【教育8】手錠少女放置の犯人は、中学校教諭だった!   (2001.09.10)


 世間を騒がせたセンセーショナルな事件の犯人は、中学校教諭だった。現今の教育界を見ていると、さほど驚くほどのことはないと思える。世の中の反応も、「学校の先生がねぇ」といった程度で、先生たる者が何という事を…などの憤りも、有ってはならないことだというリアクションもないのがむしろ不気味である。
 法の執行官や番人である、警察官が窃盗や強盗を働いたり、裁判官が痴漢をする世の中である。政治家や中央官僚の汚職や不正行為は当たり前なのだから、学校教諭が生徒を相手に破廉恥極まりない犯罪行為を犯したところで、何ということはないのだろう。
 この国の人間としての誇りや、職業に対する倫理観は、地に堕ちた。教育においても、「教師は労働者である」と教師自らが宣言して以来、教育は一般社会や家庭から見て同等の視線を持つようになり、教師は生徒や親たちの尊敬を集める対象ではなくなった。今の生徒や親たちにとっては、成金の社長は尊敬すべき成功者であるが、学校の先生は何らの意味も持たない関係者なのである。人生の導師などとは片腹痛く、勉強の指導すら塾の講師にも劣る存在なのである。
 教育は、学習内容を削減したり教師の指導力低下を放置したりするのでなく、自らの努力によって世の批判に応え、聖域としての地位を取り戻さなくてはならないのではないか。教師は生徒にとっては尊敬の対象としての存在でなくてはならない。そうでなくては、教師自身にとっても、また、生徒たちにとっても不幸である。教師としての学習もせず本も読まない先生に、誰が何を教えてほしいものか。
 教師自らの努力は当然として、教師たちにその社会的意義を自覚させ、自ら何を努力しなければならないかを教えることも必要である。現在の半分以上の教師が不的確者ならば、これを矯正しまた取り替えていくことが、文部科学省がやらなければならない第一の教育改革であろう。


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