【読書149】 下天は夢か 第4巻  (津本 陽、 角川文庫)     2009.08.05


 1574年(天正2年)6月、浅井・朝倉を討ち滅ぼして後顧の憂いを絶った信長は、大阪石山・越前・長島の本願寺勢を各個撃破すべく大動員令を発する。『浄土真宗は、国家鎮護・五穀豊穣など現世の繁栄を祈願する宗教でなく、来世での「頓証菩提」…すなわち成仏することを願うものである。根を絶たねば、また生える』と、9月、伊勢長島の一揆勢2万人を柵で囲んで焼き殺し、老若男女を皆殺しとした。
 信長は宗教の手強さを熟知していた。宗教組織を攻撃するものに、来世への救いを求めて命がけで抵抗する門徒の恐ろしさを身に沁みて知っていた。しかし、老若男女皆殺しという大虐殺は日本の文化にはない思考である。この事情を、津本 陽はこう書く。
 『 宣教師たちが肉食をするのは、生命というものに対する彼らの倫理観が、日本人とは根本からことなるためであった。
 動物は人間のために生きているので、殺して食料とするのは当然と、彼らは考える。人間の生命は非常に尊重するのに、動物を殺すのを、残虐とは思わない。日光に乏しく、寒気の厳しかった中世ヨーロッパでは農産物がすくなく、食物争奪の戦いが繰り返されてきた。12世紀のフランスでは、年に人口の四分の一が餓死したといわれている。農民たちが豚、羊、牛、鶏などの飼育にはげみ、その数をふやすことによって、ようやく飢餓地獄からぬけ出られたのである。
 ヨーロッパでは、家畜を野山に放牧するが、草のなくなる冬がくるまえに種になる数のみをのこし、他をすべて殺して、肉を貯蔵し食料にあてる。ふだんは、家族同様に可愛がっている家畜を殺す情景を、子どもたちは毎年冬が来るたびに眺めて育つ。苦しむ家畜たちを見ても罪悪感がない。家畜は人間に利用されるためにあるもので、日ごろ慣れ親しんだ家畜への愛情と、それを殺す行為とは、彼らにとって矛盾するところがない。
 異端や異教徒も人間ではなく、生かしておいては害を振りまく動物であり、これを抹殺するのをためらわない。キリスト教徒の異教徒迫害の足跡は1099年7月の、十字軍によるエルサレムの大虐殺(当時、イスラム教・ユダヤ教徒であったエルサレム市民のほとんどが殺戮されている)のほかにも、おびただしく残されている。
 例えば、キリスト教聖庁による異端審問の嵐は全ヨーロッパを吹き荒れ、特に苛烈を極めたスペインの宗教裁判は、1480年の開始以来1世紀半たらずで、百万人もの国民を異端として殺したという。(スペインは南米大陸に進出して、インカ帝国を滅亡させる大殺戮を行ってもいる。)
 フロイスの母国ポルトガルは、スペインとともに中世における長期にわたってのアラビア人支配を排除したのち、海外雄飛をはじめ、喜望峰、インド航路の発見ののち、世界最強の海洋国家となった。彼らは「悪魔の使徒」と呼ばれるまでに、略奪・搾取・殺人を重ね、植民地を獲得していったポルトガル人の末裔である。
 フロイスたちが信長に、デウスの正義と慈悲について、どのような内容の談議をしたのであろうか。混乱頽廃する旧秩序をなげうち、あたらしい封建制度を確立しょうとする信長に、破壊と殺戮をためらわず断行させるに足る、戦争の論理を語ったのではなかろうか』と。




 1575年(天正3年)、長篠で信長は3500挺の鉄砲を揃えて、武田の騎馬隊を待ち構える。その鉄砲について、信長は武田にそれほどの数を揃えていることは隠していた節があるし、武田方も鉄砲の威力を軽んじていたようである。その間の事情を、津本 陽はこう書いている。
 『 武田の軍議で勝頼は、「二十町に鉄砲放ち千人を置いたとて、突き崩せぬことはあるまい」と言って、鉄砲の威力を侮っている。
 当時の種子島の有効射程は200メートル、人体必中射程は100メートル、筒口から鉛弾と硝薬を入れ、カルカで装填する時間は20秒から25秒であったといわれる。
 具足をつけた武者を乗せ、起伏の多い地形の原野を走る甲斐駒の速度は、せいぜい時速30キロメートルほどである。
 分速500メートル、秒速8メートル余とすれば、100メートルを走るのが十二秒余である。200メートルの有効射程距離の外から突撃したとしても、一発撃たせれば2発めを発射するまでに、柵木の際に着き、織田の陣中へ斬りこめるわけであった。
 幕僚の跡部勝資が言った。「この温気はげしき梅雨どきなれば、雨降りをえらび取りあいいたさば、千挺が一挺たりとも火を噴きません。お味方の大勝はうたがいござりませぬ」。』と。


 この攻防の最中に、小学校5年生の頃に読んだ、長篠城の窮地を徳川家康に知らせた鳥居強居衛門の逸話が出てくる。磔台の上から篭城する味方に向かって叫ぶ、「お味方は、もうすぐご到着。今しばらくのご辛抱…」の声は、小5の僕の胸にも響いた。


 それでも長篠の戦は死闘であった。織田・徳川連合軍は三重の柵を打ち破られて乱戦となったが、武田信繁・土屋昌次・山県昌景・原昌胤・真田信綱・甘利信康・高坂昌澄ら、武田の勇将たちは次々と硝煙の中で息絶えた。織田鉄砲隊が武田の武将を狙う作戦に出て、つるべ撃ちに撃ちかけたのである。
 攻防8時間、指揮官を狙撃されて失っていくうちに、武田の陣形はついに崩れた。




 1580年(天正8年)、10年に及ぶ石山本願寺攻略も、法主顕如の和歌山鷺森別院への退出で終焉させた信長は、1581年(天文9年)安土城の脇に「驄見寺」と言う寺院を建てた。その神体は、信長自身であった。
 この頃から、もともと猜疑心が強く、容易に人を信じない信長の冷酷さは、一層その度合いを増している。過酷なまでに家来を試し、忠実に激務をこなして這い上がってきたものだけを登用していくという人使いの厳しさであった。


 光秀の謀反について、津本 陽はただ『光秀に信長襲撃をそそのかしていたのは、備後の鞆の浦に亡命していた足利義昭であったかも知れない』と書いている。
 『その権力をほしいままにしようとする信長は、朝廷と京都の永遠の繁栄を期待する町衆にとって不要であるのみか、危険な存在となってきていた。
「いまのうちに、信長を退治するのが上分別というものどす」
「どうやって退治するのやろ」
「日向守はんをけしかけるのや。そうおしやす」
 彼らは自分では動かない。義昭のような人物を語らい、光秀をそそのかさせるのである。
 光秀はこののち衰運に向うであろう立場にいる。彼が思いきって叛逆し、信長を倒せば、朝廷、京都町衆はもとより、寺社勢力、地侍勢力が、こぞって味方につくとささやきかけるのがよい。
 冷静な光秀は、自分が衆人に信頼され、支持される資性の持ち主でははいと知っている。彼は朝倉義景を見限って義昭の家来となり、義昭の将来が八方塞がりとなると、たちまち信長の家来となった。このような表裏ただならない男は、大成の望みがかなわないものである。天下を取るのは、超人間的なカリスマ的資質をそなえた人物である。
 だが、坂本城での八日間に、光秀ほ頭脳を燃えあがらせ、信長討滅の決心をした。彼が謀叛にふみきる手伝いをした黒衣役がいたのではなかろうか。それは光秀が信用できる人物であろう。やほり義昭の姿が浮かんでくる』と。


 1582年(天正10年)6月2日未明、「本能寺の変」。                





 信長が時代の先駆者としての才覚を持ちえたのは、尾張という土地に生まれ、美濃・近江・京・堺と勢力を伸ばしていく過程において、彼の学習能力がその環境を的確に捉えていった結果であったのだと思う。
 時代を超えた思考が出来たのはなぜかとよく問われるが、彼は時代が要請するものを考え出していったのである。旧勢力の象徴たる宗教勢力との死闘がそれであり、日本の文化に無い大殺戮もそうしなければ新しい時代がやって来ないことへの決断であったのだ。
 ただ、明智光秀はなぜ謀反に踏み切ったのかは、この書においても…津本 陽にとっても、描き切れない謎であった。光秀の謀反は日本史の永遠の課題であることを、また確認させられた思いである。


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