【読書147】 下天は夢か 第2巻 
(津本 陽、 角川文庫)     2009.02.06



   斎藤道三亡き後、信長と美濃国斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していたが、永禄4(1561)年に斎藤義龍が急死し、嫡男斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家中で分裂が始まる。対斎藤戦で優位に立った信長は、永禄7(1564)年には北近江国の浅井長政と同盟を結び、美濃攻略への体制を固めていく。


 永禄10(1567)年、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた(稲葉山城の戦い)。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった


 室町第15代将軍足利義昭の求めに応じて上洛、近畿を支配していた三好・松永勢を破って、義昭を奉戴する織田政権を樹立し、元亀元年(1570年)、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍を破る(姉川の戦い)。


 …というところが第2巻の内容だが、この書の中で信長の正室である「濃姫」(美濃斎藤道三の娘)について(信長が13歳で結婚しているから、この物語の第1巻が始まったときにはすでに濃姫は信長の妻であった)、道三が息子義龍の謀反により殺害されてのちほどなく離縁されて美濃に帰され明智郷の屋敷にいたが、美濃の合戦の余波を受けて攻められ、死亡したと書いている。
 え〜? 映画なんかの濃姫は美人女優が演じていて、信長との夫婦仲の良い しっかりものの奥方として、常に夫を支えていく姿が描かれている。NHKの大河ドラマ「功名が辻」では、和久井映見演じるお濃は、信長(舘ひろし)とともに本能寺にいた。
 それが、津本 陽は、『…、道三の死後間もない弘冶2(1556)年の夏、離縁して美濃に帰した。濃姫は父道三を殺した異母兄義龍の元へは帰れず、生母小見(おみ)の方の実家である明智城へ身を寄せた。だが、間もなく明智城は義龍に攻められ、9月に落城して、城主光安は自害、濃姫も死んだとの噂が届いた』と書いているのである。
 しかし、婿である信長を美濃国の後継者と定めた道三の「国譲状」を、信長は道三から受け取っているのだから、これがある以上は濃姫を正室としておくことが信長にとっても必用不可欠であり、斎藤義龍との諍いにより離縁して実家に返したという可能性は考えられない。
 信長が美濃攻略を推し進めて行った背景には、道三息女であり、また土岐氏の傍流明智氏の血を引く濃姫だから、その婿である信長こそ正統な美濃の後継者であるという大義名分が成り立つし、美濃攻略後に美濃衆が尾張衆と同様に待遇されていることからも、濃姫が美濃攻略前に亡くなったという可能性もないと思われる。
 信長嫡男の信忠は濃姫が養子にしているが、濃姫があえて信忠を養子に迎えた理由として、道三の国譲状により信長の美濃支配の正当性はあるものの、斎藤氏・土岐氏の血を引く濃姫の子供が信長の嫡男であれば、より円滑な美濃支配と後継者の正統性を強調できることとなろう。事実信長は家督を信忠に譲り、美濃と尾張の支配を信忠に委ねている。
 …などから、離縁されて美濃で死んだという、津本陽の濃姫の記述については、まだ異論・異説が多いというのが実情である。

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