【読書224】  塩 狩 峠  (三浦綾子、新潮文庫)     2013.02.21
      

 塩狩峠(しおかりとうげ)とは、北海道比布町と和寒町の間にある峠。国道40号、JR北海道宗谷本線、道央自動車道が通過している。小説「塩狩峠」は、明治42年、この峠で生じたある事件を題材にした三浦綾子の作品である。


 彼女の作品は、映画・ドラマで何度か見た「氷点」(辻口家の養女である陽子をいじめる継母役を小山明子・南田陽子・若尾文子の3人が演じた姿を覚えているが、南田陽子は優しすぎたし、若尾文子は可愛すぎた。やっぱり小山明子の冷たい気品がぴったり…(笑))のあと、大正15年の十勝岳大噴火によって泥流に埋め尽くされた富良野の惨状を描いた「泥流地帯」を読んだのが、平成8年のことであった。
 なぜ読んだ年を特定できるかというと、明治期に北海道に入植して富良野を開墾したのが、我がふるさと津市の出身者による「三重団体」であったことから、この年、津市と富良野との間で交換会が催され、それにかかわったのを契機としてこの本を読んだからである。


 爾来15年、久しぶりに三浦綾子の著書を目にした。人間の原罪をキリスト教的倫理によって掘り下げていく三浦文学の題材として、主人公の旭川鉄道局経理主任「永野信夫」が多くの乗客の命を救う物語は、幾多の問いかけを読者に投げかける。
 この小説が実際にあった事件を題材にしていることを、僕は360ページの「後に、その教会史に書かれているように」という一説を読んで初めて気づいた。そして、この一遍が、日本キリスト教出版局から発行されている月刊雑誌「信徒の友」に、昭和41年4月から2年半に渡って連載されたものであることを知った。士族の家に育ち、最初はキリスト教を毛嫌いしていた信夫が、信仰厚い人々の姿に心を動かされていき、入信する契機となった言葉を、三浦綾子はある伝道師の言葉を借りて、
伝道師「イエス・キリストはなぜ十字架にかけられたのか知っていますか
信夫 「この世の全ての罪を背負って…」
伝道師「そのとおり。しかし、キリストを十字架にかけたのはあなた自身であるということを、
    わかっていますか」。 …。 
   「罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なのです」
と説く。
 「牧師にも悪い人はいるのですか?」と問う信夫に、ある小説家に「さあ、悪くない人なんかいませんからねえ」と答えさせ、のちに聖書の言葉『義人なし、一人だになし』を引く。


 人間は、心の中では他人を羨(うらや)んだり妬(ねたん)んだり、呪ったりしてしまう。これが人間の生まれながらに持った「原罪」である。「義人」…つまり原罪を持たないものは、イエス=キリストただ一人でである。だから、「義人なし、一人だになし」であり、私の罪を背負ってイエスは習字かにのぼったことを知れというのだ。
 では、罪深き汝自身はどう生きるのか…。「塩狩峠」には、主人公を通してその生き方のひとつが描かれているが…。
 『主人公のモデルとなった長野政雄さんのことを聞いたとき、私は叩きのめされたような、深く激しい感動に揺さぶられた』とは、三浦綾子自身の告白である。



【読書207】 トップアマだけが知っている、ゴルフ上達の本当のところ 
       
( 本條 強、日経プレミアム )           2011.08.01
 

 日本各地で活躍する9人のシニアトップアマを取材し、そのゴルフ技術とゴルフ観を聞き取っている。彼らの語るところに、アマチュアゴルフの真髄があるというところなのだろう。


 三浦哲生さん … 1937年生。168cm、68kg。97・98年日本シニア連覇。
          08年日本グランドシニア優勝など。ドライバーの飛距離230Y。
 小林祺一朗さん… 1939年生。173cm、72kg。08年関東ミッドシニア優勝。
          10年関東グランドシニア優勝など。
 坂田哲男さん … 1949年生。日本アマ2位6回、99年日本ミッドアマ優勝。
          04年日本シニア優勝など。通算勝利数99勝(2012.7月現在)。
 田村尚之さん … 1964年生。172cm、65kg。94年日本オープンベストアマ。
          02・03・10年日本ミッドアマ優勝など。ドライバー265Y
 高橋久雄さん … 1937年生。97年日本シニア3位。05・06年関東シニア3・2位。
          07年日本グランドシニア優勝など。ドライバーの飛距離230Y。
 足立節雄さん … 1938年生。163cm、64kg。08年関東グランドシニア優勝。
 小坂旦子さん … 1920年生。30歳を過ぎてから競技に参加し、関東女子アマ3連勝。
          日本女子アマ優勝など。
 稲田一夫さん … 1938年生。165cm、69kg。07年日本ミッドシニア2位。
          09年日本グランドシニア2位など。ドライバーの飛距離270Y。
 伊東 進さん … 1940年生。172cm、78kg。11年関東グランドシニア優勝。
          ドライバーの飛距離240Y。

 さすがに日本と名のつくタイトルを取っている皆さんだから、その練習もトレーニングも半端ではない。根っからゴルフが好きだということが伝わってくるし、目的を達成するための執念とも言うべき一途さにも頭が下がる。
 近所のウオーキングも、マンションの7階までの階段上りも、3日と続かない僕では、競技への挑戦などと口にする資格もないのかもしれない。


 皆さんの一家言には傾聴すべきものばかりだが、中でもひとつといわれれば、
田村さんの「自己流でも固めれば勝ち」だろう。



【読書206】 「新沖縄ノート」  (恵隆之介、ワック)
         - 誰も語れなかった 沖縄の真実 -


 著者の恵 隆之介は海上自衛官を退官後に琉球銀行に勤務、現在は沖縄に住みながら、沖縄問題に提言を続けている。彼は昨今、沖縄の真実を語り続けることに、命の危険を覚えるという。沖縄の反米・反省キャンペーンは、ある勢力の影響下にあり、利権に組み込まれているということだろう。
 「命を懸けて、私は沖縄のために、沖縄の真実を叫び続けます」と語る決意を聞いて、この本を買ってきた。


 中国が「核心的利益」と位置づける第一列島線の枠内に取り込まれ、中国公船が沖縄海域を繰り返し侵犯している現実を目の当たりにして、沖縄では今日も「米軍基地返還」「米軍は出て行け」と繰り返して叫んでいる。
 が、沖縄の反戦キャンペーンは、その多くが反戦活動家によるパフォーマンスである。たとえば、平成8年4月1日に使用期限の切れた読谷村(よみたんそん)の「象の檻」と呼ばれたアメリカ軍の電波傍受施設の土地の返還については、知花昌一というひとりの反戦地主活動が、沖縄で92%の県内シェアを持つ地元紙の「琉球新報」「縄タイム」2紙によって詳細に伝えられたが、この2紙は継続賃貸を求める451名の地主の意向は全く伝えていない。
 沖縄の米軍基地用地に1坪とか2坪の土地を買って反基地活動を行う、いわゆる反戦地主について、当時の全国紙は3085人という数字を掲載している。この数字だけを見ると、あたかもほとんどの地主が反対しているような印象を受けないでもないが、土地の継続使用を望む地主は29000人以上いる。彼らの所有する土地の広さはもちろん1坪や2坪でなく広大で、基地面積の大部分を占め、面積比では反戦地主が所有する土地は基地面積の0.2%でしかない。
 (反戦地主の土地所有は、0.2ヘクタールの土地に2968人の登記がなされているといった状況で、1ha=10000㎡、1坪=3.3㎡だから、1ha=10000÷3.3=3030.3030坪。すなわち、0.2ヘクタールの土地に2968人の地主がいるということは、3030.3030坪×0.2÷2968=0.2坪で一人当たり0.2坪の地主ということである。)
 このように、沖縄の反基地活動は沖縄県以外の地域から沖縄に來県している活動家や、左翼的旗幟を鮮明にしている地元マスコミ、そして沖縄教組とこれらにからむ地方政治家たちによる、思想的、売国的、そして利権につながる反米・反日行動なのである。


 沖縄は、全国学力テストで最下位、若者の就職率も低く(関西地方へ出る若者も多いが、教育・しつけなどが原因で就業状況も悪いとある)、成人式での規律の劣悪さは毎年テレビなどで伝えられている通りである。
 ここにも、沖縄教組の反日教育の足跡が見られるし、また、ゴネれば金になるという、沖縄に培われてきた体質が垣間見られる。学問を修め、自力で自分の人生を切り開いていこうという気概も育っていない。


 沖縄を堕落させた本土政治家の責任も大きい…として、普天間問題を迷走させた「鳩山由紀夫」と、平成13年に沖縄担当大臣に就任した「尾身幸次(自民党衆院議員)」、初代沖縄開発庁長官「山中貞則(自民党衆院議員)」の名前が見られる。
 「鳩山由紀夫」については米軍基地問題を迷走させた張本人とて繰り返すまでもないが、「尾身幸次」は沖縄及び北方対策担当大臣当時、小中学校の教育が荒れていることは省みずに、「沖縄新大学院大学」構想を提唱し、「沖縄ならば、いくらでもお金は持ってこれます」と主導的な役割を果たして、後に就任した財務大臣の時には予算獲得のアドバイスをしていたと指摘されている。そして、尾身が主導して事業は進められ、癒着が噂されていた西松建設が「沖縄科学技術大学院大学基幹環境整備」を2億7090万円で契約している。そのほかにも沖縄関連の補助助成金は莫大なものになるが、これらのうちからどれほどが尾身の懐に還流されたのか?
 「山中貞則」は沖縄担当大臣当時、返還時の円転レートについて特別給付金方式(負債は実勢ルートで、資産は1ドル360円で交換)という沖縄優遇措置を、返還に政治生命を賭けるとした佐藤総理に「金で済むことなら」と承諾させている。これを聞いた当時の水田蔵相は、生涯、山中と口を利かなかったという。返還時の尽力をもって、山中は沖縄県名誉県民顕彰を受けたが、「本土の有力政治家が銀行員と結託して優遇措置を受けている…、そのなかに中山貞則もいた」と名指しで指摘されいる。
 政府ODAをはじめ、政府が関与する輸出・輸入、対外・国内援助、緊急輸入のタイ米にさえも、動いた金の何パーセントかが関与した政治家の懐に還流するシステムが出来上がっているのが、日本の政治なのである。小沢一郎の西松建設問題、鈴木宗男のムネオハウスなど、利権が付いているのは当り前の話で、全面否定する当人としては罪の意識もない事柄なのかもしれない。ぜひ、改めなければならない、政治慣行、政治風土である。


 沖縄問題は日本国民全員の問題である。沖縄の米軍基地は、覇権主義をあらわにしている中国に対して、独力では対抗できないのが現実である日本の、不可欠な国防の基盤である。また日本だけでなく、東アジアから東南アジア、さらにインドやオーストラリアまでを含めた地域の安定にとって、重要な地勢上の要石でもある。
 平成3年にフィリピンが米軍基地供与を否決してアメリカ軍が撤退したとき、日本でも「平和の配当」などと評価したが、平成4年には中国公船が東シナ海に現れて航行中の船に訂正命令を出して臨検を行うようになった。平成5年にはフィリピンやバングラディシュの船を臨検略奪し、抵抗した船員を射殺し海に投げ込んでいる。実被害に遭った船舶数は、平成3年が11隻、4年が34隻、5年は2月までで20隻にのぼったが、ロシア船を銃撃したためロシア艦船が出動したところ、その後は全く出没しなくなった。
 中国は1992年に「領海法」を公布して、尖閣諸島・南沙諸島を中国領と宣言、東シナ海の海底油田の開発に着手している。また、中国共産党には、沖縄を領国とする国内法が現実に存在する。だから、尖閣付近で遊弋する中国船艦は、日本領海からの退去を求める日本の海上保安庁の巡視船に対して「ここは中国領海であり、正当な海上行動である」と答えている。近い将来に、日本の艦艇に対し、「中国領海からの退去」を求めてくることになるだろう。
 沖縄県内では反戦活動のほか、日本復帰20周年を祝う日章旗150本を掲げたところ1本残らず消えていたり、本島北端に建てられていた日本復帰闘争碑が破壊されたりする、実行動がすでに展開されている。中国製拳銃トカレフの密輸が激増し、県内暴力団の抗争激化に、沖縄県警は九州管区からの応援を得てこれを鎮圧している。
 このように、沖縄は目に見えない勢力が着実に力を伸ばし、状況を変化・混乱させようと工作している。スパイ防止法も、自衛隊の治安出動規定もない日本では、これらの活動はやりたい放題…。気がついたときには、住民の大半は外国人で、実権は取得され、異国の国旗が翻っているということになることだろう。フィリピンは米軍撤退後、中国に南沙諸島を奪われ、5年後の平成8年から再び米軍の駐留を懇請し、誘致運動を繰り広げている。


 「あとがき」で惠 隆之介は、アメリカの統治下で育った少年時代に「日本の勉強をしても無駄なんじゃないか…と思った」と書いている。
 そのとき彼の祖父は、「日本はいずれ国力を回復して、この沖縄住民を迎えに来てくれる。そのときのために、日本人としての矜持を一時も失うな。日本の国語を重点として勉強せよ」と話したという。
 



【読書205】 「巨富への道」 (堺屋太一、PHP研究所) 2012.05.19


 どうせ金持ちになるのならば、小金をためているのでは話にならない。世の人の言の葉にのぼるにはせめてン十億は稼がなくてはならないだろうし、またそうでなくては金儲けに励む面白味もない。
 そこで、まずは作家にして評論家・元通産官僚・経済企画庁長官(第55〜57代)・元内閣特別顧問、株式会社堺屋太一事務所および株式会社堺屋太一研究所の代表取締役社長であり、大阪万国博覧会をはじめとして様々な博覧会のプロデューサー、昨今は橋下徹率いる大阪維新の会の顧問としても活動している堺屋太一著作による、「巨富への道」を買ってきた。これまでの氏の著作物では、その論理の展開や説得力に共感すべき部分が多かったからである。
 もともと僕は金儲けに縁がない。金儲けを目的とする行動をとろうとしないし、小金が溜まってしまうと、すぐにバラ撒きにかかる。たくさんの人を集めて散財するのが好きだし、同じようなものがあれば必ず高いものを買ってしまう。
 朱子学的思考法に影響されているのかも知れない。江戸時代の幕府の公式学問とされた朱子学は、「武士は食わねど高楊枝」の言葉に象徴されるように、金儲けを卑しいものとした。だから実働をせずに物を右から左に動かすだけで利益を得る商業を卑しいものとし、商人を「士農工商」の身分制度の最下層に位置せしめた。コチコチの朱子学に凝り固まっていた松平定信などは、その直前の政権を担当していた田沼意次の重商主義を毛嫌いし、老中首座に就くと幕閣から旧田沼系を一掃粛清してしまった。
 でも、僕は定信のような禁欲的聖人には程遠い。むしろ面白いこと、美味しいもの、美しいものが大好きだし、我慢して生きるには煩悩が有り過ぎる。ポケットの中に金が有る限り家には帰ろうとしないし、「宵越しの金はもたねぇ」というタイプで、「明日のことは考えない」主義である。この僕に、金儲けをしろと言うのが無理というものか。
 確かに、堺屋太一の著作集は「峠の群像」や「豊臣秀長、ある補佐役の生涯」などの歴史小説も、「日本とは何か」、「あるべき明日」などの社会評論も、結構面白くてそれぞれ2〜3日で読んでしまった。ところが、この「巨富への道」は、買ってきてからもう2週間ほど経っているが、まだ「序章 大富豪になる五つの条件」の途中である。
 その一節に「巨富をなすことのできる気質の要素のひとつは、金儲けが好きなことだ」とある。これを読むと、『こりゃぁ、僕には無理だな』と思ってしまう。僕は、「お金は手段だ」と思っている。お金があれば、ゴルフができるし、美味しいものを食べることができるし、世界を歩くこともできる。でも、堺屋太一は「お金をもうければ贅沢な暮らしができるからうれしいという人は、お金儲けが好きなのではなくて、贅沢な暮らしが好きなのだ。お金儲けは入りを拡大すること、贅沢は出を大きくすることで、実は逆なのである」と書いている。「たかだか数十億円程度の売り上げしかない企業の経営者が、派手なスポーツカーに乗り、豪華なマンションに住むようでは危ない。その程度で講演会など話題に上る行動に走る人も没落しやすい。(入りを広げ、出を抑えるという)あくまでもお金儲けが好きでなくては、本当の巨富は得られない」とも。
 でも、「お金儲けは汚いことではない。世のため人のためになる技術や組織を創り上げたものへの当然の報酬であり、そうであればこそ経済は成長し、世の中は楽しいのである」とも書いているから、ちょっと救いもあるかも…。
 周りを見ると、(入りを広げ、出を抑えるという日常を重ねて蓄財したであろう)金持ちはどうもチマチマしている。ここはイチバン俺に任せておけ…というところがない。ここイチバンで尻つぼみの姿を見せて、「みっともないやつだなぁ」と(僕の)顰蹙を買っている。(僕の…というところがミソで、僕との美意識が違うということなのだろう。ご本人たちは、みっともないとも何とも思っていないのだから、そういう意識を持つことが肝要なのかもしれない。)
 

 ここまで書いて、僕は真理に気づいた。小金を貯めることを目的にするから、金儲けが好きになれないのだ! 政治を動かし、世の中を作り変えるほどの巨富を得ることを目的とすれば、金儲けは楽しい。私利私欲ではなく、世のため人のために金儲けをするのである。もちろんその手段も、世の中の人に喜んでもらえるものでなくてはならない。
 堺屋先生に異論を唱えるようだが、出を抑える必要はない。際限のない支出を補って余りある収入を得ればよいのである。
 では、「何を、何のために、いつ、どこで、誰が、どのように」行うのか。、そしてその事業には、「現実的な説得性、第二次共鳴を呼ぶ面白さ、時代の空気に馴染みやすい馴時代性」はあるか。それを創り出すのが起業というものである。さぁ、この日本の閉塞感を打破する新しいビジネスを創造しようではないか。チャンスはどこにでも転がっている。



【読書172】 一人の売国奴も出なかった幕末の奇跡 
        ― 逆説の日本史 17 ―


 幕末とは、日本が欧米列強の進出に直面した時代であった。そんなとき一般には、外国勢力と結んで私服を肥やそうとする輩(売国奴、民族の裏切り者)が必ず出る。当時、日本は俗に300諸侯(実際には260前後)と呼ばれる大名がいたが、その中に一人の国を売るものは出なかった。家や命の存亡にかかわるときなのに、イギリスやフランスと結んで勝者になろうとするものはいなかったのである。


 世界史の常識ではありえないこの状況は、本居宣長の「国学」がもたらした「天皇教」を礎としていると井沢元彦は言う。宣長は『日本の統治権(大政)は天照大神から東照神(徳川家康)を経て将軍家に委任されているのであって、国民ひとりひとりもみな天照大神つまり天皇家から預かったものだ』としている。
 宣長の国学を引き継いだ平田篤胤は、日本的朱子学を綯い混ぜて、死後の世界の救いを説く『平田神学』を完成させる。宣長の国学に救いを得られなかった人々は、ここに国学のよりどころを見出し、徳川幕府を倒した「天皇教」を日本国民統合の論理としたのである。



【読書171】 三国志 1~9巻 (宮城谷昌光 文芸春秋社) 2012.02.02~19
  


1


 物語は、「揚震(ようしん、54-124年)」の言葉『四知』から始まる。揚震は後漢末期に三公のひとつ司徒にまで登った官吏で、滅び行く王朝の常として私利・権謀・汚職が蔓延する中で、清廉・潔癖を貫いた人であった。
 東莱太守になって任地に赴くとき、昔、世話をした人物が夜に訪ねてきて、金品をひそかに送ろうとしたが拒絶した。その男が、「私は夜陰に乗じてまいりましたので、誰もこのことは知りません」と言うと、「天知る、地知る、子(し)知る、我知る」と答えたという(後漢書では、「天知る、神知る、子知る、我知る」)
 この故事から、『四知(しち)』という言葉が生まれた。「誰も知らないだろうと思っていても、隠し事というものはいつか必ず露見するものである」という意味で用いられるが、その真意には「人が見ているか見ていないかで己の言行を安易に変えてはいけない。常に自分が善しと思ったことを為すべきだ」という意志が含まれる。


 この「三国志」では、宮城谷昌光の圧倒的な知識量と資料の調査力に裏打ちされた、歴史の奥深さが開示される。加えて漢学の素養がほとばしる珠玉の言葉が散りばめられている。
 この作品を、従来の宮城谷小説の面白さから、自己の知識を書き連ねた駄作に退化したと評する向きもあるようだが、史伝としての緻密さもった歴史小説を楽しむことができる。当時の中国の地図と系図・人物相関図を見ながら…。


第2巻


 それにしても、崩れていく王朝内での権力争いの凄まじいことはどうだ! 清廉公平な政治に努めた大后だったが、後漢朝の宮廷が宦官の専横を許す体制にあったことは、彼らに諂(へつら)い賄賂を包むものが登用され出世することになった。君側の奸を除こうと正論を述べたものは姦計にはめられ、獄につながれて刑死した。志があり有能なものは、死ぬか地方へ逃げるかであった。
 国が滅ぶとはこういうことか。官僚たちは自分たちの懐(ふところ)や組織内の利益を図るばかりで、民の苦しみを省みることなく、増税につぐ増税…。税の取立ては苛斂をきわめ、生きることにあえぐ民の声に耳を貸そうともしない。現代の日本に、どこか似ている世相ではないか。


 こんな世に、曹操・孫樫・劉備が生を受ける。


三国志 第3巻    2012.02.02


 兵略の基本は勢いを創造することにある。兵を高所に上げれば低地に居る敵を圧し、兵に速さを与えれば停止している敵を倒す。そういう物理的な必然を心理面でも確立するのが良将であろう。
   

三国志 第4巻    2012.02.05


 大軍を指揮しても驕ってはならず、寡兵を率いても怯んではならぬ。おのれの長所をもって、敵の短所を撃てばよい。


 袁術が、学問がむしろ人の器を小さくすると考えて、言語に真剣に向き合わなかったことは、やはり人格的あるいは度量的成長に限界をつくったといえる。言語は決して無機的なものではなく、あえて言えば人の内側の間隔の目を開かせる。…。
 権門の中に居るということは過保護を享受することにほかならず、恐れるという感覚を身に着けようがない。…ところが学問はそういう環境を決して安全であるとはみなさない精神を育てる。よりよい環境を創造する力を培養する。「論語」ひとつをとっても、そこには改革の精神が充溢しているではないか。すなわち、恐れと批判力を持たぬ者は、正しい認識力と強い想像力を持ちようがない。




三国志 第5巻   2012.02.06


 本当の君子とはどういう人かについて、(孔子の弟子の)曾子が言った。『もって、六尺の孤を託すべし』(遺児を託すことができる人のことである)と。


 歴史は無限大の宝庫である。それを知るがゆえにそれにとらわれ苦しまねばならぬことがあるにせよ、そうなるものには謙虚さが足りず、本当の学問をしなかったともいえよう。うぬぼれていては自分の中に知恵を受ける器を作れない。
 世論が常に正しいわけでなく、世論にも偏奇があることを身をもって知っている。それゆえに曹操は真の正しさを求めて学問した。


 多数の意見に惑わされない。誤った意見や見通しの甘い意見は傾聴に値しないので意見とは認めない。全員が賛成し納得するような戦略とは、もはや戦略とは呼べないものだ。


 徳だけが、人を辱めることができる。




【読書】三国志 第6巻
 (宮城谷昌光) 2012.02.13


 「三国志演義」は、桃園の誓いから始まる劉備・関羽・張飛と諸葛孔明の活躍を中心に書かれた小説だから、話は仁徳の劉備、奸雄の曹操という役割で展開する。史実は、魏・呉・蜀の三国時代ののち、曹操の息子曹丕が後漢の献帝から禅譲を受けて魏王朝を開き、さらにその家臣司馬炎が建てた西晋へと続いていく。
 
正史としてのスタンスをとる宮城谷三国志は、曹操を時代を開く英雄として描き、劉備の処世を人為を超越したところにいて、成功も失敗も過去も未来もない、無であり空である生き方だと書いている。
 『劉備は戦うたびに負けて、家来も民も領地も、妻子すら捨てて逃げた。…、47歳の劉備には20代の男子がいてもいいはずなのに、1歳の男子(劉)しかいないというのは、劉備がいかにすさまじい生き方をしてきたか、そのあかしであるといえなくもないが、家族の暖かさに憧れを持たぬ心性を思わせる。
 ゆえに前代未聞のことが為せる。為すのは劉備でなく、劉備の下に集まった人が為すのであり、その行為に世俗的な意義を持たせることができるのは、「私しかいない」と諸葛孔明は確信した。同じような偸盗殺戮が時と場所のちがいによって正義に見えるということは、歴史が証明している。劉備とう虚空に諸葛孔明が「君子」と書けば、劉備が殺戮を行おうが焚掠を行おうが、君子の所業とみなされるのである。』
 この「陸中対」
(問答のこと)によって三国時代が現出した。諸葛孔明の巨大な奇術が始められたと言いかえてもよい。


諸葛孔明を得て力をつけた劉備は、孫樫・孫策のあとを継いだ孫権と連衡して曹操の大軍にあたる。
 が、「赤壁の戦」といわれるこの水上戦は、江南呉軍の水軍と曹操の大艦隊との戦いであった。呉軍の総司令官の周愉
ユは王偏は、さしたる軍功もなく、ただ陣を借りて曹操軍に当たろうとしている劉備をうとんじて、軍議にも加えず、水戦にも参加させていない。ただ、烏水にあった曹操軍を突けと指示している。
 三国志演義には、十万本の矢を一日で作ると引き受けた孔明が、わら人形を立たせた船を呉軍の中を引き回し、雨あられと射られた矢を持ち帰るといった話が載せられているが、それを宮城谷は『後世の人はこの水戦に劉備と諸葛孔明がまったくかかわっていないことにいらだち、呉軍のために諸葛亮孔明が壇を築いて南東の風を吹かせるという道教的風景を挿入したが、作り話である。』と一刀両断…。『周愉は艦からはなれたことはなく、諸葛亮を艦に招いたこともない』とも。




第7巻                2012.02.15


 増大する魏(曹操)脅威に対抗するために、蜀(劉備)と呉(孫権)は同盟を結ぶ。呉の国を訪問した劉備は、孫権の妹を娶ることになった。
 孫家に生まれた男女は、みな容姿に優れている。兄たちの美形に慣れている妹は、異常に手の長い劉備を一瞥して、「これでも人か」と怪しむあまり失神しそうになった(…と宮城谷昌光は書いている())。
 この妹は、劉備の後宮に入った後も、従ってきた官女たちにたちを帯びさせ、自身も男の身なりをして宮廷内を歩いたという。のちに、呉・蜀の同盟が解消されると、彼女は呉の国に返されるが、宮城谷はそこまで書いてはいないけれど、劉備との夫婦の関係はなかったのだろう。そのあたりのことを宮城谷は、「家来も民も領地も国も捨てることが得意な劉備は、女心を省みることなど一顧だにしなかったことだろう」と書いている。
 これを劉備のほうから見ると、「孫権は、手に余る妹を私に押し付けたのか」と、孫権に憎悪を持った。この人には公正さがなく、情にも智にも曲撓(きょくどう…捻じ曲がっていること)がある。上のものには甘いが、下のものには辛い。向後、もしも孫権の下風に立てば、どれほどむごい目に合わされるかわからない。「2度と孫権には会いたくない」と劉備は胸中で絶叫した。


 そんな呉に不幸が襲う。少ない兵で呉に大勝をもたらした赤壁の戦を指揮した、周愉が死去したのだ。享年36歳であった。



第8                      2012.02.16


 220年、儀の曹操、病を発して死亡。享年66歳。223年、劉備、病床にて死亡。享年62歳であった。
219年、呉・蜀の争いのなか、樊城の戦で関羽が戦死。221年、張飛は呉へと出陣した陣中で、折檻した部下によって殺される。三国志演義で活躍する面々が、このころ相前後して死亡している。


曹操の偉業について、「魏書」は「軍を御すること30余年、その間、…から書物を離さず、昼は武事の策を講じ、夜は経書とその伝に思いをめぐらせた。高所に上ると必ず詩を作り、新しい詩を作ると、これに管弦をつけたので、みな楽章になった」と記している。



第9巻                          2012.02.19


 魏では曹操の後を「曹丕」・「曹殖」が継ぎ、蜀では劉備の子「劉禅」が即位したが行政軍事の全般を諸葛亮(孔明)が執り行っていた。呉では55歳を過ぎた孫権が、北を伺っている。
 三国鼎立の天下の形勢だが、その周辺に匈奴・烏抄・羌胡・鮮卑・夫余・高句麗など、さまざまな勢力が独立していた。
 228年春3月、蜀の諸葛孔明は「後出師の表」を書いて、魏と雌雄を決すべく、馬謖を先方にして街亭の戦いに臨む。孔明は道筋を押さえるように命じたが、馬謖はこれに背き山頂に陣を敷いてしまう。副将の王平はこれを諫めたが、孫子の兵法にある「兵は高きをもって低きに挑め」によって、馬謖は聞き入れようとしなかった。秀才であった馬謖は、智に溺れたというべきか。
 その結果、張?らに水路を断たれ山頂に孤立し、蜀軍は惨敗を喫する。翌5月に諸葛亮は敗戦の責任を問い、馬謖を処刑した。諸葛亮はこの為に涙を流し、これが後に「泣いて馬謖を斬る」と呼ばれる故事となった。王平伝には馬謖及びその配下の将軍である張休・李盛を軍規に基づいて処刑したとある。
 
呉の孫権は、魏を挟撃すべく、遼東の独立勢力「公孫淵」の国と同盟を結ぶため、兵1万人の大船団を援軍として送るが、公孫淵はその呉軍を捕獲し、司令官の首をはねて、魏へ差し出したのである。


 曹操・劉備なきあとの中国は、さらなる混迷の度を深めていく。
 


【 宮城谷三国志は、今も文芸春秋に連載されているが、現在、単行本として刊行されているのはここ第9巻までである。私たちは、司馬 懿(しば い、字は仲達(ちゅうたつ))によって、曹氏の「魏」は滅ぼされ、「西晋」が建てられたことを知っているが、そこに至るまでには「死せる孔明、生ける中達を走らす」と言われた「五丈原の戦」や、曹氏と司馬 懿との壮絶な闘争があった。果たして宮城谷昌光はその日々をどのように描いていくのか、続巻が待ち遠しい。
 この書に触発されて、宮城谷の「戦国名臣列伝」(文春文庫)を買ってきた。元弘の変に敗れ隠岐に流される途中の後醍醐天皇に児島高徳が贈ったといわれる漢詩の一節、「天、勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」の名文句を口ずさみながら、第一篇「范蠡」を読んでいる。】



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 つらつらと読んだ本の読書感想文です。なかなか全冊の感想を書いている時間がないのですが、できるだけアップしていくつもりです。

本のムシ 15