【15】 世界一 PL花火の祭典 ー12万発 炎の競演ー (8.1)PL花火1


 午後7時30分〜8時50分、この80分間に12万発を打ち上げるという。計算すると1秒間に25発を上げる計算になる。一発目からフィナーレPL花火2まで、空いっぱいに息つく間もなく花火が開いて、夜空の黒い部分が見えないことだろうなと思って出かけた。
 「駐車場もない」と聞いて、旅行社のパック旅行に乗った。昼前に会場に着いて、開演までの8時間を待つ、ただ、ひたすら待つ。炎天下にビニールシートを敷いて、その上に座り、ただ待つ人々の忍耐力に感動的なものを覚えた。
 こらえ性のない僕は、日陰のない会場に直接入らず、近場の木陰でPL花火7寝転び、惰眠をむさぼる。午後5時、ようやく日が陰った会場に移動し、シートを敷いてまた寝転がる。おかげで本が1冊読めた。
 午後7時30分、開演の時間だ。5分が過ぎ、10分過ぎた。まだ、上がらない。忍耐強い国民は、ここでも忍耐強い。
 7時50分。開演を知らせるアナウンスがあPL花火って、連発のオープニング、すざまじい爆裂音とともにはじける赤・黄・青・緑の火花の渦は圧巻。夜空を焦がす12万発の始まりである。
 ところが後が続かない。「煙が晴れるまで少しお休みいたします」といきなり10分間の休憩。開演の遅れとともに、1秒間に30発以上打たないと12万発はこなせないなと計算し直していると、その後は仕掛けのナイアガラと尺玉の競演、ヤシPL花火5の木、スターマインなどがポンポンと上がる。
 やがて8時50分。3ヶ所の打ち上げ場から一斉に色とりどりの花火が打ち上げられ、最後にはドドドーンの大音響とともに夜空を紅に染める数百発の大爆裂。観客から、感嘆の叫び声とともに拍手が沸く。


 フィナーレ。 数箇所から打ち上げられた炎が、最後に夜空を焦がす→


 全ては数え切れなかったけど、以上では3万発ぐらいのもの!、1万譲っても4万発!! とても12万発なんてもんじゃないと思ったのだが、ナイアガラの一粒一粒、ヤシの木の枝の一本ずつ、菊花繚乱の花びら一枚をみんな数えてのことなのかもしれない。



【14】 名港大観覧車とロブスター料理  (7.19)名港ランドの観覧車


 夕方から名古屋港を訪ねてみた。名四国道を名古屋市内に入って築地口ICを右折すぐ、シートレインランド(遊園地)の駐車場へ車を停めた。
 午後7時30分。港湾施設に灯かりが点り、名港大橋トリトンがブルーの光に浮かび上がる。港に入る船のライトが点滅して行き交い、汽笛の音が夕闇の中に溶け込んでいく。
 いろいろなお店やさんが入っているジェティというスポットの中に、「レッド・ロブスター」という名前の、文字通りロブスターを食べさせる店があった。メニューを見ると『500g−3500円』とあり、料理の方法が4種類ほど並んでいる。そのうちから『ピリ辛仕立て』なる、11種類のスパイスを使って味付けをする料理を頼んだ。
 「これでよろしいですか」と、今から食べようというロブスター君を生け簀から取り出して見せに来てくれる。「500gを少し超えますが…」と見せてくれたロブスター君は、胸に「4350円」と書いた値札をぶら下げていた。見るともなく目が合ってしまって、「勘弁な!」と胸の中で手を合わせた。
 無残に切り分けられ真っ赤に焼かれて出てきたロブ君は、ピリッと辛く仕上げられていて、思わず殻の中の肉を掻き出してむさぼってしまった。ロブスターというと、大味で美味しいというものではないものが多いが、料理の方法に工夫があってけっこう美味しく食べられた。
 夜の海上を満艦飾の遊覧船が行く。アメリカへのゴルフ旅行の最終日、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフで、港の夜景を見ながら食べたクラブ(蟹)&ロブスター料理を思い出した。ついぞ美味しいものにめぐり合わなかった第1回アメリカ旅行で、唯一、満ち足りた夕食であった。あのロブスターに会わなかったら、アメリカの食文化を否定してしまうところであった。
 浜風に吹かれながら埠頭を歩き、目の前に回っている観覧車に乗った。眼下に大名古屋の光の海が広がる。忘れていた、僕は高所恐怖症だったのだ!



【13】 ビックリ仰天! 安濃の道路にサルの軍団      (7.17)

美里村のサルの軍団
 グリーン道路を南へ走っていると、久居「イナバ園」の手前のところで、右手の畑から突如湧き出るようにサルの群れが現れて道路を横切り、左の森の中へ消えていった。
 ポケットに入れていたデジカメで撮った左の写真のサルは、子どもを背負っているのが判るだろうか。子連れが7〜8匹、あとは若いサルからボスとおぼしき大ザルまで、およそ40頭が目の前を横切っていった。
 しばらく停まって観察していると、畑から道路にかかるときは一旦立ち止まって、車が来ないかどうかを確認して道を渡っている。グループのリーダーらしきサルたちに旗を持たせれば、車を停めて、子ザルや赤ちゃんを背負った雌ザルを横断させそうである。
 最後の一匹が森の中へ消えていくのを見届けて、その場を離れた。周囲は山なのだから、サルの群れがいても不思議ではないけれども、身近なところに野生の動物の活躍が見られたことが、妙にワクワクした思いであった。




【12】 夜の伊勢湾岸道路とタワーズプラザ「キハチ」の創作会席 (7.14)


 将来は第2名神道路の東海部分になる伊勢湾岸道路が、みえ川越まで延長開通した。名四国道を南から行くと、四日市を過ぎたところから乗ることができる。
 インターを入ると程なく、揖斐・木曽川にかかる大橋(トリビュン)が青色にライトアップされ、その右手に見える長島スパーランドの観覧車やホワイトサイクロンの明かりと相まって、幻想的な光のページェントを描き出す。
 この揖斐川トリビュンも、少し北にある名古屋港をまたぐ大橋(名港トリトン)も、季節によってライトアップの色が変わる。今は夏色…青である。


 時刻は8時を回っている。「何か食べなきゃ」と思って、名古屋駅前タワーズの「キハチ」へ電話を入れると、「9時、オーダーストップです」と言う。「今から走っていくから」と頼んでおいて、駆け込んだのが9時10分! 「また、最終の客ですね」と笑われながら席に案内してもらい、早速に注文しておいた会席Aの前菜『ウニとジュンサイの冷スープ』を出してもらう。
 「キハチ」は、シェフ熊谷喜八が創作するフレンチをベースにした無国籍料理が味わえるお店。ジャンルにとらわれない、素材の持ち味と季節感を大切にした料理の数々を楽しめる。
 遅れていって注文をつけるとは不届きであるが、キハチの料理は少し味が濃すぎるのが惜しい。白身魚のチョコレート揚げは香草の香りが材料の味を消していたし、骨付き子牛のミニステーキは山椒の辛味で舌先がしびれるほど。それぞれの料理に創意工夫が見られ、料理をする人の意気込みが感じられるが、ちょっと力が入りすぎて、その力みが味付けの重さに現れている。一歩、原点に戻ってみるのがよいのではないか。



【11】 俳聖芭蕉をしのぶ「蓑虫庵」大山田の「新大仏寺」   (7.8)

 「みの虫の音を聞きにこよ草の庵」。芭蕉の弟子で上野市の豪商服部土芳の草庵開きに、芭蕉が送った句である。『蓑虫庵』の命名はこの句による蓑虫庵
 上野市での仕事が2時過ぎに終わったので、俳聖ゆかりの庵を訪ねてみた。街中の一角にポツンとある。受付のおばさんが「これお持ちください」と蚊取り線香を貸してくれた。木々の間に佇む庵は、やぶ蚊が多い。この庵が俳句を詠む人たちの聖地のひとつなのだ。奥の茶室は、全国から句会開催の申し込みがあるという。古池や…の句碑
 『蓑虫庵』はこの地の文化の象徴である。伊賀上野の人々は意識の根底に五七五の17音を持っている。地域の文化的土壌がこのような形で整備されているとは、うらやましい話である。 


 句碑「古池や かわず飛び込む 水の音」の句が彫られていた→


 名阪国道が集中工事で渋滞しているので、帰り道は大山田村から河内ダムへ抜ける林道を走ってみた。
 途中、大山田の猿野「新大仏寺」に、日本三大仏のひとつ『阿波の大仏』が鎮座する。平重衡の兵火によって消失した東大寺大仏殿の再建に奔走した重源上人ゆかりの寺であり、本尊の大仏は鎌倉時代の大仏師快慶の作で、光背を含めて二丈(約6m)というから、木彫物として日本最大の仏像である。
 芭蕉の大仏記「笈の小文」には「丈六に陽炎高し石の上」とあり、伽藍の荒れた当時の様子がしのばれる。
 江戸中期より上野城主藤堂高虎の支援を受けて復興され、大仏殿背後の岩窟に彫られた不動明王(岩屋不動・伊賀成田不動尊)への信仰とあいまって、現在に至っている。


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【10】 栄養満点の韓国宮廷料理『蔘鶏湯(サンゲタン)』 (7.4)

 新鮮な若鶏の中に、高麗人参やモチ米、なつめ、にんにくなどを詰め、一羽丸ごとを長時間じっくり煮こんだ韓国宮廷料理『蔘鶏湯(サンゲタン)』。良質のタンパク質を豊富に含み、脂肪やコレステロールを分解して血圧を下げたり精神的ストレスを抑え、さらに冷え性や病気の回復にも効果があるという。何よりも今の時期、熱い季節を乗り切るスタミナ源として滋養強壮に効くというので、夕方から名古屋の韓国居酒屋 田舎(シゴルチプ)へ出かけた。
 ここの蔘鶏湯は圧力鍋を使って蒸し上げるとか。味が違うのだと言っていた。若鶏・モチ米・朝鮮人参などを煮込んだスープを、塩とこしょうを自分の好みでまぜながら、若鶏の骨までちゃぶちゃぶとしゃぶる。しっかりと煮込んであって、少々の骨は噛み砕いて食べてしまえる。淡白なスープもなんとも言えないいいダシを出している。鶏肉のグリコーゲンが溶け出していて、暑い夏を乗り切るスタミナ源という触れ込みもなるほどと思った。



H 焼き物の里の隠れ会席 みちくさ料理「尾花」 (6.28)
  

 国道422号線を三重県の上野市から滋賀県へ県境を越えて間もなく、焼き物の里「信楽」に入ったところの山の中に、みちくさ料理「尾花」はある。数年前、焼き物の土を買いに信楽へ通ったころ、県境は曲がりくねった山道であったが、工事中の一部を残して整備され走りやすくなっていた。
 6時20分ごろ津を出て、約1時間。「目的地の付近に到着しました。案内を終了します。」とカーナビに言われてから、まだそのあたりをぐるぐると探した。やっと見つけた小さな看板にしたがって車一台の幅の道をたどり、店の駐車場に入ると、石組みの築かれた庭と瀟洒な坪ノ内のむこうに、淡い灯かりに浮かぶ、白い麻暖簾が見えた。。
 主人の手さばきを見ながら料理をいただけるカウンターに座る。おまかせ会席の8品コース、オクラの細切りの前菜から、炙った鱧のつくり、うなぎ豆腐の汁、冷やし茄子と小芋、鮎の塩焼き、ミヨウガとわけぎを添える冷シャブ、揚げ物は甘鯛の霰包み、瓜の一夜干と鰻の短冊の酢の物、そして鮎飯と八丁味噌の赤だし。最後にサクランボと白桃のデザートが出る。順序は定かには覚えていないが、約2時間。
 ご主人は、毎日朝6時に大津まで買出しに出る。帰って仕込みをして昼食を出し、それが一段落すると夜の支度、夜席の料理を出して後片付けを終えると11時になると言う。「料理ばっかりで、丸1日が過ぎていきます」と笑っていた。
 最後の客になってしまって、「ごちそうさん」と店を出たのは午後9時40分。もと来た山道を帰る。このあたりは、秋には一面に尾花(ススキ)が咲き乱れるとか。


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G 年増女の豊潤な味 伊賀肉「金谷」   (6.23)
金谷のすき焼
 連日の食べ過ぎで、腹の調子が悪い。夕方5時、今日は軽くと思いながらお店を探して、上野市へ来てしまった。電柱の元祖伊賀肉「金谷」の看板を見て、ふらっと入ってしまった。
 「ご予約は…?」。5分前までは、伊賀名物コンニャクでも食べようかと思っていたのだから、あるはずがない。カウンターの兄ちゃんが、「ご予約はされてないのですが、よろしいですか」と、2階の座敷のおねぇさんに電話して聞いている。
 スリッパに履き替えて階段を上がると、ずっと伸びる長い廊下に沿って、10ばかりの部屋が並ぶ。とにかく「寿き焼」。金谷のすき焼は、上も中もなく6000円の一手である。座布団を並べてくれる人、お茶とお絞りを出してくれる人、鍋を据えてくれる人、肉と野菜を運んでくれる人…、それが全部違う人で、和服にエプロン姿の別嬪が入れ替わりあらわれる。炊いてくれる人ももちろん新しく代わって、これがまた色気の香るお姐さんであった。
 いぶし銀をまとったようなすき焼き肉を、白砂糖と地の醤油で味付けする。何かの本に、箱入り娘のしなやかさの松阪肉に対して伊賀肉は年増女の豊潤な味だと書かれていたのを読んだ覚えがあるが、軽くあぶった霜降りの肉に砂糖をまぶして醤油をさらっとかけ、割り卵に通してほおばると、豊かな肉汁が口いっぱいに広がる。年増女の深情けとはこの味か?!
 春に海津大崎の桜を訪ねたとき、帰りに寄った近江八幡の「毛利志満」は、ザラメ砂糖を最初に敷いて、その上に近江牛を乗せて食べさせてくれた。ここ金谷の寿き焼は、素材の素晴らしさは甲乙がつけがたいが、炊き方は昔ながらのもので、我が家の味付けとそれほどの違いはない。素材の味を生かした上での、もう一工夫がほしいところだ。
 すき焼の最後に、白いご飯を鍋にあけてすき焼汁でチャーハンを作った。汁の味がご飯に滲み込み(私は甘党だから、砂糖を足して甘味にした)、肉の脂がチャーハンの照りをつくる。「これ、メニューに加えてね」と色気のこぼれるお姐さんに伝えてきた。


F お魚 3連チャン!  (6.22)

 午後8時ごろから、何か食べようと思って伊勢へ走った。目的の店は「お魚ダイニング伊勢店」である。
 実は昨21日にも、お魚ダイニングチェーン(松阪・伊勢・津店)の本店である、玉城町の店へ行ってきた。午後2時ごろに時間が空いたので、伊勢自動車道を度会玉城まで走って、850円の刺身定食に、まぐろの刺身と平目の煮付けを平らげ、「たこわさび」なる箱詰めまで買ってきた。生来の魚好きだから、今日はその続きで、お魚3連チャン! 伊勢店へ来たのである。
 着いたのが9時前、駐車場が空いていない。しばらく待って店内へ、相変わらずの賑わいである。どうぞと通されたカウンター席に座ってひょいと顔を上げると、松阪店で顔見知りのおじさん。「あれ、こちらへ転勤…?」「えぇ、またこちらでお世話になります。今日はスズキのいいのが…」と言ってくれて、赤身と一緒に刺身にしてもらう。
 チェーン3店のうちで、ここ伊勢店が最もつくりがよく落ち着く。靴を脱いで上がりこむのもいいし、伊勢志摩地方の人情がまたいい。伊勢CCや賢島CCでゴルフをすると、他の地方にはないキャディさんの気さくな温かさに触れることができる。この店も、店の女の子の笑顔が暖かい。
 板前のおじさんの手が空いたのを見て、「津にも店ができたね」と言うと、「えぇ、おかげさまで順調で」とのこと。晃ちゃんに、積み立てを始めるように言っておこう。


E 若者や家族連れで賑わう、新鮮で豊かな食材の店 (6.20

 ゴルフのライバル晃ちゃんを誘って、「お魚ダイニング津店」を覘いてみた。3ヶ月ほど前、不景気の風が吹く津の料理屋の亭主晃ちゃんに、若いアベックやサラリーマンでにぎわう、「お魚ダイニング松阪店」を見せて、「これからは大衆路線や。店の一部を改装して、安くておいしい一品料理をそろえたら…」と話したことがある。晃ちゃんに、いまさら新しい経営をしろというのは過酷なことかもしれないが、数年したら娘夫婦に店を引き継ぐと言っていたので、そのときに少しのヒントになればとも思ったからである。
 「お魚ダイニング」は度会郡玉城町の鈴木水産という魚屋さんが経営する居酒屋で、まぐろの刺身が680円、揚げ出し豆腐550円といった廉価の品を揃え、若い層や家族連れで賑わっている。店のつくりは、大板のカウンターを取り巻いて8席ほどの椅子席、奥にやはり8席ほどのさじき席。味は…といえば、値段の割りにそこそこである。
 何よりも魚屋直営の店なので、鮮度が良く品が豊富なのが良い。こんな店で刺身の盛り合わせを頼んではいけない。「今日は何が入ってる?」と聞いて、まずその一品と自分が口にしたい一品を頼むことだ。
 松阪の店に行ったとき「津ではこんな店ははやらない」と言っていた晃ちゃんに、午後9時、1ヶ月ほど前に開店した津店の賑わいを見せた。
 「お前、津ではこんな店ははやらんと言うとったけど、どうだいこの賑わいは…」と、奮発心を刺激する意味もあって、少し意地の悪い質問をしてみた。「いや、この店は、1年もたん」と、まだ晃ちゃんは片意地を張る。「賭けようぜ。1泊2日のゴルフ旅行…」。
 この店が1年以上もったら、僕はタダでゴルフ旅行ができる。何とか1年以上閉店せずにていてもらうように、この店に通わねばならない。


D 真夜中の味噌煮込みうどん      (6.17)

 午後11時、小腹の空く時間である。「うどん」が食べたくなって、ふらりと出かけた。せっかく夜中にうどんを食べに出たのである、おいしいうどんを食べたいものだ。「今頃あいている、おいしいうどん屋は…」と思い巡らせたところ、あった! 
 名古屋栄の山本屋は、午前2時30分までやっている。着いたのは午前1時過ぎ。店内は4組のアベックと5人の男女が1組。「味噌煮込みうどん(名古屋コーチンバージョン)」と小盛りのご飯を頼む。まず、ほうじ茶と小鉢に入ったお漬物が出される。この漬物が妙においしく、頼むとまた盛ってくれるので、いつも2回はお代わりをする。
 ここのうどんは、ゆで足りないのかと思うほど腰のある麺だ。少し甘味のこってりした味噌つゆに馴染んで、やっぱり家では出ない味だよなと思いつついただく。濃いけれどくどくない味噌味が、白米のおいしさを引き立たせる。
 1人前1950円。土地の高い名古屋の真ん中で、しかも深夜料金なのだから、これぐらいの値段は仕方がなかろう。そういえば、冬に季節限定「牡蠣入り」を頼んだら3000円だった。お絞りも、食前と食後の2回取り替えてくれるのだから、これぐらいの値段は当然…。
 でも、お昼はもっと安いと思う。お昼に行ったことはないんだけれど…。お絞りは出ないかもしれない。


C あじさいの道とホタル渓谷      (6.10)

あじさい 赤
 今年もこの季節になった、あじさいとホタルの…である。5年ほど前に、度会郡大宮町のこの渓谷を教えてもらってから、この時期になると毎年足を運んでいる。渓谷をたどる道の両側には、何千本かのアジサイが紫・青・白と色とりどりの花を咲かせ、湧水を水源とする谷川にはホタルの養殖場があって、この季節は毎夜、幽玄の光を漂わせる。
 午後8時。たくさんの人出かと思いきや、ほとんど人影もなく、4〜5台の車。渓谷をいちばん奥まで上って、橋のたもとの駐車場へ車を停め、その橋の上まで行ってみると、木々の間や川べりの草の根もとに、黄色のほのかな光が点滅しつつ揺れている。川面にともった2つの光が、ゆきつたがいつしながら、遥か見上げる梢のかなたへ飛んでいった。
 20分ほどその橋の上からの情景にひたったあと、少し下って養殖場のそばの駐車場へ移ってみた。車の中から、渓谷の流れが見晴るかせる。
 対岸の草木の間の闇に点滅する黄色の光…。じっと目を凝らすと、そこにもあそこにも…。光をともすとその光に反応すると何かの本で読んだように思って、車のフラッシャーライトを点滅させてみた。と…、下手の川べりから湧き出るような光の群れが舞い上がり、それに呼応するように対岸の草むらや上手の木々の間からも、一斉に黄色い光の群舞…。妖しくもはかなく、優美で幻想的な光のページェントに、しばし我を忘れたひとときであった。


B 志摩石亭の 夕日がきれいな露天風呂 (6. 6)

 『夕日がきれいな』と聞いて、午後4時過ぎから出かけた。伊勢自動車道を度会玉城ICで下り、サニーロードを走って五ヶ所から浜島に入る。
 ちょうど夕刻に風呂に入ったのだが、湯舟から見る夕日は西の山に沈んでいった。海面を朱色に染めて水平線のかなたへ落ちていくのかと思っていたので、脱衣所を片付けていたおばさんに聞いてみると、「秋から冬は海へ沈んでいきますので、それはキレイですよ」という。また、秋に来なくてはならなくなった。
 電話で予約しておいた夕食は、海の幸の豊かな香りを味あわせてくれた。志摩石亭は、10年ほど前に来たときは1人4万円ほどの料金であったが、昨今は時勢を反映してかずいぶん値打ちにサービスしてくれていた。


← 観光協会のパンフレットより







【2-2】 高野山 金剛峰寺をたずねて  ー空海の夢はるかー  (2002.06.03)
   

 「空海の風景」(司馬遼太郎 中央公論社)を読んで、無性に高野山を見たくなった。真言密教の聖地として秘法を守り、隔世の秘境に聳える大伽藍…。1200年の遥かな時を越えて、空海の夢を伝える金剛峰寺。先週、やっと読み終えた「空海の風景」の記述によれば、真言密教の修験の地を捜し求める空海に「山頂は平坦にして、水豊かに東へ流る。昼は常に奇雲たなびき、夜は霊光を発する」と土地の祭神が告げて導いた高野の山…、中世末期の最盛期の頃には燦然たる宗教都市を形成した高野山…を無性に見たくなって、31日金曜日の夜中、一度は布団に入ったのだが、午前1時45分にガバと飛び起きて、車に乗り込んだ。
 名阪国道を天理まで走り、国道24号線に乗り換えて橋本市へ向かう。途中、五条市で市内を走らせないようにか、24号線から口蓋を迂回する県道方面へ出ていた「和歌山・橋本→」の矢印に従って曲がったところ、途中で案内板が表示されなくなって、道に迷ってしまった。国土交通省の担当官の頭には地図がないのか。案内板に従って行けば目的地に着くように、最後まで指示するのが責任であろうに。アメリカの道路案内板は、初めてのものにも大変わかりやすかったのと比べて、日本の道路行政の稚拙さが残念であった。。
 それでも夜中の24号線はとても走りやすく、途中、天理で30分間の休憩を挟んで、橋本市に着いたのは4時30分。朝もやの中、町がようやく起き出そうかという時刻であった。
 橋本市は、まだ独身の頃だったから30年ほど前に、「橋本CC」へゴルフに来たことがある。橋本CCは、当時、三菱ギャランのトーナメントが開催されていた有名なコースだったが、そのアップダウンの凄さに難関コースの思いを強くした。夜に泊った「紀の国苑」という旅館で、「芸者さん、呼んでくれる」と頼んだら「橋本には居らんのです」というので、「じゃぁ、和歌山から呼んでよ」と頼んで、タクシーで駆けつけてくれたお姐さんに、『潮の岬は男の岬、沖で○○の虹が立つ。わたしゃ紀州の串本育ち、ショラさん 舟歌 胸焦がす』という歌を教えてもらった。題名と○○の部分は忘れてしまったけれど…。

 橋本から高野山までは国道370から480号線を乗り継いで50キロ足らず。あと一息である。ところがこれが遠い!。山中の左折右折の続くつづら折の道で、延々と50分もかかってしまった。


← 九度山町に入った頃、ようやくあたりが明るくなってきた。



 5時30分、ええかげんにせいよ…と左へ大曲りのカーブをグイと曲がったとたん、赤塗りのとてつもなく大きな門が目に飛び込んできた。高野山の西の端に聳え立つ「大門(だいもん)」で、宗教都市「高野山」はここから弘法大師の御廟所「奥の院」までの4kmの境内地に、大塔伽藍と117寺、そしてみやげ物店・食堂・学校・民家などが立ち並ぶ。高野山町は、人々の暮らしの全てが境内で営まれる寺内町である。

山門の間から寺内町を 山門前の案内板 まだ目覚めない寺内町

 なんといってもまだ6時前。朝の早いお寺さんといえども、庭を掃く人たちの姿はチラホラ見えるが、拝観は8時30分から。人影のない境内地を心ゆくままに散策する。が、一つの堂塔を拝してから次の伽藍へは車で行かねばならない。大門から金堂・根本大塔までは900m、そこから総本山金剛峰寺までは1100m、さらに奥の院まで1000mで、その道筋にみやげもの屋や食堂などが並んでいる。それぞれの拠点の前に駐車場がある。


山門から金剛峰寺までの間の町中に、多くの伽藍が点在している。
女人堂 根本大塔と御影堂の間から
金堂をパチリ
愛染堂
壇上伽藍の池 大師教会 六時の鐘


 金剛峰寺は、思いのほかこじんまりしたたたずまいであった。遠く平安の昔に、空海が浄財を募って建立し整備を重ねたというこの寺は、官寺として国家が造営した東大寺や延暦寺とは成立の背景が違う。むしろ、当時の大寺が都にあって、時の政治と密接につながっていたのに対して、俗化を嫌い、修行の純粋を求めた空海の志が、この寺のたたずまいであるといわねばなるまい。
唐招提寺への階段
金剛峰寺の山門へ登る階段 山門 山門を内側から
金剛峰寺を左側から 金剛峰寺の正面 金剛峰寺を右側から


 いや、この寺でさえも、豊臣秀吉が亡母の供養のために建てた清巌寺という母体であって、明治2年に改称されたものという。拝観しているときにはこの疑問に気づかずに、坊さんに尋ねることもせずに帰ってきてしまったが、空海の建てた金剛峰寺は草堂のたぐいのものであったのかもしれない。むしろその方が、密教を極めるものとしての空海の覚悟が伝わってくるような気がする。


← 金剛峰寺の中庭



 大門・金堂・金剛峰寺と早朝の境内を巡り歩いて、奥の院の駐車場に着いたのが7時30分。拝観の始まる8時30分まで、ちょっと寝るかと木陰に停めた車の中で仮眠…。つい寝過ごして9時になってしまった。いつの間にか、あたりは乗用車・観光バスがびっしりと停まっている。
 寝ぼけ眼をこすって、弘法大師御廟所「奥の院」へ向かった。駐車場から御廟所まではおよそ1.2kmの参道が続く。直径が2〜3mほどの杉の大木が並ぶ道の両側に、延々と墓石が続く。弘法大師のひざの中で、来世を過ごそうと夢見る人々の墓であろうか。道の両側に筋状に続くだけでなく、左右の杉林の奥深くに大きく広がって墓石が林立しているのである。
フクスケくん    

 墓石を見ながら歩いていくのが、また面白い。著名な会社の墓所も多く、従業員慰霊碑と記名された碑石と、その横に社長家の墓がちゃっかりと並んでいる会社もある。新明和工業の墓石はロケットだし、福助株式会社のそれはフクスケが座っている。

入口近くの墓は新しく、墓石も鮮明だ 英霊殿


 英霊殿を過ぎる頃からは、杉木立の中の道となり、その両側の木々の間にたくさんの墓石が見え隠れしている。
 10〜50坪ほどの広い敷地に大きな墓石は、大名諸家のものだ。筑前黒田家とか奥州伊達家とか立て札がある。豊臣家墓所と書かれた一角があり、豊臣秀吉の墓を見つけた。江戸時代には徳川家も手厚い庇護をこの山に加えていて、3代将軍家光が10年の歳月をかけて徳川霊台なる壮麗な御堂を建て、家康・秀忠の霊を祭っている。


木立の間の参道 筑前 黒田家之墓 豊臣家墓所 お地蔵様
 さまざまな宗派の開祖の墓があったのも興味深かった。親鸞聖人とか浄土宗開基上人の墓所などと書かれている。陸軍第15連帯慰霊碑とかレイテ島玉砕者鎮魂塔などと記された墓標も随所に見られた。
← 納経所

            御廟橋たもとの水掛地蔵

    

 御廟橋を渡ると、この墓所の一番奥に、この地で大師が入定(にゅうじょう)されたという真言宗の聖地「御廟所」がある。御廟前の拝堂には「貧者の一灯、長者の万灯」と言われる、全国から献ぜられた灯篭が火を点して輝いていた。
 この灯篭に油を注ぎに来ていた若い僧侶に声を掛けてみた。「高野山では、お大師さんはご入定ということで、今も生きているままのお世話をされていると聞きますが、そうなのですか」。『真言密教の僧侶には、これが僧侶かと思われるほど、常人よりもだらしなく思えるものもいる。私が会った東寺の僧は、僧侶でなければ生きていけないと思われるほど、朝から酒を飲み、一日中寝っ転がっていて、雨を降らす修行をしているといっていた』と司馬遼太郎氏は「空海の風景」に書いていたが、私の問いに対してこの若い僧は、「はい、朝昼晩のお食事はお供えしていますが、実際には生きておられるということではございませんので…」と明快に答えてくれた。


 奥の院を後にして、金剛峰寺の拝観に戻った。この時間になるとたくさんの人が訪れていて、団体で参拝している人たちも多い。
 高野山の町中の何々院という末寺が信者を持っていて、大師講を企画し、全国から参拝の人を募るのだ。院はそれぞれに宿坊を備えていて、参拝客を宿泊させ、1泊2食をつけて何がしかの宿代をとるという旅館のような仕事もしているらしい。そういえばこの山内では、ホテル・旅館のたぐいのものは見かけなかった。
 その参拝客が総本山の金剛峰寺を参拝するというと、宿泊したお寺の住職などが付き添う。団体客は本山の僧侶の解説つきで寺内を見て回るのだが、一般の参拝客が入れないようなところも「ここは、ふつうは入れないのですが…」などと言いながら少し案内したりして、付き添いの寺の住職の顔を立てたりしている。私は、その団体客にまぎれ込んで、金剛峰寺の皇室の勅使が来られたときにのみ使うという開かずの間に入れてもらってきた。
 今考えてみると、金剛峰寺のご本尊は何だったのだろう。真言密教は大日如来が信仰の中心だから、ご本尊として安置されているのだろうと思うけれど、どこもかしこもお大師さんの軸や像が印象に残っていて、ご本尊の記憶がまるでないのである。
 最後に立ち寄った霊宝館は耐火耐震のコンクリート作りで、金剛峰寺と各寺の秘法が展示され、さすがにたくさんの仏様にお目にかかることができた。
 が、ここでも印象に残っているのは、少し左を向いた弘法大師坐像で、目線の正面に立つとその眼光の鋭さに射抜かれて、身のすくむ思いがした。
 写しであったが「三教指帰」が展示されていて、19歳の頃の空海の筆に触れることができた。


← 霊宝館


 霊宝館を出たのが午後2時半。高野山の堂塔に別れを告げて、新緑のまぶしい山道をたどる。高野山の南50km、竜神温泉を目指してのドライブである。高野山・竜神スカイライン
 山中をぬって走る「高野龍神スカイライン」はすれ違う車もまばらで、カーブの多い割には走りやすい。車窓からの展望は山々がどこまでも重なり合って、高野の地は山深いことを思い知らされる。
 途中の茶屋で、山掛けそばを食べた。この道の左手の谷に、野迫川温泉という出で湯があると聞き、林道を下る。車がやっと1台通れる幅の道で、上りは車が吠え、下りは転げ落ちるよう。25分ほど下った川沿いに、1軒の温泉(野迫川温泉)があった。湯量は豊かで、入ったときは誰も居ずに、ひなびた温泉気分を満喫していたところ、10分ほどするとどやどやと人が増えて、近くでの作業を終えた電気工事会社の人たち、リュックを持った山登りの帰りのグループ、高校生ぐらいの男の子が4人と、瞬く間に10人ほどになって満杯になってしまった。地元の人たちも、毎日通っているらしい人気の湯なのである。
 ぽかぽかとした気分でまた山道をとって返し、竜神温泉を目指す。この山道、曲がりくねっていてやはりずいぶん時間がかかり、知り合いが、数年前に行ったことがあって、車に酔ったしたので二度と行かん…と話していたのもむべないことかなと思った。
 竜神温泉へ着いたのは午後5時。日高川の河岸に沿って、30軒ほどの温泉宿が軒を連ねている。ここからは、西へ山道をぬって紀伊田辺・和歌山へ出るにも、東へ山を超えて新宮・熊野に出るにも、3〜4時間はかかる。覚悟を決めて、宿をとることにした。
 ホテル「季楽里 龍神」、龍神温泉郷へ下っていくと、日高川の対岸にすぐに目に入るホテルである。「空いてますか」と入っていくと、「はい、どうぞ」とフロントへ案内してくれて、東館の和室を取ってくれた。
 「日本三美人の湯」として有名な龍神温泉は、弘法大師が難陀龍王の夢のお告げによって、約1300年前に開いたところからこの名がついたとされている。竜神の湯は、湯温も高くて水量も豊か。温泉としては申し分ないが、しかし、あまりに遠い。
 明朝はゆっくり目に起きて、紀伊田辺から和歌山市に出ることにしよう。

                               
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A 神宮前のレトロなレストラン 伊勢「ボン・ヴィバン」    (6. 1)

 お伊勢さん外宮前に「ボン・ヴィ・ヴァン」という、ちょっとレトロなレストランがある。高い天井と広〜い部屋、なにか時間がゆったりと過ぎていくような雰囲気の中で、本格的なフランス料理を食べさせてくれる。「この建物は?」と聞いてみたら、「もとは郵便局なんです」とのこと。大正時代のものだという。
 フルコースは12000円〜。1時間30分ほどを要するので、午後7時30分がオーダーストップである。静かな雰囲気の中で、ゆったりとした時間を過ごしてもらうために、子ども(6歳以下だったか)はお断り。
 予約なしで気軽に出かければいいブラッスリー(カジュアルレストラン、別間、コースは2500円)もあり、テジュネ(ランチ)は週替わりで850円。天気の良い日には、中庭のテラスで友だちとワインを傾けながらのひとときを過ごすもの一興である。


 伊勢の知り合いの子に電話して、「ボン・ヴィ・ヴァンってどこにあるンや?」と聞いたら、「えっ、行くの? 連れてって下さいよ」という返事が返ってきた。伊勢の女の子たちの憧れのレストランであるらしい。
 「ボン・ヴィ・ヴァン 行こうか?」と誘ってみたら、案外、OKが出るかもしれないぞ。



@ 90叩いても 練習場より鴨川の床席 (5.30)


 「91」を叩いたその日には、これからぁ練習するぞ!と密かに決意したのだけれど、その後はいっこうにクラブを持つ気配がない。一昨日も、夕方、練習場へ行こうかなと思って出かけたところ、まだ暑いしなぁと決心のつかないまま走っていたら、鈴鹿峠を越えていた。京都の友人に連絡すると、食事でもしようということになった。
 まだ5月なのに、鴨川べりにはもう床席を張り出している料理屋がチラホラ見える。この15日、葵祭りに来たときにはまだその気配もなかったのだが、店の人に「6月1日からじゃなかったの」と尋ねると、「なんか、季節が早ようなってきましてなぁ」という答え。鴨川に映る床席の灯かりは、京都の夏の風物詩…。今年も大文字の送り火まで、焦がれる京都の夏が始まった。
 厳選した国内産大豆とこだわりの天然名水で仕込んだおぼろ豆腐は、ここ「豆水楼」の自慢で、生姜と薬味のだし汁でスルリといただく。何杯でもお代わりを頼むことができる。あとは、刺身も揚げ物も、指先ほどのものを盛り合わせる京都の料理である。
 濃い藍色に染まった東山の稜線が空の闇に溶け込んで、川面を涼風(すずかぜ)が渡る。「もう一軒、行く?」という友人の誘いに、「練習しなくちゃ、いけないんだけど」と、私はまだ往生際が悪い。



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