【126】「 溥 儀 −清朝最後の皇帝−」 (入江曜子、岩波新書)  2007.11.30


 愛新覚羅溥儀は、前項「紫禁城の黄昏」にも紹介したとおり、清朝最後の皇帝であり、辛亥革命によって皇帝の座を追われたのち、北京の外国租界にあった日本公使館に匿われ、のちに天津の日本租界から長春(満州国の首都 新京)へ移って、満州帝国皇帝となった。


 この間の経緯を年表式に示すと、以下の通りである。
1924.11.29 溥儀(19歳)、日本公使館へ匿われる。
1925.02.22 北京を去り、天津の日本租界内「張園」へ移る。
1931.09.18 満州事変が起こる。


 9月30日、溥儀のもとへ、関東軍は溥儀の復位を望んでいるが諾否はいかがかとの連絡が伝えられた。溥儀は、陸軍大臣南次郎と黒竜会代表頭山満に宛てて、皇帝の印である黄絹に親筆で帝位につく意思を述べ、同時に蒙古の王たちに宛てては日本軍への基準を進める書簡をしたためた。


     11.10 比冶山丸にて天津を脱出、満州へ
1932.03.01 満州国建国宣言
        09 溥儀(27歳)、執政に就任。
1934.03.01 満州は帝政となり、帝号を康徳と改める(満州国康徳皇帝溥儀)


1942.08.12 溥儀の夫人・譚玉齢が粟粒結核で危篤となった。溥儀の日本側補佐官であった吉岡安直参謀は中国人医師がさじを投げた後、溥儀の懇請で日本人医師の橋本元文(新京特別市立病院内科医長)に治療を依頼する。
 すでに治療の域を超えている患者に、アンプルの1本にも中国人侍医団の確認を取りながら治療を施し、最後に看護学校の中国人生徒5人を呼んで、輸血を行った。ほのかに顔に紅がさした譚玉齢を見て、溥儀は橋本医師の両手を取って「ありがとう、ありがとう」と日本語で繰り返した。
 輸血によって、わずかに延命した譚玉齢であったが、13日未明に息を引き取った。溥儀は盛大な葬儀を済ませたあと、橋本医師を帝宮に招き、感謝を述べてその労を謝している。


 1943年4月 南嶺女子校の学生・李玉琴を冊立する(皇后として立てること)。


 1945年、日本の敗戦により、日本への亡命の途中、8/19瀋陽(奉天)にてソ連軍に拘束され、ハバロフスクの第45収容所に収容された。
 収容所では、皇帝として上級将校以上の待遇を受け、食事は日に4回、たっぷりの肉にパン、アルコール類も出された。もちろん強制労働などはなく、彼の部屋にはピアノが運び込まれ、世話係として若い女性3人がついた。
 ここで溥儀は、ソ連の指示で、特に満州建国を中心として、経緯を文書にまとめた。


 1946年8月16〜27日、極東国際軍事裁判所に、検事側商人として出席。


 その証言の内容は、替え玉説がささやかれるほど、主席検事キーナンの操る手綱のままに、「満州国元首になったのは日本軍の圧迫の結果であり、その後は傀儡にすぎなかった」と証言するのである。
 第2回、8月19日の証言では、「私の妻は、日本軍の吉岡安直中将によって毒殺された」と異様な興奮を見せて中国語で告発した。


 反対尋問に立った清瀬一郎弁護人は、「証人(溥儀)が満州国の帝位に就くことは、南次郎陸軍大臣に宛てた書簡で、自ら希望する旨を書いている」と指摘するが、溥儀は「日本軍に強要された」と主張した。
 「夫人毒殺」の告発を新聞で知った橋本医師は、満州から引き揚げてきたばかりであったが、溥儀の告発は事実に反することを証言すると弁護団に申し出た。これに対して弁護側は、「溥儀の証言が、ソ連に言わされている嘘であることはわかっている。今、証言いただいて、橋本先生に迷惑を掛けてもいけないので…」と辞退している。弁護団は、日本国天皇から兄弟と詔り(みことのり)せられた満州皇帝を追い詰めることを回避し、日本人独特の婉曲な責任放棄…、好意に見せかけた逃げの常套句を使ったと言うべきだろう。
 「溥儀の夫人であった譚玉齢を、日本軍参謀の吉岡安直が毒殺した」という告発を、個人の犯罪としてうやむやにしてしまったことは、溥儀の欺瞞を解明することだけでなく、戦後の中国国民感情の中に『陰謀をめぐらした日本の一例』として定着しただけでなく、日本社会にも同様の誤解と負い目を残す結果となった。
 (吉岡安直は、溥儀とともに奉天でソ連軍に拘束され、1947年、モスクワの病院で死去している)


 1954年3月、溥儀(49歳)、ソ連(ハルビン)より中国(撫順)に戻る。


 中国政府は、溥儀の更生に取り組んだ。溥儀が、新生中国の一市民となれば、中国的社会主義は、もと皇帝でも善良な市民として更生させる偉大な社会体制であることが実証できるからである。
 しかし、溥儀は生まれたときから、箸が来れば口を開け、服が来れば手を伸ばすという暮らしを、シベリアの収容所時代にも続けてきていて、生活能力はゼロにひとしい。
 溥儀たちが収容されていた撫順の管理所では、収容者たちに「自白書」なるものを書かせ、今までの自分が犯した罪を並べさせて、どのように悔い改めているかを確認させていく作業を繰り返し、収容者たちの更生を図った。日常生活も満足におくれない溥儀は、ほとんどの項目に及第点は難しかったが、皇帝さえも改造した中国共産党と政府を目指す当局は、溥儀に便宜を図り、励まし、指導して、1959年9月18日、中華人民共和国成立10周年の祝賀行事として、改悛の情の著しい戦争犯罪人を含む罪人たちの特赦を行うと発表し、12月4日、撫順管理所では第1番に愛新覚羅溥儀の名前が読み上げられた。


 1957年、撫順管理所へ入所中に、李玉琴と離婚。彼女は、戦後の中国では、
      「売国奴の女房」「漢奸の妻」として、どん底の生活を余儀なくされていた。


  (漢奸(かんかん)…中国で、敵側に内通する人をいう。売国奴。特に、戦前の
            対日協力者をさすことが多い。)


 1962年、看護師の李淑賢と結婚


 1964年、自伝「わが半生」を出版。前半は皇帝としての宮廷生活を描き、後半は
       徹底的な自己批判をして、自分が「革命的な人間」であると記している。


 戦後の中国で、党と政府の広告塔としての役割を期待されて生きた溥儀は、1966年に始まった文化大革命の荒波を、もと皇帝と指弾されてモロにかぶることになるが、周恩来の計らいによって当局に保護されている。
 これに先立つ1964年ごろから、溥儀の体はガンに侵され、ここでももと皇帝は診察拒否などの仕打ちに遭うが、党と政府は溥儀をおろそかにすることはなく、毛沢東は「われわれはついに、一人の皇帝を改造し終えた」と、外国メディアにその成果を述べている。


 1967年10月17日、文革の嵐が吹きすさぶ北京の午前2時30分、妻とひとりの甥に見守られて、愛新覚羅溥儀は62歳の生涯を閉じた。


           


 溥儀の帝師ジョンストン氏は「紫禁城の黄昏」の中で、「皇帝には二つの人格がある」と述べていた。氏は、それが具体的にどういうものかは書いていなかったけれど、この「溥儀」の中に、「家来の口を開かせておいて、小便をする」という残忍な小人性が描かれている。清朝の末裔という天とも並ぶ尊大な生い立ちを持ちながら、自らを貶(おとし)めるような東京裁判での証言は、なんともギャップがありすぎて理解し難かったのだが、わが身の行く末を保身するほうの小人の溥儀がそこにいたのだと思えば、納得もいく。
 溥儀の5番目の妻で、終生の伴侶となった李淑賢は、1997年、世を去るにあたって、「溥儀には、漢奸としての半生がある。私は死んでからもその妻であると言われることには耐えられない。私の骨を、溥儀と一緒に葬ることは絶対にしないで欲しい」と言い残した。遺骨は溥儀の墓とは別の人民公募に納められている。




【125】 紫禁城の黄昏(下) 
     (RFジョンストン、(訳)中山 理、祥伝社)         2007.11.04


 帝師となったジョンストン氏は、皇帝溥儀の13歳から16歳で結婚、日本公使館へ保護を求めた18歳を経て、職を辞する19歳までの7年間、このラストエンペラーを見つめてきた。
 13歳の皇帝は物心ついてからほとんどの日々を紫禁城で暮らし、全くといってよいほど外の世界を見たことがない。多くの家臣に傅(かしず)かれながら、周りを革命主義者・共和国政府・軍閥らに囲まれ、宮廷内を固める官吏・宦官たちはおびただしい皇室の宝物を持ち出して換金し、自分たちの私財を蓄えるばかりである。
 90%が文盲であったという当時のシナにあっては、人々は民主主義や参政権の何たるかを知らず、地税の支払いと日々の生活の糧を得ることだけが全てであって、顔を合わすと「宣統帝陛下はお達者か」「俺たちには、ひとつもいいことがない。本物の龍(皇帝)が、もう一度お出ましにならねば…」と言い合うばかり。北にはソ連邦が成立し、国内では「5・4運動」の波が広がる中、シナの民衆は、なおほとんどが皇帝の支持者であった。



『 満州は清室の古い故郷であった。その後は(清朝成立後は)、独自の言語と風習を持つ独立民族としての満州族が徐々に姿を消しつつあったけれど、王朝に忠節を尽くす人々がすこぶる大勢いた。だからこそ満州は、革命で積極的な役割を演じなかったのである。
 …、外蒙古は、1911年(辛亥革命)まで自国が「シナに従属」するのでなく、「大清国に従属」するものだとみなしていた。だから皇帝が退位し、シナが共和国となった1912年に外蒙古独立したのだ。…、ここにロシアのつけ入る隙が出来たのである。 』
 このような事実を知っている私には、リットン報告書の「満州の独立運動について、1931年(満州事変)以前、満州地内では耳にもしなかった」という一説は説明しがたく思われる


 1923年、16歳になった皇帝溥儀は内務府に対して宮殿の宝物目録を提出するように指示した。何世紀にも渡って封印されていた宝物が溥儀の前に並べられて次々と検閲されていったが、やがて目録と実物とが符合せず、いくつかの宝物が紛失していることが判明した。溥儀は、自ら宝物が保管されている部屋や宮殿を調べると言い出した。
 …、宝物の収められた「建福宮」が炎上したのは、6月27日の夜明けであった。内務府の役人たちは大騒ぎしながら、駆けつけたイタリア人消防士が火を消さないようにと仕向けていた。
 消失した宝物(仏像・仏具・絵画・磁器・宝石・装身具・青銅器・衣服・書物など)は6643点に上ったという。内務部の調査が行われたが、はっきりした出火原因は判らず、当然ながら責任者(放火犯人)もあやふやに終わってしまった。
 火災から18日後、溥儀は数千年間もシナ宮廷に存続した制度を廃止し、宦官職員全員を紫禁城から追放した(宦官は周王朝(BC11世紀)以来の制度)。解雇される宦官の略奪など不法行為を防ぐため、宦官を中庭に集合させ、皇軍兵士の監視下でそのまま城外に退去させたのである。その後、私物整理と退職交付金を受け取るために、数名ずつが城内に入り、また退去していった。
 ただ、3人の先帝の皇太后を世話する50人ほどの宦官だけは、溥儀にも手のつけられない聖域であった。
 シナの新聞は、皇帝の宦官廃止を一様に褒め称え、品性と知性の向上、近代思想を進んで受容しようという姿勢に賛辞を贈った。


 1924年、北京近郊にいた馮玉祥の軍隊がクーデターを起こし北京を制圧した。内乱はさらに頻繁になり、シナとシナの国民にとってますます悲惨で残酷な状況が続いた。
 馮玉祥の軍は紫禁城を封鎖、自由な出入りが出来なくなった。
 紫禁城に向かった私(ジョンストン)は城内に入ることを拒否され、英国公使のマクリー卿と会いオランダ公使(外交団の長)、日本公使(芳沢健吉)を交えて皇帝の身を守ることを確認した。
 11月5日、紫禁城に現れた馮玉祥の軍隊は、宮殿の近衛兵の武装解除を命じ、皇帝の3時間以内の城外退去を命じた。交付された書状には、馮玉祥軍参謀の鹿鐘麟、北京市長の王芝祥、警察長官の張壁が連名していて、彼らは中華国民政府と自称している小派閥に属している連中だ。
 溥儀は身の回りのものを持って、父親である醇親王の屋敷に移った。莫大な皇室財産は、1912年に中華民国政府との間に取り決められた「帝室優待条件(帝位の保障・皇室財産の保持)」を
一方的に破棄して没収された。


 11月、馮玉祥の新たなクーデターの噂を聞いて、私(ジョンストン)は君主派の忠臣である鄭孝胥と珍宝?と相談して、皇帝の身を醇親王の屋敷からもっと安全なところへ移そうと計画した。
 一切の荷物を持たずに皇帝を車に乗せ、馮玉祥軍の兵士がいる本通りを避けて、公使館区域内のドイツ病院へ入った。
 皇帝を病院のディッパー博士に預けて、私(ジョンストン)はまず日本公使館に向かった。(なぜ、真っ先にジョンストン氏の母国である英国大使館に保護を求めなかったかというと、以前にマクリー英国公使に溥儀の受け入れを打診したとき、シナへの内政干渉と受け取られかねない行動であると難色を示したいきさつがある。)ところが、芳沢日本公使は留守で、オランダ公使館の公使もやはり外出中…。最後に英国公使館へ行き、マクリー公使に、「皇帝が公使館区域に来ている」ことだけを話した。
 午後3時、芳沢日本公使と面談。「日本公使館で皇帝を受け入れて欲しい」と懇願したが、すぐには返事をくれなかった。しばらくして「皇帝は受け入れるが、ここは一旦ドイツ病院に戻り、伝言を届けるまで待機して欲しい」と言う。
 私(ジョンストン)がドイツ病院に戻ると、皇帝はいない。「どこへ行ったのか」と聞くと、「日本公使館に行かれた」と言う。謎は、じきに解けた。私が出かけてしばらくしてから、一刻も早くどこか安全なところへ皇帝を非難させたいと望んでいた鄭孝胥は、個人的に面識のあった日本公使館護衛隊長の竹本中佐に保護を求めたのである。皇帝は、竹本中佐の私邸にいたのだ。それから1時間ほどして、皇帝は日本公使館の公私邸に移った。


 のちにシナ・満州・日本を巻き込んだ政治的事件を考慮に入れると、シナの新聞やその他のいたるところで、「日本公使が皇帝を受け入れたのは、日本の帝国主義の狡猾な策略の結果であり、彼らは皇帝がやがて高度な政治の駆け引きのゲームで有力な人質になりうることを見越していたからだ」という宣伝があるが、日本公使は、私(ジョンストン)本人が知らせるまで、皇帝が公使館区域まで来ていることを知らなかったのである。また、私本人が熱心に懇願し、皇帝が望んだからこそ、芳沢公使は皇帝を日本公使館で保護することに同意したのである。日本の帝国主義は、龍の飛翔(溥儀の満州皇帝就任のこと)とは何の関係もない。


 皇帝は、1924年11月29日から翌年2月23日までの数ヶ月間、日本公使館の賓客であった。私たちはときに一緒に公使館区域の中を散歩したりしたが、皇帝がその区域の外に出ることはなかった。


 1925年、孫文、北京で客死。


 1925年2月から1931年11月まで、天津の人目につかない日本租界内で、皇帝の物寂しい逗留生活が7年間も続いた。
 シナの新聞の中には嘘偽りを並べるものもあって、「日本人は皇帝を口説いて日本に行かせようとしている」とか「シナに対する政治道具として利用するかもしれない」などと書き立てていた。だが、日本政府は「日本や日本の租借地に皇帝がいては、ひどく困惑する」との旨を、私を通して皇帝に伝えていた。


 1925年、ジョンストン、帝師を辞任。翌26年、一時 英国へ帰国。
 1926年、蒋介石の北伐開始。張作霖、北京占拠。
 1927年、蒋介石の国民党が南京政府樹立。
ジョンストン、弁務官として威海衛へ再来。


 1928年7月、清帝室の御陵(墓所)が、何者かに破壊・冒涜された。東陵はダイナマイトで爆破され、乾隆帝や西太后の遺骨は散乱して、埋葬品が略奪された。皇帝は、皇陵の保護を約束していた国民政府からの同情や遺憾の言葉が寄せられるものと思っていたが、国民党も南京政府も哀悼や悔恨のそぶりもなかった。
 このとき以来、皇帝のシナに対する態度が一変した。いつかシナも正気に戻り、関係も上手くいくだろうという希望を捨て、300年前に帝国の礎を築いた満州に視線を転じよと、先祖の霊魂にせきたいられているのではないかと思ったほどだ。


 1928年、張作霖、爆死。
 1930年、威海衛が中華民国に返還され、ジョンストンは帰国するが、その翌年、また
      義和団事件の後始末と太平洋会議の英国代表団の一員として、再々來支。


 1931年、柳条湖事件(満州事変)が起こった。10月、再々度シナを訪れた私(ジョンストン)は、直ちに天津に向かい皇帝と会った。そのときの話題はただひとつ…。
 11月13日、上海にいた私の元に届いた1通の電報で、皇帝が天津を去り、満州へ向かったことを知った。
 シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。この説は、ヨーロッパでも広く流布し、それを信じるものも大勢いたが、それは真っ赤な嘘である。
 いうまでもないが、皇帝は蒋介石や張学良のような連中を頼るはずがない。満州に連れ去られるのが嫌ならば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話である。皇帝は自分の意思で満州へ向かったのであり、その旅の忠実な道連れは鄭孝胥とその息子の鄭垂だけであった。
 (7年間、日本の保護の下、天津の外国公館租界で過ごした溥儀は、陸相南次郎大将に「満州国皇帝となって、龍座に復することを願う」との書簡を送り、その希望の通り、彼は皇帝として祖先の土地に帰ったのである。)


 北へ向かう皇帝の列車はあちこちで停車し、地方官吏や人々が君主のもとへ敬意を表しに集まった。
 皇帝溥儀は、シナの政府への忠誠をことごとく拒み、シナの宗主権の要求もすべて拒絶することを全世界に知らしめるために、帝号と身分を継承し、「大満州国」(満州民族の国)の皇帝となったのである。』


 「紫禁城の黄昏」は、溥儀が満州へ向かったところで終わっている。この書の読後感は、やはり満州帝国の皇帝となった溥儀と、東京裁判で「私は日本軍閥の強制で皇帝にさせられた傀儡であった」と証言した溥儀をなしにしては語ることは出来まい。
 その3として、満州へ渡った以後の溥儀を見つめ、その上で総括したいと思う。





【124】 紫禁城の黄昏(上)  
     (RFジョンストン、(訳)中山 理、祥伝社)         2007.10.27


 清朝のラストエンペラー溥儀(のちの満州皇帝)の家庭教師であった、英国人ジョンストン氏が著した、清朝崩壊当時の皇帝・皇族と内務府、それを取り巻く役人、革命勢力、軍閥、民衆の様子の記録である。


 ジョンストン氏は25歳のときに香港の英国領事館に着任。館員としての仕事のかたわら、中国各地を旅して、山東省の済南では孔子廟に墓参したり、長江をさかのぼってチベット西部を抜けビルマに至り、「北京からマンダレーへ」「シナ北部の獅子と龍」などの冊子を著した。
 1919年、45歳のとき、清王室の要請によって、13歳の溥儀に英語を教える家庭教師に就任、生まれてから紫禁城の外へ出たことのない少年皇帝に、英語の指導のみならず世界地理・西欧の政治体制・民主主義などを語ったのである。
 それから7年間、1925年に氏が帝師を辞するまで、過酷な歴史のうねりにさらされた皇帝は、外国人ゆえに宮廷内の利害や革命派の策謀から離れた位置にいるジョンストン氏を信頼し、二人は常に親密な関係を築いていた。そして、1924年11月5日の皇帝の紫禁城脱出に、氏は決定的な役割を果たすのである。
 本書は、このように宮廷内でいつも若き皇帝のすぐそばに居て、彼の内面にも深くかかわった、シナ人でも日本人でもない、英国人家庭教師の目で見た記録である。


 今回、この本を読み直してみようと思ったのは、ひとつは、南下するソ連の脅威の防波堤として、満州族が父祖の地に建国した「満州帝国」を後押ししたのは、中国への主権侵害であったのかどうか。
 そしてもうひとつ、辛亥革命によって清朝が倒され、ラストエンペラー溥儀が馮玉祥の反乱軍に紫禁城を追われたとき、日本公使館が彼をかくまい、8年後、満州皇帝に擁立したのは、当時の国民政府が宣伝し、東京裁判がそのように断罪し、戦後の日本がそうであると信じ込んでいるように、日本が彼の身を拉致して日本公使館へ置き、嫌がる彼を、満州族の人々の意に反して行ったことなのかどうか…ということを確認したかったからである。


 それでは、『紫禁城の黄昏』ページをめくることにしよう。(以下、『』内に引用した記述は、ジョンストン氏の言葉のままである。青字は出来事。()内は僕の補足)



 『 1894年、日清戦争(〜95年)


 (欧米列強の世界分割の嵐にさらされていた中国は)日清戦争の敗戦によって、政権は大きく揺らぎ、国内には改革の機運が高まった。三国干渉によって日本から返還させた領土を、ロシアは自ら占領し(旅順港の租借など)、満州全土においてもその軍事的地位をすこぶる強固なものにしていた。
 シナの人たちは、満州の領土からロシア勢力を駆逐するためにいかなる種類の行動も取ろうとはしなかった。もし日本が日露戦争でロシア軍と戦い打ち破らなかったら、満州全土とその名まえがロシアの一部になっていたことは、疑う余地のない事実である
 1907年、徐世昌が漢人としてはじめて満州総督に任命された。これは清王室が満州人と漢人の融和を図ったもので、もともと満州は満州王室の祖国であり、常に王室直轄の軍人総督によって管轄されてきた。シナの革命主義者(中華民国政府)は、満州人は異民族であり征服者だから、漢人を支配する権利はないと主張した。


 時の清朝皇帝「光緒帝」は政治改革を断行しようとしたが、既得権を脅かされる皇族や宮廷官僚ら旧体制は、依然として勢力を誇っていた西太后と結んで光緒帝を廃し、改革派を一掃した(1898年、戊戌の政変)。


 1900年 義和団事件


 光緒帝の弟(醇親王)の子が「溥儀」である。1908年、光緒帝、西太后が相次いで死去し、3歳の溥儀が「宣統帝」と号して即位、父親の醇親王が摂政となった。
 1911年、武昌で反政府の武装蜂起(辛亥革命)が起こり、朝廷は袁世凱を清朝軍司令官に任命するが、革命派との不可解な妥協がなされ、中華民国が成立、孫文は臨時大総統(総理大臣)に就任した。宣統帝は退位、新王朝は滅亡したが、帝室の存続と財政は保証された。
 袁世凱はのちに大総統に就任し(1913年 第二革命、この戦闘に破れた孫文は東京へ亡命)、さらに帝位に就こうとするが、内外の反発を受けて断念、失意のうちに病没した。


 このあとシナには、「革命は革命の子を貪(むさぼ)り食らう」のことわざのごとく、英雄・愛国者と祭り上げられた者も、明日には反逆者・犯罪人として処罰されるような混乱が続いたが、1918年、張作霖が満州から北京に入って、政治は小康状態を取り戻した。
 (混乱を極める中華民国政府に、シナの人々は何の評価も支持も与えなかった。当時4億5千万人を数えた人民は、その90%が文盲で、孫文をして「この人たちには民主主義の何かを説いてもムダである」と嘆かせている。この頃のシナの民のほとんどは、皇帝専制の政治を望んでいたのである。)
 この間には、張勲の腹辟(ふくへき)運動のように、清王朝を再び興そうという動きもあったのだが、シナの歴史に繰り返して見られるように、人が大儀のために何かをしようとし、あるいはすると、いつも嫉妬心や猜疑心で同志や友だちと思っている人に裏切られる結果に終わり、シナ社会は底知れない混迷に陥っていった。』


 1919年、ジョンストンが13歳の皇帝溥儀の家庭教師に就任した。彼は、清王朝衰退の最大級の原因として「内務府」の腐敗を挙げている。


 『(皇帝として政務を取る権限を剥奪されてからも、3千人の官吏がいたという)内務府は、皇帝のために働く組織ではなく、自分たちの既得権益を守る機関であり、内務府自体を自己目的と思い込んでいる。だから、宮廷の改革によって経費が節減されると、自分たちの取り分が少なくなるために、改革に反対するのだ。彼らは、10人で1人分の仕事をして20人分の俸給を取っている。
 この組織は政府六部(省)のひとつではなかったけれど、宮廷の日常と皇帝の財産を管理するだけでなく、この機関を通じて皇帝は政府のもろもろの高官・省と政治という業務を行うわけである。内務省の権限と影響力は大きく、悪名をとどろかせながら政治の世界にその勢力を伸ばし、シナの公的生活が腐敗していくのを助長した。』…と。


 (康熙・雍正・乾隆と続いた清の全盛期にも、後期になると官僚の腐敗は目に余るものがあり、乾隆帝の側近であった和伸(わしん、ホチエン)が没収された私財は8億両に達したといわれる。当時の清朝の歳入は約7千万両だったから、これは国家の歳入の11年分以上という巨額である。フランスの太陽王ルイ14世の全盛期の財産が2千万両と換算されているから、これはその40倍に当たる。シナ人の汚職癖は歴史的なものと言うべきなのだろうか。【世界史研究より】)




【123】 レックス・ムンディ ― ダビンチ・コードを読み解く鍵 ―  2006.06.24
                          (荒俣 宏、集英社、475ページ)


 「ダビンチ・コード」、本を読む時間がないままに映画を見た。
 映画は、深夜のルーブル美術館…。凶器を手に持った男から逃れる一人の老人…ソニエール館長の足音から始まる。
 あらすじ…『 ルーブル美術館のソニエール館長が異様な死体で発見された。死体はグランド・ギャラリーに、ダ・ヴィンチの最も有名な素描<ウィトルウィウス的人体図>を模した形で横たわっていた。殺害当夜、館長と会う約束をしていたハーヴァード大学教授ラングドン(トム・ハンクス)は、警察より捜査協力を求められる。現場に駆けつけた館長の孫娘で暗号解読官であるソフィー(オトレィ・トトウ)は、一目で祖父が自分にしか分からない暗号を残していることに気付く。
 そのメッセージには、ラングドンの名前が含まれていた。彼は真っ先に疑われるが、彼が犯人ではないと確信するソフィーの機知により警察の手を逃れ、二人は館長の残した暗号の解読に取りかかる。フィボナッチ数列、黄金比、アナグラム…数々の象徴の群れに紛れたメッセージを、追っ手を振り払いながら解き進む二人は、新たな協力者を得る。宗教史学者にして爵位を持つ、イギリス人のティービングである。
 ティービング邸で暗号解読の末、彼らが辿り着いたのは、ダ・ヴィンチが英知の限りを尽くしてメッセージを描き込んだ<最後の晩餐>だった。そしてついに、幾世紀にも絵の中に秘され続けてきた驚愕の事実が、全貌を現わした! 』…と、ここまでは紹介サイトにも記載されている。


 この先は、これから映画を見ようとしている人は、読まないでいただきたい(笑)とお断りして、僕の解釈による映画の説明を進めよう。
 「 キリスト教的には、ゴルゴダの丘で磔刑に処せられたのち、7日後に復活したイエス・キリストは、マグダナのマリアなる娼婦と結婚し、子どもをなしたという伝説がある。この「ダビンチ・コード」はその伝説をもとに、聖地での迫害を逃れてフランスの片田舎に逃れたマリアが、そこで子どもを生み、ロリンス礼拝堂に葬られたという筋書きを組み立てる。
 その遺骸と子孫を守るために、シオン修道会、テンプル騎士団などが組織され、その総長がレオナルド・ダ・ビンチやアイザック・ニュートンであった。冒頭にルーブルで殺害されたソニエール館長は、現在の総長であり、その孫娘として育てられたソフィーこそが、キリストの血を受けた末裔であった。
 ソニエール館長を殺害した相手は、キリストの子孫の存在を許そうとしない、バチカン法王庁の中の秘密結社『オプス・デイ』の手のものであった。『聖杯』は、キリスト教ではゴルゴダの丘で磔刑に処せられたイエス・キリストの遺体から流れ出た血を受けた盃をいうが、この「ダビンチ・コード」ではマグダナのマリアの遺骸こそが聖杯であるとし、キリストの子孫を絶やそうとするものたちは、ソフィーの命とともにマリアの遺骸をも抹殺しようとして、ソフィーたちと秘密結社『オプス・デイ』との暗闘が繰り広げられていく。
 やがて、『オプス・デイ』は壊滅し、ソフィーたちはロリンス礼拝堂の地下でバラの花瓶が置かれた棺を発見する。
 事件を解決したラングドン教授はホテルへ戻るが、暗号に込められた一節に思い当たり、深夜のルーブルに向かう。ガラスのピラミッドの下には、マリアの石棺が安置されていた。」
 と、映画はここで終わる。
 このラストシーンを見た僕は、「ダビンチ・コード」の著者ダン・ブラウンは、「ルーブルの地下にあったのが、本当のマグダナのマリアの棺である」といっているのか…?と疑問に思った。「これは、本を読むしかない」と思って、県立図書館へ出かけたのである。


 しかし、図書館の「ダビンチ・コード」は、全巻貸し出し中。予約73人待ちという盛況振りであった。そこで、関連の本をと探したところ、「ダビンチ・コード」の『あとがき』を書いたという、作家にして翻訳家、博物学研究家にして神秘・幻想学の権威、まさに博覧強記の怪人…という紹介もあり、最近テレビでも時々見かける小太りのおじさん荒俣 宏の著書「レックス・ムンディ」なる本に巡り会った。
 どんな本かというと、『1996年5月、考古学者であり、著名なレイハンターである青山譲が、8年ぶりに日本に帰国した。「N43―シオンの使徒教団」と称する宗教団体に呼ばれたのだ。
 少年の姿をした教祖アスモデと聖母マスミの依頼で、青山はフランスのレンヌ・ル・シャトーなる神代の土地の遺物をふたたび発掘することになる。レンヌに向かった青山は、発掘をつづけている老医師、アンリ・ファタンと再会する。二人はふたたび「遺物」を発掘することに成功するが、「遺物」はフランス警察と、青山の宿敵の井村秀夫によって奪われてしまう。
 「遺物」の正体とは何か…。
 

 ローマ法王庁の記録に、1800年代の後半、フランス南端の片田舎にあるレンヌ・ル・シャトー教会に、法外な資金を使って教会を改築し、贅沢三昧の暮らしをする司教の話が残っている。33歳のハンサムで教養ある司教の名はベランジェ・ソニエール。1886年ごろ、4枚の羊皮紙を発見したソニエールは、カルカソンヌに旅立ち、そこを治める司教代理に会った。その旅のあと、彼は一躍大金持ちになる。
 その理由は、ソニエール自身黙して語らずに没したので、今もって解らない。一説には、キリスト教にかかわる重大な秘密を知った彼に、法王庁は莫大な金銭を与えて秘密を守ったのだとも言われているし、また、この地に埋められていた王侯貴族の財産を見つけたのだとも言われている(今はパリから飛行機・電車・バスと乗り継ぎ7時間ほどかけて訪れる南フランスの田舎だが、かつては西ゴート王国の都があったのだから…)。しかし、その真相が謎に包まれているところに、荒俣 宏氏の推理が駆け巡り、「レックス・ムンディ」のストーリーが展開される。


 物語の先を急ごう。 レンヌ・ル・シャトーに眠るという財宝、聖杯伝説、シバの女王…などの胸躍る秘話や、クレタ島・ナザレ・キプロス・メッカ…など北緯43度ラインの奇跡(「N43―シオンの使徒教団」の名前の由来)、ストーンヘッジ・カルナック・インカ帝国のサクサイワマンの城壁・コスタリカの石球・大和明日香の石舞台など巨大遺跡の謎解きをしながら、青山 譲はレンヌ・ル・シャトーの地下で、イエスキリストの遺骸を発見する。しかし、たどり着いたイエスの遺体は、恐るべき繁殖力と感染力を持つ未知のウイルスに侵されていた。
 ソニエールが財宝を掘り当てたという噂を聞いた人々は、手に々にシャベルやツルハシ、あるものはダイナマイトを持って、1900年初めからレンヌ・ル・シャトーへと群がった。そして100年…、世界の病院で 未知のウイルスによる奇病が見つかっている。 』


 今も、南仏の片田舎「レンヌ・ル・シャトー」へは、飛行機、鉄道、バスに乗り継いで、年間2万人の参拝者が訪れるという。訪れた人の紀行を読むと、終点のバスの停留所から登りの坂道を1時間30分ほど歩いたとあったから、できれば車で行くのがよいかも知れない。その人も、「ヒッチハイクでも何でも、とにかく車が欲しい。歩いていると、荷物を放って行こうか何度も思った」と書いている。
 ちなみに、「レックス・ムンディ」とは「世界の王」の意味である。


PS 「ダビンチ・コード」では、その聖杯…マグダナのマリアの遺骸は、ルーブルの地下に
  眠っていると描いていることも判って、トム・ハンクスが最後の場面でみせた行動の意味
  も解った。
  キリスト教について語れ…と言われたら、2時間は喋れるほどの材料が出来たぞ(笑)。


 読書トップページへ

本のムシ 7

 つらつらと読んだ本の読書感想文です。なかなか前札の感想を書いている時間がないのですが、できるだけアップしていくつもりです。