【読書160】
 後藤新平伝  (星 亮一、平凡社) 
 2011.06.17


 今年3月11日に東北地方東岸に壊滅的な打撃を与えた「東北関東東岸大震災」から3ヶ月を過ぎたのに、その復興は遅々として進まない。加えて、「福島第一原発事故」によって避難している人を合わせれば、まだ10万人以上の人が住む場所も定まらない生活をしている。具体的な復興策も示されず、2次補正予算案や復興基本法すらまだ成立していない。
 政治がだらしないと、国民はこれほどまでに苦しまなくてはならないということだろう。逆に言えば、政治が正しく行われていれば、日本の政治に人材がいれば、ここまで復興が遅れるということはなかったのではないかと思われるのである。
 大正12年9月1日に東京を襲った関東大震災のあと、その翌日の2日に第二次山本内閣の内務大臣兼帝都復興院総裁に就任した後藤新平は、内閣親任式から帰った直後に山本総理に対して、復興費30億円(現在の金額にして175兆円といわれる)を含む復興計画を提出している。『平成に後藤新平はいないのか』と言われる所以だ。
 

 関東大震災からの復興が迅速に進められた背景には、後藤新平が東京市長時代に策定した構想案など計画の下敷きがあったことと、都市計画法・市街地建築物法成立と前後して内務省を中心に人材が育っていたことがある。都市計画法の公布やスタッフの養成、東京市政要綱、都市研究会の設立などが、結果として帝都復興の推進に作用していくことともなった。
 後藤新平が残した言葉、「金を残すものは下、仕事を残すものは中、人を残すものは上」を思い出す。
 復興事業は1930年(昭和5年)に完成され、3月26日に帝都復興祭が行われた。その時期には都市の商工業が発展し人口が増大、都市計画法に国庫補助が盛り込まれるようになる。が、後藤自身は復興の完成を見ずに、1929年、遊説先で死去している。


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