【読書170】
 プリンス近衛殺人事件   2011.10.25
  ( V.A.アルハンゲリスキー 著、 瀧澤一郎 訳、 新潮社)



 ソ連共産党機関紙「イズベスチヤ」の副編集長を務め、ロシア国会専門員、イズベスチヤ誌別冊週刊ニェジェーリャ誌編集長、ウズベキスタン国会議員、タシケント市長などを歴任した、アルハンゲリスキー氏による、大東亜戦争終戦時の日本人将兵・満州開拓民ソ連抑留の記録である。
 ミステリー小説のような題名だが、関東軍に陸軍中尉として在籍していた近衛文隆はシベリアに抑留され、元首相(近衛文麿)の嫡男であることを知ったソ連当局は「スパイになれ」と連日拷問と言うべき尋問洗脳を行うが、頑として首を縦に振らぬ文隆に、−40℃のシベリアラーゲリ(収容所)をたらい回しにし、ついには死に至らしめる。
 戦争捕虜としての扱いを受けられず、一度の裁判も開かれないままに犯罪人とされた近衛文隆が収容所で衰弱していく様子を描きつつ、筆者は膨大なソ連当局の秘密文書をもとに、シベリア抑留日本人の驚くべき実態を掘り起こしていく。
 例えば、ソ連軍によるシベリア抑留の日本人は今までの定説では60万人。うち6〜7万人ほどが−40℃の極寒の中、スープ一杯とパン一切れの食事、着のみ着のままの衣服で強制労働に狩り出されて命を落とし、帰国を果たせなかったと言われている。
 が、スターリンの秘密の金庫に秘匿された文書には、「105万2467人」という数字が記されている。クレムリンの内部で、マリク外務次官からソ連情報委員会議長モロトフ宛ての文書に、「1946年12月4日付け政府決定により、ソ連領からの日本人の本国帰還が開始された。帰還該当者105万2467人のうち、すでに10万1075人が送還された。…」とあるのだ。
 が、なお、その記録の対象となっている収容所の数は限られていて、未集計のものをここから推計すると、収容群島と形容されるソ連全土のラーゲリーに抑留された日本人の数は、軍人と一般市民を合わせて250万人以上にのぼるとアルハンゲリスキー氏は指摘する。終戦時、満州にいた関東軍将兵は130万9000人、うちこのときまでに帰還したものは5万9209人、残りの124万9791人はどこへ行ったのか。北朝鮮にいた23万2000人、千島列島4万3345人、樺太44万9000人は…? ロシア地域内にいた人数は掌握すらされていない。もちろん、満蒙開拓に従事し、訳も解らないままにソ連軍に拉致された、一説には100万人を越えるといわれる、膨大な数の一般市民はこの数字には入っていない。
 昭和20年〜21年の冬のラーゲリーでの死亡率は10%、ところによっては20、30、50%…、80%に達したところもあったという。ベリヤ警察長官(元帥・副首相、のちに銃殺刑)がスターリンに宛てた報告には、「1945年〜46年の冬に、広島原爆の死亡者18万人の2倍を上回る死者が出ました」とあり、それに対してスターリンは「労働力の不足をどうするのだ」と叱責している。彼らにとっては、何十万人もの人の死は、何の感傷も良心の呵責も覚えない、日常茶飯事であった。
 

 極寒の湿った強制収用所の一室から、近衛文麿は身に覚えのない「国家反逆罪」という罪状に対する再審を訴え続け、日本国内の家族も帰還への嘆願を繰り返した。新婚6ヶ月で陸軍二等兵として入隊した近衛文麿は、戦争が終わってのち11年を経てもシベリアに留め置かれ、繰り返される「スパイとして働け。ならばすぐに帰国できる」というソ連当局者たちの勧誘を断固として拒み続けた。
 『ソ連首相 マレンコフ様。
    私は日本人捕虜近衛文隆の妻でございます。
    …。
    老母も息子近衛文隆の帰国を待ち焦がれております。夫とともに平和に幸福に暮らせます
   ようご高配を心よりお願い申し上げます。
    …。                                   かしこ
    1954年12月24日                         近衛正子
 国際赤十字による帰還事業が始まって後も、近衛文隆の名前は待ちわびる家族の期待もむなしく、帰還者名簿に掲載されることはなかった。妻正子は幾度となくソ連最高指導者(このときすでにスターリンは死去し、あとマレンコフ、フルシチョフと続く)に向けて嘆願の手紙を送ったが、一顧だにされることはなかった。
 日本国内では近衛文隆の帰還運動が盛り上がり、元首相の嫡男のソ連抑留は国際的にも大きな話題となっていた。
 しかし、話題の人の帰還は、ソ連当局の望むものではなかった。1956年10月29日午前5時0分、コノエフミタカ死亡。死因、脳溢血。チェルンツィ収容所のオルロワ女医が記したカルテの記述である。
 1946年にルビャンカ監獄に収監されてから、1951年ブトルイカ監獄、1953年イルクーツク監獄など、ソ連国内を転々と移監された近衛文隆であったが、この間14回の健康診断のカルテには「異常なし」との結果が残っている。チェルンツィ収容所に移されてきた6月は、日ソ交渉が大詰めの段階を迎えていた。
 収容所内の病室で、風邪を引いて入院してきた文隆と同室であった太田米雄元陸軍中将は、帰国して後に、「10月28日、近衛文隆さんは、風邪を引かれたのか入院され、私と同室となりました。28日夜、担当の女医が『他のものは他所に移れ』と指示を出し、私は午前4時20分ごろ病室を出ました。」と語っている。…、そして、午前5時05分の死亡!


 近衛文隆の突然の死に、著者アルハンゲリスキー氏は、ロシア国家保安部が決めた死…、すなわち計画的な強制死であると断じている。
 近衛文隆の他にも、昨日まで元気であった人々…、野溝武彦元第26師団長、向井敏夫満州国第一軍兵器部長、小野行守第一方面軍兵器部長、柳田健三大連軍区司令官、村上啓作第三軍司令官、秋草俊情報部少将、河越第五軍参謀長…などなど、死因が「脳出血・心臓麻痺」と記されて、突然に亡くなった人たちは枚挙にいとまがない。ソ連に、関東軍指揮官のほぼ全員170名の将官が拉致されているが、そのうちの37人…21.8%が亡くなっている。
 宇喜田誠一第一方面軍司令官の死亡は、1946年7月20日にマッカーサー米軍元帥から、「宇喜田はどこにいるか?」との照会がソ連軍参謀本部にもたらされた。ソ連政府は、「宇喜田はソ連にはいない」と返答し、8月7日、宇喜田は脳出血で急死する。
 ソ連当局者にとって「帰国が望ましくないもの」「反ソ的なもの」「知りすぎたもの」たちは、その死を人の命を何とも思わない独裁者の判断にゆだねるしかないのであった。


 1958年10月3日、近衛正子夫人が、夫の遺骨引取りのためにチェルンツィ村に到着した。雑草が茂る中、土が盛られただけの近衛文隆の墓は、正子夫人の前で掘り起こされ、棺に収納された遺骨が夫人の手に返された。
 いやしかし、墓は夫人の訪ソが決まった日からのちこの日までに、2度にわたって掘り返され、棺の中には何も入っていないか、見せてはならないものは埋葬されていないかなど、入念な当局によるチェックが行われていたのだ。
 正子夫人による遺骨引き取りをめぐって、1958年1月28日、ソ連共産党中央委員会のメンバーが集まった。
 「1954年冬、シベリアで死んだ日本人捕虜の数は何人なのだ」、フルシチョフ第一書記が聞いた。
 「何十万人ですという数です。」、ドゥドロフ内装が答える。
 「あるときは50万人を、またあるときは10万人を、帳簿から抹消するようにと、捕虜抑留者業
  務本部(グブヴィー)が内務省指導部にメモを送ってきています。」
 …。
 「コノエをどうする?」、
 フルシチョフが切り込んだ。ブルガーニン首相が答える。
 「選択の余地はない、返そう。正常な経済貿易関係を構築し始めたところだ。日本なしではやって
  いけない。」 …。
 スースロフが続ける。
 「コノエが死んでくれてよかった。コノエは、ロシアの収容所を知り尽くしていました。もしコノ
 エが生きて帰還を果たし、日本政界に現れたとしたら、シベリア抑留の苦難を耐え抜いたこの貴公
 子を、敗戦に不満で占領の恥辱に我慢がならない日本人たちは、たたちに新しい指導者として迎え
 入れるにちがいない。3〜4年後には、ソ連は収容所の裏表を知り尽くしている日本の首相と対峙
 する羽目になったことでしょう」。


          ◇        ◇        ◇


 最後に、ソビエト政府の中枢にいた筆者が、なぜ今、秘密文書を明らかにし、ソ連共産等の内部告発とも言うべき本書を世に出版したのか。訳者瀧澤一郎氏の「あとがき」の一部を抜粋して、その問いに答えることにしよう。
おどろくべき本である。
 歴史ミステリーという読みやすいスタイルをとりながら、門外不出のKrB(カーゲーベー)機密文書がページを繰るごとに現れ、学界の定説すらひっくり返してしまう。 …略…。
 
それにしても、謂わばソビエト体制内で功成り名遂げた著者が、なぜこれほどの体制糾弾を敢えてしたのか。もとよりシベリア抑留はヒトラーの悪行の数々でさえかすんでしまう二十世紀最大規模の残虐行為である。ところが、今のロシアではみずからの蛮行に対する責任を他国に転嫁しょうとする動きや、その事実全体を忘却の彼方へ追いやろうとする動きが依然として強い。残念ながら、わが国の学者やジャーナリストたちもこの動きに踊らされている。そのようなとき、いわば時流にさからうようにして自国人の犯した蛮行を日本人も及ばないほど激しく追及し、弾劾告発したのはなぜか。
 
著者アルハンゲリスキーが政治的な立場からではなく、人道的な立場からこれをしていることは明白である。しかし、これだけでは本書に満ちあふれるソビエト体制に対する深い怨念は説明できない。常人ならざる才能と努力で成功した彼も、実は無慈悲な体制の被害者だったのである。
 本人は十三歳で独ソ戦の最前線に少年兵として出征した。はどなく瀕死の重傷を負い記憶喪失。数年間別人として後方で療養生活を送った。これだけでも並の体験ではない。しかも、いまだに残る後遺症と身体中に食い込んだ無数の砲弾の破片。眼球からはつい先年やっと最後のものが摘出されたという。父親、兄弟を戦争でなくしたが、どこで戦死したのか、否、戦死したかどうかさえいまだに不明。遺骨のかけらもない。当局は問い合わせに何も答えてくれない。そこで自ら各地の公文書舘に入り、うずたかくもカビくさい古い記録類の中から両親の消息と自らの空白の記憶を探し求めた。その過程で、親兄弟と同じように苛酷な体制にさいなまれ、圧殺された近衛文隆に関する機密文書に遭遇したのである。
 
運命的出会いであった、と本人は語る。以来十有令年、集めた記録文書は数万点にのぼる。その多くは今も非公開であり、著者ほどの機略と人脈なしにはまず閲覧できない。好漢近衛文隆の運命に肉親の運命を重ね見る著者が憑かれたように書きつつ集め、集めつつ書いた結果がこれである。原文はこの数焙に及ぶ。読みやすさを優先し、訳者が編集した。
 
少年時代から共産主義思想に反発し、非公然反体制家であった著者は、故国を恋い肉親を求めてシベリアの虚空を今もさまよう無慮数十万の日本人抑留者の霊を凝然と見つめ、ひざまづくようにして自国の冒した罪の許しを乞うている。人心のすさんだ今のロシアには希なる人である。
 … (以下略)



   
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