日本のすべての問題の根幹は教育にあり、
  日本に求められている答えのすべては教育にある!   −我が独善的教育論−       
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【16】子どもたちに、何を教えるか −教育が教育力を取り戻すために−(7.25)


● 子どもたちの社会に広がる闇


 長崎市で4才の幼児が誘拐・殺害され、その犯人は同市内の12歳の中1男子生徒であった。その3日後、沖縄県では中学生たちが遊び仲間をリンチの末に殺して、遺体に土をかぶせ遺棄するという事件が報じられている。そして、先週の東京渋谷小6・4少女監禁事件…。
 小中学生が引き起こす事件が続く。長崎の事件には神戸の少年A(酒鬼薔薇聖斗)を連想された方も多いと思われるが、平成10年の中1生による学校での英語教師刺殺事件や中3生の短銃強奪を狙った警官刺傷事件など、子どもによる凶悪犯罪が近年多く報道されている。ここ30年来の少年犯罪の発生推移を件数で見てみると、昭和45年を「1」として、ピークの58年が「1.7」、最新統計の平成11年が「1.5」とある。【文科省・警視庁資料 http://www.kinjou.ac.jp/kosodate/mondai/110.pdf この統計、グラフと数字の表のずれがちょっと気になる】 すなわち現在は、ピークの昭和58年(16年前)よりも少し減っているが、昭和45年度の1.5倍の件数である。現在の件数が多いか少ないかは別に考えるとして、少年少女による大きな犯罪は以前から幾度となく繰り返されてきているわけだ。事は確かに重大であるが、統計から見れば長崎や神戸の事件が特に異常ということではない。
 それらの重大事件よりも気になるのは、少年少女の日常に危険信号が加速度的に点ってきていることである。その意味から、むしろ渋谷の小6・4少女監禁事件のほうが、その背景に果てしない闇を抱えていて気味が悪い。
 この事件は周知のように、「部屋の掃除をすればお小遣いがもらえる」と誘い合っておじさんの部屋へ行った小6の4少女が、そのまま手錠をかけられて監禁され、犯人は自殺していたというもの。これらの少女たちに声をかけて、下着を売ったり性的な行為をするアルバイトを斡旋する女子中高生もいるという。
 小中高校生を含めた若者の倫理観が変化したのである。良くないことであると分かっていることに対して、抑制力が働かない。脳の中の前頭葉の働きが低下しているなどといった生理学的な指摘もある。学校だけの責任でなく地域の教育力が低下しているという主張も確かにそうだろう思う。
 が、これらの原因分析も大切であろうが、今、喫緊の要諦は現実的な対応策を具体化することであろう。十分に現状を分析検討して…などといっている時期は、すでに終わっている。



● 最大の責任は学校教育に


 対応の基本は、何といっても教育の改革である。学校教育だけに責任を負わせて解決する問題でなく、社会全体で解決に取り組まねばならない…という主張も分かる。しかし、最大の責任が学校教育にあることは厳然たる事実である。ここでは、社会教育も含めた、教育がとるべき具体策について提案を行っていこう。 


◇ 個性を伸ばす教育とは 共通理解を基盤とした各々の自我を覚醒させること (7.27)
(上からのつづきです)


 まず、学校において、倫理・道徳の教育を確立しなければならない。子どもたちに人として生きることの意味を教え、人のこころが解り自分に誇りを持つことのできる教育をなすことが肝要である。
 人間とチンパンジーのDNAは95%が全く同じであるという。ただ5%の違いだけが、人とサルを区別しているわけであるが、生物学的に大きく違うのは脳の重さで、日本人は成人男子で1350g、女子は1250gほど、チンパンジーは850gで犬だと70〜140gであるとか。ただ、重さと知能は関係ない。ゾウは4000g、クジラは6000gもある。
 ヒトを他の動物と区別してきたものは文明を生んだ「考える力」の違いであり、その文明を発達させルールを定めて社会をつくってきたものは考える力の継承=学習=教育であったことは繰り返すまでもない。動物たちにも考えたり教育するという営みは見られるが、ほとんどは一代かぎりの生存活動に関わるもので、昔の記録を伝えたり神を創造するといった、いわゆる頭脳活動を行うことはない。
 頭脳活動が人間を幸せにするかどうかは、その活動の中身が問われるところであり、例えば食べるために他の動物を殺す肉食獣には、生命を奪うことに対する非倫理的観念などはない。何の疑いもなく、ひたすら獲物を狩る。人間はやっかいで、ウシは食べるために殺しても良いがクジラはいけないといった独善的な理屈をこねたり、無益な殺生はしてはならないと自らを律する掟を作ったりする。もっとも掟を作らないと、人間の残忍さは果てしなく、肉食獣が獲物を殺すのは生きるための最小限度であったのに対して、人間は楽しみのためや憎悪で殺戮を繰り返すし、何よりも同じ人間同士で殺し合う。同じ種同士で殺し合うのは、人間以外にはない。教育を行うことの大切さと同様に、その中身の大切さが問われるゆえんである。


● 他人を思いやる心が教育の基本


 ヒトが人として生きるということを一言で言うならば、他人を思いやり、常識をもって世の中を生きるということだろう。
 人間であることの根源は、人を愛し、人に優しいことである。他人の心を理解し思いやる気持ちさえ持っていれば、あとのことは少々欠けていても、人としてそこそこの一生を送ることができる。
 逆に、他人の心が解らないものは、どれだけ才能に恵まれていても、たくさんの財産を持っていても、真の友情に恵まれることもなく、人としての魂の触れ合いを知らず人生を過ごす。人に恵まれた豊かな人生を知らないものも、自らの人生をそんなものだと納得して過ごすことだろうから、それはそれでひとつの人生を完結するし、「金さえあれば幸せ」という生き方も、他人に迷惑をかけなければそれで立派なものではある。
 ただ、そういう生き方は、人として「十分な生き方」かといえば、満足すべきものではない。『人はパンのみにして生きるにあらず(新約聖書マタイ伝)』、そうそうゴハンも食べなきゃね…と言って生きられればむしろ楽なのかもしれないが、人として生きるには、良い師に邂逅し、書に親しみ,友と語って、自我に覚醒することが必要である。近年、教育現場に流行する個性をのばす教育とは、子どもたち各々の自我を目覚めさせることであって、自分の好きなことを勝手にさせることではない。


◇ 常識を持って生きるということ (上からのつづきです)    (7.30)


 また、
常識をもって生きるというのは、その社会で生きるものとしての共通理解を身につけているということであろう。豊富な知識を持っているとか、雑学に詳しいといったこととはもちろん違う。日常の出来事に対して、普通誰もがそう考えるであろうという考え方や判断ができるということである。
 断っておきたいことは、日本的「ムラ」社会における人と争わないということとは違う。安易な妥協を排して主張すべきはきちんと主張し、百万人と雖(いえど)も我行かんの気概を持って、正論を貫くことが求められる。長い物には巻かれ、臭い物に蓋をして、泣く子と地頭には勝てないと素知らぬ顔を決め込むのは、卑怯者である。いたずらに争えとは言わないが、常識があるとは、正しいことは正しいとして行う姿勢を持っていることが必要である。
 教育は、この共通理解を子供たちに教えることが使命であろう。文科省が示す新指導要領のもと、生きる力とか個性教育とかのキャッチフレーズが踊るが、子どもとしての共通理解事項を習得していないものに生きる力を身につけろといっても、それは本末転倒というものである。それぞれの学年での基本的な学習事項の修得をおろそかにして、生きる力もないものだ。早い話が、分数のできない大学生では、その子に説得力を持てといって無理であり、活躍する場も限られるのが現実であろう。裏返していえば、子どもたちに共通理解事項を習得させることができない教育は、その責任を果たしていないということなのである。

 では、共通理解事項とは何を以っていうのだろうか。「読み書き・そろばん」と「生活習慣」である。
 ここで少しスペースを貰って、「読み書き・そろばん」と「生活習慣」を定着させるための私的学習計画案を示してみる。現在の指導要領はダメだというだけで、どうするべきかを示さないのは無責任だと思うからである。
 週5日制となって小学校4年生ぐらいを見てみると、月〜金曜日に各5時間の授業を行って計25時間の授業時間となる。その中での教科の指導は、国語7時間と算数5時間の計12時間、あと理科・社会・体育が各2時間、音楽・美術・家庭などは各1時間以上、各学校の状況にあわせてできればやるという程度でいい。そのほかに英語や地域芸能など、それぞれの学校が好きなことをやるのもいい。


 国語は週5日間で7時間だから2時間授業のある日が2日ある。毎日1時間の教科書の学習に加えて、その2日間は20分の漢字書き取りと25分の音読みをさせる。
 漢字は、教科書以上の漢字を教えるべきだろう。感情表現の漢字などはたくさんあって、かつての日本語ではそれを使い分けていたのである。
 
大学生程度になれば、「よろこぶ」といわれれば、喜ぶ(にこにこしてよろこぶ)・慶ぶ(めでたいとよろこぶ)・歓ぶ(声をあげてよろこぶ)・悦ぶ(心のしこりを取ってよろこぶ)・欣ぶ(いきをはずませてよろこぶ)といった程度のものは使い分けたい。【懌ぶ(心の緊張が解けてよろこぶ)・怡ぶ(おだやかによろこぶ)・忻ぶ(はればれとよろこぶ)までは難しい。以下同じ】。
 ほかを挙げてみると、「みる」は、見る(目に留める)・観る(見くべる)・診る(見て判断する)・看る(手をかざしてみる)・視る(注意してよくみる)・覧る(全体に見る)・瞰る(上から見下ろす)【察る(くわしく見極める)・監る(じっくりと見定める)・眄る(流し目に見る)・瞥る(チラッと見る)・矚る(注目する)・瞻る(仰ぎ見る)】。
 「わらう」は、笑う(わらう)・呵う(大笑する)・嗤う(あざ笑う)・哂う(ほほえむ・失笑する)と意外に少ない。
 「なく」という場合も、泣く(人が泣く)・鳴く(動物が鳴く)・啼く(声を出してなく)・哭く(大声をあげて泣く)【欷く(すすり泣く)】などを使い分ければ、表現はぐっと深まる。
 【 】内に示したものは必修といわないが、少なくとも常用漢字に残して、使えるのが望ましいとするべきだろう。小学校段階ではもとの教育漢字(1006字)は全て必修とし、中学では当用漢字(1850字)を修得させるべきである。高校以降には、慣れ親しみたい漢字(例えば上で【 】に示したもの)を示して教科書に採り入れ、新聞やその他の出版物には読み仮名をつけて使うことを認めるべきであろう。
 語彙数を増やすことは正しく美しい日本語を使うことに繋がり、自分の意見を発表したり心情を表現するのに欠かせないし、その人の生活を豊かにしてくれる。未来には英語の必要性が増し、英語のできないものは通用しないという世界が広がることも確かだろう。しかし、それが日本語をないがしろにしてもよいことではないはずで、むしろ、正しく豊かな日本語を使い、論理的で柔軟な考え方ができてこそ、世界へ飛躍することができるのである。
 国語審議会や文部科学省は、一億総白痴化現象に迎合して必修漢字を減らすばかりだが、日本人の精神の根幹と生活に関わる「漢字」の学習をもう一度見直す必要があろう。


◇ 名作で生きる力を
 
                            (8.4)


 国語の学習についてもう一点、読ませる教育(読書)の充実を提案したい。近頃、「声に出して読みたい日本語」などの本が書店の並べられ人気を集めているが、夏目漱石や森鴎外の名作が教科書から消えることを危惧しての、市民の行動であると思われる。小中学校の国語の中で、読まなければならない名作をきちんと決めて、子どもたちに示すべきである。
 名作を読むことによって、子どもたちは「人が生きるということはどういうことか」を知ることだろうし、「生きる力」を身につけることとだろう。

 文部科学省のいう「生きる力」は、いわば「創造し、事に当たる力」を意図している。だから、教科をまたいだ総合学習といった構想が生まれるわけだが、教科の基礎学習の指導も消化不良であった、教師の指導力の不足を解決しないでは事は進まない。教師に力量をつけさせる研究体制を確立し、毎年2ヶ月程度の研修を義務付けるなどして、学校の教育技術を強化する方向で解決するべきであったろう。それを、生徒の消化不良は内容が多すぎるからだと判断して、各教科の学習内容を削減して解決を図ろうとしたのだから、本末転倒といわざるを得ない。
 文部科学省は、学力低下の懸念が強く指摘されてきた今になって、従来は「何を教えなければならない。何を取り扱ってはいけない」と明確に示されていた指導要領について、「指導要領に示した内容は最低限取り扱うべきものを示したのであって、それ以上のことを取り扱ってよい」という通達を出している。自分でやれといわれた現場は混乱し、教師それぞれは独自の授業スタイルを造り上げようともがいている。あるいは、何もできずにバンザイか、ピント外れの授業を繰り返す。
 文部科学省は、鳴り物入りで示した新指導要領を訂正しなければならなかったことと、現場に混乱を生じたことの責任を取って、遠山大臣以下、初等中等局長、寺脇審議官クラスまでは責任を取って更迭・降格などに処するべきであろう。民間企業であれば、経営見通しを誤まった経営者や担当者は、辞職を含んで責任を取らねばならない。公官庁は時に結果責任について民間企業には厳しい処分を課すのに、自らの施策には責任を取らないというのはおかしい。
 政策を誤まって、国の借金を増やした総理や大蔵大臣は、政治家としての資格欠如なのだから、国会議員を辞めさせて退職金や恩給から損害分を補填させるべきであろう。橋本・小渕・森氏などの赤字国債を増大させた総理とその蔵相・関係大臣と担当官僚は、赤字を補填して責任を取るべきだろう。


「大局観」のもとは文学・歴史・哲学・芸術などの、役に立ちそうもない教養
(上からのつづき 8.8



 話を戻して、子どもたちは名作を読むことによって、登場人物の生き方への強い感動や著者の深い思索に触れることができる。人は読書によって、古今東西の偉人や英雄の体験・勇気・思想・情熱を知るのであって、読書の素晴らしさを教えられない子どもは不幸であるし、教えない教師は先達としての資格がない。本をたくさん読む教師に担任してもらった子どもは良く本を読むようになることは事実であって、意欲のない教師に出会った子どもはそれだけで不幸である。
 多くの人は、人生の機転となった一冊の本を持っていることだろう。あるいは、何かを知りたい、解決したいと思ったら、本をめくるだろう。世の中の栄達などには関係のない親しい友人を持つことの幸せに加えて、珠玉の数冊を持つ人生は豊かである。
 本を読む素晴らしさや楽しさを、子供たちに教えるにはどうすればよいだろうか。その第一歩は、小学校における音読である。国語の教科書の教材を音読することによって、子どもたちは日本語のリズムと表現の妙を覚える。小中高校のころに暗誦したものは、いくつになってもそらんじて繰り返すことができるが、大人になってから覚えたものは、すぐに忘れてしまう。小学生のころにどんな読書教育を受けたかは、その子の一生にとって重大な影響を及ぼす。
 昨今、教科書から名作が消えていっているということは前に記したとおりだが、教科書会社では削除した理由を「言葉が古くて難解、内容が今日的でない、子どもたちが興味を示さない」などとして、「荒城の月」をなくし、鴎外・漱石の作品を抹消した。時代を越えて来た作品には、年月に耐えた意味がある。意味が解らなくても、世代を超えて読者に訴える力を秘めている。かつてこの国を支え、この国の新しい仕組みをつくってきた人々は、『読書百遍、意おのずから通ず』と論語・四書五経などを繰り返して暗証し、自らの生きる支柱としてきたのである。
 内外の名作31作品を収録した「理想の国語教科書」の著者、齋藤 隆氏(明大助教授)は、サモアの小学生は英語を習い始めて1〜2年なのに、英語を使ってコミュニケーションができるという事実を報告している。小学校での授業を見学すると、先生が何百回となく生徒たちに同じセンテンスを復唱させていたという。
 剣豪 宮本武蔵はその著書「五輪書」に『千日の稽古を鍛、万日の稽古を錬という』と繰り返す鍛錬の要を説いているが、学習における反復練習の大切さを、齋藤氏は自転車の練習を例に挙げて、『10回や20回の練習では質的な変化はないけれど、300回あたりで突然に乗れるようになる。ところが200回あたりでやめてしまうと、積み上げた練習はゼロになってしまう。学習には、繰り返し練習してひとつの「型」を作ることが基本的に大切だ』と説明している。
 名作・名文に親しみ、それを暗誦できればベストなのだろうが、何度も繰り返して接しているうちに、その作品が持っている文学的感覚が自然に身についてくる。そこで覚えた日本語は、その人の生涯を通して、その人が発する言葉となり、その人はその言葉で思考することだろう。美しく高尚な言葉を身につけるということは、人間の思考に関わり、一生を正しい論理で生きるかどうかをも決定するのである。
 社会に読書する習慣がなくなってきている現在、家庭の親たちにその役割を担えといっても無理な相談である。子どもたちによい読書習慣をつける第二歩は、やはり学校での読むことの指導を強化することであろう。名作・名文のすばらしさを子どもたちに教え、主人公の生き方や作者の心のひだを熱っぽく・繊細に語る教師の指導力を強化することが必要だが、その方法はのちに述べるとして、ここでは小中高の「読み」の時間を充実させ、子どもたちに本をしっかりと読ませるむことを提案したい。
 生活の中に読書することを位置づけることができた子どもは、ものの考え方や他人との接し方もおのずから変わってくることだろうし、情緒に流されたり、物事を瞬間的な衝動に駆られて行ったりはしない。テレビを見る時間を制約して生活計画を立案するのではないかというのは、期待しすぎであろうか。


 世の中を創っていく力は何かといえば「大局観」であり、この「巨視的長期的視野」を養うものは文学・歴史・思想・哲学・芸術といった、当面は役に立ちそうもない「教養」である。そして、その教養は古今の書物に親しみ、幅広い読書を積み重ねることをせずには身につかないものである。「大局観」のないものは、物事の本質を見られずに小手先の対症療法とか、その場しのぎの辻褄合わせを弄するばかりで、根本的な解決は果たせないし、会社や国家を正しい方向へ導くことはできない。
 人は、書物に綴られた先人の魂に触れて、自らが生きる心の糧とする。歴史を知ることによって、人々がいかに苦難を乗り越えて今日を築いてきたか、自分たちの現在には先人のいかなる思いが込められているかに思いをいたし、自分もまたその一員であることに誇りを持ち、先人の思いを汚さずに生きようとする。
 偉大なる古人の思想や哲学のほんの一部分であっても、それに触れて魂を共有できることに喜びを見つけることができれば、そこから勉学に勤(いそ)しもうという向学の志に目覚める。人が人生の岐路に立って想い決断するとき、正しく豊かで清く強い心を持っているかどうかは、その人がそれまでにどのような書物に出会ってきたかによるところが大きいのである。

 諸外国では、自国の代表的な文学者や詩人の作品を暗誦できることが誇りであり、学校教育の中に組み込まれているという。ぜひ、国語教育の中で、人生の糧となる名作・名文に子どもたちを触れさせ、その心の中に人や自然への愛を、正しいことを貫く勇気を、一行の文に秘められた人の世の哀歓を、ときには熱く激しく、またときにはしみじみと読み取らせてやりたいものである。


◇ 教師の指導力を磨くために、研究体制の確立を     (上からのつづき 8.17)


 読書好きな先生に持ってもらった子どもは、良く本を読むようになる。教師の責任は重い。自らの読書経験を熱っぽく子どもたちに語って聞かせることのできない教師は、自らの読書生活をもう一度振り返る必要があろう。日本と世界の文学全集の一通りは読んでいるというぐらいは最低条件だろうが、果たしてそれだけの読書量をこなしてきているだろうか。

 先日、社会科の研究サークルで話をしていたときのこと、萱葺き屋根の竪穴式住居を弥生時代のものだという教師がいてビックリした。近年は縄文集落三内丸山遺跡の研究などがクローズアップされ、縄文人の暮らしや文化は予想外に進んでいたことが解明されているはずなのだが、まだ、縄文人の住居は一本の支柱に数本の柱をくくりつける竪穴式だと思い込んでいるらしい。社会科を専攻する教師にしてこの話だから残念である。教師の情報量が足らない、勉強していない。だから、今は一般人でも知っている縄文期の進んだ文化について、以前の理解しか持ち得ていないのである。
 個人の勉強不足ももちろんあろうが、学校教育界の研究体制が整備されていないところに最大の問題がある。教師は、教育学部を卒業してからあと、教員採用試験に合格して学校に配属されれば、以後、一切の研修制度はない。あとは子どもたちを相手に、教科書の内容に沿って授業を繰り返す日々である。
 私はかつて、三重県に県下全域を組織する教育研究会がないことを危惧し、「三重県教育研究会の結成を」と訴えて、三重県に教師の研究会を作り、研修体制を整備することを提案した。三重県の研究体制が、近隣の諸府県に比べて、著しく遅れていることを危ぶんだものであるが、ことは三重県だけに留まらず、教員採用試験に合格して教師として現場に配属された教師は、新任のその日からあと、研修する機関や体制はまず整えられていない。教育センターとか教育研究所といった機関はあるが、特定の研究目的を持った教師が数年間の研究をして専門的な技量を高めるためのものであって、全ての教師に広く研修を行う機関ではない。
 授業技術、学習指導、教科内容、学級・学校経営など、教師としての技量を幅広く習得していくことはもちろん、児童心理学、郷土の歴史、また社会人としての素養一般などに渡って研究体制を整備し、全ての教師が教師になってからの年次によって組まれたカリキュラムに従い、毎年2ヶ月間ほど研修することが必要であろう。いじめの問題とか、学級崩壊に対する対処など、教育にとって問題とされる問題を包括して解決策を研修させるのである。もちろん、研修機関の指導者は、教師以上の勉強をしなければならない。教育問題の評論家やジャーナリストなど、広い分野から講師を募ることもよいだろう。研修会を通じて、教師は現場からの本音をぶつけ、評論家の実践力を試してみるなど、真剣な遣り取りで研修の実を挙げていくことだ。
 「名作・名文を読ませる」ことについても、各学年ごとの読書教材を定めて、その教材について教師が研修を受けるわけだ。授業することに対して、授業を受けるのである。何をどのように教えるのか…について、一定のところまではマニュアル化するべきであろう。今、指導方法は各校の特異性や地域の実情があるのだから、指導の方法は教師のそれぞれが工夫し、千差万別であってしかるべきだという主張が教育界に根強い。馬鹿をいってもらっては困る。ここまでは教えろという基準を定めて、そこまでの学力を定着させることは厳しく要求し、それ以上は個々に任せるとするべきであろう。
 全教科にわたる研修は、時間的物理的に難しいという指摘もあるが、むしろ小学校でも教科担任制をより進めることが必要だ。


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