【教育14】戸塚ヨットスクール事件 最高裁判決 (2002.03.01)


 体罰で訓練生を死亡させたとして訴えられた"戸塚ヨットスクール事件"に対し、最高裁は、戸塚ヨット側の上告を棄却した。発生から19年、これにより2審の判決どおり、校長の戸塚 宏氏が懲役6年、他のコーチ3人が懲役3年6ヶ月〜2年6ヶ月の実刑が確定した。

 教育が「体罰」というものにどう向き合うのかが問われた裁判であったと思う。1審で執行猶予つきの判決が出たとき、支持する人は多かったはずである。今、最高裁の上告棄却を聞いて、裁判所として人間を死に至らしめたことに対し、「無罪」というわけにはいかないのかも知れないが、これが裁判所の限界だろうなというのが率直な感想である。
 裁判所に世の中を変える力を期待しても無理なのであり、また裁判所とは世の期待に応えてはいけないのであろう。起こったことを法規に照らして是か否かの判断をする、ただそれだけに徹しなければならないところなのである。その判断がおかしければ、法がおかしいのである。

 さて、「体罰は暴力であって、生徒の人格を損ね、権利を侵害する」とするのが、戦後教育における一貫したスタンスであった。しかし、子どもだから、体罰で済むのではないかと思う。子どもはいっさい叱ったり罰したりはしないのだというのならば別だけれど、彼らも犯した罪の多寡によって、保護観察として自由を制限されたり、少年院へ送致収監されたりする。その前の段階として、子どもだからすぐに社会的な制裁を受けさせることもなく、その場限りの体罰で済まそうというのである。
 悪いことをしたら、子どもであっても罰を受けるのは当然であって、子どもだから許されるというのは、子どもの人格を否定している。子どもだから甘やかすのでは、物事の是非を正しく判断できる子どもに育て上げることを放棄していることになる。子どもに対して、悪いことをすれば罰を受けるということを教えるのは、大人の義務であろう。
 進歩的知識人(優しいだけの人権主義者というべきか)の皆さんは、「体罰」は無条件で否定されねばならないという。それに対して、ひとことも反論できない、今の教育界も情けないが、約束を守らないものは廊下に立たせる、人に迷惑をかけるものは絶対に許さない…という不文律の中で、子どもたちは規律を守り明るくたくましく育つものだ。
 約束を守らないことが悪いことだということは、子どもたちは知っているのである。なのに守れなかったことを、「なぜお前は守れないのだ。説明してみろ」と問われても、それに答を出すほうが、「1時間廊下に立っとれ」と言われるよりも、子どもにとっては苦痛ではないか。
 体罰を受けるときに子どもの心がいかに痛むかを理解していないと言う人権主義者は、非道を行なう子どもを止めようと叱りつけて身体を張る教師の心の痛さを理解してはいない。子どもの悪に体を張って阻止する指導者の痛みは、周りで評論する大人たちよりも、むしろ当の子どもの方が理解している。そのとき殴られたとしても、子どもはあとになって感謝しこそすれ、恨みに思うことはない。それを教育委員会に報告するとか、やれ裁判所に提訴だとかいうのは、子どもの心に恨みを引きずらせ打算を植え付ける、大人の浅はかな知恵である。
 戦後の教育を主導した優しいだけの人権主義は、耳障りのよい言葉ばかりを並べて、体罰は子どもの人権を侵害していると言う。悪いことをした子どもを、諭して善導せよと言う。それは、子どもを知らないもののセリフである。子どもたちは、もっとたくましく、もっとしたたかだ。
 子どもは、悪いことをしたときに、叱られるのは当然だと思いながらやっている。叱らない・叱れない大人に不信感を抱く。子どもはイタズラを小出しにする。大人の顔色を見ながら、こいつは叱れないと思うと、イタズラはエスカレートする。大人が子どもを叱れない今、子どもたちは大人全体をナメている。この時代の子どもたちは不幸である。


 誤れる人権教育を受けて育った、今の親たちも、同時に不幸である。誤った価値観を持って現実を生きねばならない彼らは、自分たちが半信半疑の人権主義の中で育ってきているので、自信を持って子どもに正対することができない。「ほめて育てる教育」などというものが、子どものためになると思っているのが不幸である。やるべきことをきちんとする、年齢に応じた自分の責任を立派に果たすことができる…、そういう基本を身につけさせたうえでの「ほめて育てる教育」であるのに、悪いところには目をつむり、良いところを見つけてほめそやすのでは、立派な人格を持った子どもに育つわけがない。
 学力にしても、責任を自覚し豊かな人間性を身につけてこそ、初めて確かな学力を修得することができ、花開くのであって、自分のやらなくてはならないこともできない子どもに、揺るがぬ学力をつけようと思ったところで、本末転倒した話である。学校においても、子どものしつけの行き届かぬところで、学習指導などできはしない。


 戸塚 宏氏は、戦後教育が内蔵する疑問に対して、身をもって立ち向かったのだと思う。そして、今の彼が、妥協せず自分を偽らずに出した結論が、現在の姿なのであると思う。彼は、目の前にした子どもの弱さに迎合するわけにはいかなかった。登校拒否・校内家庭内暴力を繰り返す子ども達を、そのまま家に返すわけにはいかなかった。俺がやらずして誰がやるのだと思ったことだろう。死ぬかも知れん、その結果、罪に問われるかも知れぬとも思ったことだろう。しかし、彼にとっては貫き通さねばならないことだったのである。ここまで、教育のかかえる矛盾に…子どもたちに…、立ち向かえる指導者はそうはいない。
 戸塚 宏氏は、「頭で考えて解からないことは、本能で判断すると、正しい道がわかる」という孟子の言葉を引いて、体罰とはそういうことなのだと言っている。


 最後にもうひとつ、家庭内暴力に荒れる息子を金属バットで撲殺した父親の事件が思い出される。息子が壊した家庭の荒れようにも驚いたが、父親は教育相談所やカウンセラーを訪れて相談をしていたという。『今は子どもに逆らわず、自由にさせて上げなさい。事を荒立てず、親が耐えるのも治療の一つで、子どもを見守ってあげなさい』というアドバイスに従って、子どもの一層の反抗にも耐え、親を土下座させて殴る蹴るの暴力にも無抵抗であった。暴力を振るいながら、子どもは泣いていたという。親の態度を情けなくクールに感じていたのだろう。もっと激しく自分にかまってほしかったのである。なお、進歩的知識人のカウンセラーは、『もっと子どもを認めて自由に…』と助言していたという。結果、万策尽きて思い余った父親は、息子を金属バットで撲殺することになる。なぜ、教育は、『身体を張り、命を賭けて、子どもに立ち向かえ。逃げるな!』と教えないのか。


 いま、世の中は、優しいだけの…誤れる…人権教育で子ども達を育ててきた50年間を、痛烈に反省しなければならないのではないか。悪いことをすれば、叱られ罰を受けるのが当然であることを教え、正義を是とし不正を否とする価値観を、きちんとした形で子どもたちに教えなければ、この国の将来はない。「体罰」を是とする教育理論を確立するときにきている。



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