【131】
 
李 陵   (中島 敦、ちくま書房)            2008.02.08


 ひろちゃんから、
「李陵」を読みました。『匈奴との戦いに敗れ捕虜となり、心ならずも匈奴になびいた李陵と、武帝の怒りをかった李陵を弁護し、武帝の怒りにふれ宮刑を受けた司馬遷。そして李陵より先に匈奴の虜囚となるも、最後まで匈奴になびくことなく祖国に戻った蘇武という、繋がりがあまりないながらも同じ時代に生きた、三人の生き様と苦悩を、とても感じることができる作品でした』というメールが来た。


 僕も、早速、本棚の「中島敦全集」(筑摩書房)の中の第3巻に収録されているのを見つけて、ページを開いてみた。


 『 李陵は、漢の武帝に仕えた武将で、齢40にならんとするとき、北辺を荒す匈奴を撃つため将軍李広利を助けて五千の歩兵とともに出陣した。しかし、本隊に合流前に匈奴の単于が率いる三万と遭遇し、李陵軍は六倍の相手に一歩も引かず八日間にわたって激戦を繰り広げ、匈奴の兵一万を討ち取った。だが、その軍もさすがに矢尽き刀折れ、李陵は気を失ったところを捕らえられた。


 翌年の春、李陵は戦死したのでなく匈奴に降伏したのだという報告を聞いた武帝は激怒し、今や佞臣ばかりとなっていた群臣たちも武帝に迎合して、李陵は罰せられて当然だと言い立てた。その中で司馬遷だけが李陵の勇戦と無実を訴えたが、武帝は司馬遷を大将軍李広利を誹(そし)るものとして宮刑に処した。
 司馬遷と李陵は、特に親しかったわけでもない。自分を弁護して司馬遷が宮刑に遭ったことを伝え聞いたときの様子を、中島敦は『李陵は別に有り難いとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶をしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではない。むしろ、厭に議論ばかりしてうるさい奴だぐらいにしか感じていなかったのである』と書いている。常に騎馬を駆って戦場にあった李陵としては、宮中で君側に侍る司馬遷は肌の合わぬ奴ぐらいの思いであったのかもしれない。
 司馬遷は、それでも武帝に向かって、ことの理非を整然と述べた。『陵の平生を見るに、親に仕えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みず、以って国家の急に殉ずるは、誠に国士の風あり。今不幸にして事一度敗れたが、身を全うし妻子を安んずることをのみ唯念願とする君側の佞人ばらが、この陵の一矢を取り上げて誇大歪曲し、以って陵の聡明を蔽おうとしているのは、遺憾この上極まりない。そもそも、陵の今回の軍たるや、五千に満たぬ歩兵を率いて深く敵中に入り、匈奴数万の師を奔命に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道極まるに至るも尚全軍空弩を張り、白刃を冒して死闘している。…思うに、彼が死せずして虜(ろ)に降ったというのも、潜かに彼の地に在って何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか』と。


 匈奴の王「且?侯単于」は、李陵の才能と人柄を気に入り、部下になるように勧めるが、李陵は断固としてこれを拒絶し、隙あらば且?侯単于の首を持って漢へ帰参することを考えていた。
 だが、数年のち、漢の匈奴征伐軍が散々に破られて戻ったとき、公孫候将軍は「匈奴の軍が強いのは、李陵が匈奴に漢の軍略を教えているからだ」と弁解する。それを聞いた武帝は激怒し、先の降伏を聞いたときには身分を落としたり追放したに過ぎなかった李陵の一族… 妻子をはじめ、祖母・生母・兄と兄の家族、従弟の一家などをまとめて皆殺しにしてしまった。
 一族の非業の死に嘆き悲しんだ李陵は憤慨して、匈奴に帰順し、且テイ侯単于の娘を娶って、その間に子を儲け、匈奴の右校王となった。


 李陵は、バイカル湖のほとりで、匈奴に捕らわれながら降(くだ)るを潔しとせず、ひとり暮らす蘇武を訪ねる。二人はともに侍中として武帝の側仕えをしていた20年来の友であった。
 数年後、再び李陵が蘇武を訪ねたときは、漢の武帝の崩御がもたらされていた。その死を知ったとき、一滴の涙も浮かばなかった李陵の口から、「武帝崩ず」と聞いた蘇武は慟哭し、終に血を嘔くに至る。
 李陵は、己と友を隔てる根本的なものにぶつかって、いやでも己自身に対する暗い懐疑に追いやられざるを得ない思いに駆られた。


 新帝が即位した漢から、李陵と蘇武を迎える使者が到着した。胡地の北辺で節を曲げなかったとして、蘇武は凱旋将軍のごとき歓呼を持って漢に迎えられた。
 李陵を迎えに来た使者は、みな李陵の友人であった。「小卿よ帰ってくれ。富貴などは言うに足りぬではないか」。言葉を尽くす友の勧めにも、李陵は首を振るばかりであった。「帰るのは易い。だが又、辱めを受けるだけではないか」。… 』


 中島 敦は、武帝の仕打ちに憤して匈奴に属した李陵と ただ朴訥として匈奴に服さなかった蘇武との違いを、『 ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞(しもと…刑罰の用具、章くん注)たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。 』と書いている。
 胡地に捉えられてもなお降らず、帰国を願っていた自分の節を疑い、老母や妻子ら一族を殺した漢(武帝)を捨てた李陵が、匈奴の地に新しい営みを見つけたことは当然と思うのだが、蘇武と比べなければならない李陵の無念…哀れが胸を打つ。


 稿を起こしてから14年、史記130巻、52万6500字、列伝第70太史公自序の最後の筆を擱いてのち5年、司馬遷は李陵のもとに帰国を促す使者が遣わされることも、蘇武の帰国も知らず、これらに先立って世を去った。




【130】 
「カラマーゾフの兄弟」 第2巻   
       (ドフトエフスキー、亀山郁夫訳、光文社文庫)        2008.01.30


 
「カラマーゾフの兄弟」第2巻、やっと完了(苦笑)。なかなかに中身が難しくって、てこずりました。
 ドフトエフスキーは、文中、イワン(カラマーゾフ家の次男)の口を借りて、「ほとんどの人間は自由なんか欲していない。 あなた(キリスト)が自由を保障したので 人間は苦しむことになった。人々が欲しいのは 天上のパン(自由)ではなくて、地上のパン(食料・富・名誉)なのだ」と言っています。


 文豪は、侮蔑的発言も怖れていません。イワンの話…「トルコ人の残虐さは、母親の腹の中から胎児をえぐり出すなんてのは序の口で、果ては乳飲み子を放り上げ、それを母親の前で銃剣で受け止めてみせるというんだから」と徹底的です。さらにさまざまな児童を虐待する大人の例を挙げて、「こんな奴らを許すのか、銃殺にするのか」と、敬虔なキリスト僧の修行を積んでいるアリョーシャ(主人公、カラマーゾフ家の三男)に問いかけ、「銃殺にすべきです」と叫ばせます。
 「やれやれ、たいした修行僧だよ。お前の心の中にも、悪魔のヒヨコが住んでるってことだ」。
 「馬鹿なことを言ってしまいました」とつぶやくアリョーシャに、イワンはさらに続ける。
 「世界はその馬鹿なことの上に成り立っているのさ。…そしてついに悟るのだ。自由と、地上に十分にゆきわたるパンは、決して両方一緒には手に入らないことを。なぜなら、人は、お互い同士、分け合うということを知らないからだ」と。


 兄イワンと別れたアリョーシャは僧院に戻ります。そこでは、アリョーシャが師と仰ぐゾシマ長老が死の床についていました。苦しい息の下で、長老は集まった人たちに切々と説きます。
 「人生こそが天国なのです。…、科学にあるものは人間の五感に属するものに過ぎない。怖れず欲求を満たすところにこそ、自由があると思っている。財産や権力は孤立を生み、それを追い求める果ては自己喪失です。酒で紛らわしても、いずれは酒の代わりに血を吸うようになることは目に見えている。
 罪のある人間を愛しなさい。動物たちを、子どもたちを愛しなさい。愛の謙虚さは、世の中で一番恐ろしい力であり、それに類するものなど何もない。…、愛はなかなか手に入らず、高い代償と長い期間にわたる労苦によって初めてあがなわれるものだから、人は愛を手に入れる術を学ばなくてはならない。人は、誰の裁き手にもなれない。最後まで信じることだ。
 地獄とは何か、それは、これ以上はもう愛せないという苦しみだ。私は存在する、だから私は愛する。…、人生こそが天国なのです。」


 この第2巻は、テーマ的にも、内容的にも、大きな充実感を持っています。「カラマーゾフの兄弟」全体を通しての思想的・哲学的な要因が描かれています。上に要約した、イワンの熱弁とゾシマ長老の説教は、宗教の主人公は悪魔か神か、人間の歴史とは何なのか…を問うかの展開ですが、ドフトエフスキーはまだここでは、その結論を急いではいません。
 僕の知識は、「カラマーゾフの兄弟」を読破するためには脆弱すぎて、注釈や解説を参照して合点しています(苦笑)。いや、理解不能の箇所もあったりするのが実のところです。
 上に抜粋した、「人々が欲しいのは 天上のパン(自由)ではなくて、地上のパン(食料・富・名誉)なのだ」という表現は、『40日の間、何も食べずに荒野をさまようイエスに、悪魔がささやく。「もしお前が神の子ならば、この石に、パンになれと命じてみろ」と。答えて、イエスは言う。「人はパンだけで生きるものではない」』…という聖書をもとにしていることは言うまでもありません。
 この言葉は有名で、僕も断片の知識は持ち合わせていたつもりでしたが、「新約聖書『ルカによる福音書』第4章」に記されている続きには、さらに「世界の国を見せて、『もしお前が私の前にひざまづくならば、これらの国々の全てをやろう』と言う悪魔に、イエスは『ただ神のみに仕えよと書かれている』…、イスラエルの宮殿の頂上に立たせて「ここから飛び降りてみよ。もしお前が神の子ならば、使徒に命じてお前を守らせるだろう」と詰め寄る悪魔に、『神を試すなとも書かれている』とイエスは答えた」といったふくらみがあることにも気づかされました。
 ドフトエフスキーの描写は、聖書はもちろん、ドイツの詩人シラー(ベートーベンの第九「歓喜に寄す」の作者)の詩や、ゲーテの「ファウスト」などを伏線としているところも随所にあって、その知識がなければ、せっかくの表現も面白くもなんともないことになります。
 そんな悲哀を何度も味わわされながら、第3巻に取り掛かることにします。




【129】 
山 月 記   (中島 敦、新潮文庫)        2008.01.14


 「カラマーゾフの兄弟」第1巻を読み終えたあと、
中島 敦の「山月記」を読んでみました。


 中島 敦は、大正から昭和に掛けての小説家。漢学者であった父 中島撫山の影響もあってか、漢文調の中短編に清冽な秀作が多くみられます。結核に冒され、33歳の若さでなくなったのが、なんとも惜しまれます。


 物語は、有り余る作詩の才能を持ちながら、なかなか世の中に認められない李徴は、妻子を養うために気の進まない地方の官吏に職を得ますが、自分よりも実力もないものたちが世の中に認められていく不条理に耐えられず、行方をくらまします。
 数年して、山に人食い虎が出るとのうわさが広がり、旅人は暗いうちの山越えを避けるようになっていましたが、監察史の袁参(若い頃の李徴の親友)は家来も多いからと未明に出立します。件(くだん)の山道にかかると、草むらから一匹の虎が飛び出すものの、身を翻(ひるがえ)してもとの草むらに隠れ、「危ないところだった」とつぶやきます。その声は、李徴…。
 虎となった李徴が言うには、
『 己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。』というところに、李徴の心の吐露があるのかと思います。
 世の中に交わろうとせず、自分の才能を認めようとしない周囲を愚鈍であるとさげずんだ自分へのあざけりがあるのでしょう。
 『 己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ 』という述懐が、取り返すことの出来ない人生への慙愧の思いを表しています。
 世の中を突っ張って生きる愚かさは判っているのですが、それでも そう生きるしかない男の哀れさが、しみじみと伝わる小編でした。




「カラマーゾフの兄弟」は、解説書も入れて 全5巻。 他は500ページほどですが、第4巻は700ページもあります(苦笑)。気合いを、何度も入れな直さねばなりません(笑)。
 ひとつの文が結構長いロシア文学の訳本ですから、途中で疲れてくるので、中島敦なんかの、凛とした漢文調の切れのある短編を間に挟むと、口直しに良いのです。
 一息入れて 第2巻に取り掛かることにします。




【128】
「カラマーゾフの兄弟」第1巻 
      (ドフトエフスキー、亀山郁夫訳、光文社文庫)        
2008.01.04


 光文社から新訳が出たというので、学生時代以来、30ン年ぶりに「カラマーゾフの兄弟」を読んでみました。ロシア文学の登場人物の名まえの煩雑さは尋常でなく、前回も自分で、これが父親でその長男がこれで次男がこれ…その愛人が…と相閑図を書いて読んだものですが、今回の新本では「しおり」に主な登場人物を書き出してありました。


 この第1巻でドフトエフスキーは、『裁判所では 悪人を裁くことは出来ない。懲役刑を受けても務め上げればいいだけで、悪人は心から悔い改めることはないから 悪いことをするものは減らない。悪人を裁くことができるのは教会だけで、神に対して不正を行うものは恐れおののかなくてはならない。教会の力は、悪を根絶することが出来る』と、登場する教会の長老に語らせています。
 作家という人たちの人間を見る目は鋭いですね。いたるところでハッとしたり、なるほどとうならされる表現・記述があります。


 再読なので、30年前に読んだときよりも中身に入っていけています。前回は、飲んだくれの父親フョードルが殺害され、犯人は息子であるカラマーゾフの3兄弟の誰かなのか…というミステリーじみた展開に、難解な人名と格闘しながら 筋書きを追うのがやっとだったようでしたが、今回は 国家か教会かの裁判論争とか、清純な美女カテリーナが、父が使い込んだ公金の穴埋めをしてくれたアリョーシャに宛てた恋文の一行、『私はあなたの家具になります。あなたが踏んで歩く絨毯でもかまいません』(相手に、自由に生きて良い。私は不平は言わないの意味)という表現に感動したりしています(笑)。




【127】 
「沈まぬ太陽 @〜D」
(山崎豊子、新潮文庫)     2007.12.06-13


 1年ほど前にこの本を読んだ友人が、「引き込まれた」と言っていた。それ以来ずっと気になっていたのだが、5巻もあるのでなかなか手が出せずにいた。
 たまたま時間つぶしに入った松阪の書店で目にして、とりあえず@A巻を買ってみたのだが、すぐにBCD巻を買うことになった。
 読み出すと止まらない。食事やコーヒータイムにはもちろん、車の運転中にも広げていて、信号待ちや渋滞時には読んでいる。コーヒー1杯で3時間ぐらいものも言わずに読んでいるので、コーヒー屋のおばちゃんが感心して、2日目にはコーヒーを追加サービスしてくれた。
 そんなふうにして、8日間で読んだ。その8日間の出来事とともに、各巻の読書感想文を綴ってみることにしよう。


 12月6日(木)、第@巻 アフリカ編・上


『 恩地 元(おんちはじめ)は、戦後の日本が世界に追いつけ追い越せと設立した国策会社「国民航空」のエリート社員。本社の中枢部である「本社予算室」で経営予測を行っているが、組合の委員長を半ば強制的に引き受けさせられる。
 責任感の強い恩地は、国航組合が積年にわたって抱えている、「賃金引上げ・労働時間の短縮・労働協約の締結」を実現するために邁進し、航空業界初のストを打ち、会社の大幅な譲歩を勝ち取る。


 労組委員長の任期は1年…、任期切れの直前、副委員長として恩地とともに力を尽くしてきた行天四郎(ぎょうてんしろう)は、体の不調を訴えて時期委員長を辞退。恩地はやむなく2期目の委員長を引き受ける。
 会社は、約束していた労使間の憲法とも言うべき労働協約の締結を、言を左右して締結しようとしない。恩地たちは、首相の外遊からの帰国予定日の翌日にストを撃つことを決定…。ところが天候の関係で、首相の帰国が1日延期となった。
 「年末手当は昨年を下回らない」との確約を得て、当日のストは正午で打ち切られ、夕刻、首相専用機は無事到着した。


 しかし、国策会社として政府与党が経営に深く関与している国民航空に、首相フライトを標的にしたかのようなストライキは理解の範囲を超える暴挙とされた。組合委員長2期を終えて、本社予算室に戻った恩地に待っていたのは、カラチ支店(パキスタン)への転勤命令であった。
 ここから、恩地に対する、海外僻地は2年という社内規則を無視した、カラチ〜テヘラン(イラン)からナイロビ(ケニヤ)という就航実績もない国への、通算10年間にわたる海外たらい回し人事が発令されていくことになる。』


 松阪の本屋で@A巻を買ったあと、友人との約束の7時半まで1時間30分ほどあり、寿司ダイニングでちょっと腹ごしらえ…。カウンターの隅で、注文する以外は顔も上げずに第@巻を読みふけった。赤身4貫、カツオ2貫、トロ鉄火、それにニギリが美味かったカツオを造りにしてもらって平らげてきた。
 約束の7時半、指定のスナックへ行くと友人はすでに来ていて、顔なじみの連中と盛り上がっている。
 ママがいきなり、「章さん、イルミネーション見にいこか?」と言う。「店、どーするんだ」と聞くと、「勝手にやらしとけばええのよ」と、カラオケの入力機を友人たち客に渡してコートを羽織る。
 そのママと、ぶらぶら歩いて見て来たのが、右の写真のイルミネーション…。松阪市茶屋町の某宅、個人の住宅である。
 ここ何年か、だんだんと飾りを増やしてきているのだと、ママの解説だ。帰り道、「どこか、スナックへ寄っていくか?」と言ったのだが、「そうもいかんでしょ」と真面目なことを言うので、1時間ほどで店へ戻った。
 飲んで騒いで、午前1時に帰宅してからまた読み出して、「さぁ 寝るか」と布団に入ったのは、5時過ぎだった。 
  中勢バイパスの紅葉。 先週通った
  ときは、もっと鮮やかだったのだが…。
 


 
 12月7日(金)、第A巻 アフリカ編・下


 今日は滋賀県の信楽まで出かけなくてはならない。先方へは、午後2時に行くと伝えてあるので、11時過ぎに起き、コーンポタージュにパンをかじり、コーヒーを飲んで、お昼に家を出た。
 手には「沈まぬ太陽 第A巻」をにぎっている。


『 恩地が海外へ出てから、国民航空では会社の主導で第2組合が結成され、労働争議を闘争の手段とする第1組合との間には、あからさまな待遇の格差を生じていた。配置も昇進も厳然たる差別をつける労務策によって、いつしか第1組合員270名に対し、第2組合員は3300名となっていた。第1組合を抜けようとしないものには、資材売却倉庫で廃棄物の整理に当たらせたり、営業所の入り口に一人用の机を置いて座らせ「お客様係り」と称して晒し者にするなどの懲罰的人事が行われた。
 カラチからテヘランへと通算5年…、恩地に「組合と手を切ると一札入れれば日本に戻す」と打診があった。恩地は言う、「私を信じて、耐えてくれている組合員のことを考えると、節を曲げることはできません」。その結果、恩地に辞令が届く、「ナイロビ営業所販売出張員を命ず」。


 国民航空の飛行機が就航もしていないケニヤ・ナイロビでの恩地の仕事は、この国へ赴任している日本人を中心として、ヨーロッパや日本へ向かう人々に国民航空の乗り継ぎを利用してもらうように働きかけ、1枚でも多くの航空券を売ることである。
 気候は厳しく、インフラも整っていない国で、報われず、展望もない、一人での仕事を続け、気持ちもくじけそうにな恩地の外地での生活も10年になろうとしているとき、国民航空はロンドンとモスクワで続いて2件の事故を起こし、50名以上の死者を出した。
 国会は事故を重く見て、国民航空幹部と従業員代表として労働組合執行役を喚問する。第1労働組合の沢泉委員長は「事故の背景には、乗務員の訓練不足、整備時間の制限、過酷な勤務時間、そして懲罰的な第1組合員への差別人事から来る不信があります。例えば、第1組合の元委員長である恩地元は、海外僻地勤務は2年という社内規律を無視して、今10年目…、現在、アフリカ勤務を強いられています」と証言した。
 野党の若手議員が、小暮国民航空社長に「事実ですか。大いに反省すべきことではないですか」と迫り、小暮社長は「もしそういうことがあるとすれば、事態の改善を図りたい」と答弁する。
 恩地の本社復帰が実現した。 』


 

 往きは、名阪国道を大内ICで降りて、諏訪から丸柱を抜けて信楽へ入った。
← 上野市内から北の山を見ると、山肌は真っ赤な紅葉に染められていた。
 午後2時、信楽の「丸二陶芸」で粘土と釉薬2種、ヘラ5本を買い、数箇所の窯元を回って焼き物の数々を見た。5時前、帰途に就く。帰りは422号線から阿山へ出て、壬生野ICから名阪に乗って6時過ぎに帰宅。夕食を済ませてからまた読み始め、午前3時30分に第A巻を読み終えた。


 第B巻があれば、続けて読み始めるところだが、幸か不幸か、まだA巻までしか買っていない。明日は、起きたら本屋へ走ろう。



 12月8日(土)、第B巻 御巣鷹山編


 目を覚ましたら、午後1時過ぎだった。入院中の母上の靴下・湯のみ・病院靴…などを買い揃え、夕方に病院へ寄ってから、午後6時、同級生7〜8人との忘年会へ…。もちろんその前に、本屋へ立ち寄って、「沈まぬ太陽」BCD巻を仕入れた。
 久しぶりに顔を見た連中も居て、懐かしい話は弾み、2次会、3次会、4次会へと流れて、帰宅したのは、午前2時を回っていた。風呂に入り、コーヒーを淹れて、3時になろうとしているころから読み始めて5時前まで、第3巻の3分の1ほどしか読めなかった。


 
『 本社に復帰した恩地のポストは、「国際旅客営業本部付」という実質的な仕事は何もない「閑離職」であった。簡単な電話を取ったり、同じ資料に何度となく目を通すという日々を過ごす中のある日、死者520名という、航空史上最悪の「御巣鷹山墜落事故」が起こった。
 午後6時24分、所沢の東京航空交通管制部のレーダーに、異様な動きをする国民航空123便の姿が捉えられた。浜名湖を通過していた地点から、羽田へ戻ると連絡が入る。
 47分「操縦不能…」との一言を最後に交信は途絶え、57分、レーダーから迷走を続けていた機影が消えた。
 7時5分、航空自衛隊百里基地からはF14ファントム2機がスクランブル発進…、遭難現場での山林火災目撃の報告を受け、7時20分、大型救難用ヘリV107が出動する。米軍横田基地からも、援助の申し出が入った。
 午後9時15分、国民航空の第1時救援隊90名が2台のバスに乗って出発した。パトカーの先導を受けたが、お盆の帰省ラッシュで中央自動車道は渋滞していて、午後11時に八王子インターを通過した。しかし、この時点ではまだ、夜の闇の中で燃え上がる墜落現場は、富士山麓のどの山のどの地点か、特定されていなかったのである。 』

 

 12月9日(日)、第B巻 御巣鷹山編
つづき


 『 ようやく事故地点へ到達した恩地ら国民航空関係者は、現場への立ち入りを厳しく制限され、被害者家族のお世話にあたることになった。
 時速500Kmのスピードで山肌に激突した機体は広大な範囲に飛び散り、遺体のほとんどは体が引きちぎられ、割れた頭蓋骨からは脳みそが飛び散り、切断されている下半身からは内臓が露出している。子どもを抱きかかえていたのだろうか、割れた大人の頭蓋の中から、子どもの顎が出てきた。
 頭部があっても顔面がない遺体は脱脂綿と三角巾で顔の形を作り、わずかに残った首に縫い付けていく。遺体の整体は、日赤看護婦があたる。ぐしゃぐしゃになった胴体は、段ボールを当てて白いシーツにくるみ、形を整えてさらし布をしっかりと巻くと、白布に覆われたきれいな遺体の形になった。
 ほとんどの遺族たちは、わずかに残っている片腕とか、遺体に残っていた衣服の切れ端などを手がかりに、肉親を探すのである。



 焼け焦げた指先の爪の形から夫を探し出した妻…、着ていたワンピースの切れ端から娘にたどり着いた母…、警察の調書に、ただ「残念だ」と記した父…。作者の山崎豊子も、書き綴りながら何度も慟哭を禁じえなかったという、壮絶な事故の模様が展開されていく。


 事故の悲惨さだけでなく、残された遺族の日々もまた壮絶なものであった。クゥエートの石油掘削に単身赴任していて、妻と3人の子どもを一度になくした男…、零細の印刷会社社長であった主人をなくし、会社を倒産させた未亡人…、一人娘をなくし、四国遍路へと旅立った父…、保障金を取り合う遺族たち…。
 人殺しと罵倒され、門前払いを食らったことも数え切れず、人前で土下座さされることにも耐えて、恩地たちお世話係りは数人から10人ほどの遺族を担当して、補償交渉を進めていった。


 520名の命だけでなく、その遺族の生活までをも崩壊させた事故の原因究明は、遅々として進まなかった。運輸省の事故調査官がボーイング社まで足を伸ばして、事故機の修理に当たった担当員に話を聞こうとしても、個人の責任を追及する考えはないと拒絶され、虚しく帰国するしかなかった。結局、事故機が7年前にしりもち事故を起こしていることから、その修理あとに亀裂が入り、金属疲労なども重なって、停めていたリベットがゆるみ、垂直尾翼がもぎ取られてしまったのであろうという方向に収斂されていく。 
 
 遺族が結成した「おすたか会」は、会社の責任と保障について、東京地検へ告訴した。』



 夕方から、シクラメンの鉢植えを買おうかと夕赤塚植物園へ行ったら、庭木がイルミネーションで飾られていた。
 シクラメンは真綿色…、いや、やっぱり赤だろうということで、真っ赤な一鉢を買ってきた。
 夕食に、そのまま鈴鹿へ走っていって、10時ごろ帰宅した。



 12月10日(月)、第C巻 会長室編・上  その1
 

 午前10時20分、東京からの友人を津駅に出迎えて、伊勢・志摩へドライブした。来津した友人は、学生時代のポン友…、お互いに『お前のせいで俺は学生時代をしくじった』と言い合っている。彼は、世田谷で会計事務所を開いていて、全国に顧客を持っている。明11日に岐阜の顧客の1社に出向くので、一日早く東京を出て、僕を訪ねてくれたのである。
 伊勢神宮と二見浦に寄って、鳥羽国際ホテルで昼食をとった。このコースは、ン十年前に2人で年越し参りに出かけ、初日の出を拝んだコースだ。鳥羽水族館を見て、英虞湾めぐりの船に乗り、浜島から五ヶ所を抜けて、サニーロードを走り、夕食はお定まりの松阪牛である。彼に言わせると、「これに比べると、東京で食べる牛肉は紙くずみたいなもの」らしい。
 明日は、午前9時から打ち合わせだと言って、今日のうちに岐阜市内のホテルに入ると、あわただしく帰っていった。

 
 そんなことで、今日、読んだのは100ページほど…。


 『 国民航空社の再生のためには、首脳陣を一新して新機軸を打ち出さなくてはならない。利根川総理は自ら動いて、関西紡績の再建を果たした国見正之会長に白羽の矢を立て、畑違いと固辞する国見を「全面的に指示する。お国のためと思って決断して欲しい」と、先の大戦で同僚の多くに先立たれている国見を口説いた。社長に運輸次官から顧問に据わっていた海野昇、副社長に常務の三成通夫が就任して、再生へのスタートを切ることとなった。 』


 12月11日(火)、第C巻 会長室編・上  
その2


 『 安全を至上命題として、そのために徹底した現場主義を貫く国見は、国際線のコックピットに座って太平洋を飛び、整備の現場に足を運んで問題点を聞いて歩いた。
 労使問題をはじめ、社内にくすぶる澱(おり)のような亀裂を修復するために、国見は恩地を会長室付き部長に抜擢した。「アカ≠フレッテルを貼られ、この会社の現勢力からは抹殺したとされている私がよみがえったら、彼らは騒ぎ出すことでしょう。私をお使いにならないほうが賢明です」と固辞する恩地を、国見は「4つの組合があって、互いに足を引っ張り合い、昇進や人事に格差をつけているような状態が、健全な会社ですか。労使協調から新機軸を生み出すために、ぜひ君の力を貸して欲しい」と説得する。
 

 国民航空は多くの子会社や外郭団体を持っているが、新労組OBたちは執行部員とともに、年間7億2千万円の組合費を自由に使うことが出来た。加えて、航空会社である国民空港には、旅行者や政治家に配布する優待券や無料件が豊富にあり、1000枚単位でそれを横流ししたり金券ショップで現金化して、莫大な金銭を懐に入れていた。
 組合生協役員の業者からのバックマージンなど、それらの犯罪である案件を、恩地は調査するよう命じられる。
 旧経営陣の責任を厳しく問い、労働組合役員の既得権に切り込む国見会長の改革は、激しい抵抗にあっていた。広報部長の行天は、社内の行き違いを大げさにリークし、新労組OBたちは出入りの記者に金を握らせて、『国見会長の改革が、足元を揺さぶられている。国航の労働組合のうち穏健派で最大の新労組(12000人)が、「国見会長の労使安定策は、職場に大きな懸念を生じている」と記事にしたのだ。』



 母上の病院をのぞいたあと、夕方から松阪での「忘年会」へ出かけた。朝比奈寿司の1次会から、2・3・4・5…次会とはしごして、帰宅は3時…はいつもの通りか。


 12月12日(水)、第D巻 会長室編・下
(完結編)  その1
 

 午後1時の約束で、伊勢市へ出かけた。訪ねた先は伊勢市でも西南部にあり、伊勢自動車道の玉城ICを降りてさらに南へ5分ほど。だから、津からは40分ぐらいだ。
 1時間ほどを予定していたので少し早くついてしまい、近くを車でブラブラしていたら、面白い喫茶店を見つけた。名まえがナント、「哀愁の街に霧が降るのだ」という。電話をかけたら、何と出るのだろう。


 『 社内の不正調査を進める恩地の元に、生協納入業者や子会社役員から、リベートや航空券横流し・販促費のキックバックなど、生々しい情報が集まってきていた。そんなある日、国民航空八重洲支店所属、現在は病気療養中の細井課長が自殺した。
 

 改革を嫌う国航首脳や新労組からの政界への働きかけも続き、恩地を用いる国見会長に対して、政府筋からも「左翼に対する認識が甘い」との批判が起こる。』



 伊勢の帰りに、また昨日の松阪の店に寄ってしまった。いつもの連中がいて、あとはお定まりのコースである。


 12月13日(木)、第D巻 会長室編・下(完結編)  その
 

 午後2時、名張市つつじが丘へ。仕事を終えて、つつじヶ丘団地を南へ降りたら、目の前に「青連寺ダム」が聳えていた。


             
逆光で、写真が暗い →


 そのあと、165号線を西へ走って、奈良へ向かった。




← 帰り、名阪国道「高峰PA」からの
 郡山盆地の夜景





 帰宅したのは11時、日付が変わる頃から、完結へ向かって読み始めた。


 『 新労組からも、国見や恩地の目指す社内改革に賛同するものが現れた。そして、1機を整備士のひとつのチームが担当する「機付き整備士制度」がスタートした。
 しかし、各組合の昇格格差の是正は、新労組が頑として受け付けず進まない。「私が責任を持って解決しますので、3ヶ月お待ちください」と胸を張った社長の海野は、「まとまりませんでした。白紙撤回でお願いします」とまるで他人事である。』


 国民航空の極秘の監査報告書が野党議員にリークされ、経営の闇の部分に国会の質疑が向けられた。@国民航空の経理には、10年にもわたるドルの先物予約がなされていること、A傘下の国航開発が世界各地で法外に高価なホテルの買収を進めていること、などについて、野党議員の追及を受けたのである。
 @の10年にもわたるドルの先物予約は、インドネシア借款と絡めた竹丸副総裁の仕掛けで、毎年竹丸のフトコロへ巨額の資金が転がり込む仕組みとなっていたが、野党議員などに解明できる単純なものではなかった。ただ、地検特捜部は事件性をかぎつけて捜査を進めたが、インドネシアから定期的に金銭証書を運ぶ男が逮捕されただけで、竹丸の身辺にはさざなみも立つことはなかった。
 Aの国航開発の杜撰な資金の濫用は、新労組OBたちの既得権の行使の結果であって、ことが明るみになったからには、責任者の新労組OBは解雇されるしかない運命であった。
 この件を機として、利根川総理は、金銭に潔白な国見会長は国航再建後も自分に還流する金の流れを造れるような処世はないとして、国見の更迭を決意する。


 1ヶ月ほどしたある日の新聞に、突如、『国見国民航空会長、更迭へ。収まらない、社内労組の内紛』の見出しが躍った。


 「改革の足を引っ張った」と辞意を表す恩地を「第一組合員の心を汲んで残れ」と説いた国見は、「会長のご意志を引き継ぐという意味で、もとの事故係りに戻してください」という恩地の意向を聞いて遺族担当室に戻す内示を発した。
 会長退任の日、会長室の整理をする恩地の机の電話が鳴った。呼ばれて役員室の行天の元へ行くと、「会社の都合で内定を取り消し、ナイロビ支店長を命じる」と告げられる。「君が日本に居ると、騒動の種になる」と。


 大蔵・運輸大臣とのゴルフに国航首脳として出かけようとしている朝、行天の家の電話が鳴った。「東京地検特捜部です。自殺した、貴社の細井課長の告発書が当方に郵送されて来ていまして、内容につきお伺いしたいことがあります。お宅から10数メートル東の辻に、車を待たせています」。


 恩地 元は人間社会の権謀術策の果てに、再びアフリカの地に降り立った。何一つさえぎるもののないサバンナの地平線へ、黄金の矢を放つアフリカの大きな夕陽は、荘厳な光に満ちている。それは不毛の日々に在った人間の心を慈しみ、明日を約束する、「
沈まぬ太陽」であった。
                                           


◇ 読後感


 この物語は、「日本航空」で実際にあった事柄を取材して、山崎豊子が小説に再構築したものである。
 主人公「恩地 元」のモデルは、
小倉寛太郎(おぐらひろたろう、通称かんたろう)で、元日本航空労働組合委員長。東京大学法学部卒後、日航入社。1960年代前半、社員の待遇改善と「空の安全」の確立を求めて経営陣と厳しく対決し、日航初のストライキを指導。その後の人事異動で、社内規定を大幅に越える約10年間の海外僻地(カラチとテヘラン、および同社の乗り入れが行われていないナイロビ)での勤務を強いられる。
 1970年代前半の日航機の連続事故が国会で取り上げられる中、いびつな労務対策を是正する一環として、国内勤務とされる。実際の小倉は遺族係を担当していない。
 1985年の日航123便墜落事故後、会長室部長に抜擢。伊藤淳二会長(カネボウ会長兼務)率いる新体制の下、社内改革に力を注ぐが、社内の抵抗やさまざまな政治的圧力で中断を余儀なくされ、伊藤会長の退任後、再びアフリカへ転勤させられる。
 定年退職後は、僻地勤務が縁でアフリカ研究家、動物写真家、随筆家として活躍。東アフリカの自然と人を愛する同好の士を集めて「サバンナクラブ」を発足させ、事務局長を務めた。2002年10月、肺ガンで死去。


 国策会社として発足した「日本航空」は、政府の資本と人事が入っていて、民間会社にはない諸般の事情が渦巻いていた。この作品は、任期の2年間、労働組合を指揮した男がアカ≠フレッテルを貼られて、過酷な海外勤務を強いられる姿を通し、そこに群がる政治家や利権屋たちが、半官半民の管理が甘い会社の汁を吸い、蝕んでいく様子が克明に描かれている。
 恩地の不当人事に対しては、組織の持つ醜さと非情さが思い知らされる。組織の中で生き残り出世するためには、清濁併せ呑むと言えばかっこよすぎる処世が求められるのだ。
 それにしても、日本航空を食い物にした政治家たちの姿はおぞましい。田中派の牙城であった運輸利権は、このとき金丸副総理に集約されていて、日航の10年先ものドル買いは、インドネシアへのODAとリンクしていて、年間数億円の金を彼の元へ還流していたと書かれている。日航改革に主導権を発揮して、新しい利権を手にしようと目論む中曽根総理の思惑は外れ、福田元総理の田中派利権への攻撃材料として、日航の監査報告書(部外秘)が野党に流れる。
 山崎豊子はこの書で、白い巨塔・華麗なる一族・不毛地帯から続く、日本の巨悪を描こうとしたのであろう。週刊新潮に連載された当時から、賛否両論の絶えない作品であったが、日本の暗部を描くのに今ひとつ躊躇したようなところがあって、核心を暗示しながら描ききれていないもどかしさを感じた。モデル小説の限界だろうか。


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本のムシ 7

 つらつらと読んだ本の読書感想文です。なかなか前札の感想を書いている時間がないのですが、できるだけアップしていくつもりです。