【読書150】
 
秀吉の枷(かせ) 上            2009.08.11


 73歳でプロ作家にデビューした加藤 廣の第2作である。処女作の「信長の棺」では、本能寺で信長の遺骸が見つからなかったのはなぜか…について、独自の見解から興味深い筋立てを行っていた。
 この2作目はそれを受けて、信長の本能寺脱出を阻んだのは、秀吉であったことを描いていく。


 中国攻めで毛利勢と対峙する一方、秀吉は多方面の使役を信長から指図されていた。そのひとつ、生野銀山の採掘は、秀吉が知行する近江の穴太衆が穴掘り・石垣積みを得意とするところから命じられた役割であったが、(これを加藤廣は、秀吉が「山の民(土木・建築・爆薬・攪乱…などを得意とする異能集団。忍者に近い)」の出身のため、穴掘りなどを得意とする一党の前野小右衛門、蜂須賀小六などを配下にしていたためと書いている、)銀山から出る収入の多くをくすねて、自分の懐に入れていた。秀吉軍の装備が揃い、諜報活動に多くの人員を養えたのは、この収入が大きかった。
 信長の命令は絶対であった。呼び出しを受ければ、安土城の大広間に平伏して、沙汰を待たなければならない。若い頃は、神とも仰ぐ信長に対しての異心などは露ほどもなく、だからこそ信長を恐いと思ったこともなかった。だが、新しい世を開くためではあるけれども、峻烈を極める信長の命に繰り返し接し、自らも生野銀山のピンはねなどの処世を学んでくると、信長との間にかすかな隙間が生じ始めたのである。
 信長に呼ばれて安土に上り、信長の言葉よりも先に「お許しくださりませ」と叫ばねばならないおのれの声を聞いて、『40面を下げて何というざまか。俺はやっぱり、信長が回す猿回しの猿よ』と涙する自分に、本気で涙するようになっていた。
 この日の信長の話は、「本能寺の枯れ井戸から150間の抜け穴を掘れ。出口は、ここ南蛮寺!」。


 京に不穏な動きがあった。秀吉の中国攻撃軍への編入を命じられた光秀は、準備と称して何日も日を重ね、愛宕山参詣などに費やしている。朝廷では異例の長い朝議が続き、太政大臣近衛前久と吉田神社の吉田兼和との間におびただしい書状が交わされている。
 明智日向守光秀と近衛前久との密会を掴んだ秀吉は、本能寺からの抜け穴の工事を担当した前野小右衛門を呼んで告げた。「本能寺の抜け穴を塞(ふさ)げ。反問は許さぬ!」。


 本能寺の変。そして、中国大返しが始まる。


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