【読書151】
 
秀吉の枷(かせ) 中            2009.08.15


 覇王「信長」を弑することは、良識と勇気のある家臣ならば、誰もが行わなければならない人心の道だった。それを「光秀」だけがやり遂げた。それが「本能寺の変」である。…と加藤 廣は書く。


 明智光秀を討ち破って信長の仇を討った秀吉は、柴田勝家、滝川一益、織田信孝などてきたいする武将を討ち果たし、着々と天下取りへの布石を打っていく、
 そんな秀吉に、織田信雄は徳川家康に援軍を頼んで小牧長久手の戦いが始まった。秀吉軍は総勢12万人、承久の乱(1221年、幕府軍14万人)に次ぐ、日本史上第2番目の動員数であった。
 なぜ、戦上手の徳川家康ともあろうものが、織田信雄ごときの頼みを受けて、秀吉軍と対決したのか。容易に負けない自信もあったのだろうけれど、加藤 廣は『秘策』を用意していた。
 池田恒興が2万の兵を率いて、家康の居城浜松を討とうとした「中入りの策」は散々に破られ、失敗とされているが、池田隊を撒き餌とした秀吉の作戦は、小牧山の徳川勢を6千名に減少させ、秀吉の本隊の攻撃にさらされることとなった。これで、秀吉軍の勝利は決定的である。
 ところが、ここで秀吉の手元に、徳川が他の本田平八郎から不思議な包みが届けられる。中には、油漬けの松ぼっくりと、黒いすすだらけの刀。ところが秀吉にはその刀に見覚えがあった。信長の脇差であった「佐衛門三郎安吉」の銘が見て取れた。一緒に送られてきた松ぼっくりは、前野将右衛門が信長を燻り殺したときのもの…ということだ。
 「どうやら、服部半蔵一味に先を越されたようだな」。ぽつりとつぶやいた秀吉は、突然、一切の説明もなく小牧山攻撃を中止した。
 以後、秀吉は家康に対して、夫の日向守を義憤から切腹させて妹の旭姫を正妻として嫁がせ、母親までを人質として差し出して大阪城へ出向くことを懇請するといった、懐柔策をとり続けている。


 九州を平定して、秀吉の天下統一は成就した。


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