【読書152】
 
秀吉の枷(かせ) 下            2009.08.22


 九州を制圧し、家康を関八州に追いやり、さらには朝鮮へと出兵する秀吉…。天下統一を果たした太閤に、言い知れぬ心の闇が広がる。


 秀吉は朝鮮出兵の督戦のため、文禄元年(1592年)4月から、九州の名護屋に滞在した。8月に生母なかの葬儀のために一時帰阪しているが、10月1日にまた九州へと出立した。
 その秀吉に、「淀の方様、ご懐妊」の知らせが入る。出産予定日は、文月(7月)下旬か葉月(8月)上旬…。『生まれてくるのが文月として…も、月数が合わぬ!』
 淀の方の相手は…? 真相の究明に乗り出そうかと思ったが、それでは豊臣の恥を天下にさらすことになる。真っ先に、家康のほくそ笑む顔が浮かんできた。
 秀吉の期待に反して、出産は早まることはなかった。予定日内の8月3日、淀の方は男の子を出産した。『自分の子ではないなどとは、口が裂けても言うまい。家康の毒がから豊臣家を守るためにも、以後、俺は仮面の男を演じるしかないのだ』…天下人秀吉の悲しい独り言であった。


 秀頼が5歳になった秋、京都に淀の方と秀頼の新居が完成した。しかし、秀吉は「労咳がうつる」と言われて、新居に同居させてもらえない。
 大苦戦が続く朝鮮の宇喜田・蜂須賀の両将から、「蔚山、順天からの一時撤退」を願う文が届くなか、めっきりと体の弱った秀吉の最後の大茶会とも言うべき「醍醐の花見」が始まった。
 参列の人々をもてなすその疲れからか、6月16日の大喀血…。8月18日、意識が混濁する秀吉が最後に叫んだのは、「お屋形さま、ごめんなされ。ごめんなされて候らえ」という絶叫であった。


 天下を手にした秀吉の悲劇は、世継ぎを生んだのが淀の方であったということか。秀吉には、多くの側室がいたが、その中には他の男との間に子をなしたものも大勢いたけれど、秀吉の側室となってからはひとりとして子ができていない。その中で、淀の方だけが、二人もの子を生んでいる。
 ひとり目の鶴松を身ごもったのは、秀吉が天皇家の弟「胡佐丸君」を養子にすることを許された直後であり、二人目の秀頼の懐妊は、明らかに秀吉が大阪に居なかったときに身ごもったのである。
 淀の方の懐妊は、亡父浅井長政と亡母お市の方の仇討ちであったのか…、はたまた織田家の天下を横取りした秀吉の血を残してはなるものかという執念であったのか…。日本を平定した秀吉の生涯は、この一点において『夢のまた夢』であった。


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