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李 陵   (中島 敦、ちくま書房)            2008.02.08


 ひろちゃんから、
「李陵」を読みました。『匈奴との戦いに敗れ捕虜となり、心ならずも匈奴になびいた李陵と、武帝の怒りをかった李陵を弁護し、武帝の怒りにふれ宮刑を受けた司馬遷。そして李陵より先に匈奴の虜囚となるも、最後まで匈奴になびくことなく祖国に戻った蘇武という、繋がりがあまりないながらも同じ時代に生きた、三人の生き様と苦悩を、とても感じることができる作品でした』というメールが来た。


 僕も、早速、本棚の「中島敦全集」(筑摩書房)の中の第3巻に収録されているのを見つけて、ページを開いてみた。


 『 李陵は、漢の武帝に仕えた武将で、齢40にならんとするとき、北辺を荒す匈奴を撃つため将軍李広利を助けて五千の歩兵とともに出陣した。しかし、本隊に合流前に匈奴の単于が率いる三万と遭遇し、李陵軍は六倍の相手に一歩も引かず八日間にわたって激戦を繰り広げ、匈奴の兵一万を討ち取った。だが、その軍もさすがに矢尽き刀折れ、李陵は気を失ったところを捕らえられた。


 翌年の春、李陵は戦死したのでなく匈奴に降伏したのだという報告を聞いた武帝は激怒し、今や佞臣ばかりとなっていた群臣たちも武帝に迎合して、李陵は罰せられて当然だと言い立てた。その中で司馬遷だけが李陵の勇戦と無実を訴えたが、武帝は司馬遷を大将軍李広利を誹(そし)るものとして宮刑に処した。
 司馬遷と李陵は、特に親しかったわけでもない。自分を弁護して司馬遷が宮刑に遭ったことを伝え聞いたときの様子を、中島敦は『李陵は別に有り難いとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶をしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではない。むしろ、厭に議論ばかりしてうるさい奴だぐらいにしか感じていなかったのである』と書いている。常に騎馬を駆って戦場にあった李陵としては、宮中で君側に侍る司馬遷は肌の合わぬ奴ぐらいの思いであったのかもしれない。
 司馬遷は、それでも武帝に向かって、ことの理非を整然と述べた。『陵の平生を見るに、親に仕えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みず、以って国家の急に殉ずるは、誠に国士の風あり。今不幸にして事一度敗れたが、身を全うし妻子を安んずることをのみ唯念願とする君側の佞人ばらが、この陵の一矢を取り上げて誇大歪曲し、以って陵の聡明を蔽おうとしているのは、遺憾この上極まりない。そもそも、陵の今回の軍たるや、五千に満たぬ歩兵を率いて深く敵中に入り、匈奴数万の師を奔命に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道極まるに至るも尚全軍空弩を張り、白刃を冒して死闘している。…思うに、彼が死せずして虜(ろ)に降ったというのも、潜かに彼の地に在って何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか』と。


 匈奴の王「且?侯単于」は、李陵の才能と人柄を気に入り、部下になるように勧めるが、李陵は断固としてこれを拒絶し、隙あらば且?侯単于の首を持って漢へ帰参することを考えていた。
 だが、数年のち、漢の匈奴征伐軍が散々に破られて戻ったとき、公孫候将軍は「匈奴の軍が強いのは、李陵が匈奴に漢の軍略を教えているからだ」と弁解する。それを聞いた武帝は激怒し、先の降伏を聞いたときには身分を落としたり追放したに過ぎなかった李陵の一族… 妻子をはじめ、祖母・生母・兄と兄の家族、従弟の一家などをまとめて皆殺しにしてしまった。
 一族の非業の死に嘆き悲しんだ李陵は憤慨して、匈奴に帰順し、且テイ侯単于の娘を娶って、その間に子を儲け、匈奴の右校王となった。


 李陵は、バイカル湖のほとりで、匈奴に捕らわれながら降(くだ)るを潔しとせず、ひとり暮らす蘇武を訪ねる。二人はともに侍中として武帝の側仕えをしていた20年来の友であった。
 数年後、再び李陵が蘇武を訪ねたときは、漢の武帝の崩御がもたらされていた。その死を知ったとき、一滴の涙も浮かばなかった李陵の口から、「武帝崩ず」と聞いた蘇武は慟哭し、終に血を嘔くに至る。
 李陵は、己と友を隔てる根本的なものにぶつかって、いやでも己自身に対する暗い懐疑に追いやられざるを得ない思いに駆られた。


 新帝が即位した漢から、李陵と蘇武を迎える使者が到着した。胡地の北辺で節を曲げなかったとして、蘇武は凱旋将軍のごとき歓呼を持って漢に迎えられた。
 李陵を迎えに来た使者は、みな李陵の友人であった。「小卿よ帰ってくれ。富貴などは言うに足りぬではないか」。言葉を尽くす友の勧めにも、李陵は首を振るばかりであった。「帰るのは易い。だが又、辱めを受けるだけではないか」… 』


 中島 敦は、武帝の仕打ちに憤して匈奴に属した李陵と ただ朴訥として匈奴に服さなかった蘇武との違いを、『 ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞(しもと…刑罰の用具、章くん注)たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。 』と書いている。
 胡地に捉えられてもなお降らず、帰国を願っていた自分の節を疑い、老母や妻子ら一族を殺した漢(武帝)を捨てた李陵が、匈奴の地に新しい営みを見つけたことは当然と思うのだが、蘇武と比べなければならない李陵の無念…哀れが胸を打つ。


 稿を起こしてから14年、史記130巻、52万6500字、列伝第70太史公自序の最後の筆を擱いてのち5年、司馬遷は李陵のもとに帰国を促す使者が遣わされることも、蘇武の帰国も知らず、これらに先立って世を去った。


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