【141】
「大東亜戦争への道」その2 (中村 粲(あきら)、展転社)  2008.10.05
     

第2章 日清戦争


 朝鮮を属国とみなす清国と、朝鮮の独立を以って清露の要衝とするべき日本が、対立することは避けられなかった。農民一揆が暴徒化した「東学党の乱」を機に、明治27(4894)年6月12日、清国は朝鮮へ出兵、これを受けて日本も出兵した。
 大鳥公使は朝鮮の内政改革を進言し、そのためには清韓宋属関係の廃棄と清国軍の撤退を要求…。日本の強硬姿勢を知った清国公使袁世凱は京城を脱出して天津に引き上げている。
 日本の後押しで政権に還った大院君は、朝鮮最大の課題である内政改革を進めると同時に、清韓宗属関係の廃棄を宣言し、牙山駐屯の清軍の駆逐をわが国に要請した。ここに日清両軍の戦火が封を切ることになったのである


 明治27(4894)年7月25日、日清両国の海軍は朝鮮西岸の豊島沖で遭遇交戦し、日本艦隊は清国艦隊を撃破…(1)。7月29日、日本陸軍は成歓に清軍を破り、牙山を占拠した。
 7月31日、清国の総理衛門(外務省)は小村寿太郎駐清公使に国交断絶を宣言、翌8月1日、両国は互いに戦線を布告した。
 宣戦布告の中で、日本は「朝鮮は帝国がその始めに啓誘して列国の伍伴に就かしめたる独立の一国たり。…(その独立を援助しようとしているのに、清は属国であると称して独立を妨害している)」と述べ、清国は「朝鮮は我が大清の藩属たること二百余年、歳に職責を修めるは中外共に知るところたり」として、その主張はもとより相容れるものではなかった。
 9月15日、平壌に拠った進軍は日本国の攻撃に白旗を掲げ、攻撃を停止したその夜、我が軍の隙をついて逃走するという偽装・詐術を行って、城から逃亡してしまった。17日、黄海海戦で我が海軍は北洋艦隊を撃破した。
 10月に入り、山県第一軍は満州へ入り、大山第2軍も24日に遼東半島の花園口に上陸、11月21日には旅順を占領した。
 明治28年1月末、山東半島の威海衛に集結した清軍を攻撃して砲台を占領、海軍は2月初め、清国海軍の旗艦「定遠」を初めとする諸艦を撃沈し、2月17日、威海衛を占拠して北洋艦隊を解体した。
 大勢は決した3月、第1・2軍は兵を合わせて、いよいよ首都「北京」に迫ろうとし、ここに講和の動きは本格化したのである。


考察1「高陞号事件」 … 明治27(4894)年7月25日、日清両国の海軍は朝鮮西岸の豊島沖で遭遇交戦し、日本艦隊は清国艦隊を撃破した海戦において、清国は清兵1200名と砲14門・弾薬を積んだ「高陞号」に英国旗を掲げて航行させていた。
 清国戦艦「済遠」を追撃中であったわが国の巡洋艦「浪速」(東郷平八郎艦長)がこれを発見し、中立国たる英国船舶を利用して兵員武器を輸送するのは戦時国際法違反であるため、「高陞号事件」を捕獲し随行を命じたところ、清国兵は英国人船長を脅して随行を拒否したため、4時間の猶予を与えて乗組員に退艦を促したのち、撃沈した。
 この事件は英国世論を激高させたが、英海軍裁判所が「浪速」の行為を正当であると宣言したこと、高名な国際法学者ホランド博士がタイムズに寄稿し、戦時国際法に照らして「浪速」の行動は適正と論じたことなどにより、、英国世論は納得したのであった。
 日本陸海軍は、明治天皇のお声がかりで戦時国際法の遵守が全軍に周知せられ、また、戦場の傷病兵は敵味方の区別なく介護することとした「国際赤十字憲章」の理解が行われていたのである。明治維新以後、不平等条約の改正に奔走した明治の人々の苦心が、国際法の理解と遵守に目を開かせていたということであろう。


考察2 中国の歴史教科書 … 中国の十年制学校「中国歴史」(人民教育出版社編)には、豊島沖海戦・高陞号事件・黄海海戦について、次のように記されている。
(1) 7月25日、日本海軍は豊島付近の海上で清軍の輸送船を突然襲撃した。…へ委員を輸送していた1隻の商船は撃沈されて、乗船していた千人近い将兵は殉難した。
 
 7/25とあるから、豊島沖海戦である。7時52分、清国戦艦「済遠」が第一発目を発砲し、日本の戦艦「吉野」「秋津洲」「浪速」が応戦、数分にして済遠は敗走し、もう1隻の「広乙」も座礁炎上した。『輸送船を突然襲撃した』は事実を歪曲しているし、『1隻の商船は撃沈されて、乗船していた千人近い将兵は殉難した』は高陞号事件をここへ貼り付けて合成した捏造である。
(2) 9月17日、北洋艦隊が旅順への帰港準備に入っていたとき、遠くにアメリカ国旗を掲げた艦隊を発見した。この12隻の軍艦は接近してくると突然国旗を日本のものに換え、北洋艦隊に向けて攻撃してきた。
 
 歴史の歪曲も、ここまでくると噴飯ものである。海戦には、外国の視察武官も乗船するのが常であるが、どこの国の誰もこのような事実を見たこともなければ、記録しているものもない。学校で使われている教科書がこれなのだから、中共の歴史とは、まさに「作られたもの」である。


考察3 清国軍の暴挙


 日本は西欧に倣って国内法の整備に努めた結果、法治国家として国際的にも信用を高め、条約改正に成功した体験を持っていた。このことから、国際法の理解と遵守は日本陸海軍が取り組んだ課題であった。高陞号事件のとき英国籍の商船を砲撃するのに、「浪速」艦長の東郷平八郎は船の艦長室で万国公法を調べ、そのために4時間を費やして、高陞号に退艦の猶予を十分に与えることにもなったのである。当時すでに日本は赤十字条約(戦時における傷病兵の救護に関するジュネーブ条約)に加盟していたし、海上国際法に関するパリ条約にも加盟していた。
 国際法の遵守は、弱国か敗戦国が主張するものであるが、日本は日清戦争の圧倒的な勝者でありながら国際法を守ったのであって、このときの日本の姿をフランスの国際法学者フォーシューは「日本は敵が国際法の原則を無視したにもかかわらず、自らはこれを尊重した。日本はその採択せる文明の原則を実行するに堪える国である」と称えている。


 フォーシューが「敵が国際法の原則を無視したにもかかわらず」と書いた敵…すなわち清軍の暴挙について検証してみよう。
 (この点は、後の日中戦争における旧日本軍の残虐行為が、日本の文化に根ざすことのない行為を含めて指摘されていることの反証とするためにも重要となるので、少し行数を取って記述していくことにする)
 古来、中国の歴史は虐殺の例に事欠かない。清の始皇帝の時代から人間の四肢を4頭の牛にからげて一斉に引かせ八つ裂きにする刑を定め、前漢では項羽の60万人捕虜生き埋め、中国共産党建国時には600万とも1000万とも言われる同胞殺害があり、チベット・新疆ウイグル侵攻の際にも数万人単位の殺戮を行っている。中国には、日本にはない、残虐かつ大量殺害の歴史が繰り返されてきている。
 日清戦争下でも、清軍の軍紀は乱れに乱れていた。退脚していった跡は町を焼き尽くし(中国古来の戦法、敵に何も残すなという「焦土作戦」)、朝鮮人に対して略奪・暴行・強姦・虐殺をほしいままにして、清軍司令官の李鴻章をして『怒髪、天を指す』と打電するほどであった。
 その李鴻章にしてさえも「日本軍の首を取ったものは銀30枚」の懸賞金をつけていたため、「兵は賞金目当てに血戦し、捕虜を殺して死者の首を切り取る」という、近代文明以前の土民同士の血闘といった残忍さを呈していた。
 明治21年11月18日、旅順から北方の斥候に出た将兵11名が中国軍の手に落ち、発見されたときには、「敵は我が将兵を捕らえて殺戮し、遺体に言うべからざる恥辱を加えたり。死者の首を切り、手足を切り落とし、男根を切り取り、胸部を裂きて石を入る。 …驚愕…無残…」(秋山騎兵大隊稲垣副官報告)といった状態であった。
 後日、威衛海砲台を占拠して、敵が逃げ去った跡を調べてみると、日本人の首が7つあって、両耳を穴を空けて通したり、口から喉にひもを通して、持ち運びしやすくしてあった。歩兵第6師団所属の行方不明になっていた7名の将兵であった。
 中国軍隊のあまりに残忍な殺害方法を知って、明治29年9月、京城へ入った山県有朋第1軍司令官は麾下の兵士に、「(敵は)軍人といえども降る者は殺すなかれ、されどその詐術にかかること勿れ。かつ、敵は古より極めて残忍の性を有せり。誤って生け捕りに遭わば、必ず残虐にして死に勝る苦痛を受け、ついには野蛮なる仕打ちにて殺害さるるは必至なり。ゆえに、敵に生け捕りとされることなく、むしろ潔く一死を遂げて、以って日本男児の名誉を全うすべし」と布告している。
 中国軍の残忍さが、軍紀森厳な日本軍に、いかに深刻な衝撃を与えたかが分るであろう。中国戦線では捕虜となったら虐殺されることを覚悟せねばならず、大東亜戦争終結まで、中国で戦う将兵はこの精神に殉ずることとなる。「生きて虜囚の辱めを受けず」の悲壮な覚悟のかすかな原点が、健軍以来最初の対外戦争で我が軍が経験した衝撃的な酸鼻残虐行為に遭ったというのは、うがちすぎた見方だろうか。


 対して、日本軍はどうであったろうか。日本軍に従軍したフランス人の2名の記者は、「大日本帝国軍隊は、世界に対して誇るに足る名誉を有する」と書き、日本軍の山東半島上陸は「毫末の乱れもなく行われ」たと記し、上陸したあと町の某家に「産婦あり。入るべからず」の掲示を発見したと報告している。
 「日本兵は、清国側の捕虜となった味方の兵が、四肢を刻まれ、生きながら火あぶりにされたり、磔(はりつけ)にされた遺体を見て激高したが、軍紀を維持し、捕虜となった清国将兵355人は日本側の厚遇を受け東京に護送している」と、当時の日本外務省は記録している。





【読書140】
 
春 の 雪   (三島由紀夫、講談社)      2009.06.28


 幼馴染の松枝侯爵家の一人息子「清顕」と綾倉伯爵家の一人娘「聡子」は、お互いに惹かれあいながらも上手く愛情を表現出来ずにいた。そんな中、聡子は宮家の王子・洞院宮治典王に求婚される。それは断ることなど許されないものであった。
 後に清顕は漸く聡子への愛に気づくが、それは皮肉にもこの結婚に勅許が下りた後であった。しかし、清顕は諦めきれず、聡子も彼の愛を受け入れて、二人は激しく愛し合う。が、それはつかの間の「禁断の愛」であった。そしてこの後、大事件が起きる…。


 それにしても、三島の文体には引き込まれる。次は、清顕が聡子を待合に呼び出し、初めての逢瀬をする場面だが、その描写をとっくりとご堪能ください。
 『 聡子は今正(まさ)しく、清頼の目の前に座っていた。うなだれて、手巾(ハンカチ)で顔をおおうている。片手を畳について、身をひねっているので、そのうなだれた襟足の白さが、山テンの小さな湖のように浮んでいる。
 屋根を打つ雨の音に直(じか)に身を包まれる心地がしながら、清顕は黙って対座している。この時がとうとう来たことが、彼にはほとんど信じられなかった。
 聡子が一言も言葉を発することができないこんな状況へ、彼女を追いつめたのは清顕だったのだ。年上らしい訓戒めいた言葉を洩らすゆとりもなく、ただ無言で泣いているほかはない今の聡子ほど、彼にとって望ましい姿の聡子はなかった。
 しかもそれは襲(かさね)の色目に云う白藤の着物を着た豪奢な狩の獲物であるばかりではなく、禁忌としての、絶対の不可能としての、絶対の拒否としての、無双の美しさを湛えていた。聡子は正にこうあらねばならなかった! そしてこのような形を、たえず裏切りつづけて彼をおびやかして来たのは、聡子自身だったのだ。見るがいい。彼女はなろうと思えばこれほど神聖な、美しい禁忌になれるというのに、自ら好んで、いつも相手をいたわりながら軽んずる、いつわりの姉の役を演じつづけていたのだ。
 …略…
 彼はまぎれもなく恋していた。だから膝を進めて聡子の肩へ手をかけた。その肩は頑なに拒んだ。この拒絶の手ビたえを、彼はどんなに愛したろう。大がかりな、式典風な、われわれの住んでいる世界と大きさを等しくするようなその壮大な拒絶。このやさしい肉慾にみちた肩にのしかかる、勅許の重みをかけて抗ってくる拒絶。これこそ彼の手に熱を与え、彼の心を焼き滅ぼすあらたかな拒絶だった。聡子の庇髪の正しい櫛目のなかには、香気にみちた漆黒の照りが、髪の根にまで届いていて、彼はちらとそれをのぞいたとき、月夜の森へ迷い込むような心地がした。
 清顕は手巾から捜れている濡れた頼に顔を近づけた。無言で拒む頬は左右に揺れたが、その揺れ方はあまりに無心で、拒みは彼女の心よりもずっと遠いところから来るのが知れた。
 清顛は手巾を押しのけて接吻しようとしたが、かつて雪の朝、あのように求めていた唇は、今は一途に拒み、拒んだ末に、首をそむけて、小鳥が眠る姿のように、自分の着物の襟(えり)にしっかりと唇を押しつけて動かなくなった。
 雨の音がきびしくなった。清顕は女の体を抱きながら、その堅固を目で測った。夏薊(なつあざみ)の縫取のある半襟の、きちんとした襟の合せ目は、肌のわずかな逆山形をのこして、神殿の扉のように正しく閉ざされ、胸高に〆めた冷たく固い丸帯の中央に、金の帯留を釘隠しの鋲のように光らせていた。しかし彼女の八つ口や袖口からは、肉の熱い微風がさまよい出ているのが感じられた。その微風は清顕の頼にかかった。… 』


 1970年11月25日、これが三島由紀夫の命日である。三島は「豊饒の海」を書き上げた直後に死を選んだ。ということは、自らの輪廻転生を信じていた…、少なくとも信じたいと思っていたのだろう。凡人には理解しがたい死に方だが、三島由紀夫を人々の脳裏に焼き付けるためには有効な手段だった。
 今、僕は、豊饒の海全4巻を読み終えた後(2009.11.09)にこの項を記しているが、この第1巻である「春の海」の冒頭に出てくる月修寺門跡の法話、「男が、暗がりで飲んだ水は甘美であったが、朝にそれが髑髏に溜まった水であったことを知ったときには吐き気を催した。彼がそこで悟ったことは、心が生じれば即ち種々の法を生じ、心を滅すれば即ち髑髏不二なり」。すなわち、悟りを得れば髑髏の水もまた甘美であるというのだが、全4篇を通して、三島由紀夫はこの問いを読者に投げかけ続けるのである。



【読書139】
  憑き神(つきがみ) 
(浅田次郎、新潮文庫)  2009.02.06


 昨年の8月に読んでそのままにしていたので、内容を忘れてしまった。ずいぶん昔に読んだ小説でも、何かの印象に残った作品は、立原正秋の「名残りの雪」の里子にしても、遠藤周作「沈黙」のロドリゴにしても、主人公の名前ぐらいは覚えているが、この「憑き神」は『貧乏神が取りついて…』の顛末ぐらいの他、何んにも覚えていない。「何、書いてンだ、浅田次郎」というカンジだ!
 大東亜戦争に至る昭和史を紐解いていくうちに、中国清朝末期の王朝の日々を描いた浅田の「中原の虹」があることを知った。「ポッポや」…などの作品で知られるこの作家の作品を一度読んでみたいと思っていた矢先であったから、書店で手に取ったのだが、上・中・下の3部作という厚さだったので、今はちょっと取り掛かる時間はないかと思い、その横に並んでいた「憑き神」を買ってみたのだ。
 物語は、幕末の御徒士衆次男坊の別所彦四郎は養子に行った先を離縁され、今は実家で兄夫婦の居候である。ある日、近所を流れる小川の堤防下にある敗れ朽ちた祠に、通りがかりに手を合わせたところ、その祠は貧乏神が鎮座していて、めったに願い事をする人もないので、その貧乏神が彦四郎に取り付くことになる。
 その後、別所家の窮乏や、離縁された井上家の没落など、貧乏神のなせる業が続くのだが、だから何だという展開である。時代考証は緻密でしっかりしているが、奇想天外な物語の展開に必然性がない。だから面白いのだといわれればそうかもしれないが、だから筋書きを覚えていないのである。
 エンディングも、三つ葉葵の旗印を持って官軍に突撃する彦四郎に、ドンキホーテの姿を重ねたものか。解説氏は、「徳川将軍の影武者は、貧乏御徒士が務める」といわれて、御徒士衆の家には貧乏所帯にも葵の装束があったというのが構想の原点だと書いているが、物語がマンガチック過ぎて、頭の中を通り過ぎて終わり。
 「中原の虹」上・中・下巻、買わずに済みそうである。




【138】 
「カラマーゾフの兄弟」 第5巻 エピローグ   
       (ドフトエフスキー、亀山郁夫訳、光文社文庫)        2008.01.20


 
有罪となったミーシャはどうなったか…。当時のロシアで、親殺しは20年以上の重労働であり、シベリア送りか、鉱山・山林など現場へ収容されることになる。けれども、ミーシャについては、どうなったかをドフトエフスキーは書いていない。
 ただ、カテリーナに「脱走するしかないんです! (イワンさんと私は)手はずを整えていたんです。イワンさんはもう、監獄長のところへ(話をつけに)行ってきたんです。…」と語らせて、物語は終わっている。
 ロシア王国の政府機構は、ちょっと鼻薬を利かせればどうにでもなる体制だったのだろう。シベリア重労働などは労働者・農民階級が受ける刑罰であって、カラマーゾフのような、落ちぶれたとはいえ貴族階級のものたちにとっては、いかようにでも抜け道が用意されていたということなのだ。


 この小説には現代の私たちの「生」にかかわる根源的なテーマが網羅されていると言われている。20世紀最大の哲学者といわれ、『論理哲学論考』で知られるウィトゲンシュタイン(オーストリア・1889-1951)は50回以上この小説を読み直し、全文をそらんじるほど読み込んだといわれるが、読めば読むほどに新しい発見があるし、1度や2度の通読では見逃しているものがたくさんあることも事実である。
 ドフトエフスキーの意図するものが何であるのかは、今の僕などでは計り知れないが、30数年前の学生時代に呼んだときよりも、内容に入り込むことができたと思うし、表現の面白さも味わうことができたと思う。


 しかし、この「カラマーゾフの兄弟」読み解こうというのならば、ドフトエフスキーの「地下生活者の手記」「白痴」「悪霊」「未成年」といった作品群には、少なくともそれらの書について語れるぐらいに読んでおくことが必要であろう。僕は「罪と罰」に目を通したぐらいだから、まだ「カラマーゾフの兄弟」についてあれこれ言う資格はないとことだ。
 さらに、この書を紐解くには、幅広い欧州世界への理解を必要とし、もちろんギリシャ神話やダンテ、ゲーテなどの古典文学の素養も求められる。
 物語の中に描かれる光と影、神と悪魔、愛と憎しみ、希望と失望、歴史と現在、貴族と農民、サドとマゾ、生と死…などは、人間社会のありようを、随所に原始的根源的に問いかけてくる。
 例えば、第2巻の大審問官の章で、『少数の選ばれた人間が、残りの99%の人間の意志を汲み、食べていくための地上のパンを彼らに与える。しかし精神的な、天上のパン(自由のこと)に絡む全てのことは、大審問官である私が引き受ける』という言葉は、人間はパンのみにて生きる存在であるという、歴史の読み替えと言うべきか。あるいは、20世紀にロシアに誕生した、社会主義にいたる歴史そのものの予言と言うべきなのだろうか。


 「カラマーゾフの兄弟」のあと、ドフトエフスキーは続きの小説を書くつもりでいた。しかし、彼はこの小説を書き上げたその翌年、1881年に60歳で没している。
 この小説に登場する人物は、その後についてただの一行も書かれてはいない。彼らの行く末と同じく、この小説のテーマの大部分は解決されていないのである。
 それは、未完のこの物語を読んだ読者それぞれが抱いていかなくてはならない課題なのだろう。




【137】 「カラマーゾフの兄弟」 第4巻   
       (ドフトエフスキー、亀山郁夫訳、光文社文庫)        2008.01.20


 去年の夏に読んだ「カラマーゾフの兄弟 4・5巻」の読書感想文を書き込んでなかったので、
 記載するために、今日、再度つらつらと読み返してみた。



 父親殺しの容疑で捕らえられた長男ミーチャ(ドミートリー)の裁判が始まった。


 大酒飲みで女にもだらしなかった父親フョールドを憎みつつも、金に困っていて、その父と折り合いの悪かったミーチャの有罪は揺るがないものと思っていた次男イワンに、もとカラマーゾフ家の下男であったスメルジャコフが、「親父さんは、私が殺した」と打ち明け、フョールドの手元から盗み出した3000ルーブルと封筒を見せる。スメルジャコフは、フョールドが町の女に産ませた息子だという噂が流れていた。下男としてしか扱わなかったフョールドに、スメルジャコフは殺意を抱いたのだろうか。
 カラマーゾフ家の三兄弟は真(自主独立の次男イワン)、善(心清らかな三男アリョーシャ)、美(耽美的な生活の長男ミーチャ)を象徴していると言われるが、スメルジャコフはそのイワンに向かって、「私は、あなたに代わって親父さんを殺したのだ」と告白する。父親をさげずむイワンはスメルジャコフに向かって、日頃、「親父みたいな人間は生きていてはいけない。 … 僕が手を下すべきだ」といったことを繰り返し話してきたからだ。
 イワンは、金の亡者である父親からの仕送りをあてにせず、親戚の厄介になるのも嫌って、自力で大学を卒業し、ジャーナリストになって社会に出た。学費は全てアルバイトでまかなったとドフトエフスキーは書いているが、それは金にこだわらない孤高の性格を強調したかったというよりも、この物語を貫く二面性をここでも描いていて、このニヒルな無神論者の仮面に潜む欲望の正体をさらけようとしていたのである。
 その二面性を父親のフョールドはある部分気づいていて、「お前は俺の遺産を狙っている」と毒づくが、イワンの意識の下にある欲望とは、スメルジャコフによって覚醒される親殺しであった。
 愕然として家に戻ったイワンのもとに、アリョーシャが息せき切ってやってきた。「スメルジャコフが首を吊りました」。


 スメルジャコフが死んでしまったからには、「兄は無罪だ。スメルジャコフがはっきりと『私が殺した』と言ったのを、この耳で聞いた」と証言したとしても、誰もイワンの言うことを信じはしない。みんなは「兄をかばうために、死人に罪をかぶせているのだ」と思うだけだろう。
 ミーチャに今まで冷淡な態度を取り続けていたグルーシェニカは、親殺しの嫌疑をかけられて圧倒的に不利な裁判を闘っている彼を、献身的な優しさで支えようとする。「真実の愛に目覚めた」とこの恋多き女は言い、「あなたが帰ってくるまで10年でも20年でも待っている」と涙する。
 このような状況の中で真犯人なき裁判は進められ、ペテルブルグから来た天才的な弁護士フェチュコーヴィッチの大弁論が展開される。『父たるものよ、汝の子らを悲しませるな』という聖書の一節を引いて、殺されたフョールドがいかに堕落した男であったか、息子たちに対してさえも吝嗇(けち)で、女にだらしなく、下品であったかを述べる。さらに、ミーチャが殺害したという証拠は、凶器を彼が使用したということも実証されていないし、殺害の現場も目撃した人はいない…と。
 法廷には拍手が湧き起こり、その弁護を聞いた人は、誰しもがミーチャの無罪を信じて疑わなかった。
 裁判は、陪審員の協議のため1時間の休廷ののち再会された。そして、下された評決は「有罪!」。


 これが、ロシアの民衆の真意というものだろうか。ドフトエフスキーは評決の前の法廷での世間話で、『(陪審員のうちの多くを占める)百姓どもがなんと言いますかね』とささやかせ、判決後に『お百姓たちが意地を通しましたよ』と言わせている。




【136】 再現 南京戦 (東中野修道、草思社)       
2008.05.04





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本のムシ 7

 つらつらと読んだ本の読書感想文です。なかなか全冊の感想を書いている時間がないのですが、できるだけアップしていくつもりです。