【127】 
「沈まぬ太陽 @〜D」
(山崎豊子、新潮文庫)     2007.12.06-13


 1年ほど前にこの本を読んだ友人が、「引き込まれた」と言っていた。それ以来ずっと気になっていたのだが、5巻もあるのでなかなか手が出せずにいた。
 たまたま時間つぶしに入った松阪の書店で目にして、とりあえず@A巻を買ってみたのだが、すぐにBCD巻を買うことになった。
 読み出すと止まらない。食事やコーヒータイムにはもちろん、車の運転中にも広げていて、信号待ちや渋滞時には読んでいる。コーヒー1杯で3時間ぐらいものも言わずに読んでいるので、コーヒー屋のおばちゃんが感心して、2日目にはコーヒーを追加サービスしてくれた。
 そんなふうにして、8日間で読んだ。その8日間の出来事とともに、各巻の読書感想文を綴ってみることにしよう。


 12月6日(木)、第@巻 アフリカ編・上


『 恩地 元(おんちはじめ)は、戦後の日本が世界に追いつけ追い越せと設立した国策会社「国民航空」のエリート社員。本社の中枢部である「本社予算室」で経営予測を行っているが、組合の委員長を半ば強制的に引き受けさせられる。
 責任感の強い恩地は、国航組合が積年にわたって抱えている、「賃金引上げ・労働時間の短縮・労働協約の締結」を実現するために邁進し、航空業界初のストを打ち、会社の大幅な譲歩を勝ち取る。


 労組委員長の任期は1年…、任期切れの直前、副委員長として恩地とともに力を尽くしてきた行天四郎(ぎょうてんしろう)は、体の不調を訴えて時期委員長を辞退。恩地はやむなく2期目の委員長を引き受ける。
 会社は、約束していた労使間の憲法とも言うべき労働協約の締結を、言を左右して締結しようとしない。恩地たちは、首相の外遊からの帰国予定日の翌日にストを撃つことを決定…。ところが天候の関係で、首相の帰国が1日延期となった。
 「年末手当は昨年を下回らない」との確約を得て、当日のストは正午で打ち切られ、夕刻、首相専用機は無事到着した。


 しかし、国策会社として政府与党が経営に深く関与している国民航空に、首相フライトを標的にしたかのようなストライキは理解の範囲を超える暴挙とされた。組合委員長2期を終えて、本社予算室に戻った恩地に待っていたのは、カラチ支店(パキスタン)への転勤命令であった。
 ここから、恩地に対する、海外僻地は2年という社内規則を無視した、カラチ〜テヘラン(イラン)からナイロビ(ケニヤ)という就航実績もない国への、通算10年間にわたる海外たらい回し人事が発令されていくことになる。』


 松阪の本屋で@A巻を買ったあと、友人との約束の7時半まで1時間30分ほどあり、寿司ダイニングでちょっと腹ごしらえ…。カウンターの隅で、注文する以外は顔も上げずに第@巻を読みふけった。赤身4貫、カツオ2貫、トロ鉄火、それにニギリが美味かったカツオを造りにしてもらって平らげてきた。
 約束の7時半、指定のスナックへ行くと友人はすでに来ていて、顔なじみの連中と盛り上がっている。
 ママがいきなり、「章さん、イルミネーション見にいこか?」と言う。「店、どーするんだ」と聞くと、「勝手にやらしとけばええのよ」と、カラオケの入力機を友人たち客に渡してコートを羽織る。
 そのママと、ぶらぶら歩いて見て来たのが、右の写真のイルミネーション…。松阪市茶屋町の某宅、個人の住宅である。
 ここ何年か、だんだんと飾りを増やしてきているのだと、ママの解説だ。帰り道、「どこか、スナックへ寄っていくか?」と言ったのだが、「そうもいかんでしょ」と真面目なことを言うので、1時間ほどで店へ戻った。
 飲んで騒いで、午前1時に帰宅してからまた読み出して、「さぁ 寝るか」と布団に入ったのは、5時過ぎだった。 
  中勢バイパスの紅葉。 先週通った
  ときは、もっと鮮やかだったのだが…。
 


 
 12月7日(金)、第A巻 アフリカ編・下


 今日は滋賀県の信楽まで出かけなくてはならない。先方へは、午後2時に行くと伝えてあるので、11時過ぎに起き、コーンポタージュにパンをかじり、コーヒーを飲んで、お昼に家を出た。
 手には「沈まぬ太陽 第A巻」をにぎっている。


『 恩地が海外へ出てから、国民航空では会社の主導で第2組合が結成され、労働争議を闘争の手段とする第1組合との間には、あからさまな待遇の格差を生じていた。配置も昇進も厳然たる差別をつける労務策によって、いつしか第1組合員270名に対し、第2組合員は3300名となっていた。第1組合を抜けようとしないものには、資材売却倉庫で廃棄物の整理に当たらせたり、営業所の入り口に一人用の机を置いて座らせ「お客様係り」と称して晒し者にするなどの懲罰的人事が行われた。
 カラチからテヘランへと通算5年…、恩地に「組合と手を切ると一札入れれば日本に戻す」と打診があった。恩地は言う、「私を信じて、耐えてくれている組合員のことを考えると、節を曲げることはできません」。その結果、恩地に辞令が届く、「ナイロビ営業所販売出張員を命ず」。


 国民航空の飛行機が就航もしていないケニヤ・ナイロビでの恩地の仕事は、この国へ赴任している日本人を中心として、ヨーロッパや日本へ向かう人々に国民航空の乗り継ぎを利用してもらうように働きかけ、1枚でも多くの航空券を売ることである。
 気候は厳しく、インフラも整っていない国で、報われず、展望もない、一人での仕事を続け、気持ちもくじけそうにな恩地の外地での生活も10年になろうとしているとき、国民航空はロンドンとモスクワで続いて2件の事故を起こし、50名以上の死者を出した。
 国会は事故を重く見て、国民航空幹部と従業員代表として労働組合執行役を喚問する。第1労働組合の沢泉委員長は「事故の背景には、乗務員の訓練不足、整備時間の制限、過酷な勤務時間、そして懲罰的な第1組合員への差別人事から来る不信があります。例えば、第1組合の元委員長である恩地元は、海外僻地勤務は2年という社内規律を無視して、今10年目…、現在、アフリカ勤務を強いられています」と証言した。
 野党の若手議員が、小暮国民航空社長に「事実ですか。大いに反省すべきことではないですか」と迫り、小暮社長は「もしそういうことがあるとすれば、事態の改善を図りたい」と答弁する。
 恩地の本社復帰が実現した。 』


 

 往きは、名阪国道を大内ICで降りて、諏訪から丸柱を抜けて信楽へ入った。
← 上野市内から北の山を見ると、山肌は真っ赤な紅葉に染められていた。
 午後2時、信楽の「丸二陶芸」で粘土と釉薬2種、ヘラ5本を買い、数箇所の窯元を回って焼き物の数々を見た。5時前、帰途に就く。帰りは422号線から阿山へ出て、壬生野ICから名阪に乗って6時過ぎに帰宅。夕食を済ませてからまた読み始め、午前3時30分に第A巻を読み終えた。


 第B巻があれば、続けて読み始めるところだが、幸か不幸か、まだA巻までしか買っていない。明日は、起きたら本屋へ走ろう。



 12月8日(土)、第B巻 御巣鷹山編


 目を覚ましたら、午後1時過ぎだった。入院中の母上の靴下・湯のみ・病院靴…などを買い揃え、夕方に病院へ寄ってから、午後6時、同級生7〜8人との忘年会へ…。もちろんその前に、本屋へ立ち寄って、「沈まぬ太陽」BCD巻を仕入れた。
 久しぶりに顔を見た連中も居て、懐かしい話は弾み、2次会、3次会、4次会へと流れて、帰宅したのは、午前2時を回っていた。風呂に入り、コーヒーを淹れて、3時になろうとしているころから読み始めて5時前まで、第3巻の3分の1ほどしか読めなかった。


 
『 本社に復帰した恩地のポストは、「国際旅客営業本部付」という実質的な仕事は何もない「閑離職」であった。簡単な電話を取ったり、同じ資料に何度となく目を通すという日々を過ごす中のある日、死者520名という、航空史上最悪の「御巣鷹山墜落事故」が起こった。
 午後6時24分、所沢の東京航空交通管制部のレーダーに、異様な動きをする国民航空123便の姿が捉えられた。浜名湖を通過していた地点から、羽田へ戻ると連絡が入る。
 47分「操縦不能…」との一言を最後に交信は途絶え、57分、レーダーから迷走を続けていた機影が消えた。
 7時5分、航空自衛隊百里基地からはF14ファントム2機がスクランブル発進…、遭難現場での山林火災目撃の報告を受け、7時20分、大型救難用ヘリV107が出動する。米軍横田基地からも、援助の申し出が入った。
 午後9時15分、国民航空の第1時救援隊90名が2台のバスに乗って出発した。パトカーの先導を受けたが、お盆の帰省ラッシュで中央自動車道は渋滞していて、午後11時に八王子インターを通過した。しかし、この時点ではまだ、夜の闇の中で燃え上がる墜落現場は、富士山麓のどの山のどの地点か、特定されていなかったのである。 』

 

 12月9日(日)、第B巻 御巣鷹山編
つづき


 『 ようやく事故地点へ到達した恩地ら国民航空関係者は、現場への立ち入りを厳しく制限され、被害者家族のお世話にあたることになった。
 時速500Kmのスピードで山肌に激突した機体は広大な範囲に飛び散り、遺体のほとんどは体が引きちぎられ、割れた頭蓋骨からは脳みそが飛び散り、切断されている下半身からは内臓が露出している。子どもを抱きかかえていたのだろうか、割れた大人の頭蓋の中から、子どもの顎が出てきた。
 頭部があっても顔面がない遺体は脱脂綿と三角巾で顔の形を作り、わずかに残った首に縫い付けていく。遺体の整体は、日赤看護婦があたる。ぐしゃぐしゃになった胴体は、段ボールを当てて白いシーツにくるみ、形を整えてさらし布をしっかりと巻くと、白布に覆われたきれいな遺体の形になった。
 ほとんどの遺族たちは、わずかに残っている片腕とか、遺体に残っていた衣服の切れ端などを手がかりに、肉親を探すのである。



 焼け焦げた指先の爪の形から夫を探し出した妻…、着ていたワンピースの切れ端から娘にたどり着いた母…、警察の調書に、ただ「残念だ」と記した父…。作者の山崎豊子も、書き綴りながら何度も慟哭を禁じえなかったという、壮絶な事故の模様が展開されていく。


 事故の悲惨さだけでなく、残された遺族の日々もまた壮絶なものであった。クゥエートの石油掘削に単身赴任していて、妻と3人の子どもを一度になくした男…、零細の印刷会社社長であった主人をなくし、会社を倒産させた未亡人…、一人娘をなくし、四国遍路へと旅立った父…、保障金を取り合う遺族たち…。
 人殺しと罵倒され、門前払いを食らったことも数え切れず、人前で土下座さされることにも耐えて、恩地たちお世話係りは数人から10人ほどの遺族を担当して、補償交渉を進めていった。


 520名の命だけでなく、その遺族の生活までをも崩壊させた事故の原因究明は、遅々として進まなかった。運輸省の事故調査官がボーイング社まで足を伸ばして、事故機の修理に当たった担当員に話を聞こうとしても、個人の責任を追及する考えはないと拒絶され、虚しく帰国するしかなかった。結局、事故機が7年前にしりもち事故を起こしていることから、その修理あとに亀裂が入り、金属疲労なども重なって、停めていたリベットがゆるみ、垂直尾翼がもぎ取られてしまったのであろうという方向に収斂されていく。 
 
 遺族が結成した「おすたか会」は、会社の責任と保障について、東京地検へ告訴した。』



 夕方から、シクラメンの鉢植えを買おうかと夕赤塚植物園へ行ったら、庭木がイルミネーションで飾られていた。
 シクラメンは真綿色…、いや、やっぱり赤だろうということで、真っ赤な一鉢を買ってきた。
 夕食に、そのまま鈴鹿へ走っていって、10時ごろ帰宅した。



 12月10日(月)、第C巻 会長室編・上  その1
 

 午前10時20分、東京からの友人を津駅に出迎えて、伊勢・志摩へドライブした。来津した友人は、学生時代のポン友…、お互いに『お前のせいで俺は学生時代をしくじった』と言い合っている。彼は、世田谷で会計事務所を開いていて、全国に顧客を持っている。明11日に岐阜の顧客の1社に出向くので、一日早く東京を出て、僕を訪ねてくれたのである。
 伊勢神宮と二見浦に寄って、鳥羽国際ホテルで昼食をとった。このコースは、ン十年前に2人で年越し参りに出かけ、初日の出を拝んだコースだ。鳥羽水族館を見て、英虞湾めぐりの船に乗り、浜島から五ヶ所を抜けて、サニーロードを走り、夕食はお定まりの松阪牛である。彼に言わせると、「これに比べると、東京で食べる牛肉は紙くずみたいなもの」らしい。
 明日は、午前9時から打ち合わせだと言って、今日のうちに岐阜市内のホテルに入ると、あわただしく帰っていった。

 
 そんなことで、今日、読んだのは100ページほど…。


 『 国民航空社の再生のためには、首脳陣を一新して新機軸を打ち出さなくてはならない。利根川総理は自ら動いて、関西紡績の再建を果たした国見正之会長に白羽の矢を立て、畑違いと固辞する国見を「全面的に指示する。お国のためと思って決断して欲しい」と、先の大戦で同僚の多くに先立たれている国見を口説いた。社長に運輸次官から顧問に据わっていた海野昇、副社長に常務の三成通夫が就任して、再生へのスタートを切ることとなった。 』


 12月11日(火)、第C巻 会長室編・上  
その2


 『 安全を至上命題として、そのために徹底した現場主義を貫く国見は、国際線のコックピットに座って太平洋を飛び、整備の現場に足を運んで問題点を聞いて歩いた。
 労使問題をはじめ、社内にくすぶる澱(おり)のような亀裂を修復するために、国見は恩地を会長室付き部長に抜擢した。「アカ≠フレッテルを貼られ、この会社の現勢力からは抹殺したとされている私がよみがえったら、彼らは騒ぎ出すことでしょう。私をお使いにならないほうが賢明です」と固辞する恩地を、国見は「4つの組合があって、互いに足を引っ張り合い、昇進や人事に格差をつけているような状態が、健全な会社ですか。労使協調から新機軸を生み出すために、ぜひ君の力を貸して欲しい」と説得する。
 

 国民航空は多くの子会社や外郭団体を持っているが、新労組OBたちは執行部員とともに、年間7億2千万円の組合費を自由に使うことが出来た。加えて、航空会社である国民空港には、旅行者や政治家に配布する優待券や無料件が豊富にあり、1000枚単位でそれを横流ししたり金券ショップで現金化して、莫大な金銭を懐に入れていた。
 組合生協役員の業者からのバックマージンなど、それらの犯罪である案件を、恩地は調査するよう命じられる。
 旧経営陣の責任を厳しく問い、労働組合役員の既得権に切り込む国見会長の改革は、激しい抵抗にあっていた。広報部長の行天は、社内の行き違いを大げさにリークし、新労組OBたちは出入りの記者に金を握らせて、『国見会長の改革が、足元を揺さぶられている。国航の労働組合のうち穏健派で最大の新労組(12000人)が、「国見会長の労使安定策は、職場に大きな懸念を生じている」と記事にしたのだ。』



 母上の病院をのぞいたあと、夕方から松阪での「忘年会」へ出かけた。朝比奈寿司の1次会から、2・3・4・5…次会とはしごして、帰宅は3時…はいつもの通りか。


 12月12日(水)、第D巻 会長室編・下
(完結編)  その1
 

 午後1時の約束で、伊勢市へ出かけた。訪ねた先は伊勢市でも西南部にあり、伊勢自動車道の玉城ICを降りてさらに南へ5分ほど。だから、津からは40分ぐらいだ。
 1時間ほどを予定していたので少し早くついてしまい、近くを車でブラブラしていたら、面白い喫茶店を見つけた。名まえがナント、「哀愁の街に霧が降るのだ」という。電話をかけたら、何と出るのだろう。


 『 社内の不正調査を進める恩地の元に、生協納入業者や子会社役員から、リベートや航空券横流し・販促費のキックバックなど、生々しい情報が集まってきていた。そんなある日、国民航空八重洲支店所属、現在は病気療養中の細井課長が自殺した。
 

 改革を嫌う国航首脳や新労組からの政界への働きかけも続き、恩地を用いる国見会長に対して、政府筋からも「左翼に対する認識が甘い」との批判が起こる。』



 伊勢の帰りに、また昨日の松阪の店に寄ってしまった。いつもの連中がいて、あとはお定まりのコースである。


 12月13日(木)、第D巻 会長室編・下(完結編)  その
 

 午後2時、名張市つつじが丘へ。仕事を終えて、つつじヶ丘団地を南へ降りたら、目の前に「青連寺ダム」が聳えていた。


             
逆光で、写真が暗い →


 そのあと、165号線を西へ走って、奈良へ向かった。




← 帰り、名阪国道「高峰PA」からの
 郡山盆地の夜景





 帰宅したのは11時、日付が変わる頃から、完結へ向かって読み始めた。


 『 新労組からも、国見や恩地の目指す社内改革に賛同するものが現れた。そして、1機を整備士のひとつのチームが担当する「機付き整備士制度」がスタートした。
 しかし、各組合の昇格格差の是正は、新労組が頑として受け付けず進まない。「私が責任を持って解決しますので、3ヶ月お待ちください」と胸を張った社長の海野は、「まとまりませんでした。白紙撤回でお願いします」とまるで他人事である。』


 国民航空の極秘の監査報告書が野党議員にリークされ、経営の闇の部分に国会の質疑が向けられた。@国民航空の経理には、10年にもわたるドルの先物予約がなされていること、A傘下の国航開発が世界各地で法外に高価なホテルの買収を進めていること、などについて、野党議員の追及を受けたのである。
 @の10年にもわたるドルの先物予約は、インドネシア借款と絡めた竹丸副総裁の仕掛けで、毎年竹丸のフトコロへ巨額の資金が転がり込む仕組みとなっていたが、野党議員などに解明できる単純なものではなかった。ただ、地検特捜部は事件性をかぎつけて捜査を進めたが、インドネシアから定期的に金銭証書を運ぶ男が逮捕されただけで、竹丸の身辺にはさざなみも立つことはなかった。
 Aの国航開発の杜撰な資金の濫用は、新労組OBたちの既得権の行使の結果であって、ことが明るみになったからには、責任者の新労組OBは解雇されるしかない運命であった。
 この件を機として、利根川総理は、金銭に潔白な国見会長は国航再建後も自分に還流する金の流れを造れるような処世はないとして、国見の更迭を決意する。


 1ヶ月ほどしたある日の新聞に、突如、『国見国民航空会長、更迭へ。収まらない、社内労組の内紛』の見出しが躍った。


 「改革の足を引っ張った」と辞意を表す恩地を「第一組合員の心を汲んで残れ」と説いた国見は、「会長のご意志を引き継ぐという意味で、もとの事故係りに戻してください」という恩地の意向を聞いて遺族担当室に戻す内示を発した。
 会長退任の日、会長室の整理をする恩地の机の電話が鳴った。呼ばれて役員室の行天の元へ行くと、「会社の都合で内定を取り消し、ナイロビ支店長を命じる」と告げられる。「君が日本に居ると、騒動の種になる」と。


 大蔵・運輸大臣とのゴルフに国航首脳として出かけようとしている朝、行天の家の電話が鳴った。「東京地検特捜部です。自殺した、貴社の細井課長の告発書が当方に郵送されて来ていまして、内容につきお伺いしたいことがあります。お宅から10数メートル東の辻に、車を待たせています」。


 恩地 元は人間社会の権謀術策の果てに、再びアフリカの地に降り立った。何一つさえぎるもののないサバンナの地平線へ、黄金の矢を放つアフリカの大きな夕陽は、荘厳な光に満ちている。それは不毛の日々に在った人間の心を慈しみ、明日を約束する、「
沈まぬ太陽」であった。
                                           


◇ 読後感


 この物語は、「日本航空」で実際にあった事柄を取材して、山崎豊子が小説に再構築したものである。
 主人公「恩地 元」のモデルは、
小倉寛太郎(おぐらひろたろう、通称かんたろう)で、元日本航空労働組合委員長。東京大学法学部卒後、日航入社。1960年代前半、社員の待遇改善と「空の安全」の確立を求めて経営陣と厳しく対決し、日航初のストライキを指導。その後の人事異動で、社内規定を大幅に越える約10年間の海外僻地(カラチとテヘラン、および同社の乗り入れが行われていないナイロビ)での勤務を強いられる。
 1970年代前半の日航機の連続事故が国会で取り上げられる中、いびつな労務対策を是正する一環として、国内勤務とされる。実際の小倉は遺族係を担当していない。
 1985年の日航123便墜落事故後、会長室部長に抜擢。伊藤淳二会長(カネボウ会長兼務)率いる新体制の下、社内改革に力を注ぐが、社内の抵抗やさまざまな政治的圧力で中断を余儀なくされ、伊藤会長の退任後、再びアフリカへ転勤させられる。
 定年退職後は、僻地勤務が縁でアフリカ研究家、動物写真家、随筆家として活躍。東アフリカの自然と人を愛する同好の士を集めて「サバンナクラブ」を発足させ、事務局長を務めた。2002年10月、肺ガンで死去。


 国策会社として発足した「日本航空」は、政府の資本と人事が入っていて、民間会社にはない諸般の事情が渦巻いていた。この作品は、任期の2年間、労働組合を指揮した男がアカ≠フレッテルを貼られて、過酷な海外勤務を強いられる姿を通し、そこに群がる政治家や利権屋たちが、半官半民の管理が甘い会社の汁を吸い、蝕んでいく様子が克明に描かれている。
 恩地の不当人事に対しては、組織の持つ醜さと非情さが思い知らされる。組織の中で生き残り出世するためには、清濁併せ呑むと言えばかっこよすぎる処世が求められるのだ。
 それにしても、日本航空を食い物にした政治家たちの姿はおぞましい。田中派の牙城であった運輸利権は、このとき金丸副総理に集約されていて、日航の10年先ものドル買いは、インドネシアへのODAとリンクしていて、年間数億円の金を彼の元へ還流していたと書かれている。日航改革に主導権を発揮して、新しい利権を手にしようと目論む中曽根総理の思惑は外れ、福田元総理の田中派利権への攻撃材料として、日航の監査報告書(部外秘)が野党に流れる。
 山崎豊子はこの書で、白い巨塔・華麗なる一族・不毛地帯から続く、日本の巨悪を描こうとしたのであろう。週刊新潮に連載された当時から、賛否両論の絶えない作品であったが、日本の暗部を描くのに今ひとつ躊躇したようなところがあって、核心を暗示しながら描ききれていないもどかしさを感じた。モデル小説の限界だろうか。


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