【読書159】
 逆説の日本史 水戸黄門と朱子学      2011.05.13
 − 江戸時代、すでに日本の識字率は世界でダントツのトップだった −


 ユネスコによれば、2002年段階で日本の識字率は99.8%で世界一である。ちなみに、世界の平均は75%ぐらいだとか。
 江戸時代、日本の識字率は男性で40〜60%、女性で15〜30%ぐらいで、すでにダントツの世界一だった。これに大きな役割を果たしたものは、「平家物語」だと、著者の井沢元彦は言う。
 「平家物語」は信濃の前司行長の作とも言われるが、今のところ定説ではない。これを著者は、藤原行長を天台座主の慈円が援助して物語として完成させ、盲目の法師生仏に独特の語り調子をつけさせて諸国に広めたものであるという。
 なぜ、天台座主の慈円が「平家物語」を作ろうとしたのか? 「平家物語」の成立年代は13世紀の初めで、鎌倉幕府が成立してから10年後ぐらいである。
保元の乱、平治の乱で政権をとり、「平氏にあらずんば人にあらず」といわれるほどの栄華を極めた平氏が、壇ノ浦の藻屑と消えた世の中の栄枯盛衰を、慈円は見ている。国家鎮護の祈りを司る天台宗の座主として、また仏僧として、国の安定と人心の平癒、そして平氏の鎮魂のために、この物語を作ったのである…と。
 慈円が偉大であったのは、この物語を「語り物」としたことであった。「平家物語」は琵琶法師によって、当時の日本の津々浦々に伝えられ、人々は「ギオンショウジャノカネノコエ、ショギョウムジョウノヒビキアリ、…」と口ずさんだ。これにより、日本人の日本語習熟度は飛躍的に向上したのである。
 当時のの諸外国は、まず中国を見ると、漢字というエリート専用の文字を使い、音を表記する「ひらがな・カタカナ」にあたるものがないから、庶民の識字率アップは夢のまた夢…、人々は文字を読み書きすることの必要性も、条件も、環境もなかった。朝鮮では、世宗大王によって簡易文字「訓民正音」が作られたが、儒教国の朝鮮では学者・官僚などに猛烈に蔑視され、ハングル(偉大な文字)と呼ばれて一般に使われるようになったのは20世紀以降のことである。
 アメリカという国はこの頃はまだ影も形もない。ヨーロッパには文字媒体として「聖書」があるが、「聖書」はラテン語で書かれていてほとんどの人は読めず、各国語に翻訳されたのは14〜16世紀である。26文字しかないアルファベットなのに、庶民の識字率が上がらなかったのは、賛美歌すら16世紀に入ってから、宗教改革を進めたマルチン・ルターによって多くが作られたという、庶民レベルの文化の状況による。


 1200年代以来の「平家物語」の口承によって、いや、天皇と防人の歌がともに収録される「万葉集」の昔から、和歌や物語文学に親しんできた日本人は、江戸時代には歌舞伎・落語・俳句・謡曲・講談などといった大衆文学の華を開花させる。
 江戸時代の教育にとって、「寺子屋」が果たした役割は大きい。確実な記録の残る近江国神埼郡北庄村(現滋賀県東近江市)にあった寺子屋の例では、入門者の名簿と人口の比率から、幕末期に村民の91%が寺子屋に入門したと推定される。
 子どもたちの多くは、「ギオンショウジャノカネノコエ、…」を知っている。僧侶・神官・浪人・書家などが努めた先生は、「『ギオンショウジャ』は、ひらかなでは『ぎおんしょうじゃ』と書き、漢字では『祇園精舎』と書くんだ。中インドのシュラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院で、お釈迦さまが説法を行ったとされる場所だよ」と言えば、教育効果はまっさらの状態から教えるよりもはるかに高いということなる。
 江戸時代の武士の子弟の教科書は、よく時代劇などでは「論語」や「孟子」を暗証しているシーンが出てくるが、「太平記」が多かった。太平記には「太平記秘伝理尽鈔」という解説書も書かれていて、軍学の天才といわれた楠木正成の兵法について論じられたりもしている。武士の世の中が形成されてきた時代から説き始められ、大忠臣楠木正成の活躍や鎌倉幕府の成立と変転などを記す「太平記」は軍学書の解説もつけられていたわけだから、当時の武士階級にとっては必読の書であった。解釈・講義し、音読して読み聞かせる「太平記読み」という職業も現れ、著名になると大名家に招聘されるものもいた。
 庶民の「寺子屋」の教科書は「庭訓往来」で、往来物(往復の書簡)の形で家庭や社会生活に必要な知識・文字が習得できるようになっていた。
 … と、その一部を要約するとこのようなことを書いている。


●考察1 1443
年に朝鮮通信使一行に参加して日本に来た申叔舟は「日本人は男女身分に関わらず全員が字を読み書きする」と記録し、また幕末期に来日したヴァーシリー・ゴローニンは「日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もゐない」と述べている。これらの記述には誇張があると思われるが、近世の日本の識字率は実際にかなり高く、江戸時代に培われた高い識字率が明治期の発展につながったとされる。
 近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてもある程度の推定が可能な明治初期の文部省年報によると、明治10年に滋賀県で実施された調査で「6歳以上で自己の姓名を記し得る者」の比率は「男子89%、女子38%」であると記されている。当時の成人年齢を16歳ぐらいとすると、この頃にはもうほとんどの人が何らかの読み書きが出来たのであろう。


●考察2  学校教育で「暗記はいけない」という考えがある。しかし、「ギオンショウジャノカネノコエ、ショギョウムジョウノヒビキアリ…」という暗唱が後世に大きな教育効果を挙げたことをみても、子どもたちにとって暗唱は必要であろうと思う。
 私たちも子どものころは、競って名作の冒頭を暗記したり、古今の詩歌をそらんじたものである。子どものころに覚えたものは忘れないから、今でも「源氏物語」「枕草子」「平家物語」「太平記」「徒然草」「方丈記」「奥の細道」などの古典の冒頭や、「千曲川旅情の歌」「初恋」「月に吠える」などの詩はそらんじることができる。
 1901年(明治34年)に中学校(旧制中学校)唱歌の懸賞の応募作品として、瀧廉太郎が作曲した「荒城の月」の「千代の松ヶ枝 分けいでし」の部分の意味が、子どものころにはどうも解らなかったのだが、後に『明るいつきの光が、長い年月を経てきた松の枝葉を、1本1本、くっきりと映し出している』という意味だと解ったときには、嬉しかったものである。
 今、この「荒城の月」は文語体の表記が難しくて子どもたちに理解できないだろうと、中学校の音楽の教科書から削除されているというが、美しい日本語は、意味が解らないままにも心に染みるてくるものだ。後日、「こういう意味だったのか」と知ることも楽しい。『読書百遍、意自ずから通ず』と言うではないか。


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