【読書230】 
「永遠の0」 (百田尚樹 講談社文庫)    2013.09.17

 当世流行の作家「百田尚樹」の小説ということで、書店で手にした『永遠の0』を買ってきた。すでに世上の話題に上っている一冊だから、永遠の0とは海軍の名機「零戦」のことであるということも、この小説の狂言回し役の健太郎が零戦搭乗戦闘員であった祖父の人物像を、戦友を尋ね歩いて明らかにしていく物語であることも知っていた。
 それでも、読み始めて10分ほど…、第2章にかかったころ、物語に引き込まれた。戦争という命のやり取りの最前線で、人間としての究極の尊厳と残してきた家族に対する愛情を貫いた一人の男の生き様を575ページに渡って綴っているこの物語を、2日で読み終えてしまった。

 物語は昭和16年の海軍航空隊の風景から始まる。真珠湾攻撃、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナル・ラバウル基地の様子、「あ」号作戦、マリアナ沖海戦、サイパン玉砕、神風(しんぷう)特別攻撃隊編成、捷一号作戦、… … 原爆投下、終戦まで、太平洋戦争のいろいろな場面が描かれて、あの戦争を振り返ることができる。
 真珠湾攻撃のときに南雲忠一長官は第3次攻撃隊を送らず港湾施設をそのまま残して、その後の米国太平洋艦隊の行動を容易にしたこと。珊瑚海海戦での井上茂美長官は敵空母レキシントンを沈めたあと、当初目的のポートモレスビー上陸を敢行せずに撤退。第一次ソロモン海戦でも夜戦に大勝した三川軍一長官は停泊地にいた輸送船団を攻撃せずに退去。そして捷一号作戦(フィリピン奪還阻止作戦)におけるレイテ湾での栗田艦隊の謎の反転…などの場面が、次々と描かれていく。
 その戦いの中で、もう一歩踏み出せば敵に壊滅的な打撃を与え、その後の戦局を有利に…少なくとも劣勢を遅らせることはできたものを、その手前で撤収している事例があまりにも多い日本海軍の戦いぶりに、作者は健太郎の姉の慶子の口を借りて、「上層部はエリートゆえに弱気だった。いかにして大きなミスを犯さないかを考え、自分の出世につなげる道を探していた。この当時の指導部は戦争経験のない、兵学校出のエリートばかりで、マニュアルにはめっぽう強いけれど、マニュアルにない状況にはからきし駄目ね。日本の官僚組織って、いつもそう」と指摘する。
 「ミッドウェーで判断ミスから空母4隻を失い、その後の劣勢を招いた南雲長官も…、前夜のパーティで酒を飲みすぎて、宣戦布告書を指定の時間までに米国側に渡さなかったアメリカ大使(野村吉三郎と来栖三郎)たちも…、みんなかばい合って誰も責任をとろうとしない。陸軍組織も同じようで、兵員の逐次投入で結局4万名もの犠牲者を出したガダルカナル島奪還作戦を立てた辻 政信や、インパール作戦で3万名の兵士を餓死させた牟田口中将も、責任を問われることなく、その後も出世し続けている。
 責任を問えば、それを容認した上層部たちも責任を問われるという論理がはたらいて、日本を間違った道へと導いたんだ。自分たちは責任を取らないという彼らは、一兵卒の命は『一銭五厘(当時のハガキ「赤紙」の値段)』と軽んじて、玉砕や特攻を命じている」とも。


 第一線で国のために戦った人たちへの扱いについては、特攻第一号を率いた関 行男大尉は軍神ともてはやされ、母一人子一人であった彼の母親は「軍神の母」ともてはやされたが、戦後は一転して戦争犯罪人の母とののしられ、故郷の人々から村八分のような扱いを受けたと記している。行商で細々と暮らしを続け、最後は小学校の用務員に雇われて、用務員室で一人さびしく亡くなったとか。その母の願いは「せめて行男の墓を…」と叫び続けたというが、日本の戦後民主主義は祖国のために散った特攻隊員の墓を建てることも許さなかったのである。
 日本の特攻は愚かだ…と断じる声が多い。しかし、特攻の「十死零生」という出撃は作戦などというものではないが、1943年、アメリカのB17爆撃機がドイツの軍需工場を戦闘機の護衛なしで昼間爆撃している。爆弾を抱えて足の遅い爆撃機が戦闘機なしで敵地に入るというのは自殺行為だが、当時のアメリカにはドイツ国内までの距離を飛べる爆撃機がなかったことと、夜間では工場が見えなかったので、護衛なしに昼間に敢行したのだ。
 アメリカは、毎回40%以上の未帰還機を出したというこの作戦を終戦まで継続し(後期には、長距離航行爆撃機も完成したが)、累計5000名以上の戦死者を出している。これは、神風特攻隊の戦死者4000名を超えている。


 その他も、さまざまな指摘がある。
・航空機というものは、その国の工業技術の粋を集めたものです。… 勤労動員された婦女子や中学生では、精度の高い飛行機なんぞ作れないのです。
・初めのころ、零戦は優秀で、アメリカ機は「零戦とは戦うな」という布告をホントに出していたくらいだったのですが、アメリカの工業力はものすごく、戦争後期に開発されたP51ムスタング戦闘機は巡行速度600km/時(零戦は300km/時)、最高速度700km(同600km/時)、防弾・武装・装填弾もゼロ戦をはるかに上回りました。高度8000mでも楽々と空戦をこなせ(空気が薄いので零戦は飛ぶのがやっと)、硫黄島と日本本土との往復を悠々とこなしました。P51が護衛について、B29が本土爆撃に襲来したら、もうお手上げでした。
・それでも、戦後、米軍が日本の戦闘機の性能テストをしたとき、陸軍の四式戦闘機に米軍の高オクタンのガソリンを入れると、P51ムスタングよりも高性能を示したといいます。結局、戦争は総合力であって、一つや二つが優れていても、どうにかなるものではないのです。  … などなど。


 家族のために生き残ることを決意して、零戦で戦った宮部久蔵(主人公)は、終戦の2日前に特攻機に乗る。そのとき彼が何を考え、どうなったかは、読んでのお楽しみだが、この本を読み終えて、日本は何を誤ったのかを考えてみた。
 工業原料も石油も止められて、そのまま行けば国が立ち行かなくなる危機的状況の中、悪意に満ちたアメリカの対応に宣戦布告した決断は、責められるものではないということも知っている。ただ、この頃の日本の軍部は硬直した官僚組織であって、陸相海相を出さずに組閣を妨害し、自分たちの意に沿わない政治を妨害したことも事実だ。
 ここから、国家の組織が、国益を考えずに、自分たちの組織の体面や利益を図ろうとするとき、国を危うくすることが判る。そして、面子や保身は、決断を誤らせるということも…。
 大東亜戦争戦争下の日本の大きな誤りは、終戦の時が遅すぎたということだと思う。東条英機は「…不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国ある…」と書き残している。開戦は万国に認められた権利なのだから、国際法に照らしてとがめられることはなく、東京裁判における「平和に対する罪」などという事後法で有罪とされたのは、敗戦責任を負わされたものであった。
 ただ、アメリカを相手に100に1つの勝ち目もない戦いを起こすからには、その終戦の方法について然るべき処置が実行されねばならなかったといえよう。すなわち、終わり方を考えておかねばならなかった。更に言えば、「無条件降伏」となる前に、条件をつけられる時点で、もっと早くに終戦に持ち込まねばならなかったのである。
 時期は、フィリピン奪還(1945.03.03 マニラ陥落)を許したとき、あるいは、硫黄島の占拠(1945.03.26)を許したときあたりが、日本の防衛の限界だった。もちろんもっと前の、1943.4月、ガダルカナル撤退はこの戦争で日本はアメリカに勝てないことがはっきりした時であり、1943.5月のアッツ島の玉砕は日本軍の劣勢が明白になったときである。このとき、この戦争の講和か、せめて条件付き降伏を考えられなかったのか。
 1943年の時期に終戦を図ることができていれば、南の島や海に散った多くの命を救うことができた。南方の島々に派遣された部隊の兵士の大半は、補給を断たれて餓死したのである。
 1945年4・5月、マニラを落とされ、硫黄島の占拠を許した日本は、本土爆撃を許すこととなる。この時点で終戦を迎えていれば、特攻隊も、沖縄戦も、そして本土大空襲も、原子爆弾も、ソ連の満州侵攻も…、無くて済んだのである。
 自分たちの面子・体裁にこだわり、何が正義であるのかを決断できない指導者ほど、無残で恐ろしいものはないことを、この事例は教えてくれる。なさねばならない決断と実行を勇気を持って断行する、そういう人間をつくっていくことの大切さを、改めて思わされた。


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