「南山CC、21日(金)と22日(土)のどちらがいいかな?」と名古屋の割烹「三長島」のママ、真知子さんからの電話。
22日も空いているけれど、土曜日の南山はプレーフィが2万7千円、平日は1万7千円ほどだから帰りの食事代ぐらいは浮くかなと思い、「21日、雨じゃなければ行くよ」と答えたのだが、雨どころか30度を越えるカンカン照りだった。

午前5時30分出発。早朝の高速道路は空いていて、伊勢道・東名阪・名古屋高速、猿投ロードと乗り継いで、8時15分スタート予定を、7時に着いてしまった。
午前7時前 万博記念公園横を通過 →
おかげでみっちりと練習ができて、打ちっ放し・アプローチ・バンカー・グリーンと渡り歩いていたら、真知子ママ、そのお友達の礼子さん・光代さんと、メンバーが揃った。
南山CCは名匠井上誠一の晩年の作、確かに印象に残るホールが多くて中部の難関コースと評判は高いが、地形的に無理をしている感があって、どうも伸び伸びとゴルフができない。それも名匠の狙いで、だから難関なのか…(苦笑)。

3人の美人(?)のご指導のお陰もあって、アウト45、イン42の「87」 近頃は1ヶ月に1〜2回のラウンドで、しかもその間にはクラブも持たないという怠けぶり(言い訳が多いなぁ…苦笑)だから、このスコアは上出来である。
← 9番ロングホール。220ヤードで越えるというクリークを、なんとか越えていったのですが…。
「昔は楽に越えたのに
」と、まだ言っている。
9番のセカンド地点。クラブハウスに向けて
打ち上げていく。 →
← 両脇から山が迫り、林にセパレートされたホールが
続く。
← 16番ロングホール。章くんのドライバーショットはフックして、左にのぞいているの池へ消えた。
池の横から第3打、7番アイアンで向こうの池の
手前に刻み、残り130ヤードを9番でオン。
2パットのボギー。 →
← 17番、169ヤード パー3。
6アイアンでナイスオン パー!
2時ごろに上がって、一旦解散。章くんは星が丘のデパートで買い物をしたりして時間をつぶし、午後6時30分、真知子さんのお店にみんなで再集合…。
と、そこへ、礼子さんが「私、ハンディ0の人に教えてもらっているの」と話していたコーチが現れた。その顔を見ると、章くんが鈴鹿CCのクラチャンで何度かひねられた(鈴鹿のクラチャン決勝はマッチプレー)高村さんではないか。
桜海老のお造り。口に含んだときのほんのりした
甘さと冷たさがいい。 →

章くん、シングル認定ラウンドも、当時ハンディキャップ委員長だった高村さんに一緒に回ってもらっている。そういえば、その認定ラウンドのとき、1番のパー5で3打目が入ってしまってイーグル…。1番ホールで、「合格、終了!」と言ってもらった思い出がある(笑)。
← 名古屋コーチンで出汁をとった 松茸の土瓶蒸し。
その先輩に、名古屋の割烹でバッタリ…、しかも玲子さんのコーチとは…。世の中は狭いなぁ…。
最後はビントロ丼。脂の乗ったふくよかさで、魚好きの章くんには嬉しいご飯ものである。
ビンナガマグロ(ビンチョウマグロ)は、1メートルほどの小さいマグロで、もともとは缶詰(シーチキン)の材料になる程度のマグロだが、脂ののった時期に漁獲すると結構旨い。値段が安いというだけで高級さを売り物とする料理屋では遠ざけられてきた食材だけれど、安くてうまければ結構である。
秋に、またやる?…という美女たちの挑戦を、「いつでも…」と軽く受け流して、10時過ぎには、章くん、家に帰っていた。
【68】 昭和天皇のゴルフ (福田和也著、「昭和天皇」より) 2007.03.02
「昭和天皇」(福田和也著、文芸春秋)に、昭和天皇がゴルフに親しまれた様子が記されていた。以下に抜粋する。文中、当時皇太子であった昭和天皇を「裕仁」と表記しているのは不敬の感もあるが、原文のオリジナリティを重んじて、そのまま抜粋した。
『 (訪英のため皇太子(のちの昭和天皇)が乗艦した御召艦「香取」は)シンガポールを出向して2日後、マラッカ海峡を通過、スマトラ島をあとにして、いよいよインド洋に入った。
フランス語など御進講以外の時間は、皇太子はたいてい、甲板に出ていた。
御座所が書いためもあったろうが、開放的な感じがなによりであった。
東宮御学問所時代の、閉塞された心持ちにくらべて、いくら陽ざしが強くても、海上の心地よさは格別なものだった。
甲板では、特別の用事がないかぎり、デッキゴルフをした。
ゴルフクラブでボールを打ち、どリヤードのようにして他のプレイヤーのボールにあてる遊びである。
波や凧のせいで、なかなか当たらないのが、また面白い。何よりもボールを追って甲板を歩きまわるのが、運動不足の解消になった.
皇太子裕仁は、すでに四年前、大正六年に西園寺八郎から、ゴルフの手ほどきを受けていた。
西園寺は、大正三年に駒沢に作られた日本はじめての、日本人によるゴルフクラブ、東京倶楽部の設立当時のメンバーだった.倶楽部は、当時、横浜正金銀行の頭取だった井上準之助が呼びかけ人になり、西園寺八郎や樺山愛輔、岩崎小弥太、朝吹常吉といった、政財界の二代目連中に声をかけて創立したものだ。財政家の井上は、倶楽部が地代を払えるか心配になり、西園寺や岩崎から金を出させ、神戸の水道公債を購入した.公債の利子があれば、確実に地代が払えるだろうというのである(『ゴルフ史話』摂津茂和)。何しろ、十日間に一人もプレイヤーが訪れない、という有り様だったのである。ボールが貴重品で、プレイ中に一時聞かけて探すことが珍しくない、という時代であった。
倶楽部の初代キャプテンとなった森村開作(後に市左衛門を名乗る)も、西園寺と同様に井上に公債を買わされた被害者だった。森村は銀行や商社を経営しつつ、社会事業家、教育家 −森村学園の経営にもあたっていた− としても知られている人物で、ある時、西園寺と森村の間で、皇太子にゴルフをお勧めしたいという話になったという。
早速、ゴルフクラブを献上しようということになったのだが、東宮のスタッフが、ゴルフの何たるかを知らない.駒沢に招いて、プレイを見せ、紳士のスポーツであることを説明し、了解を得た。西菌寺は、赤浜離宮内に四ホ−ルのコースを建設して、そこで皇太子ははじめてクラブを振った。
その後、箱根富士屋ホテルの仙石原コースや新宿御苑のコースで、しばしば裕仁はゴルフを楽しんだ.「こんなによいスポーツはない。審判が自分の心のなかにいる」と述懐したという.皇嗣として生れたため、常に周囲から特別扱いされている、漠然とした不満を感じていたのだろう。
ということで、裕仁は、ゴルフについては、いささかの素養があったけれど、デッキゴルフは勝手が違ってうまくいかない。
けれど、西園寺八郎は、山本信次郎と申しあわせて、一切、皇太子にたいして、手加減をしないことにしていた.御
学問所では、東宮大夫の浜尾新が、御学友や侍従たちに、相撲でも何でも、けして殿下に勝ってはいけないと、厳命していた。浜尾にしてみれば、殿下を傷つけてはならない、という気持ちから出たものだったろうが、少年の心がどんな屈託を感じたか。
自身、毛利家に生まれ、周囲の過度の気遣いに囲まれてきた西園寺は、人一倍、そうした事態について敏感であった。カトリック教徒として、嘘をつかないことを信条としていた山本もそれに賛同して、二人して、真剣に裕仁に立ち向かい、時に完膚なきまでに叩きのめした。
一行のなかで、もっともデッキゴルフが苦手だったのは、東宮武官長の奈良武次であった。長い時間かけて間合いをはかり、懸命に打つのに、いつも明後日の方角に球が転がっていってしまう。
「困りますなぁ、砲兵が的に当たらないんじゃあ」と、奈良がからかわれると、皇太子は口をあけて笑った。』
【67】 2007年の目標 平均スコア 84以下 2007.01.02
昨年の平均スコアが86.3(31Round)、一昨年は85.2(30R)、その前年は83.2(64R)、かつて一番良かったのはハンディが5になった頃の80.2(160Rぐらい)、平均スコアが80を切ることはなかった。
今年は、平均スコアを83以下に抑えるという執念を持ってラウンドすることとしたい。また、目標…目標…と言っているだけではダメで、それを実現するための節制(年末に万歩計を買ったことだから、1日1万歩)、精進(週2回以上の練習、年間36回以上のラウンド)を義務としよう。
下り坂を転がっているような現在、3年前の平均スコアに戻すのは確かに厳しいが、宣言しないとどこまでも転がり落ちていきそうで、歯止めをしっかりと設けるための宣言でもある。今年のスタートで「87」を叩きながら、厚かましい言い様(よう)であるけれど、目標を掲げないとズルズルと叩いてしまうから、少し以上に厳しい目標とした。
1ストロークの厳しさは、見に滲みて知っているつもりである。今さら 泣き言を並べる気はない。粛々と「平均84以下」を達成するのみである。