【181】 馬籠宿寝覚ノ床・御嶽山           2009.10.24


 今朝も3時45分に飛び起きました。天気予報は『晴ときどき曇り、この先だんだん下り坂』と聞いて、今日しかないか…と車に飛び乗りました。


 伊勢道~東名阪~伊勢湾岸~東海環状と走り、土岐JCTで中央道へ…。久しぶりの中央道…、土岐から入ってほどなくは、カーブの多い道だなと思いました。


← 中央道「恵那SA」、5時51分、夜が明けてきました。
 
  中津川ICで19号線に
 降りて、北へ走ります。→


 午前6時35分、
「馬籠宿」へ寄りました。


← 馬籠は坂の町…。急な坂道は、表土の流失を防ぐためでもある、石畳で舗装され、その両側に宿屋や土産物店が並んでいます。


 
馬籠宿は中山道43番目の宿場(中山道六十九次)で、木曽11宿の一番南に位置しています。


   まだ7時前。常夜灯に明りが点っていました。→


 この常夜灯の横に水車小屋があります。その前の旧道は直角に曲がり、少し下がったところでまた直角に曲がっています。このような構造は枡形と呼ばれ、侵入した敵の勢いを防ぐためのものとされていました。
 明治28年と大正4年の火災により、古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失しましたが、その後復元されて現在の姿となっています。


 1882年(明治25年)中山道に変わって木曽川沿いに国道が開設され、さらに1912年(明治45年)国鉄中央線が全線開通したことにより、馬籠、妻籠は全く人通りが絶えます。両村は陸の孤島化し、村の経済は急速に寂れていきました。
 長い間の貧困生活のなかで、外部からの刺激もないまま江戸時代そのままの生活を続けてきた両村が、観光地として脚光を浴びだしたのは、日本が高度経済成長期に入った頃でした。
 馬籠は島崎藤村の生地として、藤村記念館を訪れる人が飛躍的に増加するようになりました。記念館の入館者数の推移は、1955年(昭和30年)8658人が、1981年(昭和56年)には42万4432人になりました。(馬籠観光協会 パンフレットより)


 馬籠は昔は水の便が悪く、ひとたび火事を出すと大火になり、用水に苦労した宿場だと記録にありますが、現在は側溝に豊富に水が流れ、今日も流水の瀬音が聞こえていました。


   お店屋さんはもちろんですが、商売をしていない家も、
  古い町並みを守り、草花を置いています。       →



 『木曽路はすべて山の中にある』…とは、島崎藤村の代表作「夜明け前」の冒頭の一文ですが、訪れてみると、木曾の山深さが実感されます。
 古い町並みが続く石畳の坂道を歩きながら、四方を高い山に囲まれて、閉塞的な日々を暮らす木曾の生活は、藤村の感受性に自然への愛着と深い内面を見る目を植え付け、育んでいったのではなかったのかと、ふとそんなことを思いました。
 彼の生家跡に建てられている「藤村記念館」は、まだ早朝なので開いていませんでした。


 7時20分、馬籠宿を後にして、19号線を北上しました。


8時20分、「寝覚ノ床」に到着。
 国道横のレストラン駐車場から見下ろした風景です↓







 
 
 名勝「寝覚ノ床」の横を
 JR中央本線の特急が走っていきました→

 








 寝覚ノ床は、木曽川の水流によって花崗岩が侵食されてできた自然地形です。
 かつてこのあたりは急流でしたが、上流に設けられた木曽ダム(1968年に運用開始)などにより水位が下がったために、水底で侵食され続けていた花崗岩が水面上にあらわれたものです。ということは、40年以上前には、この奇岩は陸上からは見えていなかったのですね。


          下の川原まで降りてみました。


 「寝覚ノ床」の命名の由来は、浦島太郎の伝説に関係します。『
浦島太郎は竜宮城から地上へ帰ってきましたが、まわりの風景は変わっており、知人もおらず、旅に出ることにしました。旅の途中、木曽川沿いの風景の美しい里にたどり着き、竜宮の美しさを思い出し、乙姫にもらった玉手箱をあけました。玉手箱からは白煙が出て、白髪の翁になってしまいます。浦島太郎には、今までの出来事がまるで「夢」であったかのように思われ、目が覚めたかのように思われました。このことから、この里を「寝覚め」、岩が床のようであったことから「床」、すなわち「寝覚の床」と呼ぶようになったのです』とありました。(パンフより)


← 下流方向をパチリ…。
この下流の先に「裏寝覚」なる名勝があるとの矢印に従い、山道を歩いて行ってみました。15分ほど行ったところで、通行止め…。歩経路も崩れて危なそうでしたから、引き返してきました。水の瀬音が聞こえていましたから、巨石の間を水が急な流れとなって下っていくのでしょう。
 でも、通行止めならば、「裏寝覚」の矢印は外しておいてほしいですね(笑)。



 上のレストランへ戻って、朝食にしました。紅葉シーズン…、レストランの歓迎と書かれた「まねき」には、30組ほどの団体名が書かれていました。でも、午前9時のこの時点で、『○○さん、渋滞で昼食キャンセルです』との連絡が入っていました。


        ↓ レストランの窓から  →








 9時40分、寝覚ノ床レストランをあとにして再三度19号へ…、御嶽山を目指します。   →


 程なく「元橋」の信号で左折して県道20号に入り、10時ちょうど、道の駅「三岳」に寄りました。


 15分ほどで出発…、黒沢から県道258号に折れて、御岳湖の北岸を登ります。


 この橋(→)を渡って、帰りは対岸を走って下ろうと思っていたのですが(南岸を走るほうが、対岸の山に日が当たるので、紅葉がキレイですから)、でも曲がり角を見過ごしてしまい、帰りも同じ道を戻りました。 


← 湖畔の木々は、もうすっかり色づいていました。


 三合目からは、道は「御岳ドライブウエイ」に入ります。このあたりに来ると落葉松(カラマツ)も黄金色に染まり、足元の熊笹の緑との対比がキレイでした。↓


 


 










← 九十九折の道の途中から…。


 遠く、中央アルプスが広がっています。




 
 
 11時40分、7合目「田の原」(2180m)に着きました。車はここまでです。
 一帯に広がる自然林の中には遊歩道(デッキロード)が敷かれています。途中にある展望台からは、中央アルプスや乗鞍岳の山並み、開田高原を望むことができます。




← 遊歩道途中の展望台から。


 左3分の1にある、ちょこんと高い山が乗鞍岳
右の山々が中央アルプス木曽駒です。



 ところどころ破れている敷き板に、足を突っ込まないように注意しながら歩いていたら、いつの間にか駐車場から600mの地点にある御嶽神社奥社礼拝所に着きました。
 この田の原へは、今までに何度か訪れたことがありますが、礼拝所まで来たのは初めて…。御嶽神社の三神に参拝してきました。


 ここ田の原(2160m)から、山上の奥社は見えています。頂上の剣が峰(3067m)までは約3500mの距離で、所要時間は3時間とのことです。章くんならば、6時間…ですかね(苦笑)。


 午後0時40分、田の原を後にして、開田高原へと向いました。


← 御岳スキー場のゲレンデから、
 中央アルプスを望みます。






 
 
    
下り道の途中で、御嶽を振り返りました。 →
 

 ここは撮影ポイントなのか、たくさんのカメラマンが、三脚を立ててカメラを構えていました。
 




← 1500mよりも上は、すでに120%…、
 このあたりは、100%の紅葉でした。




 
牧尾ダム →






      ほぼ満水状態…、今年の名古屋の飲み水は
     大丈夫なようですね。

 
 
← ダムのすぐ下の谷です。
 目の覚めるような紅葉でした。  →





 

 

← 道端の鮮やかな朱色…、ウルシの木です。

 
 時刻は2時…。御嶽山の南麓の道、「御嶽スカイライン」を走って開田高原に向います。…、明るいうちに着けるのでしょうか?




   
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