【21】「空海の風景」  (司馬遼太郎 中央公論社)       (2002.05.30)


 「空海の風景」は、中央公論に連載されていたのを知っている。もう25年ほど前になる。私が「中央公論」を読んでいるのを見て、亡妻が付き合いに「婦人公論」を本屋に頼んで届けてもらって読んでいたのを思い出す。連載中のときはときどきめくってみた程度で、内容についてはほとんど記憶にない。
 今なぜ「空海の風景」かと問われれば、真言宗の開祖にして日本三筆の一、かつ大規模なる土木を行い、日本の各地に足跡をしるす天才「空海」の姿を通して、仏教世界に触れてみたいと思ったからということになろう。しかし、この書は、なまじ一人の僧の生き様を描くなどといったいわゆる小説などではなく、精密な筆による仏教という形而上思想の案内書であり、密教とは何かの入門書であり、唐王朝と当時の日本を描いた平安時代史であった。
 空海は、19歳のときに書いたという「三教指帰」において、現世的処世を説く儒教やあやかしの道教に比して、人間の生きることの意味を問う仏教の優位を説く。
 のちの空海の体系における根本経典というべき「理趣経」についての記述は、衝撃的である。「妙適清浄の句、これ菩薩の位なり。欲箭清浄の句、これ菩薩の位なり。蝕清浄の句、これ菩薩の位なり。愛縛清浄の句、これ菩薩の位なり」。妙適とは唐語で男女が交合して恍惚の境に入ることを言う。以下は推して知るべしであるが、この「理趣経」は、今、奈良の東大寺において朝晩の勤行に最も多く読まれるお経であるという。
 諸国の山野を宇宙の真理を求めて行脚した空海は、土佐の室戸岬で星の光が体内に飛び込む異体験をする。役の小角の修験道のように部分的に民間に伝えられていた雑蜜を集めて自ら組織化し、行法を憶測してそれを修め、諸寺の経蔵をむさぼるように学んで、自分なりの密一乗の世界を構築する。
 そして渡った唐において、密教の2つの系統である大日経系と金剛頂経系とのただひとりの相伝者である青竜寺の恵果から正密のすべてをゆずられ、真言密教第8世の法主になった。
 帰国してのち空海は、新しい仏教である密教の正当な伝承者として真言宗を開き、平安朝に活躍する彼は多忙である。思想書「十住心論」、詩文解説「文鏡秘府論」、字書「篆隷万象名義」などを著すとともに多分に伝説であるところの「いろは」と五十音図を製作したという。もちろん真言密教教団の形成に努め、また庶民の学校「綜手芸種智院」を開校している。
 終章に向けては天台宗開祖の最澄との交流などが描かれていくが、空海の経典を借り出して密教を書物から学ぼうとする最澄に対して、密一乗をきわめるには行を修め相伝による伝承しかないとする空海の態度は次第に冷たく、この後のことは歴史のとおりで十分であろう。

 43歳のとき、都の喧騒から遠く離れた紀伊国高野の山に修法の寺を立てたいと、ときの嵯峨天皇に請願する。勅許を得て建てたといえ高野山は空海の私寺で、これから空海の死まで19年の歳月のうちも堂塔伽藍の造営ははかどらなかった。この頃の高野は、宗教都市というべき華やかさをみせる中世末期の最盛期の100分の1も整えられてはいなかったというが、空海は高野の寺にみずからが描く密教世界を見たのであろう。あるいは時として赤青に彩られ建立される新寺の建設に、長安の風景を垣間見ていたのかもしれない。


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