【13】 参議院三重選挙区補欠選挙2000の舞台裏 その2     2008.06.19
      − 自民党三重 再生のために −

                                     その1へ
開 票


 開票速報を見守るために、事務所に支持者が次々と詰め掛けている。洞口選対はソファーで、安藤金太郎は100脚ほど並べた折りたたみ椅子の真ん中あたりに腰掛けて、詰め掛けた顔見知りと談笑しながら開票が始まるのを待っている。数時間後の地獄を知る由もない、平和な顔つきだ。
 午後8時、テレビが開票を伝え始めた。直後の8時1分「安倍普三 当選確実」。自民党のホープは、全国トップをきっての当確だ。
 9時、三重県のトップは、衆議院三重3区「中川正春(民主)当選確実」。しかし、三重全権区の参議院選の得票は、全く出ない。各市町村の選挙管理委員会からの得票数もまだ届かない。
 9時30分、選管発表の第一報が届いた。橋爪貴子3000票、高橋千秋3000票、差はついていない。この頃になると、衆議院は2区の岡田克也(民主)、程なくして4区の田村憲治(自民)、5区の藤波孝生(自民)らの当選が相次いで確定した。
 10時、橋爪貴子30000票、高橋千秋30000票、まだ差がつかない
 10時30分、三重県下で最後の衆議院1区で川崎二郎(自民)の当選が確実となり、三重の衆議院選は自民の3勝2敗。橋爪貴子の当選へ期待が高まった。橋爪貴子50000票、高橋千秋50000票。
 11時、選管発表、橋爪貴子100000票、高橋千秋10万3000票。この時点で初めて差がついた。高橋千秋3000票のリード…、事務所に緊張が走る。
 章くん、最初の差が勝負だと思っていた。早くに開くのは郡部の票で、自民党支持者の多い地区である。これから大票田の四日市・鈴鹿・津・桑名など市部の票が集計されてくる。四日市・桑名は岡田克也(民主)、鈴鹿は中川正春(民主)の地盤だから、橋爪貴子ははじめに大きくリードしていてこそ勝負になるのである。
 11時30分、橋爪貴子20万票、高橋千秋20万5000票。票差は大きくは開かないけれど、じりじりと傷口を広げるかのように拡大していった。事務所に、敗北を覚悟するような悲壮感が漂う。金太郎の甲高い声も聞こえなくなっていた。
 日付が変わろうとする頃、橋爪貴子38万票、高橋千秋40万票の発表と同時に、「高橋千秋 当選確実」のテロップが流れた。


 ほどなく、岩本自民党三重県連幹事長とともに、橋爪貴子が事務所に到着。「私どもの力不足から、候補者と皆様方にはたいへんご迷惑をおかけいたしまして…」という岩本幹事長のお詫びのあと、橋爪貴子が立って、「私はこの結果に納得しておりません。必ずや来年の本選におきまして、必勝を期す覚悟です」とその場にいた支持者に向かって述べ、岩本に対しては冷ややかだった出席者も、橋爪のこの言葉には拍手を以って応えた。橋爪貴子は、この時点では翌年の参議院選に向けて、1年間の活動を続けていくことを決意していたのである。


 敗戦の選挙事務所ほど悲惨なものはない。戦ったものは、みんな虚脱感に襲われ、支持者が帰って身内だけになったあとは、女の子たちは涙ぐんでいる。
 選挙中はみんな、たいへんな激務であった。候補者が午後8時に選挙カーでの呼びかけを終了して現地から帰ってくると、事務所へ着くのは9時半から時には10時を回る。それから1日の整理をし、翌日の準備をして、日付の変わる頃に事務所を出て家路につき、翌朝は7時前に事務所へ詰める毎日であった。秘書が橋爪貴子を迎えに行くのが、早い日は5時半、遅くても7時だったのだから、事務員さんたちは7時には事務所に詰めていた。しかも、選挙期間中、1日の休みもなくである。
 洞口や金太郎は実務はないから重役出勤で、好きなときに外出して、帰ってしまうのだから、それほど激烈だったという実感はないだろう。もっとも、事務所には居ないほうがみんな有り難がっていたのだから、不満も批判もないのだけれど…。
 しかし、足を引っ張ったことだけは許せない。「安藤さん、あんた 僕に 何か言うことがあるやろ」… 詰問調の僕の問いかけに、金太郎は答えない。「今さらあんたを責めることもしないけれども、来年の選挙のときは僕らの前へ出てくるつもりはないやろな」。彼がどれだけ邪魔な存在かは、この選挙期間中に身に沁みて解った。来年の本選にまたチョロチョロされては、それこそたまったものではない。それだけ釘をさしておいて、僕は事務所を後にした。「慰労会を、大山会長と僕とでやりますから、皆さん参加してくださいね」と、美人揃いの事務員さんたちに声をかけて…。
 帰り道、無数の星が瞬く空を見上げながら車を走らせていると、しみじみと敗戦の無念さが込み上げてきた。『負ける訳のない戦いだったはずだ』『素人候補の橋爪貴子を当選させるために、自民党三重県連は何をしたか』『橋爪貴子に出馬を促した自民党は、約束を果たしたか』『川崎会長は自分の選挙があったから仕方がないか…。岩本幹事長は…、洞口選対、金太郎は…』と考えていたら、また腹が立ってきた。カーブを曲がらずに、直進していきそうであった。


 蛇足ながら、安藤金太郎は次回の市議選には不出馬であった。


自民党県連への不信感


 選挙が終わったあと10日ほどして、橋爪貴子の今後の活動について、橋爪本人と大山後援会会長、広川秘書、それに僕の4人で打ち合わせ会を持った。1年1ヵ月後の参院選に向けて、どのように活動していくかを確認することが必要であった。
 その席で橋爪が、「活動拠点として、自民党県連の部屋を使っていくという了解ができていたはずなのに、建て替え工事をするとかで、事務所を他所へ借りろと言われた」と言う。自民党に対する不信の芽が頭をもたげた、第一の場面であった。これからの1年間、自分の生活ぐらいは何とかする覚悟は決めていた橋爪であったが、先日までサラリーマンであった彼女に、日常経費を捻出して選対事務所を構えろというのは、どこから考えても無理な話であった。
 しかし、後援会を引き受けた僕としては、それぐらいの面倒を見るのは責任のうちなのだろうという考えもあって、経費はこれから協力してくれる企業や個人の協賛を仰ぐという見通しの曖昧さであったが、とにかく事務所を探せということで、国道23号線に面した中辻君のビルの1階が空いていたのを思い出し、早速、交渉を開始した。が、事務所は開いても、備品や設備はどうするのか、月々の経費のどれほどを自民党は負担する用意があるのか、具体的な事柄は何も決まっていない。


自民党県連との話し合い


 そうこうして2週間ほどが経ったある日、県連で昼食会をかねて話し合いを持ちたいという連絡が入った。選挙が終わってから1ヶ月が経とうとしていて、翌年に控える本選までは、残すところ1年しかないという頃であった。
 自民党県連からは、岩本幹事長・中川総務会長・橋村政調会長の三役、橋爪貴子側からは本人と大山会長と僕の3名が出席した。
 冒頭、岩本幹事長から慰労と落選させたことに対する謝罪があろうかと思っていたのだが、自民党県連と議員団が選挙に尽力したことに感謝してほしいといったニュアンスの話であった。僕は、料亭「うち喜」から取り寄せた弁当をつつきながら、『まぁ、自民党もちの弁当を食べさせてもらっとるンやから』と思いながら、黙って聞いていた。
 橋爪貴子が、「来年の選挙に捲土重来を期したい」と決意を述べると、「今度は相手は現職やからね。中途半端な甘い考えでは当選はおぼつかんよ」と、まるで他人事のようなことを言う。「選挙はね…」と話し始めたのを聞いていて、だんだん弁当が不味くなってきた。
 半分ぐらいで蓋をして、僕は「今回の選挙では、橋爪貴子は全て県連の指示のとおりに動いてきた。もとより素人だったんだから、甘いもなにも自分の考えなんて何もなかった。選挙事務所のみんなの動きも、県連から派遣された選対と責任者の言うとおりにしてきた。その結果がこれだ」と話し始めた。「橋爪貴子の出馬には、当選確実と口説いた自民党としては責任があるはず。来年の本選までしっかりとサポートして、その責任を果たしてやってほしいと思います」と訴えたのである。
 ここで「自民党の責任…って、そりゃぁあんた、言い過ぎやろ」と幹事長。「何が言い過ぎや、当選確実と言って勤めまで辞めさせたんやから、自民党は当選させる責任がある。来年の本選で橋爪を当選させることが、責任を果たすことでしょうが」と僕。「選挙はミズモノや。結果は誰にも判らん」という幹事長の言葉を聴いて、僕は前ページ(その1)の冒頭に書いた「この県連は腐っとる。責任者は腹を切れ」と叫ぶことになる。
 この時に僕が言った責任者とは、僕が設営した津市議と橋爪との会合をぶち壊した安藤金太郎のことだったのだが、僕もそこまでの説明はしないので、前に並んでいた三人は自分たち執行部をヤリ玉に挙げていると思ったことだろう。もちろん、この執行部も責任を免れないのは、誰が考えても明らかだが…。
 『これからの1年間、自民党県連はどのように橋爪貴子を支えていってくれるのか』と、その点を確かめたかったのだが、県連には少なくともこの時点ではそんな考えはなかったようで、僕に「あんた、何の仕事しとるんですか」なんてトンチンカンな質問をするのも居て、また僕は「こんな自民党では将来は真っ暗や」と叫ぶことになる。
 「まぁ、飯田さんも若いものですから…」と大山会長が引き取ってくれて、この場はこれ以上の話にはならなかった。だが、この時点の自民党に、橋爪貴子をサポートしていく具体策がないことが解ったことは収穫であった。ならばこれから1年間、どのように活動を進めていくか。自民党の協力を得るためには、どこからどう話を進めればいいのか。まずは、資金集めをどうするか…など、やらなければならない課題がはっきりしたのである。


 帰りの車の中で、橋爪貴子は「小気味よかったわ」と笑い、腹が据わったようであった。大山会長は、「あんた、怖いものなしやなぁ」とあきれている。『こんな奴と一緒に居たら、命がいくつあっても足らん』と思ったのだろうか。まだまだ言い足らないことがいっぱいある僕は、「えっ、何が?」と合点がいかない。 
 後日、新聞が「橋爪貴子氏は投票二ヶ月前という慌しさでの出馬であっただけに、多くは『善戦』との評価であったが、自民党県連総務会での総括で、敗れた橋爪貴子氏への批判が噴出したことに反発して、橋爪氏は袂を別った」と書いていた。
 「自民党県連での総括で噴出した批判」というのは、僕が主張した自民党県連への注文に対する批判も、幾分かあったのだろうか。だとすれば、自民党県連は自らの責任を自覚せず、的外れな批判をしたことになる。自分たちの責任には口をつぐんで、落選を候補者の責任にしているようでは、そんな自民党三重についていく人は減少する一方であろうし、段々と県民の支持を失っていくことだろう。


橋爪の自民党県連アレルギー


 さらに1週間ほどして、橋爪貴子から、「県連に置いてある書類や備品の一式を、早く引き取るようにとの連絡が来た」との電話が入った。書類や備品を引き取るには、新しい事務所を構えなければならない。しかし、県連が橋爪貴子をどう処遇するつもりかを決めない限り、新しい事務所を借りることも、次の一手も打てないのだから、これは本末転倒した話である。
 一事が万事この調子で、こうした自民党県連の対応は、橋爪貴子にとっては納得のいかないものであった。繰り返すが、橋爪がこれまで政治の世界で生きてきたのであれば、『今から1年間、自力で選挙活動を続け、来年の本選に備えろ。覚悟の程を見せてもらおう』というのも解らないでもないが、彼女はつい3ヶ月前まではOLであり、「落選させない、責任は持つ…」という自民党の約束を信じて三重テレビを退職し、選挙戦へ飛び込んだのである。
 落選させないと約束したその彼女に、落選させた自民党が、『覚悟が足らない』とか『甘い』などと言うのは、これまた自分たちの責任を自覚しない話で、僕たちから言えば『橋爪に次の選挙を戦うことを決意させるために、本気で支えるという自民党三重県連の覚悟を見せてみろ』ということなのだ。
 しかし、先の新聞紙面でも紹介したとおり、自民党三重のムードは橋爪貴子批判へと傾き、当時の執行部ではこれを修正する指導力も、さらに言えばその気もなかったのだろう。
 というのは、参院選敗北の責任を誰も取っていなくて、その体制のままで橋爪貴子の選挙の総括を行えば、橋爪自身を批判するしか逃げ道はない。橋爪は悪くない…と言えば、執行部をはじめとする自分たちを悪者にするしかないからだ。もっとも、そうすることだけが、この組織を再生させ、世論の支持をつなぎとめることができる唯一の道であったのだが、最早やそんな自浄作用を期待できるような組織でなかったことも確かであった。
 すっかり嫌気がさしてしまった橋爪貴子は、「次の選挙には出ない」と言い出した。手のひらを返すような仕打ち、誰も責任を取らずに橋爪に責任を押し付けようとする醜態、1年後の選挙に対する明確な青写真すら提示できない県連…、そんな自民党に橋爪は不信感を抱いてしまったのだ。
 しかし、ここで止めてしまったら、今日までの積み重ねは水泡に帰す。支えてくれたみんなにも申し訳のないことだ。「お前さんの体は、もうお前さんだけのものでなく、みんなの思いを背負ってるんだ」と繰り返し言う僕に、「じゃぁ、あんたが出たら」と橋爪はもう駄々っ子だ。「俺や、ほかの人では、この選挙で支持してくれた40万票がつながっていかない。選挙っていうのは人々の思いを積み上げ、つないでいくものなんだ。今回の落選を、可哀想にと思う人も居れば、次回は負けないぞという純粋な自民党支持層も居る。それらを集めて戦うには、来年の候補者はお前さんでなきゃいけないんだ」と説得をしても、「自民党県連の顔を見るのが嫌だ」と言う始末である。


上 京 −斉藤参議院議長、川崎自民党三重県連会長 訪問−


 橋爪貴子の進退を決定するべく、僕と大山後援会長は橋爪と一緒に上京し、彼女に出馬を要請した斉藤十郎参議院議長と、自民党三重県連会長の川崎二郎衆議院議員を訪ねることにした。すっかり自民党三重に不信感を抱いてしまった橋爪を翻意させるには、斉藤・川崎の両氏が「全面支援」を確約してくれるしかないという判断であった。
 予定の日よりも1日早く上京して、何年ぶりかの友人たちとの再会を果たした僕は、約束の日、午後1時に東京駅の丸の内南口で、橋爪貴子、大山会長と落ち合い、まず、参議院議長公邸に斉藤十郎議長を訪ねた。
 東京駅から乗ったタクシーの運転手さんは永田町に差しかかると、「この辺は一方通行が多くて、公邸の位置はわかっているのですが、どこから入っていけばいいのか難しいんです」と言いつつ、クルクルと角を曲がって走る。
 参議院議長公邸は永田町の一角に、衆議院議長公邸と隣り合って建っていて、6000坪の敷地に公務棟と私邸部分とがしつらえられている。公務棟の前の庭には広く芝生が敷かれていて、議長主催のガーデンパーティを催すことができるようになっているのだとか。私邸の前は池が掘られて、和風の造りであった。
 通された公務室には、平山郁夫の「正倉院」が飾られていた。斉藤議長は、「この絵が、この公邸で一番高価な絵ですわ」と笑って話してくれた。
 「橋爪貴子が、このままでは来年は無理だと言っています。支援体制を整えていただくように、お願いいたします」と率直に言うと、橋爪擁立に責任を感じておられたのであろうか、「いろいろと行き違いもあるように聞いています。私からも一度話をしてみます」とのことであった。
 次は、衆議院第二議員会館へ川崎二郎三重県連会長を訪ねることになっている。議長公邸を切り盛りしてみえる吉沢第一秘書に同行していただき、国会議事堂の横をぶらぶら歩きながら、議員会館へ向かった。
 議員会館では1階の受付で、面会議員と用件を書類に記入して提出し、議員本人か秘書に連絡して、OKが取れれば左手の階段を上らせてもらえる。エレベーターは、その階段を登った中2階のフロアにある。受付は5つほど窓口があるのだが、たくさんの面会希望者でごった返していた。吉沢秘書に手際よく手続きを済ませていただき、僕たちは待つこともなく4階の川崎議員の部屋へとたどり着くことができた。
 僕は川崎議員とは初対面…。ここは顔見知りの大山会長が、「橋爪貴子がこのままでは来年は無理だと言っています」と切り出すと、川崎さん、オウム返しに「本人が無理やと言うとるんやったら、仕方がないかなぁ」。僕は、「今回の選挙でいただいた40万票を無駄にしないためにも、来年の本選には橋爪を…」と話したのだが、「県連の意向も聞いてみる」という話を聞いて、川崎議員のもとを辞した。


 このあと、僕自身は自民党関係者と接触していない。三重県連と話することは何もないし、斉藤議長を訪ねることもしていない。斉藤さんの政策秘書である倉本さんとは頻繁に意見交換して、自民党の意向や情勢を教えてもらっていたが…。
 川崎会長の、橋爪擁立に対する情熱のうかがえない言葉に、失望したことも大きかった。橋爪貴子でなくてもいい、候補者はいくらでも居るんだ…とでもいうような、県連会長としての当事者意識のない言葉に『やっぱり、噂どおりか』との感を抱いた。川崎さん、おじいさんは立派だったし、本人も180cmを越えて体は大きいンだけれどなぁ。
 この後、自民党は県都である津市の市長選に洞口県議を立てて、民主党候補の松田直之現市長に完敗する。津市は川崎さんの衆議院三重1区の大票田である。その津市に、民主党市長が誕生しても何の問題意識も持たないようであることが、僕には不思議なのだ。死に物狂いで、県都の首長は取りに行かなくてはいけないのではないのか。川崎さん、谷垣派のベテラン議員だから、自分の選挙は大丈夫だと思っているのだろうか。体が、大きすぎるのかなぁ。


2001年の参議院選挙


 かくして、橋爪貴子の再出馬はなくなった。翌2001年、小泉旋風の吹き荒れる中で第19回参議院議員通常選挙が行われた。
 自民党三重は、久居市長を辞していた藤岡和美を候補者に立てたが、全県的な知名度を浸透させるところからまた始めなければならなかった。
 それでも、快進撃を続ける小泉自民党の上昇気流に乗って大善戦…、
当選確実が出たのは全国で一番最後という僅差までもつれ込んだが、高橋千秋(民主)397105、藤岡和美(自民)372065、谷中三好(共産)59586、石谷 徹(諸派)26125、2万5千票の差で敗れた。
 この選挙では、小泉ブームに乗った自民党は65議席を獲得(+3)、特に一人区は25勝2敗と圧倒的な勝利であった。自民党の2敗は、小沢王国の岩手県と、そしてここ三重県だけであった。
 ブームの恩恵も受けることができなかったこの選挙の総括でも、またまた悪いのは藤岡候補であるとし、執行部の責任には口をつぐんで、知らぬ顔のほっかぶりであった。


 ここでも歴史にイフはないけれど、この選挙に橋爪が前年に続いて出馬していれば、必ずや勝利することができたであろう。藤岡候補に比べれば圧倒的に、前年の立候補で橋爪貴子の名前は全県に浸透していたし、わずか1年前の敗戦は、自民党支持層の無念さを掘り起こし、また、橋爪に対する同情票をつなぐことができたであろう。前年の敗戦の反省から、公明党との協力もしっかりと図ったことだろうし、事務所からの正式な要請をすることによって、自民党津市議団は応援体制を整えてくれたことだろう。
 自民党県連が党勢拡大の計画を明確に描き、候補者を育てて、それを支援する体制を整える度量と能力があれば、1年間を着実な選挙のための準備活動を重ねた橋爪貴子は、この選挙で勝利し、自民党は以後の凋落に歯止めをかけることができたはずである。惜しむらくは、自民党三重に将来を見据え、志を持つ人が居なかったことだ。


その後の三重県の参院選  −候補者を使い捨てにし、支持者を失っていく自民党三重−


 自民党三重は風さえも活かすことができず、このあとも連戦連敗…、斉藤十郎元参議院議長ですら出馬辞退に追い込まれてしまったことは、以前に書いた。
 その斉藤元議長の代わりに、2004年の参院選に立ったのが四日市県議の津田健児で、相手はやはり県議の芝博一(鈴鹿市)との新人対決であったが、芝 博一 470940、津田健児 370748、 中野武史(共産) 61566と、10万票以上の大差を付けられての大敗を喫する。
 津田と芝との主義主張の差異はほとんど認められず、新聞は「右寄り2代目(津田は親子2代の県議)対 武闘派極右(芝は神職)」と書いたほど…。むしろ芝のほうが右寄り色が強く、三教祖などの連合勢力がよくぞ担いで選挙をしたものだと驚くほどだ。
 そして2007年の参院選のために自民党三重県連が公募した補者選定にも、津田は応募したけれど、定かでない理由で選に漏れた。3年前に10万票もの大差を付けられている候補者では勝てないという判断か…、はっきりとは言えなかったのかもしれない。しかし、津田を落としたことで、またしても自民県連は候補者を使い捨てるのかといった非難が沸き起こり、2004年の選挙を戦った津田の支持者は自民党から離れていくことになる。
 40人の公募の中から、この参院選に立った自民党候補は小野崎耕平、アメリカの大学の大学院を卒業し、外資系企業に勤める新人候補である。もちろん県内有権者の知名度は低く、今の自民党三重では彼を当選させる力などない。誰一人として、当選するために立候補したと思っているものは居なかったろう。
 相手の高橋千秋は選挙が近づいても、国会が紛糾しているからと三重県に帰っても来ない余裕を見せた。自民党三重の迷走に輪をかけて、中央政界でも小泉改革は自民党の支持基盤を破壊し、あとを受けた安倍内閣は地方の再生を図ろうとした政策以前に、社会保険庁の年金問題と松岡農相の自殺・赤城のバンソウコウ事件・偽領収書など、噴出する政治とカネの問題で国民の信頼を失い、参議院で与野党逆転を招くことになる。
 三重県の選挙結果は目を覆うばかりの惨めさで、
  高橋千秋 527,935
(59.4%)、小野崎耕平 293,208 (33.0%) 中野武史 68,058 (7.7%)という
 23万5千票差をつけられる惨敗ぶりであった。
 この選挙で勝った高橋千秋は、10年前の1998年7月 初めて出馬した選挙では、
 斎藤十朗 389400、 高橋千秋 289953、 今井一久 131948、 坂本哲康  39445 と、
当時の議長を相手に10万票の差をつけられて大敗していたのである。(逆に言えば、当時の自民党はそれだけの安定した支持基盤があったということだ。)それでも今日の高橋千秋があるのは、落選してから次の選挙までの2年間、日々の生活から政治活動までのすべてを、組織が支えてくれたからだ。それに対して、大局観も、将来構想も、人を育てる度量もなく、そして何よりも結果責任を取る潔さが失われている自民党三重…、凋落の原因がどこにあるのかを明確に示す比較事例である。
 僕が県連三役を前にして、「この組織は腐っている」と叫んだ意味が理解していただけるだろう。


同級生への礼状



『 
毎日暑い日が続きますが、同級生各位にはますますご清栄の日々をお過ごしのことと
 お慶び申し上げます。

  過日の橋爪貴子さんの参議院選に際しましては、格別のご支援ご高配を賜りましたこ
 と、厚くお礼申し上げます。
  圧倒的な出遅れの選挙でしたが、お陰をもちまして接戦に漕ぎつけ、あと一歩に迫る
 ことができましたことは、各位のご尽力のおかげと重ねてお礼申し上げます。しかし、
 善戦とは申しますものの、ご期待に応えることができなかったことは、私どもの力の及
 ばぬところであったと、誠に遺憾に存じております。
  橋爪さんの、来年に予定されております次回の参院選への出馬は、本日まで自民党三
 重県連の決定を待っておりましたが、未だ対応が決まらず、具体的な報告を申し上げる
 ことができません.このため、お礼のご挨拶も今になってしまいましたこと、重ねて申
 し訳なく存じておりますが、捲土重来を期すべき日が参りましたならば、改めましてご
 報告とお願いを申し上げたく存じております。
  炎暑のみぎり、ご自愛いただきまして、益々のご健勝ご発展のほど、お祈り申し上げ
 ております。
  まずは略儀ながら、取り急ぎ書面にてお礼まで。


  平成12年7月25日
                                    飯田 章
  同級生各位


   追伸 頂戴しましたカンパは64000円に達しました。同級生各位にお送りした
     計4回の通信費94600円の一部に使わせていただきました。
                                         』


慰 労 会


 その冬、遅ればせながら、事務所で一緒に奮戦していた事務員の皆さんと忘年会を兼ねて慰労会を持った。今はそれぞれに仕事も生活も居住地も異なる4人のお嬢さんたちだが、激烈な選挙戦を潜り抜けてきた連帯感は強く、一声かければ即座に顔がそろう。
「夜、家に帰って布団に入るのが1時過ぎで、朝は7時には事務所に居たものね」
「よく2ヶ月ももったよね」「休日なんて、なかったわねぇ」
「しっかし、議員連中の動きの悪さは、所詮は他人事ってカンジ」
「金太郎には、みんな足を引っ張られて最悪だったわね」
「でも、大変だったけれど楽しかった」
 厳しい毎日であっただけに、思い出話は尽きない。そして、選挙は人を夢中にさせる何かがある…、麻薬のように…。
「章さん、出なよ。私たち、みんなで駆けつけるよ」


でも、自民党以外でね!」。


 腐ったといっても自民党…、まだまだ県内には多くの支持者が居て、保守本流の手によるふるさと日本の建設を望む声も多い。長年の当事者の無為無策が屋台骨を蝕(むしば)んでしまっているけれど、確固たる志を持ち、組織再生への努力を厭(いと)わない人は、まだまだ組織内に健在であろうと思う。
 志士が10人集まれば、この組織の再生は容易だ。人を見出し、人を育て、人に託する道を、自民党三重が選ぶことができるか。組織の再生の鍵はここにある。



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