【19】 いじめは、人間社会の業(ごう)…!      2006.11.22
      ― いじめぐらいで、死ぬな ―


 福岡県筑前町の中2男子(13)がいじめを苦に自殺してから11日で1カ月が過ぎた。触発されるように各地で児童生徒の自殺か相次ぎ、文部科学省にいじめを苦に自殺を予告する手紙がとどいたり、またこの土・日曜日には生徒2名と校長1名がいじめが原因で自らの命を絶った。
 

 いじめをなくするにはどうすればよいのだろう。… 人間が社会的な生き物である限り、いじめはなくならない。人間は、人間同士で殺しあうことが出来る動物である。他の動物たちは、同じ種属同士で殺し合うなどといったことは、まずあるまい。強い子孫を残すためのオス同士の争いで、ときに命を落とすようなことはあるけれども、徒党を組んで同種の他を陥れて殺戮するといったようなことはしない。
 ところが人間の業は深くて、恨み、嫉妬、利益、誇示…、さらには、楽しみのためにすら、人間は人間を殺す。その前段階が「いじめ」である。だから、人間社会からいじめはなくならない


 ただ、子どもたちの世界における、陰湿で鬼畜的ないじめから、被害にあっている子どもを守ることはできる。それこそが、子どもの社会にかかわる大人たち…、教育関係者、児童福祉や未成年の保護監督にかかわる者、保護者、そして行政担当者がなさねばならない責務である。
 いじめの定義はあいまいである。しかし、ある子どもが「いじめられた」と感じれば、そこにいじめは存在する。そのいじめを察知するには、あらゆる方向にアンテナを張り巡らすことが必要だ。
 現在も幾つかの学校で行なわれているが、いじめの相談担当者を置いて、子どもたちの駆け込み窓口とするのも良い。ただ、いじめを受けている子どもは、そのことをあからさまに出来ない場合が多いことを思えば、「目安箱」のようなものを置いたり、手紙でも電話でもいいから何かあったらいつでも言って来いと門戸を広げておくことが大切だ。問題を抱えるものが、いつでも、匿名でも相談できるような方策を講じておくことが必要だろう。
 大人たちは、必ず子どもを守り、不正を許さないということを貫くことだ。そこに、いじめを受けているものだけでなく、いじめをしているものたちの信頼も得られる。揺るがぬ姿勢を貫いてこそ、正義を説き、不正を糺す言葉にも、説得力があるというものだ。
 いじめを受けているほうの被害は事実であるのか、感じやすい年頃の過度の被害者意識ではないのか…などを、慎重に調べることが必要だが、もし被害妄想的傾向があったとしても、それを納得させる言葉が必要である。「思い過ごしだ。ガマンしろ」では、思い切って相談した子どもは救われない。
 暴力的被害があれば、断固たる処断をしなければならない。そうすることが、加害者の子どものためなのである。いじめをしている子どもは、それは悪いことだということを知っている。こうした行為が明るみに出たときに叱られないのでは、世の中の正と不正は何であるのかの判断が身につかないし、叱れない大人を信用も尊敬もできない。叱られ、罰を受けてこそ、彼らは過ちを償うことが出来るのである。
 問題があることを知りながら何の対応もしない教師や児童相談所などは論外で、厳しくその責任を問われるべきだろうが、子ども間のいじめは当事者を正対させても解決にはならない。いじめの事実を把握すれば、個別に指導し、加害者が悪かったと反省し、被害者がそれを許すという心を持ってから、双方を引き合わせ和解させることだ。納得しないままに和解させれば、いじめはさらにひどくなる。


 いじめられたからといって、自らの命を絶つという選択は、あまりに繊細で短絡的過ぎる。テレビのコメンテーターは、「死ぬほど苦しい被害」といじめを受けている子どもの心を表現していたが、生きていれば、もっと苦しいことがたくさん有ることを知らないままに死を選ぶ子どもの幼さに思い至らない発言であろう。「生きるということは苦しくたいへんなことなのだ。だからこそ、生きるということに価値がある」ということを、子どもたちに知らしめなければならない。苦しみに耐え、それを切り開いてこそ、人生の醍醐味ではないか。
 校長や担当する教師が自殺の道を選んではならない。命の尊さを生徒たちに説くものが、自らの命を絶ったのでは、その人の口から語られた命の尊さとは何であったのか、生徒たちは何を信じれば良いのか戸惑ってしまう。
 死者に鞭打つつもりはないが、教師は自らの生きる姿を以って、生徒を導く存在であることを忘れてはなるまい。苦しくても、いかに困難でも、目の前にある問題に立ち向かい、自らの努力によってこれを解決し、将来を切り開いていくのが人としての姿であることを、自らの生き方で示していく責任があろう。死んでしまっては、過ちを改めることも、そこにある問題を解決することも出来ず、放り出してしまうことになる。
 人は自らの命を縮めてはならないのである。幾多の人生の先達に邂逅して道を知り、数多(あまた)の書物にめぐり合って真実を知り、自ら生きてみて将来を開いていくのが人生なのだ。早い話が、死んで花実が咲くものか…、命あっての物種…、去るものは日々に疎し…である。


 人間の業として、人間社会からいじめはなくならない。ならば、そのいじめから子どもを守ることは、大人の責務である。
 社会が悪い…、親が無責任…、戦後教育の過ち…など、今日の状況を招いた要因は種々の議論がなされるところであるが、喫緊の課題は子どもをいじめから守り、いじめは人間失格の卑劣な行為であることを子どもたちに知らしめることである。そのためには、教師の断固たる姿勢こそ望まれる。そして、学校や教委は、奮闘する教師を守らなければならない。
 それには、上に述べてきたように、@いじめの事実を明らかにし(匿名の相談窓口、電話、目安箱)、A必ずいじめから被害者を守り、B加害者を許さない、C暴力的な行為には断固とした処置をし、Dいじめを行なうのは恥ずべき行為であることを知らしめる…ことである。
 研究体制という教師の基本的な部分すら組織化できない現状(三重県の場合)では、スクラムを組んで問題に当たれといっても難しいことなのかも知れないが、学級崩壊を起こす子どもたちにも、身勝手で無理難題を言う親たちに対しても、マスコミや社会を相手にしても、教育界は確固たる姿勢をもって事に当たることだ。そのためには、組織として揺るがない理論と実績を示していかねばならない。学校現場から、「こういういじめの事実があったが、このように解決した」という報告を発信して、社会の信頼に応えていってほしい。
 不正を許さず、正義を貫く教師に育てられた生徒は、逞しい生き方を身につけていく。「勇将の下に弱卒なし」(蘇軾)である。


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