弟と詔り(みことのり)せられた満州皇帝を追い詰めることを回避し、日本人独特の婉曲な責任放棄…、好意に見せかけた逃げの常套句を使ったと言うべきだろう。
 「溥儀の夫人であった譚玉齢を、日本軍参謀の吉岡安直が毒殺した」という告発を、個人の犯罪としてうやむやにしてしまったことは、溥儀の欺瞞を解明することだけでなく、戦後の中国国民感情の中に『陰謀をめぐらした日本の一例』として定着しただけでなく、日本社会にも同様の誤解と負い目を残す結果となった。
 (吉岡安直は、溥儀とともに奉天でソ連軍に拘束され、1947年、モスクワの病院で死去している)


 1954年3月、溥儀(49歳)、ソ連(ハルビン)より中国(撫順)に戻る。


 中国政府は、溥儀の更生に取り組んだ。溥儀が、新生中国の一市民となれば、中国的社会主義は、もと皇帝でも善良な市民として更生させる偉大な社会体制であることが実証できるからである。
 しかし、溥儀は生まれたときから、箸が来れば口を開け、服が来れば手を伸ばすという暮らしを、シベリアの収容所時代にも続けてきていて、生活能力はゼロにひとしい。
 溥儀たちが収容されていた撫順の管理所では、収容者たちに「自白書」なるものを書かせ、今までの自分が犯した罪を並べさせて、どのように悔い改めているかを確認させていく作業を繰り返し、収容者たちの更生を図った。日常生活も満足におくれない溥儀は、ほとんどの項目に及第点は難しかったが、皇帝さえも改造した中国共産党と政府を目指す当局は、溥儀に便宜を図り、励まし、指導して、1959年9月18日、中華人民共和国成立10周年の祝賀行事として、改悛の情の著しい戦争犯罪人を含む罪人たちの特赦を行うと発表し、12月4日、撫順管理所では第1番に愛新覚羅溥儀の名前が読み上げられた。


 1957年、撫順管理所へ入所中に、李玉琴と離婚。彼女は、戦後の中国では、
      「売国奴の女房」「漢奸の妻」として、どん底の生活を余儀なくされていた。


  (漢奸(かんかん)…中国で、敵側に内通する人をいう。売国奴。特に、戦前の
            対日協力者をさすことが多い。)


 1962年、看護師の李淑賢と結婚


 1964年、自伝「わが半生」を出版。前半は皇帝としての宮廷生活を描き、後半は
       徹底的な自己批判をして、自分が「革命的な人間」であると記している。


 戦後の中国で、党と政府の広告塔としての役割を期待されて生きた溥儀は、1966年に始まった文化大革命の荒波を、もと皇帝と指弾されてモロにかぶることになるが、周恩来の計らいによって当局に保護されている。
 これに先立つ1964年ごろから、溥儀の体はガンに侵され、ここでももと皇帝は診察拒否などの仕打ちに遭うが、党と政府は溥儀をおろそかにすることはなく、毛沢東は「われわれはついに、一人の皇帝を改造し終えた」と、外国メディアにその成果を述べている。


 1967年10月17日、文革の嵐が吹きすさぶ北京の午前2時30分、妻とひとりの甥に見守られて、愛新覚羅溥儀は62歳の生涯を閉じた。


           


 溥儀の帝師ジョンストン氏は「紫禁城の黄昏」の中で、「皇帝には二つの人格がある」と述べていた。氏は、それが具体的にどういうものかは書いていなかったけれど、この「溥儀」の中に、「家来の口を開かせておいて、小便をする」という残忍な小人性が描かれている。清朝の末裔という天とも並ぶ尊大な生い立ちを持ちながら、自らを貶(おとし)めるような東京裁判での証言は、なんともギャップがありすぎて理解し難かったのだが、わが身の行く末を保身するほうの小人の溥儀がそこにいたのだと思えば、納得もいく。
 溥儀の5番目の妻で、終生の伴侶となった李淑賢は、1997年、世を去るにあたって、「溥儀には、漢奸としての半生がある。私は死んでからもその妻であると言われることには耐えられない。私の骨を、溥儀と一緒に葬ることは絶対にしないで欲しい」と言い残した。遺骨は溥儀の墓とは別の人民公募に納められている。


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