【読書148】 下天は夢か 第3巻 
(津本 陽、 角川文庫)     2009.07.30



 第3巻のクライマックスは「叡山焼討ち」。伊勢長島や石山本願寺などの宗教勢力を敵とし、足利義昭の策謀、浅井・朝倉との抗争など、まずは機内を平定しなければならない信長の対抗勢力の中心に居るのは、最澄以来の法の灯火をかざす「比叡山延暦寺」であった。
 「比叡の山は顕密兼学の大道場にて公武両門の祈願の地…、その霊験は並びなし。その聖地を滅ぼせば、天下の人望を失うことと相成りますれば、今一度のご勘考をあすばされて、ちょーでぃあすわせ」
 と家来たちが尾張弁で諌めるのに対して、
 「あやつどもは魚鳥をくらい女人にたわむれ、沙門の道にそむきし売僧(まいす)だで。天下の政道を妨げ、仏意神慮にも背く国賊のたぐいだぎゃ。今、あやつどもの滅ぶは自業自得…、何を持って放免いたせと申すでや」
 と、信長も尾張弁で大喝を申し渡す。
 宗教が堕落する様は洋の東西を問わず、作者の津本 陽もこう記す。
 『僧侶の堕落は、信長の指摘をまつまでもなく、ひろく世間に知れわたっていた。危難にあい、病気にかかり、老いぼれた人々を、僧侶たちが迷信にひきこんでは金銭をまきあげ贅沢をきわめた生活を送っていたのは、日本だけではなかったようである。
 ルネサンス前期にあたる当時のヨーロッパでも、僧侶の腐敗は極限に達していたという。
 フランチェスコ派の巡回修道土たちがやっていた、まやかしについての記録がある。
 修道士は信者をあつめ、聖徒の遺物を拝ませる。彼らの手先が群衆のなかにまぎれこんでいて、眼が見えなかったり、重病に罹っているふりをし、遺物に手をふれて、たちまち視力が回復し、健康をとりもどしたと、狂喜してみせる。
 群衆は奇蹟を見て神を賛美し、教会は鐘楼の鐘を鳴らして祝福し、長文の記録がしたためられる。
もっと念の入った芝居をする場合がある。手先が、演壇の修道士と遺物を、世間をだますにせものだと指摘し、わめきたてる。
 だが、手先はその場で神罰をうける。にせものを指さした手指が強ばり、口がはたらかなくなる。
彼らはおどろいて神に詫び、瞬間にもとの体に戻してもらう。そのようなばかげた茶番で群衆をたぶらかすのである。
 教団の尼曽はすべて修道僧の玩弄物となっていた。彼女たちは俗人と通じたとき掟に従い拷問を受けるが、修道僧とであれば秘密裡につながりが保てる。子供が生れたときは殺して捨てる。
 つぎのような記録がある。
「これは嘘ではない。疑いをもつ者は、尼僧院の下水道を探ってみるがいい。そのなかに、かぼそい人骨があるのは、ヘロデ王の世のべツレヘムと変りないのを知るであろう」
 延暦寺の僧侶たちも、このような修道僧の実態と大差ない暮らしを送っていた』。


 織田勢は9月15日まで4日間にわたり、叡山の僧坊を焼き払い、山中の洞窟、谷間に隠れひそむ僧衆を引き出し首をはねた。
 「仏法破滅」の世迷いごとを説く者を、ひとり残らず掃討しつくさねば、山門はふたたび蘇生するのである。


 もう40年も前のことであった。吉川英治の「新書太閤記」に、やはり「叡山焼討ち」に際して、仏教の聖地を攻めることに対する明智光秀などの制止があったのに対し、信長は実に格調の高い言葉で叡山を攻めることの正当性を主張していた。
 若かりし頃の僕は、平安の御世から国家鎮護を祈念し法妙の中心であった延暦寺を焼くことに、何のためらいもなく、しかも断固たる意志を説く信長の説得力に(それが吉川英治の文筆力であるとしても)深い感銘を受けたものである。
 この「下天は夢か」の信長の言葉からは、あのときのような感銘を受けることはなかったから、この場の格調は「新書太閤記」のほうが上ということか。


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