● 風邪が一段落して、本屋へ出かけた。1週間ほど外出できなかった反動もあって、ヤケクソのように本を買ってきた。「日本の正論(産経新聞)」「教育の論点(文芸春秋社)」「数学嫌いな人のための数学(小室直樹 東洋経済)」「この算数できる?(中央出版)」「精神の発見(梅原 猛、角川文庫)」「人生の目的(五木寛之 幻冬社)」「7人の安倍清明(夢枕 獏、文春文庫)」と雑誌「文芸春秋」「正論」。また、本箱のこやしが増えた。



【18】「 精 神 の 発 見 」  
 ( 梅原 猛、 角川文庫 )  (1.30)


 『日本は日本人の成り立ちの手がかりを、ほとんど全て魏志倭人伝や後漢書東夷伝など外国の資料に依っていて、古事記や日本書紀などを見ようとしない。これは、戦前の国学思想に厳しい批判を加えた津田左右吉の考え方…いわゆる津田史観による。
 小中学校でも高校でも、古事記や日本書紀は神話であるとして、その内容を教えない。この歴史教育はまちがっている。土器と古墳のみを教え、その意味について何ら思索をしなかった戦後の日本の歴史学は、余りにも自国に対する否定の心に執しすぎるという過ちとともに、余りにも精神を無視しすぎたという過ちを犯している。じつさい、人間にとって、特に古代人にとって、宗教は重要な意味をもっていた。古代へさかのぼればさかのぼるほど、人間は厚く神を信じて、神の研究なくして古代史の研究はありえないのに、いったい何人の歴史家が、神について真面目に考えたか。
 もちろん、歴史観を再び戦前の歴史観にもどしてはいけない。古事記、日本書紀の神々の話が、そのまま事実ではない。神々は、記紀に登場する神々のほかに、まだ多く日本に残っている。その神々は、日々に少なくなってゆく日本の緑を守っているとともに、日本人に、その精神の故郷を教える。われわれは、戦前の日本を支配した空虚な精神主義にまどわされずに、また、戦後日本を支配したおごり高ぶる唯物論にもまどわされずに、いまこそ、神々の姿を正しく認識しなければならない。(要旨)』
 と説き、記紀や出雲の神話をはじめ、神仏習合を為した聖徳太子ゆかりの寺「法隆寺」のナゾ、親鸞の「歎異抄」から鎌倉禅について、そして中国の政治的知恵を論じ、さらに三島由紀夫・山田無文師・橋本凝胤師について記したあと、近代哲学批判、歴史観について、悲劇精神喪失の時代と形而上の論調が続く。
 さらに、終わりに臨んで、『言ってみれば、記紀は、藤原不比等によって制定された律令制度確立のためにつくられた神話であり、それは結局、アマテラスという伊勢に根拠をおく新らしい神の権威を確立するために、それまでの日本人が崇拝していた三輪山にいますオオモノヌシなる神をはじめとするもろもろの神々を一括して、オオクニヌシと称し、出雲の地へ流竄しようとしたものであること。そして出雲大社とともに和同年間(708-715)に出来たという伝承のある法隆寺は、律令体制確立のために犠牲となって惨殺された、聖徳太子一族の怨霊を鎮魂するための寺であること。それらのことが、次から次へと私の前に明らかになった』と記している。
 そして、その探求する自らの姿を、『私はこの三年間、いささか過去に関心を向けすぎたとも思うが、この過去への没入によって、私は日本というものを、あるいは歴史というものを、あるいは人間というものを、新らしく見直す自己の眼を得たと思う。』と結ぶ。


 歴史の深奥に潜む真理を探求し、そこから日本人の在り様を示す一冊である。古来から稲を育てながら日本人は生き物へのいたわりの心を学んできたのであろう。しかし、全てが機械に操られる現代に求められるのは怜悧な科学的計算であって、人と人とが交わるに必要ないたわりの心や他人の命に対する愛情の気持ち、そういったものが喪失している時代に今、人は生きねばならない。「人を殺してなぜ悪い」と問う子どもの出現は、民族の歴史をおろそかにしてきた現代日本の映像なのだろうか。




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