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物見遊山

◆ 2004年 錦秋の滋賀・京都            2004.11.24・25【物見遊山72】
永源寺 山門前

 湖東の名刹 臨済宗永源寺派総本山「永源寺」は、南北朝時代からの法灯を守る臨済禅の根本道場として…、とともに紅葉の名所として、その名を知られている。
 寺域は愛知川の右岸に迫る山腹に位置し、カエデに囲まれた崖沿いの石段を上がると、紅葉のアーチの中に総門、次いで楼門(山門)が現れる。境内には、方丈(本堂)・鐘楼・法堂・経堂などが甍(いらか)を連ね、その間を色あざやかなカエデの老樹がうずめている。本尊の聖観音像は秘仏で、俗に“世継ぎ観音”とも呼ばれている。
 同級生3人を誘って、10時過ぎに津を出てきたので、そろそろ小腹が空いてきた。食べ物は和食がいいと口ぐせのように言うので、雄琴の「清元」へ行こうと電話(077-578-1340)を入れると、2時までに来てくださいという。1時30分ぐらいに滑り西教寺 参道込んで、お昼にありついた。 
 午後3時。近江坂本の「西教寺」へ。この寺は、聖徳太子の創建と伝えられる天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山。信長の比叡山焼き打ち後、坂本城の城主となった明智光秀の尽力により復興した。境内は、今を盛りの紅葉である。
 滋賀院門跡の開かずの門前にある、僕のお気に入りの紅葉の大木とともに、坂本城築城に業を発揮した穴太衆(あのうしゅう)の見事な石垣積みに沿って、日吉大社な富美やの夜膳どをのぞいていたら、すぐに日が暮れてしまった。
 比叡山のふもと田の谷峠を越えて、京都市内へと入る。夕食は予約を入れておいた、先斗町「富美や」。板前が交代したのか、ちょっと馴染みの味が変わった。食後、夜の街をぶらぶらして、午前0時過ぎ、リーガロイヤル京都へ入った。







 25日、起床はゆっくり。9時に朝食をとり、10時チェックアウト。先ずはちょっと穴場の北山「常照寺・光悦寺」を訪光悦寺の茶室「大虚庵」を囲む光悦垣ねようと、北へ向かう。
  光悦寺は、安土桃山から江戸時代の初期の工芸家(本業は刀剣鑑定研磨、書道・漆芸・製陶にも優れた)の本阿弥光悦が徳川家康から下賜されたこの地に建立した寺で、洛北の鷹峰三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を見渡すことができる景勝の地にある。もとは工芸職人を集めた工芸村だったが、光悦の没後に寺として営まれ、境内に七つの茶室がある。庭内を巡る大虚庵露路を囲む垣根は光悦垣と呼ばれている。常照寺
 次に訪ねた「常照寺」は、元日蓮宗の六壇林(僧侶の学校)のひとつで、江戸寛永の頃、天下の名妓と謳われた島原の吉野太夫が寄進した吉野門をくぐって境内に入ると、一面の紅葉が出迎えてくれる。
 いずれの寺も、北山の山深い背景の中にたたずみ、その眺望も壮大で、市内から少し足を伸ばしただけなのに、空気までが清々しく思われた。


 そろそろお昼。東山の「鹿ケ谷山荘」へ「お昼、お願いできますか」と電話を入れると、「12月8日以降なら、お席がおますけど…」と笑われた。市内を目指して堀川通りを下りながら、名前を知ったところへ2〜3箇所電話を入れてみたけれど、今日のお昼は無理…。じゃあ、車も止めやすいしというので、京都国際ホテルへ入ってお昼をとった。
 午後1時30分、今度は「双葉屋の饅頭を買う」と言い出したのが居て、川原町葵橋のたもとへ向かう。「あんこの入っていない、この饅頭がうまい」という。それって、饅頭というのだろうか…。
 2時30分、岡崎公園のパーキングに車を預けて、「永観堂」を目指して歩いた。途中、道を間違えて「若王子神社」へ参拝。恵比寿永観堂 境内は一面の紅葉さまにお参りしてきたから、もうじき大金持ちになるかも知れない。
 もみじの「永観堂」は、見渡すばかりの紅葉であった。正式名称は、聖衆来迎山無量寿院禅林寺。第七世法主永観律師にちなみ永観堂と通称される。
 紅葉の見事さもさることながら、阿弥陀堂の「みかえり阿弥陀」の、何とも愛くるしくありがたいお姿はどうしたことだろう。
 寺伝によれば、『永保2年(1082)、永観50歳のころである。2月15日払暁、永観は底冷えのするお堂で、ある時は正座し、ある時は阿弥陀像の永観堂 裏手の多宝塔へ至る山道まわりを念仏して行道していた。すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観を先導し行道をはじめられた。永観は驚き、呆然と立ちつくしたという。この時、阿弥陀は左肩越しに振り返り、「永観、おそし」と声をかけられた。永観はその尊く、慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀に願われ、阿弥陀如来像は今にその尊容を伝えると言われている。』とある。
 正面から拝観したお姿は右を向かれて何となくほほえましいが、右手へ回ってみると、こちらを向永観堂 落ち葉を敷き詰めた黄色の絨毯かれたお顔には、ちょっと困ったような慈愛溢れる微笑みがあった。『遅れてくるものを案じ、なお正面にまわれない人びとのことを案じて、横をみかえらずにはいられない阿弥陀仏のみ心…』が溢れ、「お前、永観堂 夕日に照り映える紅葉大丈夫か?」とお声をかけていただいているよう。錦秋の京都で出会った、ありがたき御仏のみ心であった。
 
 境内の茶店で、「ぜんざ永観堂の茶店 ぜんざい一杯600円い」を食べた。600円…。みたらしを食べた者なども居て、勘定は合計2700円。アルバイトだろう、勘定書きを持ってきた女の子に3000円渡して、「おつりはチップ」と言うとむっちゃ喜んで、何度もお礼を言っていた。同行の皆んなは、「この300円は会費からは出さんぞ」と念を押していたが、会計は僕だからみ-んな会費から落としておいた。
 南禅寺の大モミジ
 門前の道をぶらぶら歩いて南禅寺へ。本堂横の 大モミジは今年もあでやかに秋の装いをまとって、秋の残り陽をいっぱいに浴びていた。南禅院の庭
 アーチ式の高架で境内を走る琵琶湖疏水をくぐり、南の山手に建つ南禅院の庭を拝観した。赤や黄色の紅葉と背面の緑があざやかな対比を見せている。

琵琶湖疏水の水門
 疎水に沿った小道を登っていくと、水門に出くわした。その横に「何有荘(かいうそう)→」と書いた矢印がある。「まぼろしの庭園」とも書かれてあったのを見て、入ってみなくちゃということになった。
 入り口はトンネルになっていて、切符を売っているおばちゃんに、「下に正門があるのだが、雨の日にはここから天皇陛下がお入りになり、濡れずにお茶室にお入りいただいた。このトンネルは、天皇陛下専用…」というありがたい説明を受け、「1000円じゃ安いな」とか言って中に入った。考えてみれば木戸賃1000円は、この旅の中で一番高い。何有荘からの展望
 トンネルを出ると、そこは南禅寺山の中腹で、茶室の縁側から色あざやかな木々のむこうに、暮れていく京都の市内が一望された。何有荘 三段の滝
 木々の間の道を降りていくと、下には明治の頃には迎賓館として使われていたという大きな洋館を始め、明治天皇が使われた茶室「龍吟庵」、伊藤博文の筆額が掲げられた「神泉亭」など、あまたの館が並んでいる。
 調べてみると、この「何有荘」は明治中期に染料を研究し商って財をなした稲畑勝太郎が、個人の別荘として建てたもの。京都の名園として、天皇陛下の行幸を仰いだり、西園寺公望・伊藤博文・山県有朋たちも訪れて、時には重要な会談も重ねられたという。近年、人手に渡り、開園以来100年を経て、初めて一般公開されたものであるらしい。
 庭内の灯篭や行灯に火が点され、色づいたモミジやカエデの木々を照らし出している。南禅寺山から落ちる滝が、水音を響かせている。二段の滝をしつらえた池の上に、燃えるような紅葉が広がっている景観は、永観堂の見渡すかぎりの大きさに対して、一幅の絵に描かれた造園の美しさを奏でているようであった


 清水寺仁王門 十三夜の月がかかる午後5時を過ぎて、すっかり暗くなった。タクシーを拾って、清水寺へ向かう。参道は人でごった返していて、タクシーは途中までしか行かない。コーヒーとケーキで一息入れて、清水坂を登る。
 ライトアップに浮かぶ仁王門の上に、煌々とした月が出ている。今夜は
十三夜…。本堂の左手前「成就院」の庭が、月の庭と呼ばれている。せっかくの名月の夜である、月の庭に寄ってみた。借景式・池泉観賞式の庭園で、幾多の名石に五葉松や佗助椿が添えられ、月の光に照らされた姿に趣が深い。
 本堂の前、舞台にも人々がひしめき合っている。先ほどのタクシーの運転手さんに聞いた話では、数日前の勤労感謝の日を入れた飛び石連休のときには、この倍ほどの人並みだったというから、入場制限下寺院もあったというのもうなずける。この夜も、舞台に先端から1mほどのところにロープが張ってあり、欄干のところまでは行けないようにしてあった。
 舞台から眺める京の街もきれいだが、清水寺のポスターの写真は舞台を入れて背景に街の灯りを写している。これは、奥の院からの眺めだろうと、僕は先を急いだ。清水寺 紅葉の上に浮かぶ舞台
 奥の院から舞台を振り返ると、なるほど明かりの入った本堂も見えるが、舞台と本堂の位置が何か平面的である。そこからの写真も3枚ほど撮ってみて歩き出し、下りの坂道にかかるところから振り返ると、ライトアップに照らし出された紅葉の上に舞台が浮かび、その奥に明かりを点す本堂が納まり、背景には漆黒の音羽山と左手一帯に伸びる京の街の明かりが美しい。 5〜6枚シャッターを押したが、夜景を三脚もなく、ノーマルのデジカメで、しかも人混みに流されながら撮るのだから、ほとんど見るに値しないものであった。明るさの補正をかけて、ようやく右の写真程清水寺ライトアップ度である。 →
 
 ← 帰路、池のほとりから三重塔を目がけてパチリ。この頃には、同級生の皆んなはてんでんばらばらになっていて、携帯電話をかけまくって所在を確かめ、ようやく入り口の仁王門前にある交番の前で落ち合った次第であった。


 二年坂・三年坂を下り、八坂の塔の脇を抜けて、高台寺へと歩いた。足が疲れてきているからだろう、途中の石畳が足の裏に響いて、日ごろの不摂生が反省される。「今度はクッションを吸収する靴を履いてこなきゃ」などと、マラソン選手のようなことを言いながら高台寺へたどり着いた。
 最後の石段を息を切らせて登りきり、境内に入って中門をくぐると、右手に臥龍池が広がっている。風もなく、水面が鏡のように穏やかな今日のような夜高台寺 臥龍池に映る夜景は、湖面に写る仏閣と紅葉の様がひときわ美しい。じっと見つめていると、どこからが水面に映る光景なのか区別できなくなり、深い渓谷が広がっているようで、吸い込まれていきそうになる。幻想的を超えて、神秘的な光景に、身が竦む。


 → 夜景の写真でうまく出ていませんが、どこまでが実物で、どこからが水面に写ったものか判りますか。上3分の1が本物で、下3分の2は水面に
映った光景です。
   


 このあと、圓徳院のライトアップを見に行こうと言っていたら、「チャラララ〜ン」とケイタイの呼び出し音。「帰りに寄るから」と電話を入れておいた、お茶屋の「駒屋」さんからだ。「いつ来るの。待ってますんよ」と言うので、「圓徳院を終わったら」と答えると、「もう、舞妓さんも来て、待ってますんえ」と君波ちゃん言う。清水寺のあと電話を入れたのだが、先方はその足で向かうと思っていたらしい。
 急遽、圓徳院を取りやめて、岡崎パーキングから車を出して「駒屋」へ向かった。「ほんまに、遅かったどすなぁ」と言う舞妓の君波ちゃんは、今年出たばかりの16歳。1年ほど前に仕込みとして屋形へ入って、行儀作法と京言葉を覚え、今、踊り・三味線・唄のお稽古に明け暮れる毎日だと言う。駒屋にて
 この子を一人前にするには、屋形は一体いくらの費用を投じることになるのだろうか。ということは、この子達のパトロンになろうと思えば、少なくとも5000万円の費用を用意しなくてはならないというのは、章くんの説である。「で、章くん。用意するの?」と言われて絶句するようでは、まだまだ修業が足らない。
 君波ちゃんの懸命のサービスについつい時間を忘れて、京都を出たのが午前0時過ぎ。家に帰り着いたのは、2時を回っていた。



◆ 近江牛と近江商人のふるさと「近江八幡」         2004.11.12【物見遊山71】


 朝からの雨…。予定していた津CCでの誕生日月例会をパスして、もう一度寝るかと思っていたら、「ゴルフがなくなったので、暇で何ともしゃぁない」と同級生の尾崎からの電話。「じゃあ、どこかへ出かけるか」ということで、10時半過ぎから、当てもなく鈴鹿峠を越えて西へ向かった。
 今週の月曜日(8日)に京都を訪問し、東山界隈を覗いてみたけれど、永観堂の山門は青々とした木々の中にたたずんでいて、京都の紅葉はまだまだ…。葉先が少し色づいた程度で、このページへ報告することは何もなかった。
 琵琶湖の東岸を北へ走りながら、時計を見ると12時30分を少し回ったところ。この地を訪れると 時々立ち寄る「毛利志満」で、お昼を食べようということになった。
 「毛利志満」は、近江八幡屈指の近江牛専門店。日本各地から、観光バスで客が詰め掛ける。明治の中ごろ東京に牛鍋店を出したのが始まりといい、鉄道が開通するまでは徒歩で東京まで牛肉を運んでいたとか。極上石焼
 近江牛のルーツは但馬産の黒毛和種。我が三重県の松阪牛と同じ牛種だが、松阪牛に比べて肉の繊維や霜降りのきめが細かく、その味わいの最大の特徴は「口の中でとろけるまろやかさ」だと言われる。実際のところ、近江牛の生肉は常温で脂が溶けてしまうほど柔らかいのだそうだ。
 「おいしい牛肉は、霜降りよりも『甘み』なんですよ。これは7割が血統、2割が育て方、あとは牧場の気候風土で決まります。特に水は重要ですね。よく、近江牛はなぜおいしいのかと聞かれるんですが、特に挙げるとすれば、水に恵まれているから、ということでしょうか」と、ここ「毛利志満」の社長、森嶋治雄さんが語っておられたのを、どこかで呼んだ覚えがある。
 先代社長が考案したという「石焼」は、厚手の牛肉を2cmほどの短冊状に切って、十分に熱した石の上で焼く。フライパンで焼くのとは違って表面が硬くならず、肉が柔らかいままで中まで火が通る。表面に焼き色がついたところでさっと裏返し、レアの状態で石から降ろす。ポン酢につけて、肉を口に入れると、まずその柔らかさに驚く。さして、その肉汁の豊富さに驚き、その甘みに驚く。
 焼肉を、表面に焦げ目がつくほどに焼くのがいるが、肉の食べ方を知らない最たるものだ。肉は、表面が色づく程度に焼けば十分で、肉汁が滴り、中は肉色が残っているぐらいが、柔らか味・旨味は最高だ。焼き過ぎて、肉汁を出し切り焦げている肉は、硬くパサパサで紙を食べているようなものである。
 石焼(極上6300円)のほかにもう1品注文したのが、牛鉄火巻と牛トロ握りを味わえる「牛トロ盛り合わせ」(2000円)。今までは、「トロはマグロの方がおいしいや」と思っていたが、毛利志満の牛トロは柔らかく甘い。マグロよりあっさりとして、劣らず美味しい。


 食事日牟礼神社の後は、応神天皇・神功皇后・比売大神を祭ると伝えられる「日牟礼神社」にお参りし、その隣の「たねや」に寄ってコーヒーを飲んだ。
 「たねや」は明治5年創業の和菓子処。手作り最中「ふくみ天秤」をはじめ、「栗菓子・芋菓子・羊羹」などを季節感豊かな品々にしつらえている。また、数年前に新館「日牟礼ビレッジ」を建てて「たねや」の旧館 日牟礼茶屋、洋菓子作りに乗り出し、バームクーヘンが大人気であるとか。かつて、近江商人が全国にその販路を広げて行ったように、昭和59年、東京日本橋三越に第1号店を開店させて以来、全国に支店・営業所・販売コーナーを展開し、現在グループの総売り上げは130億円を達成している。


 近江八幡は、1585(天正13)年、豊臣秀吉の甥 秀次が八幡城を築き、その城下町として開か八幡堀の港「八幡浦」れてきた。内堀を兼ねて整備された運河は街中をめぐり、琵琶湖に続く水運に利用されて、商都近江八幡の物流に、大きな役割を果たしてきた。
 ちょうど雨の合間…、堀沿いを少し歩いてみた。ところどころに船着場や商家の倉庫に通じる荷揚げ場、舟溜まり(八幡浦)などがあって、往時の隆盛がしのばれる。
 道筋には、名物の麩(丁字麩)や蒟蒻(赤コンニャク)を売る店があって、観光客でにぎわっている。秋はたけなわ…。でも、ここも紅葉はまだまだだ!




◆ みなみの隠れ家「堀江燈花」−ちょっと雰囲気がある店−  2004.10.15【物見遊山70】


 大阪の友達に、「15日、夕方から人と会う。食事をしながら、話のできるところを設営してくれ」と頼んだところ、ちょっと雰囲気のあるこの店を紹介してくれた。てっきり女の人と会うのだろうと、気を回したのだろうか。堀江燈花 階段を上がると小人数の部屋
 『堀江燈花』という名前も、どこかロマンチックである。堀江(西区北堀江)にある燈花という店なのだが、四文字の名前は字数が多いだけ意味深である。
 近鉄難波の駅前からタクシーに乗って、運転手さんに「堀江燈花って知ってる?」と聞いたところ、「堀江はわかりますけど、燈花って店はちょっと…」という返事だ。電話番号は聞いてあるので、店に電話を入れて運転手さんに代わる。
「長堀通り…入って、信号角から2軒目ですか」とか言って、「はい、解りましたわ」とケイタイを返してくれた。「鶴橋の焼肉が美味しい」とかの話を聞いているうちに、5分ほどで店に着いた。
 通りに面した正面には玄関がなく、隣との間の狭い路地を入っていくと小さな入り口があった。戸口を入ったところで靴を脱ぎ、上がりがまちの受付で、「予約を入れてもらってあるのだけれど…」と告げると、「どうぞ、お2階へ」と階段を指し示してくれた。
 階段を上がったすぐ左の間…。掘りごたつ式になっていて、薄い座布団が4枚置かれている。狭い部屋で、コの字型に座るので、友人とは対面でなく隣り合わせに座ることとなった。この店には、このような狭さの2人部屋から最大8人までを収容する部屋がたくさんあり、中には風呂付の個室もあるのだという。今度、女の人と行くときには、その風呂付の部屋を予約することにしよう。
堀江燈花は和食処
 おまかせ3500円、懐石5000円などのコースから、造りの盛り合わせ1600円、松茸の土瓶蒸し1500円など、いろいろな一品料理を揃えている。
 味のほうは、調理学校の生徒が習ったとおりの料理を盛り付けしたといったカンジで、ちょっと残念というところだが、値段からしてみれば贅沢はいえない。個別の空間が確保されていて、他人を気にせずに話ができたことに感謝するべきだろう。
 8時半過ぎ、店を出ると夜風が頬に心地よい。難波駅までぶらぶら歩こうかとも思ったのだが、地理が定かでない。結局、タクシーに乗って駅に向かったら早く着き過ぎて、難波でもう一軒…。で、難波駅発9時30分の名古屋行き最終特急に乗って、津駅着11時…。もちろん津市内のスナックに寄って、家に帰り着いたのは午前1時45分。大阪は遠い!





 あたか飯店と信楽タヌキ                 2004.07.29【物見遊山69】

あたか飯店 大津店
 お昼前に娘の優希が孫の寧音を連れて遊びに来たので、「昼ご飯でも食べよう」と、大津の「あたか飯店」へ行った。
 中華料理店は星の数ほどあるけれど、ホントに美味しい中華料理にはついぞお目にかからない昨今、神戸ポートピアホテル「聚景園」、名古屋「銀座アスター」とともに、お薦めの中華料理店である。何を食べても同じ反応しかしない2歳半の寧音が、「蟹肉入りフカヒレスープ」を「うま〜い」とか言って飲んでいる。「おっ、味がわかるようになったのか」と見ていると、甘鯛のうま煮よりも唐揚げをかじっていたから、まだまだである。
 食陶器屋の店先の大ダヌキ後は琵琶湖畔を巡り、帰途、信楽へ回ってみた。「大きなタヌキがいるぞー」と驚かしたものだから、「絶対 車から降りやん」と言っていた寧音だったが、陶器店の店先に並ぶタヌキの焼き物を見ると急に元気づいて、それぞれの表情やポーズに喜び、「ホコリがついとるよ」とかいいながら、タオルで顔を拭いていた。
 巨大なタヌキにはさすがにびっくりした様子だったが、「大きいおなかやなぁ。子どもが入っとんのやに」と言いながら、大タヌキの八畳敷きを撫で回していた。お土産に、花束を持った女の子のタヌキをひとつ、買って来た。



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