【物見遊山76】 九州紀行(臼杵のふぐ中州の天草大王
  2005.1.21〜24


 九州の大分県には、ふぐの肝を食べさせる店があるという話を、ものの本で読んだ。ふぐの肝とは、古今の食通が命を賭けて追い求めたまぼろしの食材である。これを食べずして、食は語れない…と思っていたところ、福岡の友人から「中でも臼杵のふぐは、一味もふた味も違う」という情報が入った。


明石大橋〜高松・松山自動車道
 当初の予定では、22日(土)の朝5時に出発し、四国を抜けて、愛媛県の八幡浜発午後2時35分のフェリーに乗り、夕方4時50分 臼杵港に入って、そのままふぐ屋へ…という積りでいたところ、その前日21日(金)に「暇やから、今夜のうちに出発しよう」という電話が入った。「ええよ」と答えた僕もかなり暇である。
 あわてて準備をし、午後9時出発。西名阪から阪神高速を抜け、神戸へ11時30分。「この辺で仮眠しようか」と高速近くのホテルに電話を入れてみたところ、「お一人8400円で…」と言う。「半値でどうや」と交渉したけれどもとより話はまとまらず、そのまま明石大橋を渡って四国へ入った。高松・松山自動車道
 午前2時30分、休憩しようと高松ICで降りた。料金所のおじさんに「○○ホテルがいいですよ。新しくて安い…」と聞いて目指したところ、ICを出たところの道路わきに『屋島健康ランド 24時間営業』の看板を見つけた。書かれている電話番号をカーナビに入れて検索したところ、約15分の地点にある。早速、駆けつけて、お風呂につかって時計を見ると、3時30分。レストルームでしばしの仮眠…。
 6時30分 起床。ふたたび松山自動車道に乗って、一路 四国の西端を目指す。高松・松山自動車道は、早朝のせいもあってか車の量は少なく走りやすい。途中のSAで朝食を摂り、9時30分 八幡浜港へ着いた。


宇和島フェリー
 八幡浜は佐多岬半島の付け根にあって、豊後水道に面した宇和海の奥の港町である。リアス式の海岸線は入り組み、天然の良港を造っていて、八幡港は四国一の水揚げ量を誇るとか。見渡すと、山がそのまま海に落ち込むような急峻な斜面に民家が点在し、海辺の一握りの緩斜面に会社・工場や家々がひしめき合う。また、八幡浜は四国でも有数のみかんの産地で、秋と豊予海峡もなれば港を取り巻く全山にみかんの花が咲き、市のパンフレットには、空からの太陽光・海からの反射熱・段々畑の石段の輻射熱と三つの太陽を浴びて育った八幡浜みかんの美味しさは格別…とある。
 フェリーの時間まで間があったので、近くの岬へ出向いてみた。宇和海に突き出た高台の左右に穏やかな海が広がり、養殖いかだが点在している。はるか彼方に豊後水道、晴れた日にはその向こうに九州の山々が望まれるとか。岬を往復する道の両側は、一面のみかん畑であった。八幡浜〜臼杵のフェリー
 ここ八幡浜から九州へ渡るフェリーは、ダイヤモンド・フェリーと豊後海運の2社が1時間おきに運航、別府と臼杵に客を渡している。こんな四国の端っこから、毎時間出航して客があるのかと思っていたのだが、僕たちが乗ったフェリーは7割がたの埋まり方であった。愛媛から大分・宮崎へ行くには、西瀬戸自動車道(しまなみ街道)を渡って、広島〜北九州を回っていくことになる。大分へ行くには、フェリーで渡る距離のざっと10倍ほどはある。四国と九州を行き交う人は、みんなフェリーを使うのだ。
 八幡浜港を11時45分発の宇和島運輸フェリー「おおいた丸」に乗り込む。豊後水道は穏やかで、操業中だろうか、何隻かの漁船に出会った。やがて、九州の山々が眼前に迫り、2時間15分の船旅で午後2時丁度に臼杵港に着いた。
 ふぐ屋の予約は午後6時。4時間ほど時間があったので、早速「臼杵の石仏」見物へと出かけた。

国宝 臼杵の石仏

臼杵の石仏
 いつ、誰が、なぜ…造ったのか、そのほとんどが謎のままに、今、臼杵市の南部丘陵にひっそりと鎮座する臼杵磨崖仏は、その様式から平安末期から鎌倉期の製作とされているが、だとすれば御仏たちは1200年余の歳月を岩陰にひっそりと佇んでこられたわけである。
 ここ臼杵の石仏は、阿蘇溶結凝灰岩という軟質の石に彫られているため風化しやすく、永い年月の間に亀裂を生じたり剥落するなど傷臼杵の石仏2みがひどかった。このため、1970年から1984年までの14年間、磨崖仏を中心に保存修理工事が行われ、さらに修理の終わった各磨崖仏群に保存施設としての覆屋も設置された。
 この修理の中で最も注目を集めたのは、奥まった山間の崖に彫られた古園石仏群のひとつ、大日如来像であった。発見以来、その仏頭は地上に転げる形で安置されており、修理に際して、仏頭を元の位置に戻すかどうか、市民を巻き込んだ4年間の論議ののち修復が決定。大日如来の仏頭復位が行われたのである。臼杵の石仏のお家
 臼杵磨崖仏は、入り口から順にホキ石仏第1群・ホキ石仏第22群・山王山石仏・古園石仏の四群から成っている。修復成った59体の磨崖仏は、1995年6月15日、石仏としては我が国ではじめて「国宝」の指定を受けた。
 いつ、誰が彫ったのかも定かでない石仏たちの、長い年月の風雨にさらされて崩れ落ちた風体が、くぐり抜けてこられた時代の厳しさと人々の信仰の哀れさを表しているようであった。しかし、今、昭和の大修理を経て見事によみがえった石仏たちは、変わらぬ祈りを続けている。
 古園石仏群の天蓋の中、胴体を復元して、土の上に転がっ古園石仏群と大日如来ていた頭部を据え直した大日如来像は、臼杵磨崖仏のシンボルとして、左右にたくさんの如来・菩薩・天部・明王を配して微笑まれておられた。今日はそれらの仏の前で、4組の夫婦が金婚・銀婚の得度を受けていた。般若経の唱法要詠のあと、分厚い経典で体を叩き祝賀を与える僧侶の仕草に、恭しく拝礼する老夫婦の慎ましやかさがほほえましい。50・25年の夫婦随唱への感謝とこれからの安穏を祈る人々の営みを、千年を生き抜いてきた仏たちが温かく見つめていた。


歴史を語る 臼杵市内
 午後3時30分、親しみの仏たちに別れを告げて、僕たちは臼杵市内へと取って返した。石仏の茶店で貰ったパンフレットに、「臼杵二王座歴史の道」とある。この道を歩いてみよう。
 臼杵は、平安〜鎌倉・室町の頃、国司であった大友氏が治めていた地である。文化的とされる大友氏にあっても、臼杵石仏の作成についての文書を残すことはなかったわけわけであるが、有史の中にある大友氏は、戦国時代、九州六カ国を治めたキリシタン大名・大友宗麟が出て、永禄5年(1562年)、四方を海に囲まれた天然の要塞であった丹生島に丹生島城(臼杵城)を築いた。ここから、城下町「臼杵」の歴史が始まり、宗麟時代の臼杵は、明やポルトガルの商人が行き交う国際的な商業都市として栄えた。徳川家康の外交顧問として活躍した「ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)」は、慶長5年(1600年)春、オランダ船の航海長として、ここ臼杵の佐龍原寺三重塔志生に漂着したのである
 大友氏の除国後、数代を経て、慶長5年(1600年)稲葉貞通が美濃から入封、明治維新の廃藩置県を迎えるまでの270年あまり、臼杵藩稲葉氏五万石の統治下に時を重ねてきた。現在の臼杵の町の大部分は、この稲葉氏の時代に形成されたもので、城下町特有の曲がりくねった迷路のような町並みは、今も臼杵に保存されている。
 市内へ入ると、まず古色蒼然たる「龍原寺の三重塔(1858年竣工)」が目に飛び込んできた。この塔から臼杵城跡公園に続くおよそ2Kmの道が「二王座歴史の道」である。
 臼杵の中でも仁王座と呼ばれる小高い一帯は、阿蘇山の火山帯が固まってできた凝灰岩の丘で、あちこちの岩を削って道を通している。特に、旧真光寺の前は「切り通し」と呼ばれ、臼杵を代表する景観のひとつになっている。このあたりには寺院が集まっているが、さらに登ると上級の武家屋敷が立ち並んでいて、この地にはかつて春日局も住んでいたとか。そういえば、春日の局は明智光秀につながる、岐阜出身の稲葉家ゆかりのものである。

臼杵藩主旧稲葉家 正門 邸内の庭園 長屋門(今は喫茶店)
仁王座の寺院群 切 通 し 石  畳
稲葉家下屋敷
外溝の鯉 龍原寺三重塔 臼杵城址


 町中には城跡を中心に、今もたくさんの武家屋敷や古刹、そして明治・大正期の古い大きな邸宅跡が残っているが、大邸宅跡の多くは表札も外されて住む人の気配もない。町並みの保存は、住む人の利便性とは相容れない部分があるのだろうか。しかしそれにしても、歴史は、人が守ろうとしなければ伝えられないものである。この町の石畳の上にいると、時の流れに取り残され、どこかで時間が止まってしまったような感覚にとらわれる。
 仁王座の道の半ばに、旧長屋門を改装した喫茶店があった。二階家をぶち抜いたものであろう、高い天井で息がしやすい。炭火焼珈琲400円…、まろやかで旅の疲れを癒してくれる飲みやすさであった。
 日本の西端の地九州は、日が暮れるのが遅くて、この冬の最なかでも午後6時近くになってやっとあたりが暗くなる。そろそろ、ふぐ屋の予約の時間だ。家々の窓に明かりがともり始めた町中を通って「かのうや」(仮称)に向かった。「かのうや」は、臼杵ふぐ発祥の店…とある。


臼杵ふぐ
 ふぐの中には、長崎県五島の名物「箱ふぐ」のように毒を全く持っていないふぐもあるが、「かのうや」の水槽に泳ぐふぐは、5〜60cmほどもあろうかという立派なとらふぐだ。てっさ
 運ばれてきた大皿…、紅葉オロシを溶かしたタレに、てっさの3〜4切れをたっぷりと浸して食べる。
 独特のタレのまろやかな味が、臼杵てっさのざっくりとした食感(臼杵のてっさは、他所の1.5倍ほどの厚さ)と相俟って、一切れを口に含んだとき、みんなはムムッ…と絶句。
 しばしあって、「うわさにたがわぬ 絶品」、「他所のふぐ屋で食べるふぐとは、似て否なるものや」、「これ食べたら、まぁ死んでもしょうないなぁ」と、ため息とともに納得の弁であった。「臼杵ふぐ」は てっさの厚みとモッチリ感で 他の各地のふぐとは一線を画していて、その食感は充実の一語である。これで十分なはずであったが、さらに4人前を2人前の厚切りにしつらえてもらうよう追加して、てっさだけで満腹であった。


白子 ところが、次に出てきた焼き白子がお宝…。その大きさも12〜3cmはあろうという一品である。スプーンでカリッと焼きあがった端っこの皮を突き破り、中のプルプルの身を口へ運ぶ。どこかに潮の香りの残る、ふくよかなしょっぱい甘さ…。
 ふぐの持つふくよかさを引き立てる天麩羅…。冷たさが嬉しいニコゴリ…。てっちりまでに お腹がいっぱいになってしまって、鍋に火を入れる前に、ちょっと休憩を取らねばならなかった。


 さて てっちり…。まずはパクパクと動いていた口からかぶりつき、ゼラチンたっぷりの頭をせせる。更に、店のサービスですと出してもらった白子の4腹をシャブシャブと温めてペロリ…。野菜も、豆腐も、特タレで美味しくいただき、雑炊の頃にはものも言えない大満腹であった!


 この至福の時間の中でも、ヒレ酒を7杯も飲んだのがいた。
 酒飲み、恐るべし!



【物見遊山77】 九州紀行(臼杵のふぐ中州の天草大王)その2    2005.1.21〜24


大分自動車道 雪で通行止め
 23日、今日は阿蘇山へ立ち寄り、熊本から九州自動車道を走って福岡へ出る予定である。目覚めると外は小雨。しかし、南国九州のことだから、阿蘇が冠雪、ましてや大分自動車道が雪のために終日通行止めになるとは思いもしなかった。
 朝食を済ませて、9時出発。この時点で、大分自動車道の通行止めはテレビで知っていたのだが、大分市内は小雨であり、天気予報は「雨のち晴れ、日中の気温は14℃」と報じていたので、雪はすぐに解けるだろうという感じで居た。
 雪の422号線。 これって、九州…?そこで、442号線を竹田まで行き、そこから57号で阿蘇へ登ろうと走り出したところ、大分市の郊外へでると野山は白く雪化粧をしている。時々、思い出したように降る雨に白いものが混じることはなくなっていたが、積もった雪が雨を含んでシャーベット状になっている。山手のほうから降りてきた対向車は、チェーンの音を響かせて行き違う。山へ入るほどに、雪は深い。
 20分ほど走って、阿蘇を断念。考えてみれば、冬場には樹氷ができるという阿蘇である。里で積雪を見る今日のような日に、ノーマルタイヤの普通乗用車で行こうというのは無理な話であった。
 大分市内へ戻るも、大分自動車道は別府以西が依然として通行止め。そこで、高速道路を別府まで行き、あとは瀬戸内海沿いの国道10号線で北九州市に出て、福岡に向かうことにした。
 大分から西へ2〜30分も走れば、別府である。大分自動車道は、市内から遠く離れたかなり高い山の中を走別府 民家から湯煙りがのぼっているっている。それで、少しの雨にも、すぐに雪になって、しかも南国のことで雪に慣れていないから、全国標準ではすぐに除雪して通行可能にできるものを、とにかく通行止めにしてしまう。
 別府ICから市内への道は、眼下に別府湾を見下ろしながらくだる、かなり急峻な坂道である。その坂の途中、さすがは湯の町…道の左右の民家から湯煙が立ち上るのが見られた。
 ここまで来たら、ゆっくりと温泉にでも浸かっていきたいところだが、先が何時間かかるか判らない。別府の町で10号線に乗り、ひたすら西へ…。
 

宇佐八幡神宮
 日本で一番多くある神社は「お稲荷さん」。では二番目に多い神社は?と聞かれたとき、すぐに答えられる人は余程のカミサマ通であろう。実は、全国の神社のおよそ3〜4分の1、実に2万5千社が八幡神社である。京都の岩清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮などは有名な八幡宮だが、その大元締めともいえる総本社が、ここ大分県宇佐市にある宇佐八幡神宮で、日本古代史の中で注目を集めた神様である。
伊比神社 10号線の左側に鎮座する「宇佐神宮」は、多少なりとも日本史をかじったものには素通りすることのできない存在である。
 大和朝廷成立の前、大和が北九州の勢力と覇権を争った時代に、国東半島北側の付根辺りのこの地は大きな意味を持つ。日本の弥生文化の発祥の地であった北九州地方…、大陸文化を受け入れて繁栄してきた北九州勢力のひとつの中心地であったここ宇佐の地は、特に東征基地として大きな役割を持っていたのであろうとされている。
 宇佐神宮の祭神は、神功皇后、応神天皇そして、三女神(宗像三女神のうち二神と、もう一神は地元の神か?)である。このことは、応神と宗像族が連合した事実を表すものではないか。…などなど、古代史の謎解きへのロマンは尽きないが、そたま?れはまた別の機会に譲るとして、旅の先を急ごう。
 大きな鳥居をくぐって右に曲がると、玉砂利の敷かれた広い参道に出る。ここには丸々と肥えた「タマ」がいて、参道は彼の縄張り。参拝者の誰彼なく近づき、馴れ馴れしく肌を摺り寄せたのち、安心した相手の足宇佐神社 本殿にマーキング…。小水をかけて、差知らぬ顔で行き過ぎる。何せ、タマはご神域の守護猫。かけられたものは怒りもせずに、「やられたぁ」と笑って、ハンカチを取り出す。
 運よくタマの攻撃を逃れたものは、その幸運に感謝しつつ進むと、やがて参道は石段となり、登りきったところに、朱塗りの本殿がある。
 二礼二拍一礼。旅の無事を感謝して、日本史の空白といわれる4世紀の鍵を握る、宇佐の神々にお別れした。


博多のなぎの木 天草大王
 午後5時30分。北九州市で九州自動車道へ乗った。南国九州は夕暮れが遅く、三重県ならばとっぷりと夕闇に包まれているこの時間も、まだまだ明るい。6時過ぎ、福岡に着いた。
 福岡在住の吉村君に急な仕事が入って、彼の会社のひろちゃんに、夜の中州を案内してもらうことになった。ひろちゃんは可憐な女の子だけれど、長年、土建会社に勤めていて、酒は強い!
 お薦めは、自然食料理店の『なぎの木』。自家製無農薬野菜などとともに、鶏肉のすき焼き・水炊きなどを食べさせる店とのことだが、その鶏が並みの鶏ではない。「天草大王」という、天草五島地方に飼われていた食用の大型鶏で、戦後に一時絶滅したものを復活したという。「天草テレビ」の解説を借りて、「天草大王」をご紹介しよう。
 『「天草大王」は、明治の中ごろ輸入された中国北部原産の「狼山(ランシャン)」種が長崎から天草地方に渡り、地元で飼われていたシャモやコーチンと交配して生まれた肉用地鶏。羽色は褐色に黒味が混じる濃猩々(のうしょうじょう)色、鶏冠(とさか)は単冠、赤色の耳たぶで、足は太くて長く、首と尾が直立、雄の大きいものは背丈が90センチ、体重7キログラムにもなり、極めて大きい。肉は軟らかく、白色で、肉量も多い。当時は主に福岡・博多へ水炊き用に高値で出荷され、珍重された。しかし産卵率が低く、大型で大量の飼料が必要なため、昭和初期、戦時中の食糧難で絶滅した。天草大王。うしろの普通の鶏に比べて、はるかに大きいでしょう。
 熊本県菊池郡合志町にある熊本県農業研究センターが、県産地鶏の復活に取り組み、平成4年に「天草大王」の原型となった「狼山(ランシャン)」種をアメリカから輸入。文献や写真、当時描かれた油絵などを基に、3種の鶏を交配させ、このほど半世紀ぶりに復活させた。日本に肉専用種は「天草大王」しかいないため、同センターでは今後、熊本県産地鶏の特産品として、生産普及をはかる。』とある。
 

 さて、この「天草大王」、食べてみてビックリ! 鶏スキは、割り下のダシで、たっぷりの野菜とともにしっかりと煮込むのだが、濃密な味が肉によくなじみ、ボリュームたっぷり。鶏特有の脂っこさは全くない。肉のひとつひとつが、コリコリとした歯ごたえ…、噛むほどに味が出る。口の中に豊かな肉感が広がるけれど、後味はスッキリとしている。牛肉のすき焼きは、和田金へ出かけても、2枚も食べれば十分だけれど、これならば幾らでも食べられそうである。
 続いて、水炊き…。ここでも驚かされたのは、ひろちゃんが、炊き込む前の温めたダシをみんなに振舞ってくれたこと。このタレの香り天草大王を食べて大満足!とコクの良さ…。先ほどしっかりと平らげた鶏スキの味が口の中から無くなり、水炊きに向かい合う姿勢が出来上がった。
 ダシを追加してもらって、鶏肉とキャベツと水菜をかぶせてサッと煮立て、小鉢に取り分けていただく。この料理の方法も、地元のことならではの手際である。ひろちゃん、何ンか慣れている…。料理の間も、勧められるお酒を断らずに受け流して、余裕の表情だ。九州の女の人は、肝っ玉ば座っちょるばぃ。口に含んだ水炊きの味は、ダシの香りとコクが鶏肉になじみ、キャベツの甘みと水菜のシャッキリ感と相俟って、野菜の苦手な僕もペロリペロリと平らげてしまった。食べ終ったあとも、えもいわれぬ香りが口の中に残る。


 「天草大王」の余韻を引きずりながら、中州の屋台探訪へ…。今夜は日曜日で、屋台の数が少ない。那珂川沿いそれでも数軒が、那珂川沿い中洲川端に店を並べている。店内は7〜8席のカウンターと、横に置いた机の周りに5〜6席の椅子。それにあぶれた人は、この寒空もお構いなしで、表のテーブルで怪気炎を挙げて中州の屋台いる。
 そのうちの一軒、あごに薄いヒゲを蓄えたお兄ちゃんの店へ入った。焼き鳥・おでん・レバ焼きとコップ酒、最後にとんこつラーメンで仕上げて、中州の夜は終わった。



 翌24日、午前8時、福岡出発。


関門海峡
 関門海峡の潮の流れは速い。九州自動車道めかりSAで休憩して、展望台から海峡を眺めた。海霧にかすむ対岸の下関は、意外に近い。関門海峡
 車でならば、ものの5分とはかからない近さであるが、瀬戸内の周防灘と日本海の響灘とを結ぶこの瀬戸は、渦巻く潮の流れが速くて、昔の小船ではなかなかに操船は難しかったという。
 歴史の彩りがなくても、地の果てであり、人の出会いや思いを引き裂く海峡はどこか物悲しい。ましてや、対岸の下関側に広がる壇ノ浦は、平家滅亡の海であり、清盛の妻二位尼が八歳の幼帝安徳天皇を抱いて入水した海である。立ち上る霧は、宗盛の知盛の無念…建礼門院の涙の飛沫であろうか。
 「下関かぁ。ふぐでも、食っていこうか」と言ったけれど、まだ朝の9時過ぎだ。


 それからはひたすら走って、午後6時には津市の洋食屋で夕食を食べていた。途中、秋芳洞にも、安芸の宮島にも、神戸のライブハウスにも寄らずに、3〜4回の休憩を取っただけで、福岡〜津間は10時間で完走できることを実証した。


 阿蘇へ行けなかったのは、もう一度来いということなのだろう。九州までは10時間であることも判ったから、今秋のダンロップフェニックスには、タイガー・ウッズに会いに走っていこうと思っている。
 臼杵のふぐの後遺症か…。その後、どこで食うふぐも、美味いと思わない。他所でふぐを食いたいとも、思わない。


                               2004 九州紀行 完



◆ 鶴橋ガード下商店街 2004.12.27【物見遊山75】

 その後、お変わりありませんか。先日、僕は、大阪での会議のあと、歳末の大売出しで賑わう「鶴橋商店街」をのぞいてきました。
 「焼肉なら鶴橋でっせ」と言った、タクシーの運転手さんの話を聞いてから、いちど行ってみたいとずっと思ってきましたので、26日の会議の夜は大阪に泊まり、翌27日のお昼前からぶらりと出かけてみました。


鶴橋の商店街

 大阪の鶴橋は 庶民の町。環状線の鶴橋駅を降りて改札を出ると、いきなり目の前に焼肉屋街が広がり、その店並みに背を向けて、すぐの角を右…右…と曲がると、環状線のガード下に広がる「鶴橋商店街」が連なっています。

 商店街の中の通りは縦に2本、それに直交する横の通りが2本。だから大雑把に言って、鶴橋商店街は9ブロックに分けられています。この商店街には ありとあらゆる物が揃っていますが、中でも 食材の豊富さは溢れるばかり。魚・肉・野菜・乾物・穀類など何でも揃っていますが、やはり キムチなど韓国の食材を扱う店が 何軒も並んでいました。

 その隣のブロックには、焼肉店や韓国食堂が並んでいます。僕は、遅いお昼を食べるのにずいぶんと迷いました。一人で外国へ出かけるのは平気なのですが、お昼を食べる店を決めるのは、なかなか決断できないところがあるのです。美味しいだろうか、一見(いちげん)で入っていって胡散臭い目で見られるのではないだろうか、何と言って入っていこうか…など、いろいろと考えてしまうのです。だから、地元でも、初めてという店へは、一人ではまず行きません。結構シャイでしょう(苦笑)。 韓国食堂の冷麺

 思い切って、そのうちの一軒へ入って昼食の冷麺を食べたのですが、一人なので入ったところのカウンターに腰掛けようとしたら、「奥の座敷も空いていますよ」とおじさんが声を掛けてくれました。上がりこんで掘りごたつ式の席に座ると、「ナニニシマスカ?」と注文を取りに来てくれた女の子は、その言葉遣いから韓国の子だったと思います。
 冷麺を頼むと、出てきたものは、冷麺にご飯とキムチ・レンコン・モヤシ・青菜の小鉢が付いている、韓国式の食膳でした。もっとも、写真付きのメニューを見て頼んでいるのですから、いろいろなオカズ付いてくるのは承知していましたが…。冷麺にもハサミが添えられていて、女の子が「キリマショウカ」と聞いてくれ、「切ってよ」と頼むと、冷やした金属の容器の中の冷麺を十文字に切り分けてくれました。冷たくて、粘りのある麺は歯ごたえもよく、なかなかに美味しかったです。商店街の中のお寺
 昼食後も 辺りをぶらついて いろいろな店をのぞいてきました。 間口一軒でそこに戸板を並べ、その上で野菜を売っている店や、角の三角地でたくさんのキムチの壷を並べて売っている店など、計り知れない人々のパワーが感じられる町でした。
 先のメールでもお知らせしましたが、町を歩くと至るところに 「人権センター」とか「人権相談所」といった看板が目立ちます。在日韓国人の方も多く、地位や生活などについての地域の取り組みが感じられる町でもありました。 狭い通路にいっぱいの品物が並べられている。

 お店の人たちに気楽に話しかけることができない僕なのですが、気心が知れればすごく打ち解けてお付き合いすることができる僕でもあるのです。何度か通って、馴染みのよい店を見つけなくては…。
 この日、タクシーの運転手さんお勧めの「焼肉の吉田屋」を見つけることはできませんでした。名にし負う鶴橋焼肉街…、吉田屋はモチロンですが、飛びっきりの美味しい店を見つけなければと、鶴橋通いをこころに決意している章くんであります。

 今年もあと3日…。風邪など引かれませんように…。どうぞよい年をお迎え下さい。
 来年も、よろしくお願いします。





◆ 2004年 神戸ルミナリエ と ジャズライブ「SONE」2004.12.19・20【物見遊山74】


 神戸ルミナリエ…。主催者のメッセージには、『神戸ルミナリエは、阪神・淡路大震災犠牲者の鎮魂の意を込めるとともに、都市の復興・再生への夢と希望を託し、大震災の起こった1995年12月に初めて開催しました。イタリアのアートディレクター、ヴァレリオ・フェスティ氏と神戸市在住の作品プロデューサー、今岡寛和氏による光の彫刻作品です。第一回の閉幕直後から、市民や各階から継続開催を求める強い声が寄せられ、都市と市民の希望を象徴する神戸の冬の風物詩としての定着を目指すことになりました。第1回は1995年、テーマ「夢と光」、来場者254万2687人。今年、2004年で10回目を迎える「神戸ルミナリエ」を、ぜひ訪れてみてください。』とある。
 ルミナリエの言葉の意味は、物体が光を放つ現象を表す「ルミナンス、ルミネセンス」の女性形だと思うのだが、これは僕の勝手な説だから定かではない。JRの最前席からパチリ


 大阪駅から三宮へ向かうJR快速の最前席に陣取り、運転手さんと一緒に指差し呼称をしながら、前面の窓からの沿線風景を楽しんできた。ビルや住宅の間を縫っていく大阪・神戸間にも、時として林や山間を走る箇所があって、ひときわ色あざやかな紅葉が目に飛び込んでくる。 
 快速だから通過駅があるわけで、前窓から通過する駅のフラットフォームに居る人を見ていると、かなりのスピードで横をすり抜けるわけだから、とても危険に見える。でも運転手さんは、当然のようにスピードを緩めようとはしない。
ルミナリエのゲート  三宮で降りて、お昼を食べる店を探しながら、ルミナリエ会場界隈を歩いてみた。通りの上に、アーチ型の電飾が設置されている。左の写真がそれなのだが、判るだろうか。昼間に見ると、なんということもない代物なのだが、それでも午後0時30分の今から道端に陣取っている人が大勢いた。何かの本で、点灯の瞬間を見てから食事に出かけ、食後にまたゆっくりと見て回るのが良いと書かれていた。その「点灯」を待つ人たちなのだろう。
 南京町(中華街)は店頭で肉まんなどを食べさせる店が多く、前回来たときも満足のいく中華料理のレストランなんてなかったので、神戸大丸に入って和食の「西村屋」でお昼を済ませた。
 タクシーを拾って、北野地区の異人館へ行く。北野坂と呼ばれる六甲山の南斜辺一帯は、1868年年(慶応3年)の神戸開港に伴い、 現在の神戸市役所の西側一帯に外国人のための居留地が設けられたが、 来日する外国人の増加などによりしだいに住宅地が不足しはじめ、 神戸港を一望できるこの山の手が新たな住宅地として注目され、外国公館や住居が建てられた。これが、現在北野町・山本通に残る異人館街のはじまりである。
 明治20年代(1887〜1896年)から本格的に建設がはじまり、第二次世界大戦頃まで最大で200棟以上の異人館が建てられた。一帯は、洋館と和風住宅が入り混じったエキゾチックな景観を形作っていたが、 戦災や老朽化、さらには1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災によって数が減り、 現在残っているのは80棟ほどになっているとか。旧パナマ館
 先ずは北野通りに面した旧パナマ館に入った。ぶらぶらと入っていって、受付の美人に「入場料要りますから」と言われ、「えっ、お金要るの?」と言う呑気さである。パナマ運河(1914年開通)の国だからか、展示品に船の模型が多く見られた。
 次は、向かいのイギリス館。玄関前には、イギリスの名車ジャガーの巨大バージョンが展示されていた(下の写真上段右から2番目)。最初見たときはロールスロイスかと思ったほど大きくて、何でイギリス館にロールスなんだと中をのぞくと、虎のマークが見えた。玄関の左手には葡萄酒の樽にまたがった老父の像(同、上段右端)。中の部屋のうち3部屋にはホームバーが設置されていた(同、下段右から2番目)から、祖国を遠く離れた極東の地にあって、彼らはスコッチ・ウイスキーなどをあおりながら望郷の思いを癒していたのだろう。
 各部屋の調度品の豪華さはさすがである。一品ずつを手作りで仕上げていった時代のものが並び、明治という時代の重厚さを物語っているようであった(同、下段左端)。へら鹿の剥製の大きさにもビックリ(同、下段左から2番目)! 鼻先から角の先端までは、ゆうに大人の背丈ほどもある。壁にこんな剥製を飾るところが、狩猟民族の末裔たるゆえんであろう。

イギリス館の外観 イギリス館の入り口 庭で見かけた巨大なジャガー 葡萄酒の樽にまたがる老父の像
調度品は重厚! へら鹿の剥製 大きいッ! 大きなホームバー。 中庭からの外観


 イギリス館のあとは、北野通りを北に折れて坂道を登り、風見鶏の館に向かう。神戸の坂は半端じゃない。200メートルを昇るのに息が切れる。一軒山側の家は、下の家の屋根の上から、神戸の港を見ることができる。
風見鶏の館
 息を切らせていくと、レンガ色の洋館が見えた。屋根の上には、風見鶏が今日の風向きを計っている。サンフランシスコで風見鶏を買ってきた辺さんのことを思い出した。かさばる荷物であり、欠けたりするといけないというので、機内手荷物にして大切に抱えてきた風見鶏を自宅の屋根に取り付けたところ、翌日、見上げたら飛んでいってしまっていて、影も形もなかったという、辺さんの悲話である。屋根の係りのおじさんが居たら、留め金はどうするのか聞いて、辺さんに伝えてやろうと思ったのだが、館内には「はい、左から回って」と叫び続けているおばさんが居ただけで、屋根の関係者らしい人は見かけなかった。
 内部の仕様はアールヌーボー様式を感じさせるものが多く見られる。また、部屋ごとに天井のデザインが異なり、食堂は木で組まれた中世城館風の重厚な天井小梁、居間は八角形の木組みに白のしっくいを配するといったように、それぞれの部屋のイメージにあわせて意匠が凝らされてる。八角形の部屋には5つの窓が取られていて、十分な採光が図られているのだとも聞いた。今度家を建てるときには、僕の書斎は八角形にしようろこ館う。
 さらに上に登って、うろこ館。その壁面のうろこ館の2階からの展望模様が、魚のうろこを思わせるので、その名前が付いたとか。クリスマスバージョンで、庭にはトナカイのイルミネーション、屋根にはサンタが登っている。
 うろこ館の2階からは、ようやく暮れていこうとしている神戸の町並みと、その向こうに港が一望される。街の灯りや港を行く船の明かりが点されて、100万ドルの旅情を掻き立てる。




 午後5時を過ぎた頃、タクシーを拾ってルミナリエの会場へ…。5時30分に予定されている、点灯の瞬間を見るために急いだのである。タクシーの運転手さんの話…「昨日は今日の倍ぐらいの人出で、ルミナリエ会場は見るのに2時間ぐらいかかったらしいですよ」と言う。
 確かに、点灯の瞬間を見るどころか、5時20分ぐらいに会場に着いた僕は、見物客の最後尾に並んでからルミナリエのメインゲート「北の星」(下の写真上段右端)へたどり着くまでに1時間ほどかかった。闇雲に、並んでいた人ごみに向かってデジカメのシャッターを押してみたところピンボケの写真になってしまったが、もしキレイに写っていたら、僕の生涯で最多人数が写った写真になっていただろうと思う。2年前に来たときには、平日だったし 午後8時頃に着いたからか、並ぶというほどのこともなく見ることができたのだけれど…。
 しかし、立ち並ぶ圧倒的な光のページェントはさすが…。どこまでも続くかと思われる輝きのゲートは、その下をくぐって行くものを祝福し、豊かな未来をもたらすことを約束してくれているかのようであった。
 写真@(上段 左端) ルミナリエの入り口の門 「北の星」
   A(上段真ん中) メインテーマ 「空の地図」
   B(上段 右端) 円形の空の地図の正面にある 「カッサ・アルモニカ」
   C(下段 左端) 「カッサ・アルモニカ」
   A(下段真ん中) 「光の小惑星」
   B(下段 右端) ルミナリエの光に浮かぶシルエット
メインゲート「北の星」 メインテーマ「空の地図」 空の地図と中央に配されたカッサ・アルモニカ
光のカッサ・アルモニカ 光の小惑星 ルミナリエ・シルエット



 ルミナリエのあと、ホテル・モントレ神戸のレストランでちょっと遅い食事。このホテル、石造りのいでたちが古いヨーロッパの古城を思わせるいでたちで、神戸らしいムードのあるホテルである。
 食事の後は、せっかく神戸へ来たのだからと、ジャズライブの店を訪ねてみたSONEの店内。神戸は日本のジャズ発祥の地、そしてその神戸のジャズはここから始まったという「SONE」。この夜のライブは、ボーカル本荘桂子に藤井勝泰のピアノと、あとベース、ドラムの編成。ほの暗いその店内はステージを囲むテーブル席とその周辺のボックス席などが、合わせて約120席ほどある。
 禁煙席などという野暮な席はなく(僕はタバコを喫わないけれど、この店では禁煙なんて似合わないような気がした)、くゆらすタバコの煙が漂う中で、客たちはウイスキーのロックを口にしながら、時に物憂く…ときに情熱的なジャズの旋律に耳を傾けている。1900年代のはじめ、ニューオーリンズやデキシーランドのバーで繰り広げられた光景もこのようであったろうかと、ちょっと懐古の情にひたる思いであった。ジャズハウス「SONE」
 僕は三味線の音は耳にすることは多かったけれども、ジャズライブというのは初めて…。オシャレなその雰囲気、大人のムードが漂う店などに、すっかり魅了された思いであった。もちろんハスキーな本荘桂子の歌声にも…。


 ホテルに帰ると歩き疲れて、風呂に入ったあとはバタンキューッ、朝までぐっすり…。 歩くのはゴルフで鍛えてあると思っていたのだけれど、神戸の坂の厳しさはゴルフの比ではなかったようである。





◆ JR名古屋駅のクリスマス・イルミネーション        2004.11.30【物見遊山73】
   − 海外協力青年隊に参加して コスタリカへ行く おケイの激励会 −

笹島交差点のイルミネーション
 かつて、わが塾の生徒であったおケイが、海外協力青年隊に参加して、コスタリカへ行くことになったと言って来た。「お前、コスタリカはスペイン語やぞ。大丈夫なのか?」と聞くと、行くまでに3〜4ヶ月の研修期間があるので、そこでみっちりと研修を受けるという。彼女は、大学在学中にワシントン大学に3年間留学しているから英語に自信があることはわかっているが、コスタリカと聞いてちょっと心配したわけである。
 さらに、「コスタリカには イグアナが街中のいたるところにいるらしいぞ。道にも、レストランのテーブルの上にも…。日本の猫や犬みたいなもんらしい」と言うと、「イグアナって、噛みつくかな…」と心配していた。
 その彼女が5ヶ月にわたる研修を終えて、いよいよ12月9日に成田空港を飛び立つと言ってきた。じゃぁ、激励会を兼ねて飯でも食おJR名古屋駅前のクリスマス・イルミネーションう…と、名古屋へ行った。
 途中、JR名古屋駅へ回って、例年、正面の壁面を飾るクリスマス・イルミネーションを見に行った。今年のそれは、3本の巨大なクリスマスツリーで、後ろの壁面にはシンシンと雪が降る映像が映し出されている。
 前を走り抜けての見物だったので、ゆっくりと観賞することはできなかったのだが、これから常夏の国へ旅立とうとしているおケイには、何よりの餞(はなむけ)になったのではないだろうか。年中暑い毎日に頭がボーっとしたらこのクリスマスツリーを思い出して身を引き締めることだろう(…かな?)。
 広小路通りの街路樹もきれいに電飾されて、あでやかな輝きを見せている。街はこれから、クリスマス一色だ。
 松坂屋の南隣りの「上海湯包館」へ行き、小龍包と台湾料理の幾品かを取ってつついた。これから2年、コスタリカの大学で日本語を教えるのだと言っていた。「2年間は、こんな料理は食べられへんやろからなぁ。でも、コスタリカの人に日本語を教えて、何になるのかなァ」と、彼女は懐疑的である。「海外青年協力隊って、どうでもええようなことをしに行く人も、いっぱい居るのさ」と、彼女の矛先は外務省批判にも及ぶ。「でも、お前が日本語を教えた子の中に、一人でも二人でも日本に好感を持ち、ひょっとして将来日本へ来る子がいたら、それは意義のあることや」と言うと、ちょっと納得したような顔をしていた。
 「先生(と、彼女は今でも僕のことをそう呼ぶ)、コスタリカにゴルフ場あるかどうか調べとくわ」と言っていたから、ゴルフを兼ねて来いという意味なのだろう。グリーンの上にイグアナが居たら、どうすればいいのだろうか。ルールブックを調べておかなくてはならない。


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