本のムシ 14




【読書170】
 プリンス近衛殺人事件   2011.10.25
     
( V.A.アルハンゲリスキー 著、 瀧澤一郎 訳、 新潮社)



 ソ連共産党機関紙「イズベスチヤ」の副編集長を務め、ロシア国会専門員、イズベスチヤ誌別冊週刊ニェジェーリャ誌編集長、ウズベキスタン国会議員、タシケント市長などを歴任した、アルハンゲリスキー氏による、大東亜戦争終戦時の日本人将兵・満州開拓民ソ連抑留の記録である。
 ミステリー小説のような題名だが、関東軍に陸軍中尉として在籍していた近衛文隆はシベリアに抑留され、元首相(近衛文麿)の嫡男であることを知ったソ連当局は「スパイになれ」と連日拷問と言うべき尋問洗脳を行うが、頑として首を縦に振らぬ文隆に、-40℃のシベリアラーゲリ(収容所)をたらい回しにし、ついには死に至らしめる。
 戦争捕虜としての扱いを受けられず、一度の裁判も開かれないままに犯罪人とされた近衛文隆が収容所で衰弱していく様子を描きつつ、筆者は膨大なソ連当局の秘密文書をもとに、シベリア抑留日本人の驚くべき実態を掘り起こしていく。
 例えば、ソ連軍によるシベリア抑留の日本人は今までの定説では60万人。うち6~7万人ほどが-40℃の極寒の中、スープ一杯とパン一切れの食事、着のみ着のままの衣服で強制労働に狩り出されて命を落とし、帰国を果たせなかったと言われている。
 が、スターリンの秘密の金庫に秘匿された文書には、「105万2467人」という数字が記されている。クレムリンの内部で、マリク外務次官からソ連情報委員会議長モロトフ宛ての文書に、「1946年12月4日付け政府決定により、ソ連領からの日本人の本国帰還が開始された。帰還該当者105万2467人のうち、すでに10万1075人が送還された。…」とあるのだ。
 が、なお、その記録の対象となっている収容所の数は限られていて、未集計のものをここから推計すると、収容群島と形容されるソ連全土のラーゲリーに抑留された日本人の数は、軍人と一般市民を合わせて250万人以上にのぼるとアルハンゲリスキー氏は指摘する。終戦時、満州にいた関東軍将兵は130万9000人、うちこのときまでに帰還したものは5万9209人、残りの124万9791人はどこへ行ったのか。北朝鮮にいた23万2000人、千島列島4万3345人、樺太44万9000人は…? ロシア地域内にいた人数は掌握すらされていない。もちろん、満蒙開拓に従事し、訳も解らないままにソ連軍に拉致された、一説には100万人を越えるといわれる、膨大な数の一般市民はこの数字には入っていない。
 昭和20年~21年の冬のラーゲリーでの死亡率は10%、ところによっては20、30、50%…、80%に達したところもあったという。ベリヤ警察長官(元帥・副首相、のちに銃殺刑)がスターリンに宛てた報告には、「1945年~46年の冬に、広島原爆の死亡者18万人の2倍を上回る死者が出ました」とあり、それに対してスターリンは「労働力の不足をどうするのだ」と叱責している。彼らにとっては、何十万人もの人の死は、何の感傷も良心の呵責も覚えない、日常茶飯事であった。
 

 極寒の湿った強制収用所の一室から、近衛文麿は身に覚えのない「国家反逆罪」という罪状に対する再審を訴え続け、日本国内の家族も帰還への嘆願を繰り返した。新婚6ヶ月で陸軍二等兵として入隊した近衛文麿は、戦争が終わってのち11年を経てもシベリアに留め置かれ、繰り返される「スパイとして働け。ならばすぐに帰国できる」というソ連当局者たちの勧誘を断固として拒み続けた。
 『ソ連首相 マレンコフ様。
    私は日本人捕虜近衛文隆の妻でございます。
    …。
    老母も息子近衛文隆の帰国を待ち焦がれております。夫とともに平和に幸福に暮らせます
   ようご高配を心よりお願い申し上げます。
    …。                                   かしこ
    1954年12月24日                         近衛正子
 国際赤十字による帰還事業が始まって後も、近衛文隆の名前は待ちわびる家族の期待もむなしく、帰還者名簿に掲載されることはなかった。妻正子は幾度となくソ連最高指導者(このときすでにスターリンは死去し、あとマレンコフ、フルシチョフと続く)に向けて嘆願の手紙を送ったが、一顧だにされることはなかった。
 日本国内では近衛文隆の帰還運動が盛り上がり、元首相の嫡男のソ連抑留は国際的にも大きな話題となっていた。
 しかし、話題の人の帰還は、ソ連当局の望むものではなかった。1956年10月29日午前5時0分、コノエフミタカ死亡。死因、脳溢血。チェルンツィ収容所のオルロワ女医が記したカルテの記述である。
 1946年にルビャンカ監獄に収監されてから、1951年ブトルイカ監獄、1953年イルクーツク監獄など、ソ連国内を転々と移監された近衛文隆であったが、この間14回の健康診断のカルテには「異常なし」との結果が残っている。チェルンツィ収容所に移されてきた6月は、日ソ交渉が大詰めの段階を迎えていた。
 収容所内の病室で、風邪を引いて入院してきた文隆と同室であった太田米雄元陸軍中将は、帰国して後に、「10月28日、近衛文隆さんは、風邪を引かれたのか入院され、私と同室となりました。28日夜、担当の女医が『他のものは他所に移れ』と指示を出し、私は午前4時20分ごろ病室を出ました。」と語っている。…、そして、午前5時05分の死亡!


 近衛文隆の突然の死に、著者アルハンゲリスキー氏は、ロシア国家保安部が決めた死…、すなわち計画的な強制死であると断じている。
 近衛文隆の他にも、昨日まで元気であった人々…、野溝武彦元第26師団長、向井敏夫満州国第一軍兵器部長、小野行守第一方面軍兵器部長、柳田健三大連軍区司令官、村上啓作第三軍司令官、秋草俊情報部少将、河越第五軍参謀長…などなど、死因が「脳出血・心臓麻痺」と記されて、突然に亡くなった人たちは枚挙にいとまがない。ソ連に、関東軍指揮官のほぼ全員170名の将官が拉致されているが、そのうちの37人…21.8%が亡くなっている。
 宇喜田誠一第一方面軍司令官の死亡は、1946年7月20日にマッカーサー米軍元帥から、「宇喜田はどこにいるか?」との照会がソ連軍参謀本部にもたらされた。ソ連政府は、「宇喜田はソ連にはいない」と返答し、8月7日、宇喜田は脳出血で急死する。
 ソ連当局者にとって「帰国が望ましくないもの」「反ソ的なもの」「知りすぎたもの」たちは、その死を人の命を何とも思わない独裁者の判断にゆだねるしかないのであった。


 1958年10月3日、近衛正子夫人が、夫の遺骨引取りのためにチェルンツィ村に到着した。雑草が茂る中、土が盛られただけの近衛文隆の墓は、正子夫人の前で掘り起こされ、棺に収納された遺骨が夫人の手に返された。
 いやしかし、墓は夫人の訪ソが決まった日からのちこの日までに、2度にわたって掘り返され、棺の中には何も入っていないか、見せてはならないものは埋葬されていないかなど、入念な当局によるチェックが行われていたのだ。
 正子夫人による遺骨引き取りをめぐって、1958年1月28日、ソ連共産党中央委員会のメンバーが集まった。
 「1954年冬、シベリアで死んだ日本人捕虜の数は何人なのだ」、フルシチョフ第一書記が聞いた。
 「何十万人ですという数です。」、ドゥドロフ内装が答える。
 「あるときは50万人を、またあるときは10万人を、帳簿から抹消するようにと、捕虜抑留者業
  務本部(グブヴィー)が内務省指導部にメモを送ってきています。」
 …。
 「コノエをどうする?」、
 フルシチョフが切り込んだ。ブルガーニン首相が答える。
 「選択の余地はない、返そう。正常な経済貿易関係を構築し始めたところだ。日本なしではやって
  いけない。」 …。
 スースロフが続ける。
 「コノエが死んでくれてよかった。コノエは、ロシアの収容所を知り尽くしていました。もしコノ
 エが生きて帰還を果たし、日本政界に現れたとしたら、シベリア抑留の苦難を耐え抜いたこの貴公
 子を、敗戦に不満で占領の恥辱に我慢がならない日本人たちは、たたちに新しい指導者として迎え
 入れるにちがいない。3~4年後には、ソ連は収容所の裏表を知り尽くしている日本の首相と対峙
 する羽目になったことでしょう」。


          ◇        ◇        ◇


 最後に、ソビエト政府の中枢にいた筆者が、なぜ今、秘密文書を明らかにし、ソ連共産等の内部告発とも言うべき本書を世に出版したのか。訳者瀧澤一郎氏の「あとがき」の一部を抜粋して、その問いに答えることにしよう。
おどろくべき本である。
 歴史ミステリーという読みやすいスタイルをとりながら、門外不出のKrB(カーゲーベー)機密文書がページを繰るごとに現れ、学界の定説すらひっくり返してしまう。 …略…。
 
それにしても、謂わばソビエト体制内で功成り名遂げた著者が、なぜこれほどの体制糾弾を敢えてしたのか。もとよりシベリア抑留はヒトラーの悪行の数々でさえかすんでしまう二十世紀最大規模の残虐行為である。ところが、今のロシアではみずからの蛮行に対する責任を他国に転嫁しょうとする動きや、その事実全体を忘却の彼方へ追いやろうとする動きが依然として強い。残念ながら、わが国の学者やジャーナリストたちもこの動きに踊らされている。そのようなとき、いわば時流にさからうようにして自国人の犯した蛮行を日本人も及ばないほど激しく追及し、弾劾告発したのはなぜか。
 著者アルハンゲリスキーが政治的な立場からではなく、人道的な立場からこれをしていることは明白である。しかし、これだけでは本書に満ちあふれるソビエト体制に対する深い怨念は説明できない。常人ならざる才能と努力で成功した彼も、実は無慈悲な体制の被害者だったのである。

 本人は十三歳で独ソ戦の最前線に少年兵として出征した。はどなく瀕死の重傷を負い記憶喪失。数年間別人として後方で療養生活を送った。これだけでも並の体験ではない。しかも、いまだに残る後遺症と身体中に食い込んだ無数の砲弾の破片。眼球からはつい先年やっと最後のものが摘出されたという。父親、兄弟を戦争でなくしたが、どこで戦死したのか、否、戦死したかどうかさえいまだに不明。遺骨のかけらもない。当局は問い合わせに何も答えてくれない。そこで自ら各地の公文書舘に入り、うずたかくもカビくさい古い記録類の中から両親の消息と自らの空白の記憶を探し求めた。その過程で、親兄弟と同じように苛酷な体制にさいなまれ、圧殺された近衛文隆に関する機密文書に遭遇したのである。
 運命的出会いであった、と本人は語る。以来十有令年、集めた記録文書は数万点にのぼる。その多くは今も非公開であり、著者ほどの機略と人脈なしにはまず閲覧できない。好漢近衛文隆の運命に肉親の運命を重ね見る著者が憑かれたように書きつつ集め、集めつつ書いた結果がこれである。原文はこの数焙に及ぶ。読みやすさを優先し、訳者が編集した。
 少年時代から共産主義思想に反発し、非公然反体制家であった著者は、故国を恋い肉親を求めてシベリアの虚空を今もさまよう無慮数十万の日本人抑留者の霊を凝然と見つめ、ひざまづくようにして自国の冒した罪の許しを乞うている。人心のすさんだ今のロシアには希なる人である。
 … (以下略)




【読書169】
 日本中枢の崩壊  (古賀茂明 講談社) 
2011.07.25
   

 改革派現役経産省完了古賀茂明氏の実名による証言を綴った一冊である。古賀氏は、野田内閣の枝野経産相が「古賀氏の人事については大臣は関知しない」との発言を受けて、2年に及ぶ大臣官房付という窓際職を辞した。氏のような、改革派官僚を処遇するためには、政治的配慮なくしては実現しないことだが、野田内閣にも、枝野幸男経産相にも、官僚組織を相手にして古賀氏の活躍の場を提供するだけの力も意思もなかったということだ。もちろん、改革の意欲も…。


 この書は、『改革が遅れ、経済成長を促す施策や政策が滞れば、税収は不足して、日本社会は動かず、「政府閉鎖」の事態すら起こりかねない。大増税が叫ばれ、日本は奈落の底に落ちていく。全ての改革を敏速かつ効果的に推進させるための大前提が、公務員改革である』と警鐘を連打する。
 民主党政権は官僚に騙されて…、いや、むしろ確信犯的に改革を後戻りさせている。民主党政権の維持と、自分たちの議員という身分の安泰のために…。
 例えば、民主党の最大の政治ショーである「事業仕分け」を見てみても、そのシナリオは全て財務省が作る。一般会計(予算)関係で事業費を削っても(実際には、廃止や縮小をうたわれた事業の多くがそのまま存続している。民主党政治はペテンであるという所以のひとつだ)、一般会計の3倍近くの資金がある特別会計には絶対に手をつけさせないというシナリオである。
 東北大震災にかこつけた、大増税構想もそのひとつだ


【読書168】
 日本は勝つ  石原慎太郎・田原総一郎 対論集  文芸春秋社
2011.07.25
   

 田原総一郎ってもう終わっているけれど、この対論集は2000年に出版されたもの。民主党政権はまだ誕生していなかった。 


 1989年ベルリンの壁崩壊、1991年ゴルバチョフの辞任によりソ連邦解体、その後の世界は冷戦構造が消滅し、アメリカの支配(パスク・アメリカーナ、アメリカンスタンダード)が続いてきた。
 石原慎太郎は安保を見直してアメリカ支配から脱却し、自力で国を守る戦力を持つべきだと言い、田原総一郎はアメリカの傘下にとどまりつつ自衛の戦力にとどめ、近隣融和の道を歩めと言う。
 が、二人とも、戦後日本の民主主義には国家の存在が排除されていたから、憲法を改正し、教育を整え、国・国民の自信と誇りを回復させることが肝要だと説く。
 本質的な自立のないものには自己決定はできない。では、誰が日本の自主性・自立性を奪ったのか。それはアメリカでなく、日本人自身である。
 国家の自立に何が必要なのか。「戦略」である。米中新冷戦構造下における日本の戦略とは……。


 今の日本の政治の低迷は、自己決定が出来る政治家がいないことに起因する。竹下以後、日本の総理は会社の専務級の人物ばかり…。(現在は係長ぐらいだ。)
 戦後日本で独自の戦略を持った政治家田中角栄の失脚は、アメリカ(虎)の尻尾を踏んだことにあった。インドネシア、サウジアラビアとの三国で石油の共同開発を計画し、中南米のウランを求めて原子力エネルギーを開発しようとした角栄は、アメリカ石油資本(メジャー=アメリカの国益)の逆鱗に触れたのである。
 ある日、ロッキード社の内部資料がアメリカ証券取引委員会に誤配で届けられる。ここから、ロッキード社より田中角栄に渡ったという5億円の裏金疑惑が発生するのだが、捜査はロッキード社コーチャン副会長の免責証言という異例な形で立件されていく。そして、総理大臣が外為法違反容疑で逮捕されるに至るのである。
 アメリカによる日本の支配というのは、こんな一面も持っている。GHQの日本占領から、憲法制定、安保条約、年次教書、定期会談などなど、表向きの手かせ足かせも多くあるが、アメリカの意向に逆らったら力技(ちからわざ)を用いてつぶすというのが、これまでの日米関係だった。
 本当の意味の日本の独立とは、こうした目に見えない圧力や攻撃に対しても、戦力・自衛力を持つことなのである。




【読書161】
 後藤新平 -日本の羅針盤となった男- (山岡淳一郎、草思社)
2011.06.27

 先日の「後藤新平伝(星 亮一、平凡社)」に続いて、「後藤新平-日本の羅針盤となった男(山岡淳一郎、草思社」を読んだ。先の書は2日で読み終えたけれど、こちらは活字も小さく読み応えがあって、1週間ほどかかってしまった。


 後藤新平は、岩手県水沢の武士の家に生まれ、少年期は水沢城主留守氏の若殿の小姓に取り立てられているが、奥州連合を組んで薩長軍と戦った水沢藩は朝敵として明治期には徹底的な弾圧を受けた。後藤家も百姓に身分を落とされ、耕す田畑も無い貧困にあえぐが、統治にあたった熊本藩出身の大参事安場保和に見出され、福島県病院医学校に通わせてもらった。
 同郷の幼馴染に「斎藤実(後の海軍大臣、第30代総理大臣、2・26事件で暗殺される)」や、隣の盛岡藩に平民宰相「原 敬」がいる。
 医者として日清戦争帰還兵の検疫などに活躍し、児玉源太郎とめぐり合う。内務官僚に転進、児玉源太郎が台湾総督となると、1898(明治31)年、42歳にして民生長官として台湾統治にあたった。
 1906(明治39)年、新平は、ロシアから割譲を受けた満鉄の総裁就任を要請されるが、『満鉄の監督権は関東都督(陸軍大将・中将)にあるが、中央政府側の満鉄責任者は外務大臣である』とする西園寺総理の説明に、「それでは満鉄経営の中心軸が無い」と就任を固辞。それでも熱心に勧めてくれる児玉の急逝に接して、関東都督府最高顧問兼務を条件に南満州鉄道初代総裁に就任する。
 これら台湾・満鉄の統治・経営に、新平は大きな業績を残しているが、ここでは大震災を契機として後藤新平伝を開いたので、関東大震災へと先を急ぐことにしよう。


 1923(大正12)年9月1日 午前11時58分、相模湾を震源地とするマグニチュード7.9の直下型大地震が帝都東京を襲った。人々が昼餉の私宅にかかっていた東京は激しく揺さぶられて80数ヶ所から出火し、能登半島付近にあった台風が巻き寄せる風速17mの南風に煽られて、木と紙の寄せ集めのような帝都は、あっという間に一面の火の海となった。
 翌2日、山本内閣の内務大臣を引き受けると伝えた新平は、まず日銀総裁の井上準之助のもとへ走り、井上の大蔵大臣就任を要請。赤坂離宮の庭園に張られたテントの中で、「山本震災内閣」が発足した。親任式を終えた新平は、早速「帝都復興計画」の策定に取り掛かる。奇禍を転じて、東京と日本の将来に大いなる活路を見出そうとする復興計画であった。
 同時進行的に大震災時の流言飛語にまどわされた群集に、前任の加藤友三郎内閣が発令した戒厳令によって出動した軍隊も加わって、朝鮮人の虐殺、社会主義者の拘束・謀殺などが行われていた。憲兵大意甘粕正彦によるアナーキスト大杉栄とその内妻伊藤野枝、甥の少年の殺害などはこのときである。後にこれらの加害者への断固たる処分を求めた新平は、右翼勢力から命を狙われることになる。
 1.遷都をしてはならない。
 2.復興費には30億円が必要。
 …という4項目の根本策を示した「帝都復興の儀」を掲げて、9月6日の閣議に臨む。
 新平の復興案が具体的に素早くまとめられたのは、1920(大正9)年に東京市長を務めていたことにもよる。市長時代の新平は8億円の予算を掲げて、重要街路の新設、舗装工事、上下水道の整備、電気・ガス事業の改善、河川の改修、公園・広場の新設、視聴者や公会堂の建設などを計画している。この大計画は予算の統制と原敬総理の暗殺によって中座し、1923(大正12)年4月、新平は大震災の4ヶ月ほど前に東京市長を辞任している。
 巨大官庁内務省の旧弊に縛られることのないよう、新平は「帝都復興院」を立ち上げ、独立機関とする。
 焼け野原と化した東京の街区を全て買い上げる「区画整理案」を提案、壊滅状態にある金融機関を前に日本発の「モラトリアム(支払猶予令)」と「震災不良債権処理」を井上準之助とともに実行、復興院では人間道楽と言われた新兵の人脈に連なる人材・俊英が、「計画が一日遅れれば、実行は百日送れる」を合言葉に走り回っていた。
 復興計画案への抵抗勢力である「政友会」系の知事・地方長官を更迭し宣戦布告。間もなく開かれる第48回帝国議会に「普通選挙法」を上程、政友会が反対するのを機に解散・総選挙に持ち込み、普選法を支持する大衆により選挙に大勝する筋書きである。
 大蔵大臣井上準之助は、復興にかかる予算は7億300万円と大蔵省としての案を閣議に提出した。新平は怒り、「復興実務に責任が持てない」と退席しようとする。井上が「13年度予算も作って復興に要する公債を募ろう」と発言して閣内不一致は免れた。
 予想外に、東京に広い土地を持つ大地主たちは、区画整理案に理解を示した。法曹界など、各界からも援護が寄せられた。「改良事業に伴う地下の上昇の例は枚挙に暇がない。ニューヨーク市の中央公園(セントラルパーク)が建設されてから16年間に、全市の平均地価は100%なのに、公園付近の地価は800%に暴騰している。地下鉄開通後の7年間に、沿線区間の地価は、曽野区間の地下鉄建設費用の6倍に達している。賢明なる都市計画は、その影響する土地の価格を上昇させ、その地価は該当する都市計画事業費に対する保障を形成する」といった報告も寄せられた。
 11月24日、帝都復興会議が開催された。千代田区内に広大な土地を持つ、枢密院議員伊東巳代治が、滔々と反対意見を述べる。新平と2人してシベリア出兵を断行した、盟友伊東の反対演説は続く。「復興院は白紙の地図に線を引くごとく復興計画を立案しているが、恐れ多くもご詔勅は『東京は帝国の首都として…』と仰せられ、極端に帝都の新造を図ることは、根本儀において一大錯誤に陥っている」と明治憲法草案者らしく、天皇の言葉を出して反対意見を述べ、私有財産権を盾として土地接収に異を唱えた。
 帝都復興会議によって修正案がつくられ、第47回臨時帝国議会に提出された。総額5億7481万円に削られた復興予算は、幹線道路の幅員の大幅縮小、京浜運河と東京築港は見送られていた。
 政友会は土地整理1億6000万円の削減に加えて、復興院の事務費の全額削除を突きつけてきた。復興院への事実上の死刑宣告である。
 『復興を遅らせるわけには行かない』、新平は涙を飲んで修正案成立を受け入れた。『1月になったら総選挙がある。そこで逆転、それからが本当の復興だ』との思いを胸に…。


 一発の銃弾が、新平の夢と復興の計画を打ち砕いた。12月27日、摂政宮が帝国議会の開会式に向かわれている途中、自動車が虎ノ門に差し掛かったところ、一人の男がステッキ式の仕込み銃を宮の車に向けて発射した。世に言う、「虎の門事件」である。
 この事件に責任を痛感した山本権兵衛内閣は総辞職。震災復興内閣はわずか4ヶ月で露と消えた。


 後藤新平は、『「公」の実現のために、「官」は公明正大・公平無私で行政に臨め』と述べている。公と官が、同一視されがちな現代に、含蓄のある言葉だと思う。
 伊藤博文、斎藤実、原敬、井上準之助、安田善冶郎など、新平と親交のあった人々には教団に倒れた人が多い。時代を生きる熱意のほとばしりが、対立するものの感情に触れる強靭さを帯びていたということだろうか。



【読書160】
 後藤新平伝  (星 亮一、平凡社) 
 2011.06.17


 今年3月11日に東北地方東岸に壊滅的な打撃を与えた「東北関東東岸大震災」から3ヶ月を過ぎたのに、その復興は遅々として進まない。加えて、「福島第一原発事故」によって避難している人を合わせれば、まだ10万人以上の人が住む場所も定まらない生活をしている。具体的な復興策も示されず、2次補正予算案や復興基本法すらまだ成立していない。
 政治がだらしないと、国民はこれほどまでに苦しまなくてはならないということだろう。逆に言えば、政治が正しく行われていれば、日本の政治に人材がいれば、ここまで復興が遅れるということはなかったのではないかと思われるのである。
 大正12年9月1日に東京を襲った関東大震災のあと、その翌日の2日に第二次山本内閣の内務大臣兼帝都復興院総裁に就任した後藤新平は、内閣親任式から帰った直後に山本総理に対して、復興費30億円(現在の金額にして175兆円といわれる)を含む復興計画を提出している。『平成に後藤新平はいないのか』と言われる所以だ。
 

 関東大震災からの復興が迅速に進められた背景には、後藤新平が東京市長時代に策定した構想案など計画の下敷きがあったことと、都市計画法・市街地建築物法成立と前後して内務省を中心に人材が育っていたことがある。都市計画法の公布やスタッフの養成、東京市政要綱、都市研究会の設立などが、結果として帝都復興の推進に作用していくことともなった。
 後藤新平が残した言葉、「金を残すものは下、仕事を残すものは中、人を残すものは上」を思い出す。
 復興事業は1930年(昭和5年)に完成され、3月26日に帝都復興祭が行われた。その時期には都市の商工業が発展し人口が増大、都市計画法に国庫補助が盛り込まれるようになる。が、後藤自身は復興の完成を見ずに、1929年、遊説先で死去している。



【読書159】
 逆説の日本史 水戸黄門と朱子学      2011.05.13
 - 江戸時代、すでに日本の識字率は世界でダントツのトップだった -


 ユネスコによれば、2002年段階で日本の識字率は99.8%で世界一である。ちなみに、世界の平均は75%ぐらいだとか。
 江戸時代、日本の識字率は男性で40~60%、女性で15~30%ぐらいで、すでにダントツの世界一だった。これに大きな役割を果たしたものは、「平家物語」だと、著者の井沢元彦は言う。
 「平家物語」は信濃の前司行長の作とも言われるが、今のところ定説ではない。これを著者は、藤原行長を天台座主の慈円が援助して物語として完成させ、盲目の法師生仏に独特の語り調子をつけさせて諸国に広めたものであるという。
 なぜ、天台座主の慈円が「平家物語」を作ろうとしたのか? 「平家物語」の成立年代は13世紀の初めで、鎌倉幕府が成立してから10年後ぐらいである。
保元の乱、平治の乱で政権をとり、「平氏にあらずんば人にあらず」といわれるほどの栄華を極めた平氏が、壇ノ浦の藻屑と消えた世の中の栄枯盛衰を、慈円は見ている。国家鎮護の祈りを司る天台宗の座主として、また仏僧として、国の安定と人心の平癒、そして平氏の鎮魂のために、この物語を作ったのである…と。
 慈円が偉大であったのは、この物語を「語り物」としたことであった。「平家物語」は琵琶法師によって、当時の日本の津々浦々に伝えられ、人々は「ギオンショウジャノカネノコエ、ショギョウムジョウノヒビキアリ、…」と口ずさんだ。これにより、日本人の日本語習熟度は飛躍的に向上したのである。
 当時のの諸外国は、まず中国を見ると、漢字というエリート専用の文字を使い、音を表記する「ひらがな・カタカナ」にあたるものがないから、庶民の識字率アップは夢のまた夢…、人々は文字を読み書きすることの必要性も、条件も、環境もなかった。朝鮮では、世宗大王によって簡易文字「訓民正音」が作られたが、儒教国の朝鮮では学者・官僚などに猛烈に蔑視され、ハングル(偉大な文字)と呼ばれて一般に使われるようになったのは20世紀以降のことである。
 アメリカという国はこの頃はまだ影も形もない。ヨーロッパには文字媒体として「聖書」があるが、「聖書」はラテン語で書かれていてほとんどの人は読めず、各国語に翻訳されたのは14~16世紀である。26文字しかないアルファベットなのに、庶民の識字率が上がらなかったのは、賛美歌すら16世紀に入ってから、宗教改革を進めたマルチン・ルターによって多くが作られたという、庶民レベルの文化の状況による。


 1200年代以来の「平家物語」の口承によって、いや、天皇と防人の歌がともに収録される「万葉集」の昔から、和歌や物語文学に親しんできた日本人は、江戸時代には歌舞伎・落語・俳句・謡曲・講談などといった大衆文学の華を開花させる。
 江戸時代の教育にとって、「寺子屋」が果たした役割は大きい。確実な記録の残る近江国神埼郡北庄村(現滋賀県東近江市)にあった寺子屋の例では、入門者の名簿と人口の比率から、幕末期に村民の91%が寺子屋に入門したと推定される。
 子どもたちの多くは、「ギオンショウジャノカネノコエ、…」を知っている。僧侶・神官・浪人・書家などが努めた先生は、「『ギオンショウジャ』は、ひらかなでは『ぎおんしょうじゃ』と書き、漢字では『祇園精舎』と書くんだ。中インドのシュラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院で、お釈迦さまが説法を行ったとされる場所だよ」と言えば、教育効果はまっさらの状態から教えるよりもはるかに高いということなる。
 江戸時代の武士の子弟の教科書は、よく時代劇などでは「論語」や「孟子」を暗証しているシーンが出てくるが、「太平記」が多かった。太平記には「太平記秘伝理尽鈔」という解説書も書かれていて、軍学の天才といわれた楠木正成の兵法について論じられたりもしている。武士の世の中が形成されてきた時代から説き始められ、大忠臣楠木正成の活躍や鎌倉幕府の成立と変転などを記す「太平記」は軍学書の解説もつけられていたわけだから、当時の武士階級にとっては必読の書であった。解釈・講義し、音読して読み聞かせる「太平記読み」という職業も現れ、著名になると大名家に招聘されるものもいた。
 庶民の「寺子屋」の教科書は「庭訓往来」で、往来物(往復の書簡)の形で家庭や社会生活に必要な知識・文字が習得できるようになっていた。
 … と、その一部を要約するとこのようなことを書いている。


●考察1 1443
年に朝鮮通信使一行に参加して日本に来た申叔舟は「日本人は男女身分に関わらず全員が字を読み書きする」と記録し、また幕末期に来日したヴァーシリー・ゴローニンは「日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もゐない」と述べている。これらの記述には誇張があると思われるが、近世の日本の識字率は実際にかなり高く、江戸時代に培われた高い識字率が明治期の発展につながったとされる。
 近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてもある程度の推定が可能な明治初期の文部省年報によると、明治10年に滋賀県で実施された調査で「6歳以上で自己の姓名を記し得る者」の比率は「男子89%、女子38%」であると記されている。当時の成人年齢を16歳ぐらいとすると、この頃にはもうほとんどの人が何らかの読み書きが出来たのであろう。


●考察2  学校教育で「暗記はいけない」という考えがある。しかし、「ギオンショウジャノカネノコエ、ショギョウムジョウノヒビキアリ…」という暗唱が後世に大きな教育効果を挙げたことをみても、子どもたちにとって暗唱は必要であろうと思う。
 私たちも子どものころは、競って名作の冒頭を暗記したり、古今の詩歌をそらんじたものである。子どものころに覚えたものは忘れないから、今でも「源氏物語」「枕草子」「平家物語」「太平記」「徒然草」「方丈記」「奥の細道」などの古典の冒頭や、「千曲川旅情の歌」「初恋」「月に吠える」などの詩はそらんじることができる。
 1901年(明治34年)に中学校(旧制中学校)唱歌の懸賞の応募作品として、瀧廉太郎が作曲した「荒城の月」の「千代の松ヶ枝 分けいでし」の部分の意味が、子どものころにはどうも解らなかったのだが、後に『明るいつきの光が、長い年月を経てきた松の枝葉を、1本1本、くっきりと映し出している』という意味だと解ったときには、嬉しかったものである。
 今、この「荒城の月」は文語体の表記が難しくて子どもたちに理解できないだろうと、中学校の音楽の教科書から削除されているというが、美しい日本語は、意味が解らないままにも心に染みるてくるものだ。後日、「こういう意味だったのか」と知ることも楽しい。『読書百遍、意自ずから通ず』と言うではないか。


 


【読書157】 ローマ人の物語 第2巻 「ローマは一日にして成らず 下」 2010.07.29


 ローマの国体を支えた制度の根幹は、『ローマ人の誇り』であり、その誇りはローマの貴族・市民制度から育成されたものではないかと思う。
 ローマの貴族階級は、ローマを建国したロムレスと共に周辺部族と戦い、ローマの町を形造って来た人々で、それぞれに一門を率いる、確固たる経済基盤と権力を持っている人たちであった。ロムレスは100人の家長たちを招集して元老院を創設したのだが、その100人が「パトローネ」(パトロンの語源)と呼ばれる、貴族の始まりであった。
 パトローネは一門の人々(クリエンティスと呼ばれる、血縁・地縁・その他の縁故でつながる人々)を保護・援助し、クリエンティスたちはパトローネの強烈な支援者であった。(個としての独立性の強いローマ社会では、主君と家来、親分と子分といった、主従の関係ではない。)
 パトローネはクリエンティスが何か事業を始めようとすれば、仲間の貴族に頼んででも、その成功を援助し、クリエンティスの子弟の結婚・教育・就職から訴訟問題まで、相談に乗り、解決に力を貸す責務があった。反対に、パトローネが敵や海賊に捕らわれて身代金が必要なときなどには、クリエンティスが八方駆けずり回って調達するといったことは、当然とされていた。両者の関係は強者・弱者や保護・披保護の関係というよりも、もっと内密な家族的な関係であって、何よりも「信義(フィデス)」が重んじられていた。それゆえに「裏切り」は最も恥ずべき悪徳とされていた。
 このように、個々人がしっかりとした帰属意識(=守るべきもの、誇り)を持っていたからこそ、全体(=国家)としてはよくまとまり躍動的であったのだろう。


 貴族は土地を持ち、そこで多くの人々を養っていた。広い土地を保有し、多くの生産を挙げ、多額の収入を得ているものは、高い税を納めることはローマの法においても定められている。
 ただ、ローマにおける税は、兵役であった。ローマには末期になるまで傭兵の制度はなかった。自分たちの安全を金で雇った他人に任せることを、ローマ人は嫌ったのである。
 ローマの税は、文字通り『血税』である。貴族は財産に応じて騎兵・歩兵を出し、市民は兵士として戦闘に参加することが義務とされていた。17歳から45歳までは現役で、60歳までは予備役として軍務に就く義務があった。金を払って軍務を免れることは、法によって禁じられているというよりも、不名誉なことと考えられていた。経済的な代替行為は、市民権を持たないために軍務の義務のない非市民か、裕福で子のない女のみに課せられた税であった。


 1990年に勃発した「湾岸戦争」のとき、日本政府(第二次海部内閣、小沢一郎自民党幹事長)は
多国籍軍に対して計130億ドル(さらに、為替相場の変動により目減りがあったとして5億ドル追加)もの多額の資金援助を行ったが、アメリカを中心とした参戦国から金だけ出す姿勢を非難された。
 クウェートは戦後、参戦国などに対して感謝決議を出したが、日本はその対象に入らなかった。もっとも、当初の援助額である90億ドル(当時の日本円で約1兆2000億円)の内、クウェートに入ったのは僅か6億3千万円に過ぎず、大部分(1兆790億円)がアメリカの手に渡ったことも要因ではあった。(いずれも1993年〔平成5〕4月19日参議院決算委員会、外務省北米局長・佐藤行雄の答弁より)。
 戦いに自らの命を持って参加しようとしない姿勢、自国の安全を金銭を払うことで保持しようとする考え方、それらは『不名誉』な『恥ずべき行為』であるとして、世界は…少なくともローマを国家形成の出発点としている世界は、2500年もの昔から受け継いでいるのである。



【読書156】 ローマ人の物語 第1巻 
        
「ローマは一日にして成らず 上」 (塩野七生、新潮文庫) 2010.07.28


 「ローマ人の物語」を文庫本で読んでいる。ローマ世界の形成は即ちヨーロッパ社会の構築であり…、と言うことは近代に通じる世界という仕組みがどのように出来上がってきたのかをつぶさに辿ることができるということなのだから、興味が尽きない。


 2ヶ月ほど前、トルコに旅した。ダーダネルス海峡を南に渡り、そのまま海峡に沿ってアナトリア半島を南下…、やがて眼の前にエーゲ海が広がると、ほどなくトゥルワ(トロイ、トロイア)の遺跡に着く。
 ホメロスの叙事詩「イーリアス」に描かれた10年に及ぶトロイア戦争は、オデッセウスが考案した『トロイの木馬』の奇策で幕を閉じる(紀元前1200年中期)が、この戦いに敗れたトロイの王の娘婿アエネアスは年老いた父と息子とわずかな供の者を連れて城を脱出する。
 一行はギリシアの島々からアフリカへ渡ってカルタゴ、さらにイタリア半島に戻って西海岸を転々とし、ようやく半島の中ほどのラヴィーノに定住の地を見つけた。アエネアスの死後、その息子のアスカニウスが王位を継ぐが、彼はラヴィーノの近くにアルバロンガと名づけた新しい都市を建設する。これが、後のローマの母体とされる都市である。


 400年ののち、アルバロンガの王女が巫女として神事を行っていたとき、軍神マルスと契って双子を生む。ローマを建国したロムレスとレムスである。
 ところが、王女の叔父であるアルバロンガの王は結婚していない王女の出産に激怒し、双子を篭に入れて、テヴェレ河に流してしまう。二人を助けたのは狼だった。狼の乳を飲んで育った二人は、羊飼いに拾われる。長じるに従って、あたりの羊飼いのボスとなり、勢力を広げていった二人は、出生の秘密を知って、アルバロンガを攻め王を殺した。
 近隣の羊飼いや農民たちを従えた二人は、テヴェレ河の下流に新しい都市を建設し、ロムレスはパラティーノの丘を、レムスはアヴェンティーノの丘をそれぞれ統治することになった。しかし、その境界の溝を、レムスが飛び越えた。これは当時のローマ人の考えでは侵略行為で、許されてよいことではなかった。二人の間には争いが起こり、ロムレスはレムスを殺した。
 紀元前753年4月21日、この年、ロムレスは18歳。彼の名前を取って名づけられたといわれているローマは、こうして誕生した。


 都市を構築し、国家の体裁もようやく整いつつあった、ロムレスの治世の39年目…。軍隊の閲兵をしていたとき、一天にわかに掻き曇り、ロムレスの玉座のあたりに雷鳴がとどろいた。
 ようやく雨もやんで、周囲が明るくなったとき、人々が目にしたのは空席の玉座であった。ロムレスの姿はどこにもない。人々は、彼は天に召されたのだとささやき合った。
 絶対権力者を忌み嫌うのは、ローマ人の特質である。排除する方法が殺害というのは、古代ではよく用いられてきた手段である。膨れ上がるロムレスの権力に危機感を抱いた元老院勢力が、行事を利用して弑殺したというのが本当のところなのだろう。


 すでに政治制度としてあった元老院の招請を受けて王位に就いた第二代目の王ヌマから、七代続いた王たちの治世下で、周辺部族との戦闘は古代国家の宿命であったけれど、法律、政治・社会の仕組み、軍制、宗教、都市整備などが進められていった。
 前509年、ローマは共和制の時代に入る。王制にしろ、共和制にしろ、元老院の推挙を受けて選出され、市民集会の承認を得るというスタイルは、ローマでははじめから変わっていないが、王位に就けば終身ただ一人の王が絶対権力を握る王制に対して、任期1年の二人の執行官が政治を取り仕切る共和制が、この年から始まった。
 


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 つらつらと読んだ本の読書感想文です。なかなか全冊の感想を書いている時間がないのですが、できるだけアップしていくつもりです。