【12】 参議院三重選挙区補欠選挙2000の舞台裏 その1       2008.06.10
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 僕が、「この県連は腐っとる。責任者は腹を切れ」と叫んだ理由 


 2000年、参議院三重県選挙区の現職平田耕一(自民党)が衆議院選挙に出馬するために議員を辞職…。これを受けて三重県では、衆参同日の参院補欠選挙が実施された。
 この補選に、僕は同級生の橋爪貴子が自民党公認候補として立候補したので、その後援会副会長として応援することとなった。
 開票結果は、
   高橋千秋(民主党) 429240票
   橋爪貴子(自民党) 399800票
   谷中三好(共産党) 112875票   と、我が橋爪陣営は一敗地にまみれた。


 この選挙の反省会を兼ねた慰労会で、僕は岩本自民党三重県連幹事長(当時)に、「この県連は腐っとる。責任者は腹を切れ」と言って、マッチポンブのあだ名のある岩本幹事長を「そりゃぁ、アンタ、言い過ぎやろ」と激怒させ、なおも「こんな自民党では将来は真っ暗や」と追撃して、横に座っていた大山後援会長をあたふたさせた。
 しかし、以後、参議院三重選挙区(定数1)で、自民党は民主党に勝てていない。


 このレポートは、2000年の補欠選挙を内側から見つめた報告である。登場人物は一部仮名、出来事は一部フィクションを交えて、この選挙の顛末を、8年を経た今だから…という意味で振り返ってみようと思う。



同級生、橋爪貴子 出馬



 2000年初夏、選挙が近づいた5月のある日、我が家の電話が鳴った。「三重テレビ番組製作部長の橋爪貴子が、6月の参議院三重選挙区補欠選挙に自民党から出馬することになった。同級生として、応援してやって欲しい」。三重県出納長から創成期の三重テレビの社長へと転じ、その経営を軌道に乗せた、夏秋元社長からの電話であった。
 橋爪貴子と僕は、高校時代の同級生である。同じクラスになったこともないし、クラブが一緒だったわけでもない。ただ1回、3年生の冬、友人宅で開催したクリスマスパーティで同席し、ダンスの相手を務めたことがある。選挙を応援しなければならない義理も縁(ゆかり)もないが、頼まれればいやとは言えないのが、章くんのよいところ…。「微力ながら」と答えた僕は、早速、三重県在住の同級生の住所・氏名をパソコンに入力した。


 10日ほどたった日曜日の午後4時、津市内のあるレストランの2階広間に、同級生35名が集まった。県内に住んでいる同級生は280名余、返信用はがきを入れた封書で「激励会を兼ねて集まりたい。会費1500円、弁当・コーヒー付き」と呼びかけたところ、出席が35名…、出席できないまでもほぼ全員から『激励会は行けないが、応援しています』とのメッセージが添えられていた。
 午後4時20分、「挨拶に回っていまして、少し遅れました」と言いながら、橋爪貴子がやってきた。「このあと、5時30分に伊賀上野に入らなくてはいけないので、ここを4時45分ごろには出なくてはならないから、20分ほどしか居られない」と言う。『国政選挙の候補者らしくなってきたな』と僕は思ったのだが、出席してくれた同級生の多くは「今日はこの会合があることが前から判っとるやないか」「20分しか居れないなんて失礼な」「俺は伊勢から出てきたンやぞ」といった感想を持ったようであった。
 「思いがけず立候補することになりまして…」と挨拶もそこそこに、橋爪貴子は次の会合へ向かって行った。それでも、同級生とは有り難いものである、誰ともなく「資金カンパを…」と言い出してくれた。呼びかけ人の僕としては、引き受けたからには活動費は自分もち、みんなに金銭的な負担を依頼する気は毛頭なかったので、「金は要らん、力だけ貸してくれ」と繰り返したのだが、「応援するにも、先立つものは金や」と心配してくれるみんなから、ひとり1000円ずつの浄財を預かることとなった。
 みんなの思いがこもった資金は、この激励会の封書+はがきを始め、後援会申込書・パンフレット・ポスターの配布、告示前の「お家の皆さんや三重県内の友人・知人の方々へ、よろしくお願いを…」と書いた応援依頼の封書(事前運動の警告があるかとも思ったのだが、僕が個人名で出すので誰に迷惑をかけるわけでもないからいいか…と投函)、そして、選挙終了後に出した礼状はがきの通信費に使わせてもらった。この日以降にも、3千円・5千円…、中には1万円を送ってくれた同級生もいて、資金は合計6万円少々にもなり、通信費の多くはこのカンパでまかなうことができた。


選挙事務所


 6月、森政権下の衆参同時選挙が告示された。橋爪貴子の選挙事務所は、津インターチェンジのすぐ側…。三重県全域を飛び回らなくてはならない全県1区の参議院候補には、交通至便の場所ではなはだありがたい。自民党三重県連から、選挙カー1台と運転手の遠山さんが配属されてきた。
 ところが、事務所の陣容はまことにお寒い限り。衆議院選挙が同時に行われているから、自民党三重県連も手が回らないのか、県連から派遣されてきたのは、選対事務長に洞口庄伍(津選出自民党県議)、事務所責任者に安藤金太郎(自民党津市議)、そして事務を取り仕切る亀田敏男事務員の3人…。その他に、橋爪サイドが友人知人を集めたのが、広川清美さんをはじめとする4名の秘書・事務員たち。候補者、秘書、運転手は遊説に出ているから、広い事務所に3〜4名がポツンと座っている選挙事務所であった。
 関係者は衆議院選に精力を注いでいたからか、陣中見舞いに訪れる来訪者も少なく、全県1区の参議院選事務所としては、なんとも淋しいかぎりであった。責任者の洞口県議、安藤市議らが、県連では傍流であったことも大いに関係していたのだろう、動員力のない選対であった。


橋爪貴子擁立のいきさつ


 橋爪貴子が、三重県自民党の公認候補として擁立されたのは、告示の2ヶ月前というあわただしさであった。三重テレビ報道制作局長を努めていた橋爪は、報道関係者であることと女性であることもあってか、県内の文化的事業の委員などに名前を連ねていて、その界隈では知られていたことから、当時、参議院議長の要職にあった斉藤十郎参議院議員に口説かれ、出馬に踏み切ったものであった。
 しかし、橋爪貴子の知名度は一般県民には遠い世界での話で、彼女が勤めている三重テレビなんて見ている県民は1%もいない。ましてや、画面にも出ていない制作部長など、知っていろというほうが無理である。NHKの報道制作局長でも、知っている人はまず居まい。
 それでも、それまでの三重県参院選は自民党王国…、「絶対に落選することはない。保証する」と言われて出馬に踏み切ったとは、本人の談である。彼女の決断を、「選挙はミズモノ。絶対当選するなんて甘い」というのは結果でものを言っているのであって、その6年前は平田耕一、3年前は斉藤十郎が民主党の相手候補に10万票の大差をつけて当選しているのだから、橋爪を口説いた斉藤参議院議長も本気で彼女の当選を信じての要請であったと思われる。
 が…、平田参議院議員の衆議院選転出は既定の路線であったのに、2ヶ月前まで、その代りの候補者が決まらなかったというのは、自民党三重県連に大局的な構想が欠如していることの現れであろう。党組織の保持や将来性を考慮するならば、県連執行部はその責任において、平田議員の支援と後任参院選候補者を、選挙準備のできる期間をとって決定すべきであった。
 のちに詳述するように、これからあと自民党三重県連は参院選で連戦連敗することになるが、橋爪貴子を皮切りに、翌年の藤岡和美、4年後の津田健二と、次々と候補者を使い捨てにして、その都度選挙にかかわった人たちの支持票を失い、ついには斉藤十郎元参院議長までもが出馬辞退へと追い込まれるのである。



立会演説会 代理弁士


 告示日から、橋爪貴子は三重県内を南へ北へと走り回っている。橋爪には、単独で個人演説会を開いて聴衆を集めるだけの力はない。同時選挙を戦っている衆議院の自民党候補者の演説会に、時間をもらって演説させてもらっている。
 ところが、これさえも、必死の選挙戦を戦っている各候補者には、迷惑がられることがしばしばであった。候補者個人にはそんな細かい考えはないのだろうが、その選挙を取り仕切っている連中には、人のふんどしで相撲を取るような厚かましさを感じるのだろうし、自分の陣営の票以外のことは何もしたくないというのが本音のところだったのだろう。熾烈な選挙選を考えれば解らないこともないが、橋爪陣営の僕たちから見れば、相乗効果を図ることのできない彼らは、『セコイ連中だ』というカンジである。
 橋爪貴子が出席できない会場へは、僕がお邪魔して支持を訴えて歩いた。夕方から1〜4箇所ほどの会場が用意されていて、演説を終えた順に次から次へと訪問するのである。
 候補者と応援弁士がひな壇へ並んでいる会場では、用意していった決まり文句を並べて、投票を依頼すればよい。庇(ひさし)を借りている立場なので、長くても15分ほどの持ち時間で、立候補にかける本人の決意と投票のお願いを繰り返すだけだったが、1日の間に4箇所ほどの会場が用意されている日には、弁士は各会場を掛け持ちで次々とこなしていくことになる。その日の3つ目…4つ目…の会場になると、次の弁士が来るまで話をつながなくてはならない。久居市のある会場では、次の人が道に迷ってしまったとかで現れず、1時間30分ほど、滔々と教育問題を訴えることができた。
 選挙結果が敗北に終わったから、何の慰めにもならないけれど、事務所内では「章さんが応援演説に入った、久居・一志・松阪では全勝でしたね」との評価をもらった。この選挙は、任期を1年残して辞職した平田議員の補欠選挙だから、任期満了による本選挙がまた来年に控えている。僕は『来年の本選には、全県の全地区 応援演説に回るからな』と捲土重来を期していたのだが、橋爪は不出馬であった。


洞口選対委員長、安藤事務所責任者


 驚いたのは、事務所の責任者の連中が、全く動かないことであった。選対の洞口県議は僕よりも高校の2年後輩なので話しやすく、「後援会の連中に言って、票を集めて来いよ」とハッパをかけたのだが、どうも手応えがない。頼りないので、彼が6年後に津市長選に自民党候補者として立候補したときには、全然協力してやらなかった。結果は、4万7千票ほどをとったけれど、民主党の相手候補に1万票あまりの差をつけられて落選…。

 

 事務所責任者の安藤金太郎津市議は、僕よりも一回りほど年上の65歳を過ぎたベテランの市会議員である。1800票ほどで当選する市議選にいつも3000票ほどを集め、早々に当選を決めるのだから固い支持者も多いはず。その人たちに運動してもらうことと、「自民党県連からも、県議や各市町村の議員にも動いていただくように働きかけてもらえませんか」と、年長に対する丁寧さをもって依頼したのだが、金太郎からは「自民党というのは自分党や。自分のことは自分でするんや」という返事。「アンタには、事務所責任者の資格はないな」と、僕は年長者であることも忘れて断罪してしまった。
 この金太郎には、このあとも何度幻滅させられたことか。僕の親しい津市議の連中も、「安藤金太郎がいるから、橋爪の事務所には近づかない」と公言するし、亀山の市議から漏れてきた話では「同時選挙をやってる川崎二郎さんの事務所が、安藤が来ると困るので、橋爪の事務所の責任者にして放り出したンや」とのこと。来客もまばらで閑古鳥の鳴く橋爪事務所を見ていると、それがホントらしく聞こえるから怖い。


後 援 会


 決意から出馬まで2ヶ月という短期間であり、橋爪貴子はその日まで政治活動などとは無縁なサラリーマンだったのだから、後援会などといった組織はあろうはずはない。会長だけは、幼稚園や料理学校を経営する大山学園の大山源一学園長が決まっていたのだが、会員は皆無である。
 洞口選対や安藤責任者らにそんな組織的な動きを期待するほうが無理だし、僕は同級生140名、友人・知人の100名ほどに連絡を入れて、とりあえず250名ほどの後援会らしきものを作り上げた。ビラ貼りや電話かけ、自民党本部から応援が来たときの動員など、会員の皆さんには大変お世話になった。
 選挙戦が始まって数日がたったある日、保利耕輔自治大臣が応援のため来津することになった。津駅前の遊説に、「後援会から、100人ほどを動員してほしい」と金太郎が言う。章くん、早速
友人の河合由紀子さんや勝っちやんに各20人ほど、同級生の5〜6人にそれぞれ10人ほど、津駅前へ動員してくれと依頼して、当日は100人ほどのサクラを集め、何とか格好をつけた。
 金太郎には「電話嬢を集めてくれ」とも頼まれた。「このたび参議院議員に立候補いたしました、橋爪貴子の事務所でございます。…よろしくお願いいたします」と電話をかける女の人を4〜5人集めてほしいというのである。河合由紀子さんに「電話嬢をやってくれませんか」と直接頼んだらしいのだが、「私はね、自分の家にかかってきた電話も、自分じゃ取りませんのよ」とこっぴどく断わられ(と、河合さんが笑って話してくれた)、僕に相談してきたものである。金太郎は自分の後援会に声をかけようとはしないのだから、僕も引き受けなくてもよいようなものであるが、何事も橋爪貴子の当選のためだ。近所の奥様お2人と同級生2人に引き受けてもらって、毎日、もしもしコールをしてもらった。


桃 太 郎


 これほど僕に世話になっておきながら、金太郎は一向に反省の様子もない。県連から出ている選挙資金を一手に握っているのだから、「章さん、帰りにどうです? この金で…」ぐらいの配慮があってもいいのではないかと思うのだが、一向にその気配がない( … もちろん冗談である。
無人島で2人きりになっても、この男と一緒に飲み食いすることはない(笑))。その金太郎が、選挙戦のデモンストレーションとして、「桃太郎」をやろうと言い出した。
 桃太郎とは、候補者を先頭にして、支持者やスタッフと一緒に休日の繁華街など人出の多い町を練り歩くのを、イヌ・サル・キジをお供に鬼退治に行く桃太郎行列になぞらえた呼称で、選挙用語のひとつである。
 土曜日の夕方5時から、鈴鹿市の立会演説会を断って、津のダイタテ・アーケード街を練り歩くのだという。僕は気恥ずかしいので、ギャラリーに回ったのだが、やってきた一行の先頭にいるのは、白手袋をはめて手を振る金太郎ではないか。金太郎が桃太郎をやって、どーするンだ…。彼は橋爪貴子のための選挙運動でなく、自分のための運動をしているのである。



自民党津市議団 激怒


 選挙戦も中盤を迎えたある日、自民党の組織が橋爪貴子の選挙に関して一向に機能していないことに危惧を抱いた僕は、洞口や安藤金太郎に票を集めて来いと言ったところで無駄なことはもう解っていたので、親しくさせていただいている小山憲治津市議に「津の市会議員の皆さんを集めていただけませんか。橋爪貴子本人を挨拶に出向かせ、直接、皆さんにお願いをさせます」と相談を持ちかけた。小山市議は自民党津市議団の重鎮、会長を務める清和会は中間派の議員も擁して、津市議会の最大会派である。安藤金太郎らとは同じ自民党の市議だが歩調が合わず、橋爪事務所へ顔を出してもらっていない。
 「解った」と二つ返事で請け負ってくれた小山市議は、安藤金太郎らを除く自民党市議のほか、中間派と公明党市議団にも呼びかけてくれ、32名の津市会議員のうち、15名を召集してくれた。
 会合当日…午後6時、津市内のレストランの一室をオーナーの鮒井さんの好意で無料で貸していただき、橋爪の行動を調整している事務所の亀田君と打ち合わせて、四日市の立会演説会を終えた橋爪貴子は事務所へ寄らずに、直接この会場へ入る手筈を整えた。僕はこの夜は、一志町波瀬での立会演説会があり、終わり次第、会合へ合流する予定であった。
 午後7時、立会演説会を終えた僕の携帯が鳴った。「橋爪貴子が来ない」という、鮒井さんからの電話だ。
 何ということだ。議員の皆さんが集まってくれているのに、候補者本人が来ないのでは、話にならない。僕は車を走らせながら、事務所の亀田君に電話を入れた。「橋爪は事故か? 病気か?」と聞く僕に、亀田君の答は、「安藤事務所責任者から、ストップがかかったんです」。
 橋爪当選の暁には、その手柄を独り占めしたい安藤金太郎は、ほかの自民党市議が動くことを嫌がって、今夜の会合への橋爪貴子の出席を阻止したのだ。自分のことしか考えられず、選挙を私物化している金太郎の愚挙としか言いようはないが、この選挙戦を楽勝だとでも思っているのだろうか。協力いただける全ての勢力を動員して総力戦で当たらねば、上昇ムードにある民主党勢力に、昨日までOLだった橋爪貴子が勝てると思っているのか。所詮は市会議員…、三重県全県区の選挙情勢が全く見えていない。
 橋爪貴子はすでに事務所に戻されているというから、今さら彼女に安藤金太郎を振り切って出て来いというのは無理な話だろう。
 僕は急いで津に戻り、レストラン2階の会議室へ駆け上がると、廊下の椅子に大山源一後援会会長、村田義之秘書が座っていて、僕の顔を見ると村田君が腕を胸の前で×に組んだ。2人は、出席の市会議員の面々に、かなり厳しい叱責を頂戴したのだろう。
 部屋へ入ると、議員の皆さんも口数少なく座っていて、重苦しい雰囲気が漂っている。挨拶も省略して僕は、ロの字型に並べられた机の下座の席から、「橋爪貴子の後援会副会長を務めております飯田でございます。一志の立会演説会に出席しておりまして、ただ今、急ぎ戻って参りました。このたびは、大変失礼をいたしまして申し訳ありません」とまず侘びを言うと、みんなの視線が一斉に集中した。
 「実は、今夜の会合は、私が小山さんにお願いいたしまして、みなさんにお集まり願ったものでございます。橋爪貴子のため、自民党の議席のために、良かれと願ったからでございました。
 この不手際はひとえに私の不首尾でございまして、小山さんは心底善意から私の無理をお聞きいただきましたのに、却ってご迷惑をおかけいたしましたことは、お詫びの申し上げようもございません。今夜のことは…」と、事の顛末を説明しようとしたら、正面に座っていた岡林武志市議が、「誰が邪魔しとるかは、わしらはよ〜くわかっとるんや。あんたの立場もわかっとりますわ」と引き取ってくれた。
 小山市議も「あとは私らと安藤金太郎との問題やから、あんたには関係のないことや」と言ってくれ、出席してくれていた公明党の梅崎正昭市議は「飯田さんも苦労しますなぁ。後はこちらで、きっちりとカタ付けますから」と笑ってくれた。


将来構想も日常活動もない 三重県自民党…


 翌日、事務所で安藤金太郎を捕まえた僕が「あんたのやることは百害あって一利なしや。後援会の僕らが走り回ってお膳立てし、市会議員の皆さんが橋爪貴子のために力を貸してやろうといって集まってくれているのに、なぜ出席に待ったをかけるんや」と詰問すると、「自民党やない連中が混じっとる。小倉議員(無所属)なんて、このあいだの県会議員の選挙では民主党の候補を担いで選挙しとったんや」と中間派の議員がいたことを理由にした。
 「小倉くんは、小山さんたちと一緒の会派で議員活動をやっているし、今回の選挙には橋爪貴子のために票を集めると言ってくれてるんやから、何にも問題はない。(少なくとも、お前さんよりは信頼できる…とまでは言わなかったけれど)」と言っているところへ、自民党県連からの電話が入った。『公明党三重から「連携して橋爪さんの選挙にあたるつもりなのに、昨夜はわが党の市会議員が多く参加した会合に橋爪貴子さんの出席がなかったとのことだが、どうなっているのか」という問い合わせがあった』との連絡である。
 『梅崎さん、早速、揺さぶりに出たな』と思ったけれど、僕はそ知らぬ顔で「公明党さんへは、この事務所から説明だけはしとかなあかんわなぁ」と言うと、「わし、行ってくるわ」と金太郎、ここは神妙であった。
 横にいた洞口選対が、「まぁ、安藤さんの顔も立ててやって…」と言うのに、章くん、「ただでさえ厳しい選挙なのに、津市議の皆さんが集まってくれている席をすっぽかしたんやぞ。選対責任者のあんたまで、何を呑気なことを言うとるのや。万に一つも落選したら、あんたらの責任やからな」と、この時にはまだ当選するものと思っているので、それ以上厳しいことを言うこともなくやり取りは終わった。


 が…、自民党県連から派遣されてきている、この選挙の責任者たちの志(こころざし)の低さは驚くばかりである。自分の選挙に結びつけることしか頭になかったり、目の前のことを処理するのに精一杯であったり、自分の手に余ることは知らぬ振りをするばかりであった。
 確かに、県連では傍系であり、言動も評価されていない彼らが、何をしようとしても何もできないことは事実であったかもしれない。が、そうであったとしても、橋爪事務所の責任者としての役職を任されて来ているのだし、いちおう現職の市議と県議たちなのだから選挙の何たるかはそれなりに心得ているはずで、橋爪貴子の票を伸ばすために何らかの工夫や努力をするべきであろう。ところが、その意欲も能力も持ち合わせないだけでなく、むしろ足を引っ張る行動ばかりを繰り返すのである。
 彼らの言動や県連とのやりとり、また、たまに事務所を覗く県連役員の立ち居振る舞いを見ていると、自民党の三重県支部として、その権威と政治力・組織力を十分に生かして選挙を戦おうといった構想や行動ができないのは、自民党三重県連そのものの体質なのだということが理解された。いやしくも自民党は政権政党であり、しかも三重県は自民党王国なのである。各郡市町村の自民党議員を機能的に使って、印刷物の配布、演説会・集会の開催、政党活動や勉強会への参加・啓蒙を繰り返していけば、政策の理解を促し、自民党への支持を増大堅固なものにすることができるはずである。ところが、「自民党は自分党や」で片付けて、無策な日常を過ごし、将来へつながる一歩を踏み出そうとしないのだから、三重県自民党の明日はないのも無理からぬことである。


 この日のあと、自民党津市議団は一切の応援活動をやめてしまった。中間派の人たちも、少なくとも橋爪貴子のための選挙運動はしていない。
 公明党の動きについて、選挙後に新聞は、「
北岡勝征連合三重会長は、公明党の支持母体である創価学会の票の配分を「橋爪貴子の60%、高橋千秋に40%ぐらい」と語っている。公明党は中央の指令を受けて橋爪支持を打ち出しながら、県議会の非自民「新政みえ」との連携から、高橋に票が流れたものとみられる」と書いていた。当時の公明票は12万票…、固いとされている公明票が予想以上に高橋千秋に流れていた裏には、公明党三重県支部にそっぽを向かせた、橋爪事務所の失態が大きく関係していたのである。


歴史にイフはないけれど…


 結果は、冒頭にも書いた通り、高橋千秋429240票、橋爪貴子399800票と、3万票足らずの差で、橋爪自民党は惜敗した。
 津市の開票結果はというと、橋爪は高橋に3万票の差を付けられていて、この劣勢が結果を左右している。このうちの1万5千を取ることができていたら、当選であった。
 歴史にイフ(if)はないけれど、もしあの夜に橋爪貴子があの会場を訪れて、出席していた15人の市会議員の皆さんに協力をお願いしていたら、この選挙は勝てていたと思うのは僕の皮算用にすぎないだろうか。



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