【15】我が世界史の恩師は、今、中世ヨーロッパの色濃きバルセロナへ!(3.15)


  − 『私の恩師』というテーマで「津の本」に寄稿した一文である。教育論とは
   少し違うかと思うけれど、昔はこんな先生がたくさんいた −


 外国人名地名オンチが世界史を採っていたのだから、必修教科だったのだと思う。後年、何かの本に、『現代を生きるためには、世界史を学ばなければならない。未来の枠組みはどう変化し、世界はどこへ向かうのかを、私達は世界史から学ぶことができる』という解説があった。だから高校の教育課程で、世界史が必修になったというわけだ。
 外国人の名前や地名は、カタカナを羅列してそのまま覚えるしかない。外国人にしてみれば、例えばウッズ(Woods)は森、タイガー(tiger)は虎という意味を知っているから、タイガー・ウッズといえば、森の王者トラといったイメージを描きながら、その名前を記憶することができる。日本人にしてみれば「森 虎吉くん」といったところか。
 ところが、「ルーム・セルジュク朝末期の群雄割拠の時代、オスマン・ベイはビザンツとの境目の辺境で勢力を増し、1326年にブルザを陥落させて首都とした。エディルネにあるリシュテム・パシャ・ケルヴァンサライのような隊商宿やハーンなどの商業施設が各地に残されていることからも伺えるように、このオスマン朝は活発な交易商業によって国力をつけ、1453年にはコンスタンティノープルを占領。16世紀のスュレイマン大帝の時代に最盛期を迎えて、ヨーロッパキリスト教世界を震撼させた」といわれては、もうお手上げである。 
 コンスタンティノープルはまだかろうじて踏みとどまれるとしても、ブルザ、エディルネといった地名は頭の中を素通りしていったし、黒海や地中海を制した海軍を擁し、ウイーン・イタリアを侵略した全盛期のスルタン、スュレイマン大帝(T世)すら記憶に留めることはできなかった。ましてや、ケルバンサライは隊商宿のことだと教えられても、リシュテム・パシャ・ケルヴァンサライとなると、聞くのもおぞましいということになる。
 歴史は因果関係が理解できてこそ、絡み合う姿が立体的にとらえられ、必然性が見えてきて面白い。でも、因果関係が成立する前に、これは誰ぁれ? そこはどこ?…となるのだから、学問の体をなさない。
 世界史の時間は睡眠と決めていた高校2年生に、昭和37年の4月から1年間、子守唄を歌って聞かせていただいたのが、「沢口友也先生」である。岐阜県出身の先生の語り口調は名古屋弁に近く、「頭にボッチンのある人たちが菩薩なンだヮ」と、その抑揚が眠気を誘う。
 私は担任をしていただいたことはなかったのだが、先生のクラスにいた友達が万引きをして市内の本屋で捕まったとき、その夜、はじめて先生のお宅に自転車で伺った。「何とか…」と友達に代わっての懇願に、「俺に任せておきゃァ」と一言!。
 これを機会に、いつもあまり良いことではない用件ばかりであったように思うけれども、先生のお宅へはひんぱんに出入りさせていただき、握り飯をいただきながら人生を伺うことになる。秋10月には、今度は私が集団喫煙の生け贄として停学を喰らってしまうが、「高校時代にせにゃならんことは、みんなしたのォ。あとは勉強だけだがや!」と、妙に説得力のある励ましを贈っていただいたりした。
 卒業後は三重県を離れた時期があって、しばらくのご無沙汰をしていたところ、万引き野郎からの突然の電話、
 「沢口っあんが、女とスペインへ逃げた!」。
 握り飯を作っていただいた奥様には申し訳なかったが、何もかも捨てての逃避行にさすがは我が恩師とひそかにエールを送った。一緒に逃げたのが教え子と聞いて、『ン…若いやないか』とちょっと許せない気がした。


 昨年、35年余の歳月を経て、先生にお目にかかった。ふるさと津で、「個展」を開かれるために一時帰国されたという。このマルチティチャーは、津高で世界史の教鞭をとるかたわら、美術の先生に絵を習っていたらしい。それを飯の種にしてしまうところが、沢口っあんたるゆえんであるが、個展に掲げられている絵画は50号で200万円、最大のものは500万円を越える値段がつけられていた。ホンモノだぎゃあ!
 「先生!」
 「おうッ、相変わらずやのぉ」
 さすが沢口っあん、一瞬にして35年の空白を消し去った。
 教師が、妻子も職も捨てて、惚れた女と駆け落ちすることに対して、一般論としては別に問題もないが、人生を説いてもらった教え子としては、このことをどう語るかということが重大事であった。しかし、こだわりにさいなまれていたのは、人生にまだ迷いつづけている教え子のほうだけで、沢口っあんは、
 『市井の片隅で細々と生きております』
 と申し上げた私の近況報告に、
 「片隅に居る奴が一番強いンや。お前、間違ごても表通りを歩こうとするな。一流になる奴は、際(きわ)に強いンや。ここ一番の力を溜めておかにゃア」
 と、苦心の表現ながらこの居眠りトンボを見捨てずに元気づけていただいた。
 『先生、心配しとったのは私のほうですよ。この35年間、ずーっとあなたのことを心配してきたんですよ』
 と私は心のどこかで思ったけれど、恩師という存在は、それ以上に教え子の諸々(もろもろ)により深い思いと責任ある存在であったことを、強く意識させられた再会であった。
 35年前に、35歳ぐらいであった先生は、今70歳に手が届いているかというお歳である。かたわらに寄り添っているのが、駆け落ち相手の教え子であった。当たり前のことだけれども、彼女も相応にお歳を召されていて、落ち着いた雰囲気のご夫婦であった。
 もしかしたら、先生のことを心配していたと言いながら、私のこだわりは、自分達よりも下の学年の女の子と駆け落ちしたことに対する、やっかみだったのかも知れない。
 「あなたの教え子は、訳ありばかりね」
と笑う奥方の屈託のなさを見て、もう先生のことを心配するのはやめようと思った。



【14】戸塚ヨットスクール事件 懲役6年の実刑確定     (3.1)



 体罰で訓練生を死亡させたとして訴えられた"戸塚ヨットスクール事件"に対し、最高裁は、戸塚ヨット側の上告を棄却した。発生から19年、これにより2審の判決どおり、校長の戸塚 宏氏が懲役6年、他のコーチ3人が懲役3年6ヶ月〜2年6ヶ月の実刑が確定した。

 教育が「体罰」というものにどう向き合うのかが問われた裁判であったと思う。1審で執行猶予つきの判決が出たとき、支持する人は多かったはずである。今、最高裁の上告棄却を聞いて、裁判所として人間を死に至らしめたことに対し、「無罪」というわけにはいかないのかも知れないが、これが裁判所の限界だろうなというのが率直な感想である。
 裁判所に世の中を変える力を期待しても無理なのであり、また裁判所とは世の期待に応えてはいけないのであろう。起こったことを法規に照らして是か否かの判断をする、ただそれだけに徹しなければならないところなのである。その判断がおかしければ、法がおかしいのである。

 さて、「体罰は暴力であって、生徒の人格を損ね、権利を侵害する」とするのが、戦後教育における一貫したスタンスであった。しかし、子どもだから、体罰で済むのではないかと思う。子どもはいっさい叱ったり罰したりはしないのだというのならば別だけれど、子どもだからすぐに社会的な制裁を受けさせることもなく、その場限りの体罰で済まそうというのである。悪いことをしたら、子どもであっても罰を受けるのは当然であって、子どもだから許されるというのは、子どもの人格を否定している。子どもだから甘やかすのでは、物事の是非を正しく判断できる子どもに育て上げることを放棄していることになる。子どもに対して、悪いことをすれば罰を受けるということを教えるのは、大人の義務であろう。
 進歩的知識人の皆さんは、「体罰」は無条件で否定されねばならないという。それに対して、ひとことも反論できない(反論の必要もないと思っているのかも知れない)今の教育界も情けないが、約束を守らないものは廊下に立たせる、人に迷惑をかけるものは絶対に許さない…という不文律の中で、子どもたちは規律を守り明るくたくましく育つものだ。約束を守らないことが悪いことだということは、子どもたちは知っているのである。なのに守れなかったことを、「なぜお前は守れないのだ。説明してみろ」と問われても、それに答を出すほうが、「1時間廊下に立っとれ」と言われるよりも、子どもにとっては苦痛ではないか。
 体罰を受けるときに子どもの心がいかに痛むかを理解していないと言う人権主義者は、非道を行なう子どもを止めようと叱りつけて身体を張る教師の心の痛さを理解してはいない。そのとき殴られたとしても、子どもはあとになって感謝しこそすれ、恨みに思うことはない。それを教育委員会に報告するとか、やれ裁判所に提訴だとかいうのは、子どもの心に恨みを引きずらせ打算を植え付ける、大人の浅はかな知恵である。
 戦後の教育を主導した優しいだけの人権主義は、耳障りのよい言葉ばかりを並べて、体罰は子どもの人権を侵害していると言う。悪いことをした子どもを、諭して善導せよと言う。それは、子どもを知らないもののセリフである。子どもたちは、もっとたくましく、もっとしたたかだ。
 子どもは、悪いことをしたときに、叱られるのは当然だと思いながらやっている。叱らない・叱れない大人に不信感を抱く。子どもはイタズラを小出しにする。大人の顔色を見ながら、こいつは叱れないと思うと、イタズラはエスカレートする。大人が子どもを叱れない今、子どもたちは大人全体をナメている。この時代の子どもたちは不幸である。

 誤れる人権教育を受けて育った、今の親たちも、同時に不幸である。誤った価値観を持って現実を生きねばならない彼らは、自分たちが半信半疑の人権主義の中で育ってきているので、自信を持って子どもに正対することができない。「ほめて育てる教育」などというものが、子どものためになると思っているのが不幸である。やるべきことをきちんとする、年齢に応じた自分の責任を立派に果たすことができる…、そういう基本を身につけさせたうえでの「ほめて育てる教育」であるのに、悪いところには目をつむり、良いところを見つけてほめそやすのでは、立派な人格を持った子どもに育つわけがない。
 学力にしても、責任を自覚し豊かな人間性を身につけてこそ、初めて確かな学力を修得することができ、花開くのであって、自分のやらなくてはならないこともできない子どもに、揺るがぬ学力をつけようと思ったところで、本末転倒した話である。学校においても、子どものしつけの行き届かぬところで、学習指導などできはしない。

 戸塚 宏氏は、戦後教育が内蔵する疑問に対して、身をもって立ち向かったのだと思う。そして、今の彼が、妥協せず自分を偽らずに出した結論が、現在の姿なのであると思う。彼は、目の前にした子どもの弱さに迎合するわけにはいかなかった。登校拒否・校内家庭内暴力を繰り返す子ども達を、そのまま家に返すわけにはいかなかった。俺がやらずして誰がやるのだと思ったことだろう。死ぬかも知れん、その結果、罪に問われるかも知れぬとも思ったことだろう。しかし、彼にとっては貫き通さねばならないことだったのである。ここまで、教育のかかえる矛盾に…子どもたちに…、立ち向かえる指導者はそうはいない。
 戸塚 宏氏は、「頭で考えて解からないことは、本能で判断すると、正しい道がわかる」という孟子の言葉を引いて、体罰とはそういうことなのだと言っている。


 最後にもうひとつ、家庭内暴力に荒れる息子を金属バットで撲殺した父親の事件が思い出される。息子が壊した家庭の荒れようにも驚いたが、父親は教育相談所やカウンセラーを訪れて相談をしていたという。『今は子どもに逆らわず、自由にさせて上げなさい。事を荒立てず、親が耐えるのも治療の一つで、子どもを見守ってあげなさい』というアドバイスに従って、子どもの一層の反抗にも耐え、親を土下座させて殴る蹴るの暴力にも無抵抗であった。暴力を振るいながら、子どもは泣いていたという。親の態度を情けなくクールに感じていたのだろう。もっと激しく自分にかまってほしかったのである。
 それでもなお、進歩的知識人のカウンセラーは、『もっと子どもを認めて自由に…』と助言していたという。結果、万策尽きて思い余った父親は、息子を金属バットで撲殺することになる。なぜ、教育は、『身体を張り、命を賭けて、子どもに立ち向かえ。逃げるな!』と教えないのか。


 いま、世の中は、優しいだけの誤れる人権教育で子ども達を育ててきた50年間を、痛烈に反省しなければならないのではないか。悪いことをすれば、叱られ罰を受けるのが当然であることを教え、正義を是とし不正を否とする価値観を、きちんとした形で子どもたちに教えなければ、この国の将来はない。
 是を是とし非を非とする価値観を曖昧にしたまま大人になれば、困るのは子ども自身である。ルールを破れば、罰を受けるのだということを、子どもに知らしめておくことが必要である。子どもだから、廊下に立たされたり、尻のひとつぐらいをぶたれるぐらいで済まされるのであって、大人になってルールを破れば、刑罰を受け、生活そのものを失うほどの制裁を受けることになる。その手前で踏みとどまる子どもになるように、なぜ罰を受けるのかを十分に納得させたうえで、「体罰」を是とする教育理論を確立するときにきている。




【11】地方自治体は、独自の教育プログラムを!

    − 学力低下を招かないために −    その1     (1.14)



 学力低下が懸念される「新指導要領」が、いよいよこの4月から全国の小中学校で実施される。地方分権法案の成立を受け、地方の時代といわれる現在、地方自治体は主体性をもって地域の特性を生かした独自の教育プログラムを作成して、この問題に取り組む必要があることは、かねてから提言してきたとおりである。
 従来の繰り返しになるが、「新指導要領」はどの程度に学力低下が懸念されるのかを、もう一度、以下の資料を示して確認しておきたい。


@主要教科の時間数の激減
 現在の日本の子どもたちは、先進国の中で最も薄い教科書を用いて、最も少ない時間数のもとで学習していることを、皆さんはご存知だろうか。まさか、日本の学校教育が…と思われるだろうが、下の表をご覧いただきたい。新指導要領での中3の数学と理科の学習時間数は、英仏独豪の6割、アメリカの半分、オーストリアの4割程度である。


● 中3の数学と理科の授業時間数(単位 時間)【NAEE2002の資料より】

日本

158

ドイツ

256

イギリス

258

フランス

259

オランダ

267

アメリカ

295

オーストリア

390

 


A懸念される質の低下

 小学校の算数から、3桁×3桁のかけ算や、4桁どうしのたし算ひき算がなくなる。これでは、子どもたちは5000円で買い物をしたときのお釣りが計算できない。小数は、小数点第2位以下は扱わなくなる。だから、円周率の3.14は知っていても、計算するときには、「およそ3」として計算する。円周率を「3」で計算するということは、円周の長さとその円に内接する6角形の周囲の長さとが等しいことになり、近似値の域を通り越してほとんど詐欺である。
 これで、日本の科学技術は…、社会的な知的水準は…、維持できるのだろうか。


B日本と中国の大学生の計算力の比較(数学の現状)
 小中学校程度の計算問題を25点満点のテストにして、日本と中国の大学生に実施した結果、満点を取った生徒の割合は下の表のとおりである。

大 学 区 分

満点の割合

中 国

中国の国立大学トップ校

95.65%

日 本

国立大学トップ校 理系

45.00%

国立大学トップ校 文系

22.95%

私立大学トップ校 理系

.70%

私立大学トップ校 文系

.89%

     【1999年 小数ができない大学生 東洋経済新報社】
 文部科学省も、新指導要領を実施したあと学力テストを実施して結果を公表するとしているが、学力テストの結果の分析は、テストの問題傾向・分析の方法などにより結果が大きく左右される。ここに示したものは、小中学校程度の計算というシンプルな問題を25点満点という単純比較したもので、結果の比較は一目瞭然。もっと難しい問題なら逆転している…などという負け惜しみを言う元気もないだろう。


 以上、3つの指摘を見てきたが、これらの他にも学力低下が懸念される理由は、枚挙に暇がない。総合学習の導入によって、学力の定着が図られなければならない教科学習の指導があいまいになってしまうこと。授業時間が減少するため、実験・観察・社会見学・聞き取り調査などの科学的な感心・思考・手法が指導できないこと。体験を重視する総合学省は、机に座って学習するという形の学習形態を崩壊させていくこと。そして、授業を自ら計画しなければならない教師に、過度の負担を強いること。… などなど、列挙していけばきりはない。

 現在の日本の数学教育が、いかに内容の乏しいものかがご理解いただけると思う。今の日本は、過去の教育の遺産でかろうじて食いつないでいるのである。このまま、あと10年も経てば、日本は世界に取り残されてしまうことが目に見えている。
 なのに、まだ文部科学省は、授業時間数の大幅削減をもとにした、新指導要領を実施しようとしている。そもそも、荒れる学校に手を焼いた文部科学省は、詰め込み教育は子ども達の不満を募らせ非行を促進すると唱って、10年以上前から教科の内容を削減し続けてきた。その結果として招いたものは、切れる子ども達、少年非行の凶悪化と年齢の低年化
、学校崩壊と学級崩壊の低学年化…。子ども達の荒れと学習内容の軽減化とは何の因果関係もなかったことを、まだ認めようとも、その誤りに何の責任をとろうともしていないのである。


 今、文部科学省を初めとする国の教育政策がそうであるとするのならば、愛知県犬山市などですでにその取り組みが始まっているように、地方自治体は学習事項を整理して独自の教育プログラムを組み上げ、学力低下必至の現状に対して郷土の教育を守って、敢然と立つ姿勢を示さなければならない。「全国学力テストで、平均に対してこれだけのプラスをしました。学校崩壊・学級崩壊は、我が県や市町村ではでは無縁です」と胸を張れる成果を挙げ、結果を満天下に堂々と誇るべきプログラムをスタートさせるべきだと思う。



【12】地方自治体は、独自の教育プログラムを!        (1.19)
   − 学力低下を招かないため −  その2  (下の、その1からお読み下さい)



 繰り返される学力低下への警鐘の前に、遠山文科相は17日の全国県教委連合会総会で児童・生徒の学力向上を宣言。教科書を超えた授業や、始業前に補習や宿題を奨励する新方針を表明した。また、教科書に学習指導要領を超えた「発展的記述」も容認。同省では、教科書検定基準の改定作業を行う方針であることが報じられた。
 官僚組織が計画を立て軌道に乗せようと動き始めたものは、外部からの意見や提言ではなかなか修正されないと、最近の読んだ著作の中で接した覚えがあるが、確かに、10年に渡って無為無策の赤字国債を垂れ流し、日本を666兆円の借金漬けにした大蔵省…、狂牛病対策に手落ちはなかったと退官の弁を語った農水省事務次官…、批判の中も国費使い放題の外務省を始めとする諸官庁など、誰がどう見ても誤っていることがわかる政策になおしがみつく官僚体質の中で、この文部科学省の軌道修正は、卓見とエールを贈っておこう。
 しかし、授業時間数の修正や何をどう教えるのかといった具体的な提案はなく、現場の工夫や努力に委ねるというものである。学校や教師に考えろというだけで、具体的な方策を伴わない新方針の効果は期待できない。


 さて、4月から実施される新指導要領が抱える問題点を、今日は、小学校6年生の授業時間数について見てみよう。日本の高度成長を支えた世代が小学生であった、昭和48年を比較の対照として比べてみると、年間で、国語が245→175時間(71%)、算数が210→150時間(71%)、理科が140→95時間(68%)、社会が140→100時間(71%)となり、この四教科で215時間減、約70%へと大幅に減っている。これに対して、特別活動の時間が35時間、総合的な学習の時間が110時間、新しく設定されている。
 特別活動とはいわゆる学級活動をいい、総合的な学習とは、指導要領のねらいをみると、@自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育てること,A学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにすること…とされている。もちろん、それを実現するための方策や具体的な教案・教材などはなく、各学校で地域に応じた学習計画を立案することとしている。
 なぜ、学力低下が懸念されるのか…。まず、大幅な国算理社の教科の授業時間が減ったことによって、内容も大幅に削減され、また、反復して演習をさせる時間もなくなってしまったことは、直接的な要因だが、もうひとつ、こうした教科指導の時間が少なくなり、体験学習が増えたことによって、子ども達の学習するという姿勢が希薄になってしまうことが挙げられる。

 総合学習は、児童生徒に社会生活に欠かせない規律を身につけさせ、生きるということに対する厳しさに目をそむけずに立ち向かう勇気を植え付けるものとされているが、本当にそうなのか。授業時間中に私語をしてはいけない、他人の迷惑になるような言動はいけない、規律を乱すものは厳しくしつけられ、時に罰を受ける…などを教える時間かと思ったのだが、もちつき・たこあげ・田植えと稲刈り・遊具作りとそれを使った遊び(竹トンボ、竹馬、…)・土地のお年よりに指導してもらって竹トンボや竹馬を作る活動などが、テレビなどのマスメディアを通じてもてはやされているように、実際は、学校とはいかに楽しいところかを経験させるところのようである。
 学校は、いま、子どもたちに楽しく一日を過ごしてもらって、明日も、喜んできてもらうところとなった。もし、新指導要領が実施された結果、世の児童生徒や父兄に、『勉強は、「学習塾」で習うもの』といわれ、塾通いの児童生徒が増えたならば、公教育は…文部省と教育委員会そして公立学校は、教育の場における敗北宣言を余儀なくされ、もはやどこにも存在意義はない。そのような事態を招かないように、今公教育がなさねばならないことは何か、その真価を賭して考えねばならない命題であろう。
 ことは、文部科学省にのみその責任を収斂しておけば済むという問題ではあるまい。直接に教育現場を指導監督し、その方策や結果に重大な責任を負わねばならない県や市の教育委員会は、当事者として取り組まねばならない課題である。もちろん、学校現場と教師自身は、最前線で結果責任を問われながら正対しなければならない現実である。



【13】地方自治体は、独自の教育プログラムを!(学力低下を招かないために)
  その3 − 望まれる 教師の研修と問題解決を保証する研究体制 −  
(1.26)


 学力低下を招かないようにという遠山文部科学相の談話は、個々の教師あるいは学校が指導計画を練り上げ、指導案や教材を作り、事前準備を繰り返して授業に臨むようにというものであった。しかし、現実は個々の教師あるいは学校にそれだけの余裕はなく、またその体制も整ってはいない。
 
 先日のテレビで、イギリスで最もレベルの低い小学校と呼ばれていた公立カルバートン小学校(生徒数354人)に赴任して、5年間で不登校や授業崩壊を一掃し、国語・算数・理科300点満点の全国一斉テストでそれまでの平均44点を282点に引き上げて、エリザベス女王から勲章を授与された女性校長シャロン・ホローズ女史の姿が紹介されていた。

 シャロン校長は、離婚して2児を抱えながら、学校改革に取り組む。優秀な先生をスカウトし、学校補助員を配備し、授業時間はもちろんいつも学校内を歩き回って、問題点を見つけては職員とディスカッションして解決しようとする。
 人事権も予算も与えられている、イギリスの校長であればこそできる仕事だが、だからこそ校長の責任は重大である。イギリスの教師の平均年俸は345万円ほどで、社会的に決して恵まれているとはいえない状況であるが、その条件の中で人材を確保し、教材を作成させ、授業の計画を練らせ、親たちの意識改革までも実行させる。
 学校の運営がそれぞれの校長に大きく委ねられているイギリスの風土を基盤としての取り組みだが、お上意識の強い連帯責任体制の日本においては、校長にそれだけの権限も意識も土壌も無いし、日教組の抵抗にもあわねばならない。日本の現状の中で校長の責任と権限において成し遂げねばならない取り組みであるかどうかは別の機会に考えるとして、教育改革を成し遂げるために取り組むべき課題を明示している番組であった。
 必要なことは、生徒と親たちの意識を改革すること。そのためには、信頼される学校でなくてはならないこと。さらにそのために、教師ひとりひとりの意識を高め、授業技術を磨き、より良い教材を提供して、よくわかる授業を展開することである。
 

 それでは現状をふまえて、現在の状態から教師の意識を高めるためにはどうすればよいのか。基本的なことであるが、研究体制を整えて研修を重ね、しっかりした授業を実現して、一人ひとりの教師が自信と誇りを持つことが必要であり、高いレベルの集団の中で充実した仕事を成し遂げていく環境を作ることが必要であろう。

 教師の研究を保証し、現場のレベルアップを図るために…、さらには、学級崩壊や不登校の問題を解決し、子どもや親たちに向かい合う姿勢などについてもともに考えていく機関として、教師が自分たちの研究組織として自発的に参加できる教育研究組織の確立が急務である。
 教師は、大学を卒業してからあとは自学自習で、学級や教科の担任として生徒に向かうばかりであって、学校内で管理職や先輩教師から厳しい指導を受けることも、やらなければならない目標値を定めた研修もない。授業や生徒指導に行き詰まった場合に、頼るべき機関もないしマニュアルも整備されていない。教師は孤独である。依るべき問題解決の機関として、確かな教育研究組織の設立が望まれる。



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日本のすべての問題の根幹は教育にあり、
  日本に求められている答えのすべては教育にある!   −我が独善的教育論−       
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