【教育1〜3】 教育の論理の確立を          (2001.6.16) 


1.混迷からのスタート


 我が国の教育は、戦後の50年間を、何を基準にして教え、何を支柱にして導くのか…のよりどころがまったく示されないままに、日を重ねてきました。太平洋戦争の敗戦によって、明治以来の国家的精神基盤が全て否定され、GHQから示された民主化を至上の命題として、戦後教育は、教育理念を明確に掲げ得ないまま、まさに混迷からのスタートでありました。
 国民の皆が食べることを第一義とした戦後間もない時代、教育はそれでもまだ人間の生きるということに立脚する足場を失ってはいなかったと思います。吹きすさぶ社会主義活動や学生運動の時代にも、教育に対する信頼と教師・生徒・父兄の間の信頼関係は、まだ太い絆に結ばれていました。


2.教師の聖職者否定宣言


 やがて、高度成長期にさしかかって、日教組の組合活動が経済闘争からイデオロギー闘争へと方向転換する頃、衣食住の要請から一息ついた社会はようやく教育に対して大きな注目をもって見つめるようになり、教育は、自らの基盤を定め得ぬまま、洪水のように押し寄せる各方面の意見の中を、荒波にもまれる小船のごとく迷走を始めます。この時期に日教組は、『教師の聖職否定宣言』を出し、教師は、児童生徒に学問することの意義と楽しさを教え、その秘める心霊に点火し、よりよい進路への指針を示す存在であることを、自ら否定してしまいました。父兄や地域の人々の信頼や尊敬を集める矜持を保持することもなく、自分たちの日常を営む地域社会や遠くは日本と世界の未来を創っていくことに深く関わる職業であることを放棄したのです。このことは、教育に関わるものが社会の敬愛を集めることができないという、今日の教育が抱える病根の原因をなす、誠に残念な出来事であったと思います。




3.教育の論理とは


 しかし、教育が聖なる行為であることを否定した日教組に代って、文部省あるいは大学や教師自身からも、教育を確立するための理論の提示はありませんでした。
 ここで、『教育の論理』とは何かの定義を示さねばなりませんが、それは『日本国の学校教育の目的、その目的を達成するための方法、そのために保証された権利、そしてその結果に対して負うべき責任。さらに、日々の学校は何を教材として、どのように教えるかの概要。もうひとつ、教育研究・研修体制の整備を明確に示すこと』となるでしょう。


4.教育の論理のない現場では


 今、教育に対しては、その論理が確立していませんから、実に多方面から、ありとあらゆる意見が出されます。そして、教育はまた、その論理が確立していませんから、怒涛のようなその指摘に、明確に示す答えを持ちえません。世間や父兄の勝手な主張にさらされて、現場の教師は言葉もなく立ち往生し、おびえるばかりです。
 現実に報告された事例として、「他の生徒に暴力をふるう生徒を取り押さえようとして、教師がその生徒に傷を負わせた」という出来事がありました。学校〈校長)はその事件を外に知られないようにしようとし、教委は生徒の家庭にそれ以上大きな問題にしないよう折衝し、同僚は「あの先生は目ごろからやりすぎるから」と冷ややかであったと開きます。これでは、その教師は救われません。
 なぜ教育は、例えば「暴力をふるう子供に対して、教師は、その生徒に傷を負わせても取り押さえることは正しいことだ」と主張しないのでしょうか。取り押さえたはずみでその生徒に傷を負わせた教師を、学校は…教育委員会は…そして同僚たちは、「彼は正しい、立派だ」と擁護するのが当然でありましょう。そうでなければ、教育の現場で正義は行われません。教師は沈黙して、意欲の高揚は期待できず、教育の将来は暗黒です。

 また、評論家やマスコミは当事者でないという意味において論外としても、文部省も教育審議会も、「教育の論埋」を提示しようとはしません。概要や外枠はもっともらしくまとめ上げますが、いつの場合でも仏作って魂入れずで、提示した理念を具体化する方法は自ら示さず、学校現場に任せると言います。
 例えば、小学校低学年の生活科を新設したときも、その理念や目的は高く掲げられましたが、どのような教材でどのような授業を行うのかという実施方法は全く提示されず、今日、多くの学校現場での生活科は、極言になりますが思いつき授業のお遊び会です。授業の内容はそれぞれの地域の特色を生かした独創的なものを学校現場で工夫して活動的に行うことという概要は結構ですが、各現場の教師にそれだけの時間的な余裕(そして、敢えて言うならば、それほどの能力)があると思っているのが甘すぎる幻想です。さらに、低学年にはもう理科と社会科の教科はないので、理科・杜会科の学校全体での研究には取り組めなくなっていることに、教育行攻の担当者は気づいているでしょうか。日本の子供たちの科学離れが進み、科学が好きかという問いに対して『好き』と答えた子供の割合は、先進国中最低(立花 隆著「20世紀知の燥発」文芸春秋)となってしまっている現状をどうするつもりなのでしょうか。



5.教育基本法の改定も視野に入れて


 日本国憲法前文に謳われています理想と目的は、「国政の権威の由来するに足る国民であること、世界の恒久の平和を念願し、世界の人々との公正と信義を信じ合うこと」など、ひとしく教育の目指すものであると思います。もっとも、この理想と目的を実現していく方法には、各種異論のあるところであり、私も率直に申し上げて、戦後も50年余が経過した現在、日本国憲法の条項は、現実にそぐわないところが出てきていることは事実なので、改正することが必要であると思っています。
 
 教育基本法は、教育における自由と平等を保証した、戦後教育の方向付けとしての意義は深いと思います。633制などの制度や民主的な理念と教育のありかたを規定したこの法は、今日的な教育の根幹を定めたものとして、おおむね適切でありました。特に第10条でしたかの、教育の自由と行政の民主的あり方の規定は、戦後日本の教育を今日に導く上で大きな役割を果たしました。
 ただ、教育基本法は、教育の内的事項である、教育内容には何人も干渉させないように定めていると理解してよいと思うのですが、だからこそ、『教育の論理の確立を』と提案したかったのです。教育制度や設備などの外枠(建物といえばわかりやすいでしょうか)は、これら法律に定めていたり、文部省や教育審議会などからもたくさんの提示がなされますが、教育は何をよすがとして行なえばよいのか、何をどのように教えるのか、教育のよりどころは何なのか…など、中味についての理念と方法論が確立されねばならないと思うのです。

 教育にかかわる全ての英知を集めて行う、『教育の論理の確立』こそが、21世紀を開く教育への必要条件です。



  教育トップページへ