【読書155】
  天 人 五 衰  (三島由紀夫 新潮文庫)  2010.02.17


 76歳、すでに妻をなくしている本多は、旅行先の清水で、灯台の監視員「安永 透」に出会い、手旗を振る彼の脇の下に、清顕、勲、ジン・ジャンと同じ、3つの黒子が並んでいるのを見る。本多は即座に、透を養子に迎えることを決意した。
 本多は透に3人の家庭教師をつけて高校へ通わせ、フランス料理の食事作法など、日常の礼儀を教えていった。
 20歳、東大生になった透は、80歳の養父を邪険に扱うようになる。本多のSOSも、透の無垢な笑顔で語られる、「このごろの親父の耄碌ぶりはひどくて、被害妄想のあらぬことを言いふらすのですよ」という釈明に、誠心誠意面倒を見てくれる養子に対して、猜疑心を持つ老人としか見られない。
 そんな日々を送る透を、本多の古い友人の慶子がクリスマスパーティを催すからと招待して、話し始めた。
 「あなたが突然に養子に望まれたのは、その左脇腹に3つ並んだ黒子のせいよ」
 慶子は、本多から聞いたままの、長い生まれ変わりの物語を話して聞かした。そして、
 「ジン・ジャンが死んだ日よりも、あなたの誕生日が前だったら、あなたは生まれ変わりでも何でもない…。でも、もうそんなことは、何の意味もないわ!」
 「何の意味もないとは?」と、透はやや気色ばんで言い返した。
 「意味は無いわよ。だってあなたは、はじめから贋物だった。20歳までに死なないでしょうよ。あなたは卑しい、小さな、どこにでも転がってる小利口な青年で、姑息な手段で養父の財産を早く手に入れようとしている、汚い欲張りよ。東大の入学試験を通り、立派な就職口も向こうからやってくる、育英資金財団向きの模範生だったのよ。本当につまらない、一人の小才子…。
 少なくとも今までの3人は、運命を持っていたわ。無理やり人を引きずりまわすもの…をね。清顕さんは恋情、勲くんは志、ジン・ジャンは溺れ…。あなたに何がある?
 あなたを引きずり回したのは、本多繁那という老人の思い違いの興味だったのよ。だからあなたの美しい死なんてものがあるはずがない。あなたがなれるのは陰気な相続人だけ。」


 12月28日、透は服毒自殺を図った。


 生きるということが老いることであるという、不如意の本質を本多は知るに至った。我が在るから不滅が生じない、死を内側から生きるということも会得したようである。
 膵臓に腫瘍が見つかった本多が、生あるうちにしておかねばならないこと…、月修寺に読経の日を送る聡子に会うことであった。
 60年の歳月を隔てて聡子(門跡)は、白衣に濃紫の被布をまとい、なお老いの美しさを結晶させて端座していた。
 「松枝清顕君がここへ参りましたとき、ご先代は会わせて下さいませんでした。清顕君は病を得まして、この寺のふもとの宿で息を引き取りました。何といいましても…」と話す本多に、門跡は
 「その松枝清明さんというお方は、どういうお人やした?」と聞いたのである。


 阿頼耶識…。思えば存在する…ということは、思わねばすなわち無なのである。




【読書154】 ユリウス・カエサル その女と金     
2010.02.03


 今、塩野七生著による「ローマ人の物語」を読んでいる。単行本は分厚いものが何巻かあって、興味は津々ながら、ちょっと重すぎる感じがして手に取るのをためらっていた。文庫本になってから、各巻はコンパクトにまとめられていて、1巻は1~2日ほどで読んでしまうことができる。現在、第8巻「ユリウス・カエサル ルビコン以前 上」まで読んだところだ。その読書感想文は改めて後日に記すとして、今日はカエサルという人物の人間的な魅力について、少し書いておきたい。
 筆者自身、古今の人物の中で最も魅力ある男と書いているが、カエサルについては文庫本で第8巻から13巻まで全6冊を充てている。39才という、当時としては異例に遅くローマ政界に登場したカエサルという男の魅力について、『彼について調べ始める古今の史家や研究家は、一様にカエサルに魅了されてしまう』とも書いている。
 その人間像を浮かび上がらせるために挙げているのが、「カエサルはなぜあれほども女にモテ、しかもその女たちの誰一人からも恨まれなかったのか」ということと、「借金を苦にする生真面目な性格のカテリーナ(「借金帳消し」を公約に掲げて執政官に立候補するも落選し、のちにクーデターを画策したとして死刑になった元老院議員)ならば、クーデターを百回は起こさなければならなかったろう天文学的な借金の額」だ。


 カエサルの女たらしは有名で、そのお相手は「元老院議員で彼のパトロンでもあったクラッススの妻テウトリア。オリエントで戦争を指揮している将軍の留守宅を守らねばならないはずの、ポンペイウス夫人のムチア。ボンベイウスの副将だから同じく出征中の、ガビニウスの妻のロリア。…などなど、元老院議員の三分の一が、カエサルに『寝取られた』という史家もいる。そして、カエサルの愛人たちの中でも最も有名なのは、後年のクレオパトラを別にすれば、セルヴイーリア」であろう。後にカエサル暗殺の首謀者になるブルータスの母セルヴイーリアは、再婚話を断わってまで、カエサルの愛人でいるほうを選んだのであった。
 これらの女たちは、いずれもローマの上流社会に属するわけだから、言ってみれば、美容院やブティックで始終顔を合わせる仲である。それなのに、嫉妬もなくつかみ合いもなく、列をつくつて自分の順番がくるのを待つかのように、おとなしく次々と愛人になった
のだから、カエサルの実力には驚嘆させられる。カエサル自身も、それを隠そうとはせず、彼女たちとの仲は半ば公然で、その父親や夫たちも当然知っている関係であった。
 さらに、モテるだけならば、当時も剣闘士だって俳優だってモテたのだから、カエサルの人間像を物語る材料としては希薄だけれど、後世の史家や研究者が敬意と羨望をもって彼を評するのは、カエサルが女たちの誰一人からも恨まれなかったという一事であろう。
 醜聞(スキャンダル)は、女が怒ったときに生まれる。では、なぜ女は怒るのか。それに対処するにはどうすればよいのか。…、
それを知るには、この「ローマ人の物語」を読まなくてはならない。ここで安易に解決方法を明かしては、筆者に叱られてしまう(笑)。



 莫大な借金は、幾らぐらいあったのか。
なぜあれほども莫大な額の借金をしたのかよりも、なぜあれほども莫大な額の借金ができたのかも、興味深いことだろう。
 カエサルが
セルヴイーリアに贈ったという大粒の真珠は、パラティーノの丘に立つ豪邸が2つは買える金額だったと噂されている。しかしカエサル自らが『内乱記』で書いている箇所を見ると、「そこで私は、大隊長や百人隊長たちから金を借り、それを兵士たち全員にボーナスとして与えた。これは、一石二鳥の効果をもたらした。指揮官たちは自分の金が無に帰さないためにもよく働いたし、総司令官の気前の良さに感激した兵士たちは仝精神を投入して敢闘したからである」とある。
 女たちへの贈物など、所詮は豪邸何軒分ぐらいかの、たいした額ではない。たいした額になった理由は、彼が街道の修復や剣闘試合の主催や選挙運動などに、私費を使ったからである。だが、それには大盤振舞いしたカエサルも、自分の資産を増やすことには使っていない。最高神祇官となって公邸が与えられるまでは、住まいは生まれた下町の手狭な家のままだったし、自分の墓にさえ関心がなかったようである。事実、彼の墓はない。
 どこから、そんな莫大な借金を引き出してきたのか…。ローマ最大の資産家クラッスス(彼の財産は国家予算の半分ほどあった)が、カエサルのパトロンであったのだ。なぜ、それほどの金を貸したのか。ある時期を過ぎたら、貸した金の額が多すぎて、クラッススはカエサルを潰すわけにはいかなくなってしまったからである。
 締めくくりを、塩野七生はこう書いている。「
後世の研究者も書いている。ユリウス・カエサルは、他人の金で革命をやってのけた…と。
 債権者に首根っ子を押さえられて、返せ返せと言われているようでは、国家大改造を最終日標にした権力への驀進などはやれるものではないのである」と

   


【読書153】 
暁 の 寺   (三島由紀夫、講談社)      2009.09.06


 
豊饒の海 第3部はタイ編である。清顕、勲と輪廻した脇下の三つの黒子は、8年を経て、勲が「ずっと南だ。ずっと暑い。…南の国の薔薇(ばら)の光の中で。…」と寝言の中でつぶやいたとおり、タイ国の満7歳の姫君「月光姫(ジン・ジャン)」に転生していた。
 初めてタイの王宮に上がって拝謁したとき、姫は彼方の御席から突然に飛び降り、本多のズボンにしがみつくと、泣き叫びながらタイ語で大声を挙げた。「早く訳したまえ」と本多に怒鳴られて、通訳の菱川が甲高い声で訳した言葉は…「本多先生!本多先生!何とお懐かしい。…前世、私は日本人だ!」。
 月光姫(ジン・ジャン)が清顕・勲の転生であることを確信しつつ、本多はタイからインドへと足を伸ばす。人にむせ返るカリガート寺院で見た首のない山羊が流す血は、本多を不思議へと導く一流れの朱布であり…、埃と病菌と不具と死期を迎える人たちの町ベナレスでは、自分の理知を圧倒的な醜さの中へ人知れず捨てていくしかないことを学んだ。そして、滅んだ仏教遺跡アジャンタ石窟寺院に注ぐ滝の音に、「又、会うぜ。滝の下で」と言った清顕の熱に浮かされた一言を思い浮かべた。この後の本多の半生に、インドの旅は色濃く影を落としていく。


 三島由紀夫は、昭和42年にインド政府の招待を受けて、約1ヶ月間インドを取材旅行し、帰途、ラオス、バンコクに立ち寄っている。この第3巻の主人公をタイ王室の美しい姫「ジン・ジャン(月光姫)」としたのも、この巻の表題「暁の寺」も、この旅行時の体験がベースとなっているのだろう。
 そして、三島は、インドの聖地ベナレスで生と死の境目にある人間の姿を見て深く心を揺り動かされ、仏教への傾斜を深める。あるいは、そこで「輪廻」という生命のつながりを意識し、この作品の構想を得たのかもしれない。


 三島は書く、「輪廻と無我との矛盾をついに解いたものこそ、無着と世親によって説かれた「唯識」であった。われわれはふつう六感(眼・耳・鼻・舌・身・意)という精神作用を以って暮らしている。唯識論はその先に未那識(みなしき)を立てる。これは個人的自我の全てを含むが、しかるに唯識はさらにその奥に阿頼耶識(あらやしき)を設想する。漢語で「蔵」と表される識で、存在世界のあらゆる種子(しゅうじ)を総括する識である。あらゆる存在は「阿頼耶識」の中にあるのである」と。
 もちろん、唯識という巨大な思想体系の全てを理解して、輪廻を描いたわけではなかろう。しかし、彼は阿頼耶識が現出する法相をある瞬間にかいま見たのではなかろうか。そのことが、彼の死生観に大きく深い陰を落としているのだろう。
 この巻の上梓から半年後に三島は自決するが、「『愛する者を殺す』というのが、所有の原則なのです」とも書く三島が命をかけた作品が、この「豊饒の海4部作」であり、中でも起承転結の転にあたる第3巻「暁の寺」であったと思われる。「この巻の完成によって、ひとつの作品世界が完全に閉じられると共に、それまでの作品外の現実は全てこの瞬間に紙くずになった」とも言っているのだから。


 物語は、成人した「月光姫(ジン・ジャン)」が日本に留学し、彼女の身の回りのことを何かと世話しながら、58才になっている本多はかすかな恋心を抱く。親しい友人たちを交えて開いた自宅で
の晩餐会のあと、月光姫(ジン・ジャン)を泊めた寝室をのぞいた本多が見たものは…。


 
20歳の春、ジン・ジャンに突然の死が訪れる。バンコックの屋敷の庭で、コブラに咬まれ亡くなったというのである。

   


【読書152】
 
秀吉の枷(かせ) 下            2009.08.22


 九州を制圧し、家康を関八州に追いやり、さらには朝鮮へと出兵する秀吉…。天下統一を果たした太閤に、言い知れぬ心の闇が広がる。


 秀吉は朝鮮出兵の督戦のため、文禄元年(1592年)4月から、九州の名護屋に滞在した。8月に生母なかの葬儀のために一時帰阪しているが、10月1日にまた九州へと出立した。
 その秀吉に、「淀の方様、ご懐妊」の知らせが入る。出産予定日は、文月(7月)下旬か葉月(8月)上旬…。『生まれてくるのが文月として…も、月数が合わぬ!』
 淀の方の相手は…? 真相の究明に乗り出そうかと思ったが、それでは豊臣の恥を天下にさらすことになる。真っ先に、家康のほくそ笑む顔が浮かんできた。
 秀吉の期待に反して、出産は早まることはなかった。予定日内の8月3日、淀の方は男の子を出産した。『自分の子ではないなどとは、口が裂けても言うまい。家康の毒がから豊臣家を守るためにも、以後、俺は仮面の男を演じるしかないのだ』…天下人秀吉の悲しい独り言であった。


 秀頼が5歳になった秋、京都に淀の方と秀頼の新居が完成した。しかし、秀吉は「労咳がうつる」と言われて、新居に同居させてもらえない。
 大苦戦が続く朝鮮の宇喜田・蜂須賀の両将から、「蔚山、順天からの一時撤退」を願う文が届くなか、めっきりと体の弱った秀吉の最後の大茶会とも言うべき「醍醐の花見」が始まった。
 参列の人々をもてなすその疲れからか、6月16日の大喀血…。8月18日、意識が混濁する秀吉が最後に叫んだのは、「お屋形さま、ごめんなされ。ごめんなされて候らえ」という絶叫であった。


 天下を手にした秀吉の悲劇は、世継ぎを生んだのが淀の方であったということか。秀吉には、多くの側室がいたが、その中には他の男との間に子をなしたものも大勢いたけれど、秀吉の側室となってからはひとりとして子ができていない。その中で、淀の方だけが、二人もの子を生んでいる。
 ひとり目の鶴松を身ごもったのは、秀吉が天皇家の弟「胡佐丸君」を養子にすることを許された直後であり、二人目の秀頼の懐妊は、明らかに秀吉が大阪に居なかったときに身ごもったのである。
 淀の方の懐妊は、亡父浅井長政と亡母お市の方の仇討ちであったのか…、はたまた織田家の天下を横取りした秀吉の血を残してはなるものかという執念であったのか…。日本を平定した秀吉の生涯は、この一点において『夢のまた夢』であった。





【読書151】
 
秀吉の枷(かせ) 中            2009.08.15


 覇王「信長」を弑することは、良識と勇気のある家臣ならば、誰もが行わなければならない人心の道だった。それを「光秀」だけがやり遂げた。それが「本能寺の変」である。…と加藤 廣は書く。


 明智光秀を討ち破って信長の仇を討った秀吉は、柴田勝家、滝川一益、織田信孝などてきたいする武将を討ち果たし、着々と天下取りへの布石を打っていく、
 そんな秀吉に、織田信雄は徳川家康に援軍を頼んで小牧長久手の戦いが始まった。秀吉軍は総勢12万人、承久の乱(1221年、幕府軍14万人)に次ぐ、日本史上第2番目の動員数であった。
 なぜ、戦上手の徳川家康ともあろうものが、織田信雄ごときの頼みを受けて、秀吉軍と対決したのか。容易に負けない自信もあったのだろうけれど、加藤 廣は『秘策』を用意していた。
 池田恒興が2万の兵を率いて、家康の居城浜松を討とうとした「中入りの策」は散々に破られ、失敗とされているが、池田隊を撒き餌とした秀吉の作戦は、小牧山の徳川勢を6千名に減少させ、秀吉の本隊の攻撃にさらされることとなった。これで、秀吉軍の勝利は決定的である。
 ところが、ここで秀吉の手元に、徳川が他の本田平八郎から不思議な包みが届けられる。中には、油漬けの松ぼっくりと、黒いすすだらけの刀。ところが秀吉にはその刀に見覚えがあった。信長の脇差であった「佐衛門三郎安吉」の銘が見て取れた。一緒に送られてきた松ぼっくりは、前野将右衛門が信長を燻り殺したときのもの…ということだ。
 「どうやら、服部半蔵一味に先を越されたようだな」。ぽつりとつぶやいた秀吉は、突然、一切の説明もなく小牧山攻撃を中止した。
 以後、秀吉は家康に対して、夫の日向守を義憤から切腹させて妹の旭姫を正妻として嫁がせ、母親までを人質として差し出して大阪城へ出向くことを懇請するといった、懐柔策をとり続けている。


 九州を平定して、秀吉の天下統一は成就した。




【読書150】
 
秀吉の枷(かせ) 上            2009.08.11


 73歳でプロ作家にデビューした加藤 廣の第2作である。処女作の「信長の棺」では、本能寺で信長の遺骸が見つからなかったのはなぜか…について、独自の見解から興味深い筋立てを行っていた。
 この2作目はそれを受けて、信長の本能寺脱出を阻んだのは、秀吉であったことを描いていく。


 中国攻めで毛利勢と対峙する一方、秀吉は多方面の使役を信長から指図されていた。そのひとつ、生野銀山の採掘は、秀吉が知行する近江の穴太衆が穴掘り・石垣積みを得意とするところから命じられた役割であったが、(これを加藤廣は、秀吉が「山の民(土木・建築・爆薬・攪乱…などを得意とする異能集団。忍者に近い)」の出身のため、穴掘りなどを得意とする一党の前野小右衛門、蜂須賀小六などを配下にしていたためと書いている、)銀山から出る収入の多くをくすねて、自分の懐に入れていた。秀吉軍の装備が揃い、諜報活動に多くの人員を養えたのは、この収入が大きかった。
 信長の命令は絶対であった。呼び出しを受ければ、安土城の大広間に平伏して、沙汰を待たなければならない。若い頃は、神とも仰ぐ信長に対しての異心などは露ほどもなく、だからこそ信長を恐いと思ったこともなかった。だが、新しい世を開くためではあるけれども、峻烈を極める信長の命に繰り返し接し、自らも生野銀山のピンはねなどの処世を学んでくると、信長との間にかすかな隙間が生じ始めたのである。
 信長に呼ばれて安土に上り、信長の言葉よりも先に「お許しくださりませ」と叫ばねばならないおのれの声を聞いて、『40面を下げて何というざまか。俺はやっぱり、信長が回す猿回しの猿よ』と涙する自分に、本気で涙するようになっていた。
 この日の信長の話は、「本能寺の枯れ井戸から150間の抜け穴を掘れ。出口は、ここ南蛮寺!」。


 京に不穏な動きがあった。秀吉の中国攻撃軍への編入を命じられた光秀は、準備と称して何日も日を重ね、愛宕山参詣などに費やしている。朝廷では異例の長い朝議が続き、太政大臣近衛前久と吉田神社の吉田兼和との間におびただしい書状が交わされている。
 明智日向守光秀と近衛前久との密会を掴んだ秀吉は、本能寺からの抜け穴の工事を担当した前野小右衛門を呼んで告げた。「本能寺の抜け穴を塞(ふさ)げ。反問は許さぬ!」。


 本能寺の変。そして、中国大返しが始まる。



【読書149】 下天は夢か 第4巻  (津本 陽、 角川文庫)     2009.08.05


 1574年(天正2年)6月、浅井・朝倉を討ち滅ぼして後顧の憂いを絶った信長は、大阪石山・越前・長島の本願寺勢を各個撃破すべく大動員令を発する。『浄土真宗は、国家鎮護・五穀豊穣など現世の繁栄を祈願する宗教でなく、来世での「頓証菩提」…すなわち成仏することを願うものである。根を絶たねば、また生える』と、9月、伊勢長島の一揆勢2万人を柵で囲んで焼き殺し、老若男女を皆殺しとした。
 信長は宗教の手強さを熟知していた。宗教組織を攻撃するものに、来世への救いを求めて命がけで抵抗する門徒の恐ろしさを身に沁みて知っていた。しかし、老若男女皆殺しという大虐殺は日本の文化にはない思考である。この事情を、津本 陽はこう書く。
 『 宣教師たちが肉食をするのは、生命というものに対する彼らの倫理観が、日本人とは根本からことなるためであった。
 動物は人間のために生きているので、殺して食料とするのは当然と、彼らは考える。人間の生命は非常に尊重するのに、動物を殺すのを、残虐とは思わない。日光に乏しく、寒気の厳しかった中世ヨーロッパでは農産物がすくなく、食物争奪の戦いが繰り返されてきた。12世紀のフランスでは、年に人口の四分の一が餓死したといわれている。農民たちが豚、羊、牛、鶏などの飼育にはげみ、その数をふやすことによって、ようやく飢餓地獄からぬけ出られたのである。
 ヨーロッパでは、家畜を野山に放牧するが、草のなくなる冬がくるまえに種になる数のみをのこし、他をすべて殺して、肉を貯蔵し食料にあてる。ふだんは、家族同様に可愛がっている家畜を殺す情景を、子どもたちは毎年冬が来るたびに眺めて育つ。苦しむ家畜たちを見ても罪悪感がない。家畜は人間に利用されるためにあるもので、日ごろ慣れ親しんだ家畜への愛情と、それを殺す行為とは、彼らにとって矛盾するところがない。
 異端や異教徒も人間ではなく、生かしておいては害を振りまく動物であり、これを抹殺するのをためらわない。キリスト教徒の異教徒迫害の足跡は1099年7月の、十字軍によるエルサレムの大虐殺(当時、イスラム教・ユダヤ教徒であったエルサレム市民のほとんどが殺戮されている)のほかにも、おびただしく残されている。
 例えば、キリスト教聖庁による異端審問の嵐は全ヨーロッパを吹き荒れ、特に苛烈を極めたスペインの宗教裁判は、1480年の開始以来1世紀半たらずで、百万人もの国民を異端として殺したという。(スペインは南米大陸に進出して、インカ帝国を滅亡させる大殺戮を行ってもいる。)
 フロイスの母国ポルトガルは、スペインとともに中世における長期にわたってのアラビア人支配を排除したのち、海外雄飛をはじめ、喜望峰、インド航路の発見ののち、世界最強の海洋国家となった。彼らは「悪魔の使徒」と呼ばれるまでに、略奪・搾取・殺人を重ね、植民地を獲得していったポルトガル人の末裔である。
 フロイスたちが信長に、デウスの正義と慈悲について、どのような内容の談議をしたのであろうか。混乱頽廃する旧秩序をなげうち、あたらしい封建制度を確立しょうとする信長に、破壊と殺戮をためらわず断行させるに足る、戦争の論理を語ったのではなかろうか』と。




 1575年(天正3年)、長篠で信長は3500挺の鉄砲を揃えて、武田の騎馬隊を待ち構える。その鉄砲について、信長は武田にそれほどの数を揃えていることは隠していた節があるし、武田方も鉄砲の威力を軽んじていたようである。その間の事情を、津本 陽はこう書いている。
 『 武田の軍議で勝頼は、「二十町に鉄砲放ち千人を置いたとて、突き崩せぬことはあるまい」と言って、鉄砲の威力を侮っている。
 当時の種子島の有効射程は200メートル、人体必中射程は100メートル、筒口から鉛弾と硝薬を入れ、カルカで装填する時間は20秒から25秒であったといわれる。
 具足をつけた武者を乗せ、起伏の多い地形の原野を走る甲斐駒の速度は、せいぜい時速30キロメートルほどである。
 分速500メートル、秒速8メートル余とすれば、100メートルを走るのが十二秒余である。200メートルの有効射程距離の外から突撃したとしても、一発撃たせれば2発めを発射するまでに、柵木の際に着き、織田の陣中へ斬りこめるわけであった。
 幕僚の跡部勝資が言った。「この温気はげしき梅雨どきなれば、雨降りをえらび取りあいいたさば、千挺が一挺たりとも火を噴きません。お味方の大勝はうたがいござりませぬ」。』と。


 この攻防の最中に、小学校5年生の頃に読んだ、長篠城の窮地を徳川家康に知らせた鳥居強居衛門の逸話が出てくる。磔台の上から篭城する味方に向かって叫ぶ、「お味方は、もうすぐご到着。今しばらくのご辛抱…」の声は、小5の僕の胸にも響いた。


 それでも長篠の戦は死闘であった。織田・徳川連合軍は三重の柵を打ち破られて乱戦となったが、武田信繁・土屋昌次・山県昌景・原昌胤・真田信綱・甘利信康・高坂昌澄ら、武田の勇将たちは次々と硝煙の中で息絶えた。織田鉄砲隊が武田の武将を狙う作戦に出て、つるべ撃ちに撃ちかけたのである。
 攻防8時間、指揮官を狙撃されて失っていくうちに、武田の陣形はついに崩れた。




 1580年(天正8年)、10年に及ぶ石山本願寺攻略も、法主顕如の和歌山鷺森別院への退出で終焉させた信長は、1581年(天文9年)安土城の脇に「驄見寺」と言う寺院を建てた。その神体は、信長自身であった。
 この頃から、もともと猜疑心が強く、容易に人を信じない信長の冷酷さは、一層その度合いを増している。過酷なまでに家来を試し、忠実に激務をこなして這い上がってきたものだけを登用していくという人使いの厳しさであった。


 光秀の謀反について、津本 陽はただ『光秀に信長襲撃をそそのかしていたのは、備後の鞆の浦に亡命していた足利義昭であったかも知れない』と書いている。
 『その権力をほしいままにしようとする信長は、朝廷と京都の永遠の繁栄を期待する町衆にとって不要であるのみか、危険な存在となってきていた。
「いまのうちに、信長を退治するのが上分別というものどす」
「どうやって退治するのやろ」
「日向守はんをけしかけるのや。そうおしやす」
 彼らは自分では動かない。義昭のような人物を語らい、光秀をそそのかさせるのである。
 光秀はこののち衰運に向うであろう立場にいる。彼が思いきって叛逆し、信長を倒せば、朝廷、京都町衆はもとより、寺社勢力、地侍勢力が、こぞって味方につくとささやきかけるのがよい。
 冷静な光秀は、自分が衆人に信頼され、支持される資性の持ち主でははいと知っている。彼は朝倉義景を見限って義昭の家来となり、義昭の将来が八方塞がりとなると、たちまち信長の家来となった。このような表裏ただならない男は、大成の望みがかなわないものである。天下を取るのは、超人間的なカリスマ的資質をそなえた人物である。
 だが、坂本城での八日間に、光秀ほ頭脳を燃えあがらせ、信長討滅の決心をした。彼が謀叛にふみきる手伝いをした黒衣役がいたのではなかろうか。それは光秀が信用できる人物であろう。やほり義昭の姿が浮かんでくる』と。


 1582年(天正10年)6月2日未明、「本能寺の変」。                




 信長が時代の先駆者としての才覚を持ちえたのは、尾張という土地に生まれ、美濃・近江・京・堺と勢力を伸ばしていく過程において、彼の学習能力がその環境を的確に捉えていった結果であったのだと思う。
 時代を超えた思考が出来たのはなぜかとよく問われるが、彼は時代が要請するものを考え出していったのである。旧勢力の象徴たる宗教勢力との死闘がそれであり、日本の文化に無い大殺戮もそうしなければ新しい時代がやって来ないことへの決断であったのだ。
 ただ、明智光秀はなぜ謀反に踏み切ったのかは、この書においても…津本 陽にとっても、描き切れない謎であった。光秀の謀反は日本史の永遠の課題であることを、また確認させられた思いである。




【読書148】 下天は夢か 第3巻 
(津本 陽、 角川文庫)     2009.07.30



 第3巻のクライマックスは「叡山焼討ち」。伊勢長島や石山本願寺などの宗教勢力を敵とし、足利義昭の策謀、浅井・朝倉との抗争など、まずは機内を平定しなければならない信長の対抗勢力の中心に居るのは、最澄以来の法の灯火をかざす「比叡山延暦寺」であった。
 「比叡の山は顕密兼学の大道場にて公武両門の祈願の地…、その霊験は並びなし。その聖地を滅ぼせば、天下の人望を失うことと相成りますれば、今一度のご勘考をあすばされて、ちょーでぃあすわせ」
 と家来たちが尾張弁で諌めるのに対して、
 「あやつどもは魚鳥をくらい女人にたわむれ、沙門の道にそむきし売僧(まいす)だで。天下の政道を妨げ、仏意神慮にも背く国賊のたぐいだぎゃ。今、あやつどもの滅ぶは自業自得…、何を持って放免いたせと申すでや」
 と、信長も尾張弁で大喝を申し渡す。
 宗教が堕落する様は洋の東西を問わず、作者の津本 陽もこう記す。
 『僧侶の堕落は、信長の指摘をまつまでもなく、ひろく世間に知れわたっていた。危難にあい、病気にかかり、老いぼれた人々を、僧侶たちが迷信にひきこんでは金銭をまきあげ贅沢をきわめた生活を送っていたのは、日本だけではなかったようである。
 ルネサンス前期にあたる当時のヨーロッパでも、僧侶の腐敗は極限に達していたという。
 フランチェスコ派の巡回修道土たちがやっていた、まやかしについての記録がある。
 修道士は信者をあつめ、聖徒の遺物を拝ませる。彼らの手先が群衆のなかにまぎれこんでいて、眼が見えなかったり、重病に罹っているふりをし、遺物に手をふれて、たちまち視力が回復し、健康をとりもどしたと、狂喜してみせる。
 群衆は奇蹟を見て神を賛美し、教会は鐘楼の鐘を鳴らして祝福し、長文の記録がしたためられる。
もっと念の入った芝居をする場合がある。手先が、演壇の修道士と遺物を、世間をだますにせものだと指摘し、わめきたてる。
 だが、手先はその場で神罰をうける。にせものを指さした手指が強ばり、口がはたらかなくなる。
彼らはおどろいて神に詫び、瞬間にもとの体に戻してもらう。そのようなばかげた茶番で群衆をたぶらかすのである。
 教団の尼曽はすべて修道僧の玩弄物となっていた。彼女たちは俗人と通じたとき掟に従い拷問を受けるが、修道僧とであれば秘密裡につながりが保てる。子供が生れたときは殺して捨てる。
 つぎのような記録がある。
「これは嘘ではない。疑いをもつ者は、尼僧院の下水道を探ってみるがいい。そのなかに、かぼそい人骨があるのは、ヘロデ王の世のべツレヘムと変りないのを知るであろう」
 延暦寺の僧侶たちも、このような修道僧の実態と大差ない暮らしを送っていた』。



 織田勢は9月15日まで4日間にわたり、叡山の僧坊を焼き払い、山中の洞窟、谷間に隠れひそむ僧衆を引き出し首をはねた。
 「仏法破滅」の世迷いごとを説く者を、ひとり残らず掃討しつくさねば、山門はふたたび蘇生するのである。


 もう40年も前のことであった。吉川英治の「新書太閤記」に、やはり「叡山焼討ち」に際して、仏教の聖地を攻めることに対する明智光秀などの制止があったのに対し、信長は実に格調の高い言葉で叡山を攻めることの正当性を主張していた。
 若かりし頃の僕は、平安の御世から国家鎮護を祈念し法妙の中心であった延暦寺を焼くことに、何のためらいもなく、しかも断固たる意志を説く信長の説得力に(それが吉川英治の文筆力であるとしても)深い感銘を受けたものである。
 この「下天は夢か」の信長の言葉からは、あのときのような感銘を受けることはなかったから、この場の格調は「新書太閤記」のほうが上ということか。

 

【読書147】 下天は夢か 第2巻  (津本 陽、 角川文庫)     2009.07.12



 斎藤道三亡き後、信長と美濃国斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していたが、永禄4(1561)年に斎藤義龍が急死し、嫡男斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家中で分裂が始まる。対斎藤戦で優位に立った信長は、永禄7(1564)年には北近江国の浅井長政と同盟を結び、美濃攻略への体制を固めていく。


 永禄10(1567)年、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れ(稲葉山城の戦い)て、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった


 室町第15代将軍足利義昭の求めに応じて上洛、近畿を支配していた三好・松永勢を破って、義昭を奉戴する織田政権を樹立し、元亀元年(1570年)、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍を破る(姉川の戦い)。


 …というところが第2巻の内容だが、この書では、信長の正室である「濃姫」(美濃斎藤道三の娘)について(信長が13歳で結婚しているから、この物語の第1巻が始まったときにはすでに濃姫は信長の妻であった)、道三が息子義龍の謀反により殺害されてのちほどなく離縁されて美濃に帰され明智郷の屋敷にいたが、美濃の合戦の余波を受けて攻められ死亡したと書いている。
 え~? 映画なんかの濃姫は美人女優が演じていて、信長との夫婦仲の良い しっかりものの奥方として、常に夫を支えていく姿が描かれている。NHKの大河ドラマ「功名が辻」では、和久井映見演じるお濃は、信長(舘ひろし)とともに本能寺にいた。
 それが、津本 陽は、『…、道三の死後間もない弘冶2(1556)年の夏、離縁して美濃に帰した。濃姫は父道三を殺した異母兄義龍の元へは帰れず、生母小見(おみ)の方の実家である明智城へ身を寄せた。だが、間もなく明智城は義龍に攻められ、9月に落城して、城主光安は自害、濃姫も死んだとの噂が届いた』と書いているのである。
 しかし、婿である信長を美濃国の後継者と定めた道三の「国譲状」を、信長は道三から受け取っているのだから、これがある以上は濃姫を正室としておくことが信長にとっても必用不可欠であり、斎藤義龍との諍いにより離縁して実家に返したという可能性は考えられない。
 信長が美濃攻略を推し進めていった背景には、道三息女であり、また土岐氏の傍流明智氏の血を引く濃姫だから、その婿である信長こそ正統な美濃の後継者であるという大義名分が成り立つし、美濃攻略後に美濃衆が尾張衆と同様に待遇されていることからも、濃姫が美濃攻略前に亡くなったという可能性も極めて低いと思われる。
 また、信長嫡男の信忠は濃姫が養子にしているが、濃姫があえて信忠を養子に迎えた理由として、道三の国譲状により信長の美濃支配の正当性に加えて、斎藤氏・土岐氏の血を引く濃姫の子供であれば、より円滑な美濃支配と後継者の正統性を強調できることになろう。事実、信長は家督を信忠に譲り、美濃と尾張の支配を信忠に委ねている。
 …などから、離縁されて美濃で死んだという、津本 陽の濃姫の記述については、まだ異論・異説が多いというのが実情であろう。




【読書146】
下天は夢か 第1巻
  (津本 陽、 角川文庫)     2009.06.30


 群雄割拠する戦国の世に、尾張半国を斬り従えて頭角を現した織田信秀だったが、国主大名へと成り上がる望みを果たせずに没する。内外を敵に囲まれたままの状態で跡目を継いだ信長は、骨肉相食む内戦を勝ち抜き、ついに強敵今川義元を桶狭間に破ると、次に美濃攻略に取りかかる。


 1986年12月から89年7月まで、日本経済新聞の朝刊に連載された、津本陽の織田信長一代記で、第1巻は「信長がこの世でただひとり信頼できる相手であった父信秀は、古渡の城で死に瀕している。信秀が死ねば、その名跡を継ぐのは16歳の信長であった。3年前に元服して、父から託された那古野城の二の丸で、信長は眠ろうと務めても頭が冴え渡っている。他国の乱破・細作はもとより、身内・家臣からも命を狙われかねないのが、当時の世の習いであったし、ましてや東には今川義元、西には斉藤道三が国境を常に脅かし、小競り合いを繰り返している。この城も、いつ誰に攻められるかと思うと、眠ろうとしても眠れぬのであった」という状況の中で幕を開ける。

 「勝ち戦と見るや、信長勢は刀槍を奮って逃げ惑う敵をなで斬りにする。人の体は血袋である。突き倒し、切り払う味方の士卒は頭から血を浴び、血のぬかるみを踏んでいく」という戦いを繰り返して、弟勘十郎信行を…、叔父織田広信…を討ち、尾張の国を平定していく。
 叔父の広信を討ったときには、亡き信秀が秘蔵の舎弟であった剛の者で、信長にとってはやはり叔父である織田信光に、河東二郡と名護野城を与える約束をして広信を謀殺させている。その7ヵ月後、信光は近習の坂井孫八郎に不意に殺害された。信長が謀って孫八郎に殺害させたのであり、
その孫八郎を叔父の仇を討つとして成敗した。こうして信長は河東二郡と名護野城そして尾張下四郡を労せずして手に入れているが、それよりも織田家の跡目争いに将来強力なライバルとなりかねない信光を葬り去ったのは大きな出来事であった。


 史上最大の逆転劇、信長が桶狭間で今川義元を討ち取った勝因は何だったのか? 織田勢が今川の本陣に迫ったとき、天候が急変…「稲光りが目をうち、雷鳴の轟音が天地を引き裂くうちに、豆粒のような雨が降り始め、たちまち滝水のたぎり落ちる勢いとなった」ため、今川方は信長軍の接近に気づかず、奇襲が成功したと津本 陽もしている。


 また、織田信長の人となりについては、従来のような豪放磊落で短気なばかりでなく、猜疑心が強く、いくつかの勢力の狭間に心細く揺れ動きつつも苦痛に耐えようとする信長を描いている。
 その信長が、桶狭間の戦いを決意する場面は、『信長の内部で、何かが砕け散った。-俺は明日死ぬ。されば思うがままに戦うてやらあず―』と、名古屋弁でヤケクソの決断を下している。
 『彼はそれまでの幾夜かを、一睡もせず過ごしていた。吐き気を催すほどの絶望感にさいなまれていた』と呻吟してのちの決断であったのだ。




【読書145】 麻生首相の読書                  2009.02.06


 僕の読書感想文のページの副題は読書百遍…。もちろん「読書百遍 意自ずから通ず」(魏志)から採ったものです。中国三国時代、魏の董遇(とうぐう)が弟子に何度も読書することの必要性を説いた語で、難解な文章でも繰り返し読めば意味は自然と分かってくるということ。「百遍」は百回読めということではなくて、多くの回数のことです。
 神戸山手大学で、短大生活学科の新入生28名を対象にデカルトの「方法序説」(我思う、ゆえに我あり=コギト・エルゴ・スム)を30回読むことによって、「読書百遍…」の意味するところが正しいかどうかを確かめる実験が行われました。一段落読む毎に5段階評価の理解と読みのスムーズ度とコメントを記録させていったところ、いずれも成長が見られ、この言葉は正しいという結果が報告されています。


 読書したことは 今日の役には立たないかもしれないけれど、いつか必ず 人生の節目の大事なときに その力を発揮します。たくさんの本を読んできた人の話は、重厚で幅広く面白くて、ひとつのことについて滔々と話をします。選択肢をたくさん持っていて、的確な判断をする材料に事欠かないことも魅力のひとつでしょう。
 本を読むということの例を、「俺の知識は漫画から仕入れている」と公言している麻生首相に見てみましょう。そもそも政治家の言葉は重いものとされ、日本の歴代総理には漢学の素養が求められたものですが、麻生さんのようにもっぱら漫画しか読まない人は、たまたま家柄とか曽祖父・祖父・父親等のおかげで総理に登り詰めたけれど、国民の前に政治哲学も国のビジョンも示しえず、漢字を読み間違う軽薄さです。
 国会での質疑や政治用語で使われる程度の言葉を、しょっちゅう言い間違えたり読めなかったりというのは、その人の言語生活の乏しさを露呈していることに他なりません。「未曾有」とか「踏襲」といった言葉が、国会議員たるもの、勘違いや読み間違えたりするような類(たぐい)のものでしょうか。
 また、麻生首相の軽薄な発言と撤回の繰り返しが問題となっていますが、生き方の軽薄さをさらけ出しているということでしょう。定額給付金を「私は貰わない。高額所得者で貰う人は性根がさもしい」と言ったと思うと、景気対策の趣旨を諭されて「貰って大いに使う」と言い、先日の国会答弁では「辞退する」と本音をのぞかせる迷走ぶりです。定額給付金の本義と政策としての位置づけを理解していないから、考えが迷走して発言がズレる。しっかりと、人生を、世の中を見つめ、自分の職務と責任を自覚していれば、そこまでの醜態をさらすことはないと思うのですが…。
 昨日の「俺は内心は郵政民営化に反対だった」なんて発言は、口が裂けても言ってはいけないことでしょう。今の自民党は郵政民営化を党是として支持を得たのであり、その合意を政権の基盤として政策を組み立てていて、麻生さんはその総裁なのです。周囲の状況を徐々に変えていき、ある程度の合意が得られたところで「郵政民営化は部分的に見直す」と言うならば理解も得られるでしょうが、「郵政も俺が決断する」なんて漫画のヒーローみたいな…郵政造反組だけが喜ぶようなことを突然言い出しては、政治状況も自らの立場も解っていないといわれても仕方ないでしょう。それでは「饅頭屋をやる」と言ってみんなからお金を出させ、社長になったら「酒屋に変える」と宣言しているようなもの。法律に背反してはいないのでしょうが、社会的常識としてそんなことはありえないということが理解できないのですね。
 上に立つものは、言語動作が重々しくなければ威厳が伴わず、人々の信頼を得ることはできません。そのための最低限の条件として、やはり本を読むことでしょう。麻生さんは所信表明演説の原稿を作るにあたって、「大平正芳(中央公論新社)」、「ローマ亡き後の地中海世界(新潮社)」、「ローマ人の物語(塩野七生)」など7冊の本を買い込んで読んだと言い、テレビもそれらの本を揃えて画面に映していましたが、せいぜい『もくじ』に目を通したぐらいで、読んではいないでしょう。所信表明の冒頭の部分にすら、本からつむぎだした自分の言葉はなく、官僚の作文を読み上げるだけでしたから。
 本を読めばそれでよい…というわけではないのでしょうが(「学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)く、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」(論語)=(本を読んだり、先生に教えてもらって)学んでも(自分で)考えなければ、(ものごとは)はっきりしない。考えても学ばなければ、(独断専行になって)危険である…とあります)、本を読んでいない人は人生に重みがない。政治家の定めとして、自らの言葉で国民に訴えなくてはならないわけですから、その言葉に重みがなければ信頼をつなぎとめることは難しいと言わねばなりません。支持率の急激な低下に象徴されるように、アキバの若者たちが黄色い声で手を振った薄っぺらな人気は、たちまち飽きられ、化けの皮がはがれ、その意味からも、やはり麻生さん、首相の器ではなかったということになりそうです。


  
マンガ好き 末は首相と 息子言う  ( 2008 サラ川 )



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 つらつらと読んだ本の読書感想文です。なかなか全冊の感想を書いている時間がないのですが、できるだけアップしていくつもりです。

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