【教育11〜13】 地方自治体は、独自の教育プログラムを!


  − 公教育に 自信と信頼を取り戻すために −   (2002.01.14・19・26)


 学力低下が懸念される「新指導要領」が、いよいよこの4月から全国の小中学校で実施される。地方分権法案の成立を受け、地方の時代といわれる現在、地方自治体は主体性をもって地域の特性を生かした独自の教育プログラムを作成して、この問題に取り組む必要があることは、かねてから提言してきたとおりである。
 従来の繰り返しになるが、「新指導要領」はどの程度に学力低下が懸念されるのかを、もう一度、以下の資料を示して確認しておきたい。


@主要教科の時間数の激減
 現在の日本の子どもたちは、先進国の中で最も薄い教科書を用いて、最も少ない時間数のもとで学習していることを、皆さんはご存知だろうか。まさか、日本の学校教育が…と思われるだろうが、下の表をご覧いただきたい。新指導要領での中3の数学と理科の学習時間数は、英仏独豪の6割、アメリカの半分、オーストリアの4割程度である。


● 中3の数学と理科の授業時間数(単位 時間)【NAEE2002の資料より】

日本

158

ドイツ

256

イギリス

258

フランス

259

オランダ

267

アメリカ

295

オーストリア

390

 


A懸念される質の低下

 小学校の算数から、3桁×3桁のかけ算や、4桁どうしのたし算ひき算がなくなる。これでは、子どもたちは5000円で買い物をしたときのお釣りが計算できない。小数は、小数点第2位以下は扱わなくなる。だから、円周率の3.14は知っていても、計算するときには、「およそ3」として計算する。円周率を「3」で計算するということは、円周の長さとその円に内接する6角形の周囲の長さとが等しいことになり、近似値の域を通り越してほとんど詐欺である。
 これで、日本の社会的な知的水準は…、科学技術は…、維持できるのだろうか。


B日本と中国の大学生の計算力の比較(数学の現状)
 小中学校程度の計算問題を25点満点のテストにして、日本と中国の大学生に実施した結果、満点を取った生徒の割合は下の表のとおりである。

大 学 区 分

満点の割合

中 国

中国の国立大学トップ校

95.65%

日 本

国立大学トップ校 理系

45.00%

国立大学トップ校 文系

22.95%

私立大学トップ校 理系

.70%

私立大学トップ校 文系

.89%

     【1999年 小数ができない大学生 東洋経済新報社】
 文部科学省も、新指導要領を実施したあと学力テストを実施して結果を公表するとしているが、学力テストの結果の分析は、テストの問題傾向・分析の方法などにより結果が大きく左右される。ここに示したものは、小中学校程度の計算というシンプルな問題を25点満点という単純比較したもので、結果の比較は一目瞭然。もっと難しい問題なら逆転している…などという負け惜しみを言う元気もないだろう。


 以上、3つの指摘を見てきたが、これらの他にも学力低下が懸念される理由は、枚挙に暇がない。総合学習の導入によって、学力の定着が図られなければならない教科学習の指導があいまいになってしまうこと。授業時間が減少するため、実験・観察・社会見学・聞き取り調査などの科学的な感心・思考・手法が指導できないこと。体験を重視する総合学省は、机に座って学習するという形の学習形態を崩壊させていくこと。そして、授業を自ら計画しなければならない教師に、過度の負担を強いること。… などなど、列挙していけばきりはない。

 現在の日本の数学教育が、いかに内容の乏しいものかがご理解いただけると思う。今の日本は、過去の教育の遺産でかろうじて食いつないでいるのである。このまま、あと10年も経てば、日本は世界に取り残されてしまうことが目に見えている。
 なのに、まだ文部科学省は、授業時間数の大幅削減をもとにした、新指導要領を実施しようとしている。そもそも、荒れる学校に手を焼いた文部科学省は、詰め込み教育は子ども達の不満を募らせ非行を促進すると唱って、10年以上前から教科の内容を削減し続けてきた。その結果として招いたものは、切れる子ども達、少年非行の凶悪化と年齢の低年化
、学校崩壊と学級崩壊の低学年化…。子ども達の荒れと学習内容の軽減化とは何の因果関係もなかったことを、まだ認めようとも、その誤りに何の責任をとろうともしていないのである。


 今、文部科学省を始めとする国の教育政策がその過ちを認めず、敏速な修正策を実行しようとしないのならば、愛知県犬山市などですでにその取り組みが始まっているように、地方自治体は学習事項を整理して独自の教育プログラムを組み上げ、学力低下必至の現状に対して郷土の教育を守って、敢然と立つ姿勢を示さなければならない。「全国学力テストで、平均に対してこれだけのプラスをしました。学校崩壊・学級崩壊は、我が県や市町村ではでは無縁です」と胸を張れる成果を挙げ、結果を満天下に堂々と誇るべきプログラムをスタートさせるべきだと思う。




 繰り返される学力低下への警鐘の前に、遠山文科相は17日の全国県教委連合会総会で児童・生徒の学力向上を宣言。教科書を超えた授業や、始業前に補習や宿題を奨励する新方針を表明した。また、教科書に学習指導要領を超えた「発展的記述」も容認。同省では、教科書検定基準の改定作業を行う方針であることが報じられた。
 官僚組織が計画を立て軌道に乗せようと動き始めたものは、外部からの意見や提言ではなかなか修正されないと、最近の読んだ著作の中で接した覚えがあるが、確かに、10年に渡って無為無策の赤字国債を垂れ流し、日本を666兆円の借金漬けにした大蔵省…、狂牛病対策に手落ちはなかったと退官の弁を語った農水省事務次官…、批判の中も国費使い放題の外務省を始めとする諸官庁など、誰がどう見ても誤っていることがわかる政策になおしがみつく官僚体質の中で、この文部科学省の軌道修正は、卓見とエールを贈っておこう。
 しかし、授業時間数の修正や何をどう教えるのかといった具体的な提案はなく、現場の工夫や努力に委ねるというものである。学校や教師に考えろというだけで、具体的な方策を伴わない新方針の効果は期待できない。





 さて、4月から実施される新指導要領が抱える問題点を、今日は、小学校6年生の授業時間数について見てみよう。
 まず、教科の授業時間数であるが、日本の繁栄の日々を支えた世代が小・中学生であった、昭和48年を比較の対照として比べてみると、年間で、国語が245→175時間(71%)、算数が210→150時間(71%)、理科が140→95時間(68%)、社会が140→100時間(71%)となり、この四教科で215時間減、約70%へと大幅に減っている。これに対して、特別活動の時間が35時間、総合的な学習の時間が110時間、新しく設定されている。
 特別活動とはいわゆる学級活動をいい、総合的な学習とは、指導要領のねらいをみると、@自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育てること,A学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにすること…とされている。もちろん、それを実現するための方策や具体的な教案・教材などはなく、各学校で地域に応じた学習計画を立案することとしている。
 新学習指導要領下における学習指導が、なぜ学力低下が懸念されるのだろうか。まず、大幅な国算理社の教科の授業時間が減ったことによって、内容も大幅に削減され、また、反復して演習をさせる時間もなくなってしまったことは、直接的な要因だが、もうひとつ、こうした教科指導の時間が少なくなり、体験学習が増えたことによって、子ども達の学習するという姿勢が希薄になってしまうことが挙げられる。
 総合学習は、児童生徒に社会生活に欠かせない規律を身につけさせ、生きるということに対する厳しさに目をそむけずに立ち向かう勇気を植え付けるものとされているが、もし本当にそうのか。だとすれば、総合学習とは、授業時間中に私語をしてはいけない、他人の迷惑になるような言動はいけない。規律を乱すものは厳しくしつけられ、時に罰を受ける…などを教える時間かと思ったのだが、もちつき・たこあげ・田植えと稲刈り・遊具作りとそれを使った遊び(竹トンボ、竹馬、…)・土地のお年よりに指導してもらって竹トンボや竹馬を作る活動などが、テレビなどのマスメディアを通じてもてはやされているように、実際は、学校とはいかに楽しいところかを経験させるところのようである。
 学校は、いま、子どもたちに楽しく一日を過ごしてもらって、明日も、喜んできてもらうところとなった。もし、新指導要領が実施された結果、世の児童生徒や父兄に、『勉強は、「学習塾」で習うもの』といわれ、塾通いの児童生徒が増えたならば、公教育は…文部省と教育委員会そして公立学校は、教育の場における敗北宣言を余儀なくされ、もはやどこにも存在意義はない。そのような事態を招かないように、今公教育がなさねばならないことは何か、その真価を賭して考えねばならない命題であろう。
 ことは、文部科学省にのみその責任を収斂しておけば済むという問題ではあるまい。直接に教育現場を指導監督し、その方策や結果に重大な責任を負わねばならない県や市の教育委員会は、当事者として取り組まねばならない課題である。もちろん、学校現場と教師自身は、最前線で結果責任を問われながら正対しなければならない現実である。





 学力低下を招かないようにという遠山文部科学相の談話は、個々の教師あるいは学校が指導計画を練り上げ、指導案や教材を作り、事前準備を繰り返して授業に臨むようにというものであった。しかし、現実は個々の教師あるいは学校にそれだけの余裕はなく、またその体制も整ってはいない。
 
 先日のテレビで、イギリスで最もレベルの低い小学校と呼ばれていた公立カルバートン小学校(生徒数354人)に赴任して、5年間で不登校や授業崩壊を一掃し、国語・算数・理科300点満点の全国一斉テストでそれまでの平均44点を282点に引き上げて、エリザベス女王から勲章を授与された女性校長シャロン・ホローズ女史の姿が紹介されていた。

 シャロン校長は、離婚して2児を抱えながら、学校改革に取り組む。優秀な先生をスカウトし、学校補助員を配備し、授業時間はもちろんいつも学校内を歩き回って、問題点を見つけては職員とディスカッションして解決しようとする。
 人事権も予算も与えられている、イギリスの校長であればこそできる仕事だが、だからこそ校長の責任は重大である。イギリスの教師の平均年俸は345万円ほどで、社会的に決して恵まれているとはいえない状況であるが、その条件の中で人材を確保し、教材を作成させ、授業の計画を練らせ、親たちの意識改革までも実行させる。
 学校の運営がそれぞれの校長に大きく委ねられているイギリスの風土を基盤としての取り組みだが、お上意識の強い連帯責任体制の日本においては、校長にそれだけの権限も意識も土壌も無いし、日教組の抵抗にもあわねばならない。日本の現状の中で校長の責任と権限において成し遂げねばならない取り組みであるかどうかは別の機会に考えるとして、教育改革を成し遂げるために取り組むべき課題を明示している番組であった。
 必要なことは、生徒と親たちの意識を改革すること。そのためには、信頼される学校でなくてはならないこと。さらにそのために、教師ひとりひとりの意識を高め、授業技術を磨き、より良い教材を提供して、よくわかる授業を展開することである。
 

 それでは現状をふまえて、現在の状態から教師の意識を高めるためにはどうすればよいのか。基本的なことであるが、研究体制を整えて研修を重ね、しっかりした授業を実現して、一人ひとりの教師が自信と誇りを持つことが必要であり、高いレベルの集団の中で充実した仕事を成し遂げていく環境を作ることが必要であろう。

 教師の研究を保証し、現場のレベルアップを図るために…、さらには、学級崩壊や不登校の問題を解決し、子どもや親たちに向かい合う姿勢などについてもともに考えていく機関として、教師が自分たちの研究組織として自発的に参加できる教育研究組織の確立が急務である。
 教師は、大学を卒業してからあとは自学自習で、学級や教科の担任として生徒に向かうばかりであって、学校内で管理職や先輩教師から厳しい指導を受けることも、やらなければならない目標値を定めた研修もない。授業や生徒指導に行き詰まった場合に、頼るべき機関もないしマニュアルも整備されていない。教師は孤独である。依るべき問題解決の機関として、確かな教育研究組織の設立が望まれる。



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