【127】 昭和天皇のゴルフ (田代泰尚、主婦の友社)          2014.07.14 

         (表記には、文章を簡素化するために敬語の使用を少なくしています)

1番ホール
  日本のゴルフの草分けの昭和天皇

 昭和天皇(当時は皇太子)は、西園寺八郎(宮内省式部官、明治の元勲西園寺公望の娘婿)の薦めにより、ゴルフクラブを握ることとなった。
 宮内省関係者にゴルフを理解するものが居らず、八郎は東宮傅育官らを開場3年目の東京ゴルフ倶楽部駒沢コース(大正3(1914)年6月創設)へ案内して、「ゴルフは心身を鍛錬することができるとともに、紳士であることが求められ、帝王のスポーツにふさわしい」という納得を得られたという。
 皇太子にお使いいただくゴルフクラブはどうするか、すぐさま三井物産ニューヨーク支店長の井上信(1918年日本アマチャンピオン)らに献上クラブ3組を揃えるようにと依頼すると、在留邦人ゴルファーたちは非常に感激してクラブ選定委員会を組織し、当時最高級のスラセンジャー社製のクラブ3セットを選んで、日本へ発送した。
 新しいクラブを手にした皇太子は、西園寺八郎らから高輪東宮仮御所の芝生の庭で手ほどきを受けられた。次いで、新宿御苑の広い芝生場において、ご学友達とともにロングショットの練習に励まれた。
 昭和天皇の初ラウンドは、大正6(1917)年8月19日、箱根仙石原ゴルフコースにおいてであった。その後は箱根のコースとともに、大正7年1月に完成した田子の浦砂山運動場(海岸の砂浜15000坪に造成した数ホール)にても、秩父宮、高松宮、ご学友らとともに、ラウンドを楽しまれている。


2番ホール  東京ゴルフ倶楽部の創設と黎明期の日本ゴルフファー

 大正3(1914)年、上野公園で新しい産業時代の到来を告げる「大正大博覧会」が開催された。この前年の12月、井上準之助(日銀総裁、大蔵大臣)が主唱し、30人の発起人が「東京ゴルフ・アソシエーション(後の東京ゴルフ倶楽部)」の創立趣意書を発議している。
 大正3年1月22日、コース建設の鍬入れ式。計画では全長2300ヤード9ホールだったが、6月に6ホールが完成して仮開場された。その後間もなく、大正博覧会の迎賓館の払い下げを受け、什器備品から赤じゅうたんまですべてそのまま移築して、クラブハウスとした。

 日本人ゴルファー第1号は水谷叔彦、海軍機関学校を卒業後、英国の海軍大学に留学し、1896(明治29)年、友人の手ほどきでゴルフクラブを手にしてブラックヒースに出かけ、自らの日誌に『ゴルフィングを為す』と書き残している。
 同じ頃の1899(明治32)年、新井領一郎(日本産生糸を持ってアメリカに渡り、日本初の生糸直輸出を実現した実業家)があニュージャージー州アトランティックシティにあるノースフィールドコースでゴルフを始め、ニューヨーク在住の日本人商社マンたちにさかんにゴルフを勧めたとある。ゴルフ関係の本には、日本人による日本人のための(東京ゴルフ倶楽部)駒沢コースを開いた井上準之助を「日本のゴルフの父」としているものが多いが、その井上にゴルフを勧めた新井領一郎は「日本のゴルフの祖父」というべきか。
 その後、プリンストン大学に留学していた赤星六郎が、留学中、1924年パインハースト・スプリングトーナメントに優勝。後輩にあたる近衛文隆も同大学ゴルフ部のキャプテンを務め、帰国している。残念ながら、近衛は第二次世界大戦でシベリアに抑留され、客死(この顛末は別項に掲載)。もし近衛が生還していれば、日本ゴルフ界はアメリカにもっと早く近づけたという人もいる。


3番ホール  ヨーロッパ訪問と海外初ラウンド

 大正3(1914)年、ヨーロッパを戦場として第一次世界大戦が始まった。この年、日本で開催された大正博覧会は746万人の入場者を記録して7月31日に終幕した。
 皇室では、@大正天皇の心身の状態が悪化。A1917年1月に裕仁皇太子の妃選びが始まり、久邇宮邦彦王の第一女良子女王がご予定と発表、1919年6月ご内定との沙汰書が出された。B裕仁皇太子がヨーロッパに外遊して見聞を広めるべきだとの声が高まる。などの動きがあった。
 第一次大戦を終了したイギリス王室では、「日英同盟」の相手国というだけでなく、身内同士(いとこたち)の争いのあと、同じ君主制を執る日本皇室の皇太子を招きたいとの意向もあった。

 大正10(1921)年、3月3日、裕仁皇太子はお召し艦「香取」に乗船し、随艦「鹿島」の先導のもと、横浜港を出立した。随伴する閑院宮載仁殿下以下随員35名、艦隊乗組員1883名。
 6日沖縄、10日香港、18日シンガポールに入港。ここでの晩餐会のため、船内ではスープを飲むときに音を立てる皇太子のために、食事マナーの特訓講習会が行なわれたとある。
 
 28日、スリランカのコロンボに到着。総督夫妻と西園寺八郎式武官をお相手に、リンクスで海外初のゴルフを楽しまれた。
 船旅の途中は、フランス語や英語の会話、フランス革命史、欧州政情などのご習得のほか、毎日デッキゴルフを楽しまれた。

 5月9日、ポーツマス港に入港。英国王室晩餐会やケンブリッジ大学での特別講義、日本人会の歓迎会、地方の公爵家の訪問などをこなされたのち、29日、アディントンのゴルフ場にて、皇太子殿下のために催されたイギリスのプロ名手の模範競技を観戦されたのである。

 5月31日、パリ着、フランスは非公式訪問であった。それでも9日間にわたり、大統領晩餐会、パリ見物、大統領同伴のオデオン劇場でのマクベス観劇などをこなされている。
 6月10日からはベルギー訪問。15日、オランダへ。20日夜、パリに帰着。

 パリで皇太子は、郊外の「ラ・パンリエ・ゴルフ場」において、7月2日、西園寺八郎・井上子爵・前田公爵、5日には皇太子・八郎・前田公爵と東久邇宮・井上子爵・前田みなこ・クラブのプロの2組でラウンドされた。
 「ラ・パンリエ・ゴルフ場」は、現存するのか、どこのゴルフ場なのか、判然としない。「ラ・パンリエ」= La Banlieue(ラ・バンリウ…郊外)の意味かもしれない…とある。


4番ホール  日英同盟の終結と希土戦争

 裕仁皇太子がヨーロッパ外遊に出かけた当時の大きな外交上の出来事は、「日英同盟」の解消であろう。
 日本の対中国進出によってアメリカや中国は日英同盟の廃棄を望み、そんな中で1912年、英帝国議会が開かれた。ロイド首相をはじめとする英国首脳やオーストラリア、ニュージーランドは継続を主張するが、アメリカ、インド、南アらに加えて、カナダは万一日米戦争の場合に自国が対米戦争に巻き込まれる恐れがあるとして強硬に反対、日英同盟に代わるものとして日米英華による四カ国会議を提唱した。
 第一次世界大戦で自治領に多大な負担を強いたイギリスは発言力を低下させ、アイルランド独立問題を抱えてアメリカと揉めたくない。大正10(1921)年11月、英米日仏伊によるワシントン軍縮会議が開催された。

 これに先立つ大正8(1919)年、イギリスの援助を受けたギリシャが、トルコのイズミールに侵攻した(希土戦争)。トルコは現在の領土の3分の1に減少、残りはギリシャ、フランス、イタリアなどに分割統治されることとなった。これに対してムスタファ・ケマル(のちのアタチュルク)はアンカラ政府を樹立、22年にはイズミールを奪還してギリシャ軍は総崩れ、イズミ−ル陥落の混乱の中、積荷を捨てて難民を救助した日本の船があったという。攻勢のトルコ軍は、ダーダネルス海峡の北を守る英仏駐屯軍を攻撃する構えを見せた。
 「日英同盟」には「同盟国の一方が交戦中のときは、講和の成立まで同盟は継続する」との項がある。「希土戦争」終結まで、同盟は継続された。
 第一次世界大戦の敗戦で弱体化していたトルコの領土を奪おうと侵攻したギリシャは、国内でクーデターが起こって王政派と共和派が暗闘を繰り返し、またアナトリア地方のギリシャ正教徒130万人を受け入れて経済は破綻した。混迷は今日まで続いている。


【今日はここまで…。続きは、また近日…】


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