【76】 
九州紀行(臼杵のふぐ中州の天草大王
        2005.1.21〜24


 九州の大分県には、ふぐの肝を食べさせる店があるという話を、ものの本で読んだ。ふぐの肝とは、古今の食通が命を賭けて追い求めたまぼろしの食材である。これを食べずして、食は語れない…と思っていたところ、福岡の友人から「中でも臼杵のふぐは、一味もふた味も違う」という情報が入った。


明石大橋〜高松・松山自動車道
 当初の予定では、22日(土)の朝5時に出発し、四国を抜けて、愛媛県の八幡浜発午後2時35分のフェリーに乗り、夕方4時50分 臼杵港に入って、そのままふぐ屋へ…という積りでいたところ、その前日21日(金)に「暇やから、今夜のうちに出発しよう」という電話が入った。「ええよ」と答えた僕もかなり暇である。
 あわてて準備をし、午後9時出発。西名阪から阪神高速を抜け、神戸へ11時30分。「この辺で仮眠しようか」と高速近くのホテルに電話を入れてみたところ、「お一人8400円で…」と言う。「半値でどうや」と交渉したけれどもとより話はまとまらず、そのまま明石大橋を渡って四国へ入った。
 午前2時30分、休憩しようと高松ICで降りた。料金所のおじさんに「○○ホテルがいいですよ。新しくて安い…」と聞いて目指したところ、ICを出たところの道路わきに『屋島健康ランド 24時間営業』の看板を見つけた。高松・松山自動車道書かれている電話番号をカーナビに入れて検索したところ、約15分の地点にある。早速、駆けつけて、お風呂につかって時計を見ると、3時30分。レストルームでしばしの仮眠…。
 6時30分 起床。ふたたび松山自動車道に乗って、一路 四国の西端を目指す。高松・松山自動車道は、早朝のせいもあってか車の量は少なく走りやすい。途中のSAで朝食を摂り、9時30分 八幡浜港へ着いた。


宇和島フェリー
 八幡浜は佐多岬半島の付け根にあって、豊後水道に面した宇和海の奥の港町である。リアス式の海岸線は入り組み、天然の良港を造っていて、八幡港は四国一の水揚げ量を誇るとか。見渡すと、山がそのまま海に落ち込むような急峻な斜面に民家が点在し、海辺の一握りの緩斜面に会社・工場や家々が豊予海峡ひしめき合う。
 また、八幡浜は四国でも有数のみかんの産地で、秋ともなれば港を取り巻く全山にみかんの花が咲き、市のパンフレットには、空からの太陽光・海からの反射熱・段々畑の石段の輻射熱と三つの太陽を浴びて育った八幡浜みかんの美味しさは格別…とある。
 フェリーの時間まで間があったので、近くの岬へ出向いてみた。宇和海に突き出た高台の左右に穏やかな海が広がり、養殖いかだが点在している。はるか彼方に豊後水道、晴れた日にはその向こうに九州の山々が望まれるとか。岬を往復する道の両側は、一面のみかん畑であった。八幡浜〜臼杵のフェリー
 ここ八幡浜から九州へ渡るフェリーは、ダイヤモンド・フェリーと豊後海運の2社が1時間おきに運航、別府と臼杵に客を渡している。こんな四国の端っこから、毎時間出航して客があるのかと思っていたのだが、僕たちが乗ったフェリーは7割がたの埋まり方であった。愛媛から、陸路を大分へ行くには、西瀬戸自動車道(しまなみ街道)を渡って、広島〜北九州を回っていくルートだから、フェリーで渡る距離のざっと10倍ほどはある。四国と九州を行き交う人は、みんなフェリーを使うのだ。
 八幡浜港を11時45分発の宇和島運輸フェリー「おおいた丸」に乗り込む。豊後水道は穏やかで、操業中だろうか、何隻かの漁船に出会った。やがて、九州の山々が眼前に迫り、2時間15分の船旅で午後2時丁度に臼杵港に着いた。
 ふぐ屋の予約は午後6時。4時間ほど時間があったので、早速「臼杵の石仏」見物へと出かけた。

国宝 臼杵の石仏

臼杵の石仏
 いつ、誰が、なぜ…造ったのか、そのほとんどが謎のままに、今、臼杵市の南部丘陵にひっそりと鎮座する臼杵磨崖仏は、その様式から平安末期から鎌倉期の製作とされているが、だとすれば御仏たちは1200年余の歳月を岩陰にひっそりと佇んでこられたわけである。
 ここ臼杵の石仏は、阿蘇溶結凝灰岩という軟質の石に彫られているため風化しやすく、永い年月の間に亀裂を生じたり剥落するなど傷臼杵の石仏2みがひどかった。このため、1970年から1984年までの14年間、磨崖仏を中心に保存修理工事が行われ、さらに修理の終わった各磨崖仏群に保存施設としての覆屋も設置された。
 この修理の中で最も注目を集めたのは、奥まった山間の崖に彫られた古園石仏群のひとつ、大日如来像であった。発見以来、その仏頭は地上に転げる形で安置されており、修理に際して、仏頭を元の位置に戻すかどうか、市民を巻き込んだ4年間の論議ののち修復が決定。大日如来の仏頭復位が行われたのである。臼杵の石仏のお家
 臼杵磨崖仏は、入り口から順にホキ石仏第1群・ホキ石仏第22群・山王山石仏・古園石仏の四群から成っている。修復成った59体の磨崖仏は、1995年6月15日、石仏としては我が国ではじめて「国宝」の指定を受けた。
 いつ、誰が彫ったのかも定かでない石仏たちの、長い年月の風雨にさらされて崩れ落ちた風体が、くぐり抜けてこられた時代の厳しさと人々の信仰の哀れさを表しているようであった。しかし、今、昭和の大修理を経て見事によみがえった石仏たちは、変わらぬ祈りを続けている。
 古園石仏群の天蓋の中、胴体を復元して、土の上に転がっ古園石仏群と大日如来ていた頭部を据え直した大日如来像は、臼杵磨崖仏のシンボルとして、左右にたくさんの如来・菩薩・天部・明王を配して微笑まれておられた。今日はそれらの仏の前で、4組の夫婦が金婚・銀婚の得度を受けていた。般若経の唱法要詠のあと、分厚い経典で体を叩き祝賀を与える僧侶の仕草に、恭しく拝礼する老夫婦の慎ましやかさがほほえましい。50・25年の夫婦随唱への感謝とこれからの安穏を祈る人々の営みを、千年を生き抜いてきた仏たちが温かく見つめていた。


歴史を語る 臼杵市内
 午後3時30分、親しみの仏たちに別れを告げて、僕たちは臼杵市内へと取って返した。石仏の茶店で貰ったパンフレットに、「臼杵二王座歴史の道」とある。この道を歩いてみよう。
 臼杵は、平安〜鎌倉・室町の頃、国司であった大友氏が治めていた地である。文化的とされる大友氏にあっても、臼杵石仏の作成についての文書を残すことはなかったわけわけであるが、有史の中にある大友氏は、戦国時代、九州六カ国を治めたキリシタン大名・大友宗麟が出て、永禄5年(1562年)、四方を海に囲まれた天然の要塞であった丹生島に丹生島城(臼杵城)を築いた。ここから、城下町「臼杵」の歴史が始まり、宗麟時代の臼杵は、明やポルトガルの商人が行き交う国際的な商業都市として栄えた。徳川家康の外交顧問として活躍した「ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)」は、慶長5年(1600年)春、オランダ船の航海長として、ここ臼杵の佐龍原寺三重塔志生に漂着したのである
 大友氏の除国後、数代を経て、慶長5年(1600年)稲葉貞通が美濃から入封、明治維新の廃藩置県を迎えるまでの270年あまり、臼杵藩稲葉氏五万石の統治下に時を重ねてきた。現在の臼杵の町の大部分は、この稲葉氏の時代に形成されたもので、城下町特有の曲がりくねった迷路のような町並みは、今も臼杵に保存されている。
 市内へ入ると、まず古色蒼然たる「龍原寺の三重塔(1858年竣工)」が目に飛び込んできた。この塔から臼杵城跡公園に続くおよそ2Kmの道が「二王座歴史の道」である。
 臼杵の中でも仁王座と呼ばれる小高い一帯は、阿蘇山の火山帯が固まってできた凝灰岩の丘で、あちこちの岩を削って道を通している。特に、旧真光寺の前は「切り通し」と呼ばれ、臼杵を代表する景観のひとつになっている。このあたりには寺院が集まっているが、さらに登ると上級の武家屋敷が立ち並んでいて、この地にはかつて春日局も住んでいたとか。そういえば、春日の局は明智光秀につながる、岐阜出身の稲葉家ゆかりのものである。

臼杵藩主旧稲葉家 正門 邸内の庭園 長屋門(今は喫茶店)
仁王座の寺院群 切 通 し 石  畳
稲葉家下屋敷
外溝の鯉 龍原寺三重塔 臼杵城址


 町中には城跡を中心に、今もたくさんの武家屋敷や古刹、そして明治・大正期の古い大きな邸宅跡が残っているが、大邸宅跡の多くは表札も外されて住む人の気配もない。町並みの保存は、住む人の利便性とは相容れない部分があるのだろうか。しかしそれにしても、歴史は、人が守ろうとしなければ伝えられないものである。この町の石畳の上にいると、時の流れに取り残され、どこかで時間が止まってしまったような感覚にとらわれる。
 仁王座の道の半ばに、旧長屋門を改装した喫茶店があった。二階家をぶち抜いたものであろう、高い天井で息がしやすい。炭火焼珈琲400円…、まろやかで旅の疲れを癒してくれる飲みやすさであった。
 日本の西端の地九州は、日が暮れるのが遅くて、この冬の最なかでも午後6時近くになってやっとあたりが暗くなる。そろそろ、ふぐ屋の予約の時間だ。


臼杵ふぐ
 ふぐの中には、長崎県五島の名物「箱ふぐ」のように毒を全く持っていないふぐもあるが(箱フグはふぐの仲間でなくカワハギ類だとか。皮膚の粘液に弱毒があるが、洗ったらまず大丈夫)、この店の水槽に泳ぐふぐは、5〜60cmほどもあろうかという立派なとらふぐだ。てっさ
 運ばれてきた大皿…、紅葉オロシを溶かしたタレに、てっさの3〜4切れをたっぷりと浸して食べる。
 独特のタレのまろやかな味が、臼杵てっさのざっくりとした食感(臼杵のてっさは、他所の1.5倍ほどの厚さ)と相俟って、一切れを口に含んだとき、みんなはムムッ…と絶句。
 しばしあって、「うわさにたがわぬ 絶品」、「他所のふぐ屋で食べるふぐとは、似て否なるものや」、「これ食べたら、まぁ死んでもしょうないなぁ」と、ため息とともに納得の弁であった。「臼杵ふぐ」は てっさの厚みとモッチリ感で 他の各地のふぐとは一線を画していて、その食感は充実の一語である。これで十分なはずであったが、さらに4人前を2人前の厚切りにしつらえてもらうよう追加して、てっさだけで満腹であった。

  
大きな白子 ところが、次に出てきた焼き白子がお宝…。その大きさも12〜3cmはあろうという一品である。スプーンでカリッと焼きあがった端っこの皮を突き破り、中のプルプルの身を口へ運ぶ。どこかに潮の香りの残る、ふくよかなしょっぱい甘さ…。
 ふぐの持つふくよかさを引き立てる天麩羅…。冷たさが嬉しいニコゴリ…。てっちりまでに お腹がいっぱいになってしまって、鍋に火を入れる前に、ちょっと休憩を取らねばならなかった。


 さて てっちり…。まずはパクパクと動いていた口からかぶりつき、ゼラチンたっぷりの頭をせせる。更に、店のサービスですと出してもらった白子の4腹をシャブシャブと温めてペロリ…。野菜も、豆腐も、特タレで美味しくいただき、雑炊の頃にはものも言えない大満腹であった!


 この至福の時間の中でも、ヒレ酒を7杯も飲んだのがいた。
 酒飲み、恐るべし!




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