【135】
 南京で本当は何が… (阿羅健一、徳間書店)       2008.05.01


 昭和12年、南京を占領した日本軍は、それから1ヶ月の間に30万人の市民を虐殺し、2万人の婦女子を強姦したとされている(東京裁判判決)。私たちの父や祖父たちの軍隊は、歴史に汚点を残し、世界の人々に顔向けの出来ない非道残虐な行為を、本当に行なってきたのか…? 
 それをきちんと検証し、糺すべきは正す責任が私たちにはあるのだと思い、「南京大虐殺」に関する本を紐解いた。


@ 東京裁判での南京事件


 昭和21年7月、東京裁判の証言台に立った医師ウイルソンは、南京が陥落した昭和12年12月に南京鼓楼病院に勤務していた。日本軍が南京に入ってくると、それまで50人であった入院患者はたちまち増えて定員の180人を越えた。日本軍に撃たれ焼かれ暴行された男性、目の前で両親が殺されて暴行された女性、強姦されて性病を移された少女…など。このウイルソン医師の証言から、南京大虐殺が始まったのである。
 2番目の証言者は金陵大学のベイツ教授。南京城内だけでも1万2千人の男女子どもが殺され、揚子江では3万人の兵士が射殺され、強姦事件は8千件、物品は強奪され、建物は焼き払われたと証言する。
 3人目のマギー牧師は2日間に渡って、日本軍の30〜40人ほどの兵隊が一団となって殺害を行っていた。強姦はいたるところで行われ、金品や食料など手当たり次第に強奪していた…などを多くの例を挙げて証言した。
 しかし、弁護人から「それらの行為のうち実際にご自分でご覧になったものは?」と問われて、ウイルソン医師は「強姦されようとしていた2人の女性を助けた」ということだけであったし、ベイツ教授は「日本の外交官に49件の殺人事件を報告している」と述べただけで1万2千人とは程遠く、マギー牧師は「殺人行為は1つ、強姦は一人の男のもの、強盗は冷蔵庫がひとつ」と答えている。
 
3人の証言は自ら見たものではなく、南京で伝えられていた風聞を話にしたものであった。


 東京裁判で証人たちの証言に出てくる数字は、南京陥落後にイギリスの記者ティンバレーが「ノース・チャイナ・ディリー・ニュース」(アジアで最も多くの部数を誇るイギリス系の新聞)に、『南京で1万2千人の市民虐殺と8千から2万の強姦があった』と書き、中国の宣伝広報を担当した第三庁(郭沫若庁長)は「日本軍暴行録」を刊行し、広く世界へ頒布した数字であった。
 そして、「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に反日感情を醸成しようとしていたアメリカを初めとする西欧社会に、日本軍の残虐さは宣伝され、浸透していったのである。


A 南京攻防戦

   12月12日 総攻撃、13日 陥落、 14〜16日 掃討、 17日 入城式


 12日から始まった日本軍の総攻撃によって、午後8時、唐生智南京軍司令官は激しい攻防戦が繰り返されているなか、一握りの幕僚とともに邑江門を抜けて揚子江を渡り、早々と逃走してしまう。兵士たちに「降伏せよ」との命令を残せば中国兵の死者は微少に終わることができたかもしれないが、「日本軍の包囲を突破して撤退せよ」と言い残したため、南京城から逃れようとした兵士たちは城門に殺到して圧死したり、逃げる兵を銃撃する中国軍督戦隊に銃殺されたり、日本軍との激しい交戦で、南京城のいくつかの城門付近にはおびただしい数の中国軍兵士の死体が重なっていたことは事実である。
 また、日本軍は13日に南京を陥落させたあと、14日から軍服を脱ぎ捨てて一般市民になりすまし民家に隠れている中国将兵(便衣兵)の掃討を行っている。この掃討戦で殲滅した中国軍将兵は数千人に達したというが、捕捉したもののうち抵抗したものや反抗の怖れのあるもの、食事を与えたり管理することができないと判断したものたちを銃殺している。
(信夫淳平早稲田大学教授はその著書「戦時国際法提要」のなかで、『ハレックは、俘虜は人道を以って扱うを当然とするが、捕獲者において俘虜の収容または給養ができず、さりとて宣誓の上解放すれば…刃向かうこと歴然たる場合は、これを殺すも交戦法則上妨げずと説く』と述べている。捕虜銃殺を『やむを得ざる措置』と判断するかどうかは議論の分かれるところである。)


A 23年間、新聞にもテレビにも登場しなかった南京事件


 そもそも東京裁判が閉廷してから戦後23年間、南京事件は日本でも中国でも話題にも上らなかった。その南京事件が日本の新聞紙上に取り上げられたのは、昭和46年11月の朝日新聞、本多勝一による連載「中国の旅」の中で、旅先に出会った中国人の話(伝聞記事)としてであった。(本多はこの時期、日本共産党系の通信制市民大学である勤労者通信大学に変名で在籍し、社会科学を学んでいる)
 この記事に対して、当事者や当時の現地を知る人、記者たちから、抗議の声が上がっている。日中折衝の窓口となっていた大西一という日本軍参謀は、朝日新聞を訪れて本多記者に「南京大虐殺などといった事実はなかった」と申し入れているが、この抗議に対して朝日は「なかった証拠を示せ」と一蹴した。
 新聞記事は事実に基づいて記事を書くのが使命であって、そんな事実はなかったといわれれば、証拠を提示する責任があろう。それを「なかったという証拠」を求めるなど本末転倒した話で、ないという証拠が示されるまでは、あったという証拠はなくても書き放題という態度である。


 朝日新聞が、昭和59年3月30日、『南京大虐殺証拠写真と日記が宮崎で見つかる』と報じた。虐殺の覚えも記憶もない宮崎連隊会(都城連隊)は驚いて、真相を朝日新聞宮崎支局に問い合わせている。証拠物件を処分されないようにとの宮崎連隊会の訴え「日記の保全」を小倉裁判所が認め、週刊誌なども誤報と書くなか、朝日は写真は南京と関係ないと認めるものの、最初の記事は全国版スクープ扱いだったのに対して、訂正は宮崎版の1段ものであった。




● 近年、中国では目覚しい経済成長の裏で、貧富や地域の格差が広がり、政治腐敗・環境汚染などの主快適な問題が深刻化している結果、政府に対する不満が各地で暴動やデマといった形で噴出している。政権への希求力を醸成する愛国教育は、一党独裁政権にとっての必然でもあるのだろうが、愛国が必ずしも愛党と一致しない矛盾を、「日本軍から受けた残虐行為」を見せて国民の団結を図ろうとする発想は、これからも変わることはないのだろう。このやっかいな隣人との付き合いは、今までどおりの謝罪一辺倒で間違いはないのだろうか。





【134】「大東亜戦争への道」その1 (中村 粲(あきら)、展転社)  2008.02.24
     − 序章「歴史問題」、第1章「近代日韓関係の始まり」−


 筆者中村 粲氏は、巻頭の緒言に、『大東亜戦争とは何だったのか…。戦後の自虐史観の中で、未だ東京裁判判決を盲信し、あの戦争の原因・責任ともに日本に有りとして、日本の過失のみを喧伝する風潮は、依然としてあとを絶たない。この世情を憂え、日本国民の間に正しい歴史観を育成し、以って日本に対する愛と正しい認識の出発点となりうるならば、筆者の欣幸これに選るものはない。(要約)』と書いている。
 「大東亜戦争は、東京裁判の判決にあるような、侵略戦争であったのか。私たちの父祖は、戦争犯罪人であったのか。」 大東亜戦争を検証したいと考えている私は、この書を紐解き、読後報告を綴っていくことで、その手がかりの一つとしていきたいと思っている。序章・終章を含めて22章から成るこの書を、各章ごとに報告し、日本が大東亜戦争に至った道程を辿っていくことにしよう。


序章「歴史問題」
 中韓両国が外交問題として日本を糾弾するときにはいつも、東京裁判史観が根底となっていて、「日本=加害者」「中韓=被害者」という構図であり、歴史認識に齟齬をきたした場合、わが国政府はいつも「中韓をはじめアジアの人々に対しては侵略的事実を否定することは出来ない」と表明し、理解を求めてきた。
 歴史とは民族の履歴書である。他国の理解や承認を得て自国の歴史を書く国はただのひとつもない。日本の教科書に、中韓が口を挟むのはルール違反の越権行為(=内政干渉)なのである。中国の教科書に「阿片戦争」は十数ページを費やして記述しているが、英国の教科書には1行も触れられていないものも多い。それについて、中国が英国に抗議したという話を聞いたことはないし、また抗議しても英国が耳を貸すはずもない。
 大東亜戦争の「戦争責任」という言葉も、あの戦争が不当な侵略戦争であったとする立場から発せられる言葉であり、自衛戦争であったとの結論になれば、責任を論ずること自体たちまち意味を失う。
 戦争の原因はいずこに…、責任はいずれに…。では「侵略戦争史観」への疑義を前提とする近代史検証のひとつとして、試論を綴ろう。


第1章「近代日韓関係の始まり」
 日本が大東亜戦争へと歩んだ道程を振り返るには、迂遠なようだが、わが国が明治維新ののち国際社会へと漕ぎ出だした当時の、清韓両国との関係から考え始めなければならない。
 明治4年、対等な関係の「日清修交条規」を結んだ両国が、この23年後に日清戦争を争わなければならなかったのはなぜか。その原因は「朝鮮問題」にあった。
 朝鮮は14世紀、李氏朝鮮の太祖李成桂が尊明主義を掲げて以来、500年近くにわたって中国の属国であったが、大院君の鎖国排他主義により日本の修好を拒絶した。明治9年、飲料水を求めようとした日本国軍艦雲揚号が飲み水を求めようと江華島へ近づいたとき砲撃を受けたため、同艦の井上艦長は反撃を加え、砲台を占拠した【江華島事件】。結果、第1条に朝鮮の独立自主を明記し、第4・5条に釜山ほか2箇所の開港などを定めた江華島条約が締結され、日韓修好はようやく成ったのである。
 その後、朝鮮では守旧派大院君と開化派閔妃一族との争いが続き、大院君派の兵士が王宮に乱入して重臣たちを殺害、日本公使館も襲撃されて、多数の日本人が虐殺された。清は五千の兵を送って鎮圧し、大院君を清国へ抑留した【壬午の変】。朝鮮は日本に50万円の賠償金を支払い、公使館警備の日本兵を京城に置くことなどを約した【サイモッポ条約】が、日本は明治15・16年に各5万円ずつを受け取っただけで、40万円の免除と汽艇1隻と山砲2門を贈与した。
 壬午の変のあと、清は3000の軍隊を朝鮮に留め、閔妃一族の政府を指導、閔氏もまた清に依存する【事大主義】政策を採った。
 

 
【本日はここまで。つづきは、近日に…】





【133】
逆説の日本史13「江戸文化と鎖国の謎」(井沢元彦、小学館) 2008.02.18


 「カラマーゾフ…」はちょっと休憩をして、井沢元彦の逆説の日本史シリーズの13巻「江戸文化…」を読んだ。19世紀のキリスト教社会とドストエフスキーの思想世界の迷路に少し疲れたので、気分転換といったところである。


 この第13巻は、江戸幕府を開いた徳川家康が政権安定のために行った諸政策を解説し、キリスト教の禁教、鎖国体制の完成から、五代将軍綱吉にいたる徳川幕府の治世下にあって、江戸文化がどのように変わってきたかを綴っている。


 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が好んだ茶道は、禅を究めた千利休によって数奇屋の中の完全平等が完成された(豪華好みの秀吉との対立の原因となった)が、利休の死によって、江戸期には町人・武家・公家の茶道が始まった。
 能は四家一流(観世・宝生・金春・金剛・喜多)が大名の庇護によって存在を確かなものにしていき、謡(うたい)は庶民にも広く膾炙して、日本語の公平な普及に大いに貢献した。
 出雲阿国を始祖とする女歌舞伎は風紀の乱れを招いて禁止されたが、江戸の町人文化は若衆歌舞伎・野郎歌舞伎と創意工夫を加え、姿を変えて生き残ってきた。それにともなって、浄瑠璃・清元・長唄や三味線・鼓などの鳴り物、また戯曲などの文学が人々の間に広がった。


 幕藩体制を支えるイデオロギーである「儒教」は、『孝』を理想とする中国から、『和』を尊ぶ日本へ来て、全く別のものになった。
 『孝』のためならば社会も国法も犯せという儒教は(孟子は「父が国法を犯し死罪になるとき、子はどうすれば良いでしょう」と聞かれたとき、「何もかも捨てて、父を背負って逃げよ」と答えている)、他の宗教と違って救済を考えていない。一度「悪人」の烙印を押されたものは、永遠に、死んでのちも悪人であって、復権のチャンスはない。中国史では、墓を暴いて遺体を鞭で打ったという話も珍しくはない。
 儒教は「悪人」の「埋葬」も「慰霊」も許さない。宗主国に忠実であろうと、中国以上に儒教国となった韓国にも、この傾向は著しい。
 『和』を基本原理とする日本では、儒教(朱子学)は幕府や各藩で教えられるが、「孝」よりも「公」・「忠」に重きが置かれ、あるべきようの「和」を乱せば、それが「悪」だとされた。だから、仇敵でも罪人でも、首を打ってさらすなどの儀式が済めば、遺体を丁寧に葬ることを許すし、それを辱めたりはしない。それが日本教で咀嚼された儒教なのである。
 ここから「靖国問題」を考えてみると、「慰霊」は、それぞれの国の(宗教的)伝統に基づくものである。言論の自由を認めず、人権を抑圧し、批判勢力の存在を許さない、一党独裁の中国政府が、「靖国参拝は中国人民の心を傷つける」と言うのは、自分が絶対に正しいという中華思想に、異論は抹殺するという共産思想がプラスされ、批判勢力がないという独善性に凝り固まった中国の申しようである。イスラム教国から「神の命令だ、豚肉を食べるな」と申し入れがあったら、世界一の豚肉消費国の中国は、当然、「内政干渉だ。わが国には独自の食習慣と伝統がある」と言うだろう。「靖国問題」は日本民族の独自の伝統と宗教的慣習に基づく行為であって、それが中国人にとっていかに不愉快であったとしても、その感情を他国に強制する権利はない。
 

 天下の悪法と言われる「生類憐みの令」を発布した五代将軍綱吉だが、彼の以前と以後を歴史的に見てみると、それまでは戦国の気風が荒々しく残っていた日本(大名改易・取り潰し、島原の乱、由比正雪の乱、旗本奴・町奴の争い)に、以後は殺生を避けようとする人々の考え方が定着している。末期養子、殉死の禁…などは四代家綱の頃に発令されているが、綱吉の治世30年間を挟んだ60〜70年ほどの間に、辻斬り・無礼討ち・手討ち・試し切りなどが、すっかり姿を消した。
 五代将軍綱吉の「生類憐みの令」は、戦国以来続いた武断政治から、平和な世の中に文化が爛熟する文治政治への転換をなした境い目である。





【132】 「カラマーゾフの兄弟」 第3巻   
       (ドフトエフスキー、亀山郁夫訳、光文社文庫)        2008.02.11


 第3巻は「起承転結」の転…。物語は一転して大事件勃発…、すなわちカラマーゾフ家の父親フョードルが殺害される。さて、その犯人は…? 物語は、いよいよクライマックスへと向かう。


 『グルーシェニカへの愛を全うし、新しい生活を築くために、ミーチャ(カラマーゾフ家の長男)はまとまった金が必要であった。グルーシェニカへ邪まな恋心を抱く父親フョードルの家を見張っていたミーチャは、出会いがしらに下男のグリゴーリーに大怪我を負わせてしまうが、グルーシェニカがここには居ないことを知り、塀を越えて彼女のもとへと急いだ。
 モークロエの村でグルーシェニカと会ったミーシャの手には、なぜか大金が握られていた。ミーシャへの愛に目覚めたグルーシェニカは、「私を連れて行って、どこか遠くに。… 私はもうあなたの恋人なんかにならない、あなたに忠実な女になるの、あんたの奴隷になるの。」(と、ドストエフスキーは泣かせるセリフを吐かせる。)
 そこへ、警察署長、検事、予審判事がやってくる。「あなたの父君フョールドさんが殺害された姿で発見されました。お家の下男のグリゴーリーがあなたの姿を見ていますし、一昨日には無一文で金策に走っていたあなたは、今日、大金を手にしてここに現れています」。
 ミーシャはそのまま拘束され、拘置所へ護送されていく。その背中にグルーシェニカが叫ぶ、「私はあんたのものって言ったわね。これからもあんたのものよ、一生あんたについていくわ、どこに送られることになっても」。(と、また泣かす。… ちょっと男の側から見た名セリフばかりを取り上げすぎかな… 苦笑。) 』


 活字だけを追うだけにしておけばいいのに、中身の一つ一つに首を突っ込んでしまう、僕の性癖は如何ともしがたい(苦笑)。
 例えば、「信仰とは何ぞや」と問う「大審問官の章」では、『獣にまたがり、両手に神秘を握り締めている女』とは、『黙示録』第17章以下に登場する大淫婦バビロンを指している…と書かれていると、「黙示録」・「大淫婦バビロン」を調べずにはおれない。
 結果、「ヨハネの黙示録」の中に、「大淫婦バビロン」…堕落しきった女性として暗喩されているものの正体は、キリスト教を迫害したローマ帝国であり、彼女が乗る7つの首の獣はローマ帝国の7人の皇帝を示している…ことが解った。
 40年前に読んだときには見過ごしてきたことが、今は素通りできないのは、進歩なのだろうか、人生が深まったのか。それとも、何にでもこだわる頑固さが、歳とともに嵩じたのか(苦笑)。


 夕方、ひろちゃんから、「 『ドストエフスキーを亀山郁夫が読み解く』という放送があったよ。番組名は、「知るを楽しむ この人この世界 -亀山郁夫 悲劇のロシア-私が見たのはNHK教育3で、昨日の日曜日の朝10時から10時25分まででしたが、調べたら本放送はNHK教育2で月曜…、だから今日の夜10:25〜10:50分まで。今夜は2回目の「白痴」だよ。」とのメールが届いた。
 早速ビデオに録って、先刻見た。
「白痴」は、純真な若い公爵レフ・ムイシュキンと暗い情熱を秘めた大資産家ロゴージン、そして謎の生い立ちを持つ美女ナターシャの三角関係の物語。亀山郁夫は放送の中で、「この小説は、愛を性的なものと捉えれば、入り口も出口もない物語となるが、精神的なものだとすれば、無限の広がりを持つ」のだと説いていた。ムイシュキンに魅(ひ)かれながら、自らの過去や屈折した感情のままにロゴージンに身を任せるナターシャ。それでもムイシュキンとの結婚に漕ぎ着けるのだが…。
 重いなぁ、ドストエフスキーは。40年前に「カラマーゾフの兄弟」を読んだときは、ややこしい小説だと思ったけれど、今は重くて仕方がない、人生とは何ぞや…と。


 と、いいながら、第4巻へいくわけだけれど、1〜3巻は500ページぐらいなのに、第4巻はなんと700ページもある。もう一度、気合いを入れ直そう。



 読書トップページへ

本のムシ 7

 つらつらと読んだ本の読書感想文です。なかなか全冊の感想を書いている時間がないのですが、できるだけアップしていくつもりです。