【97】 京都の桜 2006 その2                    2006.04.12

                           
 前夜は大雨洪水警報が発令されるほどの春の嵐だったのですが、その雨も明け方に止んで、章くんたちが嵐山に着いたときには、山あいから湧き出る水蒸気が盛んに峰々を登っていました。








 ↑ 峰に、沢からのぼる霞がかかる


         桂川堤防の桜もまッ盛り →


                                                                              雨模様の天気だったせいか、人出は思ったほどではなくて、すんなりと市営駐車場へ入れました。昨年は、桂川の堤防に上がってからの2Kmに1時間以上かかったのに…。
 

   満開の桜のむこうに渡月橋 →


 まずは渡月橋を渡って、中の島へ渡りました。一面の桜は110%…、昨夜の嵐に散り果てることなく、健気に花を開いていました。  

 中の島「渡月亭」で昼食、『竹弁当』をいただきました。


← 窓にかかる桜が 見事でした。

                                         




  大堰川の上流一帯の桜も花開いて、山肌に
   パッチワークのような桜色を描いていました →



 昨日の大雨で、遊覧船は運航休止。水曜日でトロッコ列車は定休日。で、一帯をぶらぶらと歩くことにしました。
                  

 ↓ 天竜寺  しだれ桜は盛りを過ぎていました。


 
天竜寺は亀山(小倉山)に、暦応2(1339)年、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓国師を開山として創建した禅寺。京都五山の一位として栄えた名刹でしたが、足利幕府の滅亡とともにその勢いを失い、度重なる戦火に遭って創建当時の建物は残っていない。
 
加山又造画伯の「八方にらみの竜」が特別展示中でした。


 雲の切れ目から薄日が指して、暖かい日になりました。雨の気配もなくなって、章くん、天竜寺の傘立てに傘を忘れてきました。


 「老松」に入り、夏甘糖とくずきり、コーヒーで休憩したあと、天竜寺裏の竹林の中の野々宮神社で縁結びの祈願。賽銭を上げたら、桟に当たって跳ね返ってきた。良縁は無理ということか。
 大河内山荘から亀山公園を抜けて、嵐山吉兆の前を歩いて渡月橋へ戻りました。


 市内へ戻る。祇園の呉服屋「斉藤」へ寄ったあと、疎水の桜を見ようと平安神宮へ向かいました

← 桜に染まる 平安神宮の大鳥居


 時刻は5時前…。平安神宮の庭へ入ると、疎水の桜を見る頃には陽が翳ってしまう。疎水を先に歩くと、神宮神苑に入る時間はない。


 神苑の紅枝垂れも見事だけれど、今までに何度も見ている。ここは陽のある間に、疎水の桜見物と洒落てみることにしました。
 対岸の桜が、水面に映って美しい。遊歩道の上には、咲き誇る花がアーケードを造っています。
 ぐるっと歩いて6時前…。平安神宮には参拝だけをして、銀閣寺道へ向かいました。

              
 哲学の道も満開。木々はこぼれんばかりの花をつけていましたが、ライトアップが行われていません。暫しの間、宵闇の桜並木を歩いてきました。


← フラッシュを焚くと
 花が浮かび上がる。











 夜桜は、今夜も円山公園へ…。相変わらずの賑わいです。


    夕食は、丸山公園内
       いもぼうの平野屋 ↓
















                                        


 食事のあとは、デザートを求めて「長楽館」へ。「たばこ王」と称された明治時代の実業家村井吉兵衛が円山公園の一角に建てた別荘で、堂々たる明治建築です。その名称は伊藤博文が宿泊した折りに付けたものだとか。


        コーヒー700円、イチゴのタルト700円 →



 コーヒーのあと、また先斗町へ取って返したので、これから帰るには遅すぎる時間になってしまいました。



【96】 明治村犬山城 桜2006                    2006.04.08


 インターネットで調べたら、明治村の桜が満開とある。天気も良いし、明治の桜を訪ねてみようと思って出かけてみた。


 森の小径から 聖ヨハネ教会堂を望む →

                 


← 逍遥の小径を
 抜けて2丁目へ

                               章くんは、明治村が好きである。近代国家日本形成の息吹が感じられ、人々の盛んな意気込みが息づいている明治という時代に触れながら歩くことができること、そして、立ち並ぶ建造物には、前時代的な雰囲気が色濃く残るこの時代のものとして、近代では不可能な丹精が込められているからである。
                  


          コスプレ(?)衣装をまとって記念写真 →


 こういうの 流行っているのだろうか。村内のあちらこちらで、
矢絣に紫袴や鹿鳴館ドレス姿で歩くご婦人たちを見かけた。





← 呉服座(くれはざ) 


 大阪府池田市にあった。ここでは地方巡業の歌舞伎や、壮士芝居、新派、落語などが演じられたほか、演説会も行われていたらしい。
                                                          
           










  明治時代の代表的な乗り物「乗合馬車」→
     馬の広場を2回まわって500円





 明治村で、章くんが好きな建造物ベスト5は、
@ 帝国ホテル、 東京都千代田区内幸町、 大正12年(1923)
A 聖ヨハネ教会堂 京都市河原町通五條、 明治40年(1907)
B 二重橋飾電燈、  東京都千代田区皇居内、 明治21年(1888)
C 森鴎外・夏目漱石住宅、 東京都文京区千駄木町、 明治20年(1887)頃
D 蒸気機関車(SL)、 北門「名古屋駅」と村の中央「東京駅」間を5分で結ぶ。
 帝国ホテルは明治の建築物ではないけれど、関東大震災にあっても窓ひとつ割れなかったというし、聖ヨハネ教会堂は封建時代の色濃い時代にあって、異国の文化に触れる扉であったように思う。明治の豊かさを象徴する二重橋飾電燈、文壇を代表する巨人たちの森鴎外・夏目漱石住宅、そして、黒い煙を吐いて文明開化を引っ張った蒸気機関車(SL)。みんな、力強く知的でオシャレな、明治という時代を背負う建造物である。



 午後3時過ぎ、明治村をあとにして、犬山城へ向かう。城郭としては、わが国で第1号の国宝指定を受けた、創建当時の姿を今に伝える城であり、桜の名所としても近隣にその名を知られている。

 
← 木曽川河畔より、城山を望む ↓

















 1617年(元和3年)尾張家の徳川義直の付家老であった成瀬家がこの城に入り、犬山はその城下町として発展した。木曽川に面する標高八十メートルの三方断崖の丘上に本丸を置き、南に杉の丸、縦の丸、梅の丸、松の丸と階段伏に郭が連なり、さらに三の丸と外方に惣構えをもつ、戦国様式である
 明治の廃藩置県により廃城となり、地震などによって荒れ果てたが、1895年(明治28年)、修復や保存などを条件に、旧犬山藩主成瀬正肥(成瀬家九代)へ無償譲渡され、多くの犬山町民の浄財によって修復。だから、犬山城はわが国で唯一の個人所有の城である(近年、社団法人化されたとか)。

                        
          天守閣 →


← 城近くにある桃太郎神社                                                       



                               
 ↓ 城山山麓の山桜
                







 桃太郎伝説を今に伝える「桃太郎神社」の境内には、桃型の鳥居がある。ここをくぐれば、悪は去る(猿)、病いは去ぬ(犬)、災いは来じ(雉)という神秘の力があるとか。










 夜桜は、名古屋城へ…。

 では、名古屋城の成り立ちを一席…!
 名古屋城の前身は那古野城…。この城の築城は大永元年(1521)頃、築城者は駿河の今川氏親(義元の父)である。この頃の今川氏は、三河・遠江も抑えて強大な勢力を有し、尾張にも度々侵入している。那古野城は尾張進出の前衛拠点として築かれた。





  氏親は、一族の氏豊をこの城に入れて城主とする。だが氏豊は戦いに弱く、天文元年(1532)、当時台頭してきた織田信秀によって城を奪われてしまう。
 信秀は天文3年(1534)5月、信長が生まれると、赤ん坊の吉法師(信長)を那古野城主とし、自身は古渡城(中区)を築いてそこへうつってしまった。信長は幼い頃から城主として、自由奔放に育った。信虎が没すると、弘治元年(1555)、信長は清洲城に移り、城は伯父の織田信光となったが、まもなく廃城となる。


 時が移って慶長15年(1610)、大阪城攻略への一石として徳川家康は、尾張の地に大規模な城を造ることを決めた。築城にあたっては、従来の清洲城では規模が小さく、水害の恐れがあったので、那古野の地が選ばれ、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、黒田長政、蜂須賀至鎮、鍋島勝茂、浅野幸長、毛利秀就など、北陸、四国、中国、九州の諸大名…豊臣恩顧の諸藩に命じて築城をさせた。
 完成した城は家康の九男義直に与えられ、義直は尾張徳川家の祖となったのである。


 明治維新のあと、名古屋城は国宝に指定されるが、戦災で焼け、昭和34年に鉄筋コンクリート製の天守が再興された。



 夜になっても、暖かい日であった。栄へ出て、何か食べよう。



【95】 京都の桜 2006                      2006.04.06〜07


 章くんは、友人たちから、年に20日しか働かない男と言われている。その20日間が今、3月末から4月中旬である。
 しかし、桜も今…。どちらを取るかといわれれば、モチロン桜!
 と、いうことで、仕事は全て他の人に任せて、6日(木)・7日(金)と、京都へ行ってきました。両日とも、快晴無風、暖かくて、絶好の花見日和でありました。


醍醐寺  今年の花見も、醍醐寺から…。

醍醐寺 三宝院の枝垂桜 三宝院の枝垂れ桜 A
  ↑ 醍醐寺 三宝院の枝垂桜 正面    ↑ 三宝院の枝垂桜 横から 
宝蔵院奥庭の枝垂れ桜 宝蔵院前の桜のトンネル
  ↑ 宝蔵院前の桜のトンネル
  ↑ 宝蔵院奥庭の枝垂れ桜
宝蔵院の染井吉野 国宝 五重塔
   ↑ 国宝  五重塔
 奥にはさほどの桜の木がないので、もう何年も仁王門から中へ進んだことがなかったのですが、先日ある雑誌で見た、枝垂れ桜越しの五重塔の姿が美しくて、今年は奥へと足を運んでみました。
 でも、五重塔に重なる枝垂れ桜はどこにも見当たらず、あの写真の風景に出会うことはできませんでした。
 久し振りに、金堂に鎮座まします薬師如来などの御仏に、ご挨拶してきました。
    ↑ 宝蔵院の染井吉野
花の仁王門
  ↑ 花に煙る 仁王門


高台寺   これまで何度か、春の高台寺を訪れていますが、前庭の枝垂れ桜の花をつけて
     いる姿に出会ったことがありません。それがナント、この日は満開…。
     今年は、いいことがあるような予感です。










 ↑ 高台寺鐘楼から 京都盆地が一望されます。
   京都タワーが見えます  






鴨川河畔   鴨川河畔の桜並木も、こぼれるばかりの花をつけていました。
       三条大橋から五条の下まで、ゆっくりと歩いてみました。
  ↑ 鴨川河畔三条〜四条 川下向き   ↑ 河畔でくつろぐ高校生
  ↑ 出雲の阿国
 ↑ 鴨川河畔三条〜四条 川上向き


祇園白川   白川が鴨川に合流するあたり、新祇園の桜並木界隈には、お茶屋や料理屋が
      軒を並べ、花街の華やかな風情が漂います。

  




円山公園   円山公園の枝垂れ桜は、相変わらずの妖艶さ…。
       この桜を見ないと、春が始まりません。

 ↑見上げれば珠のような花
 その下にはこぽれるような
 笑顔         ↓

 清水へ 祇園をよぎる 桜月夜
       今宵 あうひと みな美しき



 来週は、嵐山近辺の桜を訪ねてみよう。
 お天気でありますように…。




【94】 京都「花灯路」2006                    2006.03.15〜18
露地行灯に浮かぶ三年坂

 桜の季節を控えて、人枯れのこの時季、春浅い京都に観光客を呼ぼうという「京都 花灯路」。もうすっかり早春の古都の年中行事として定着した感のある東山の夜歩きに、今年も出かけてきた。
 


      露地行灯の光に浮かぶ 産寧坂 →




 午後4時、今日からお世話になる京都駅前のホテル「グランビア京都」に荷物を置き、館内のおばんさい料理「万彩」で、お腹を整える。
大雲寺の鐘楼 基本のセット(一汁ニ菜)に10品目ほどのおばんさいから3品を選んで添えてもらうのだ。まず、かやくご飯が出され、お替り自由の2杯目はジャコ飯が出てくる。
 別にカツオの造りとデザートにメロンとイチゴを頼んで4300円は値打ちだ。




← ねねの道の途中、大雲寺の大鐘楼






 午後6時30分、あたりもようやく暮れ始め、清水寺から散策開始…。寺の中は、毎年何度も拝観しているし、ライトアップも初年度から去年、それに秋の紅葉のときの夜間公開の際にも訪れたので、今回は省略させてもらって、坂を下る。大活け花

 暖かな今夜は、たくさんの人出だ。女の人の和服姿が目立つ。妙齢のご婦人方のしっとりとした落ち着きはもちろん、若い女の子の着物姿も情緒深くて、古都の宵の風景に良く似合う。


   道の途中に置かれている 大きな活け花 →
     道中の10数箇所に活けられている。



 高台寺も同様に境内へは入らず、寺の下の広場の特設舞台で開催されていたイベントをのぞいてみた。今夜の催し物は「琴と尺八の合奏」、しばらくお付き合いして、その下の圓徳院へ入ってみた。小堀遠州の傑作、巨岩大石の「北庭」のライトアップを期待して行ったのだが、夜のライトの中に浮かぶ規模では、安土桃山庭園の雄大さを映し出すことはできない。

露地行灯の日に浮かぶねねの道
 圓徳院の門前を南北に延びる「ねねの道」を、北へたどる。規則正しく敷き詰められた御影石が、露地行灯の灯りに浮かび、行く手を誘う。
 上手から、にぎやかな一団が現れた。人波のまん中に一台の人力車が引かれていて、白無垢に角隠しをかぶった花嫁が乗っている。よく見ると、その顔には狐の面…、狐の嫁入りだ。


   圓徳院前の ねねの道、
       法観寺の五重塔(八坂の塔)が見える →

出番を待つ円山公園の枝垂れ桜



 円山公園の枝垂れ桜は、すでに春の準備を終えて、出番を待っているあでやかさであった。そうか、もう10日もすれば桜の季節…、また京都へ来なくてはならないのだ。



← 出番を待つ 丸山の枝垂れ桜

円山公園のせせらぎに活けられた、ろうそくを点した竹筒











   円山公園のせせらぎの中に揺れる灯り →
     流れの中に立てられた竹筒に 
     ろうそくが点されている。






 円山公園を抜けると、法然上人ゆかりの念仏草知恩院山門堂「知恩院」だ。この寺は後世、江戸幕府の帰依を受けて、七堂伽藍が築かれ、今に残る大寺院になった。
 わが国最大の木造楼門である「知恩院三門」の威容が、ライトアップに浮かぶ。山門といわず、三門と称するのは、空・無相・無願の三つの解脱の境地を表わす門であるからとか。


   ライトアップに浮かぶ
          知恩院山門の威容 →




 知恩院の七不思議をご存知だろうか。板張りを踏んで歩くと「ホー(法)キケョー(聞けよ)」と廊下が鳴るという「鴬張りの廊下」。小学校の修学旅行でその廊下を歩き、「ホンマや、鳴る鳴る」と思った記憶も、もう45年ほど昔のことだ。
 知恩院の七不思議はこのページへ→「http://www.chion-in.or.jp/7hushigi/index.html

青蓮院山門前の大楠
 青蓮院門跡の門前にある、大楠は幹周り5mを悠に越えようかという太さで、そこから伸びる枝葉は前の道を行く人たちの頭上を覆っている。いずれも大木である5本の木は、親鸞聖人のお手植だとか。
 青蓮院門跡のご本尊は、熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。読んで字のごとく、光そのものの仏様なのである。
 前庭は、暗闇の中に青い光が明滅し、そのあとには仏を象徴する梵字が浮かび上がる。「ボロン」と読んで礼拝すると、ご利益があると書かれていた。
 

 東山の峰の上に大きな丸い月が出た。今夜は満月だろうか。煌々と万象を照らす天上の月…、この月が、今度、満月になる頃には、京都は花の季節を迎えていることだろう。
東寺の阿弥陀如来

 明日から3日間、会議が続く。合い間を見て、何十年振りかの「広隆寺 弥勒菩薩」に会いに行こう。


 翌日は雨…。会議を終えて
  夕方から出かけた
   東寺の阿弥陀如来 →
 ← 雨に煙る
     東寺 五重塔



   その翌日は、少し風が強くて寒い日だったけれど
   良い天気。午前中 空いていたので、北野神社へ。

   梅林はちょうど満開だった。
北野天満宮










 土曜日、午前中に広隆寺へ。昼から会議で3時30分に終了。友人がお茶を飲みに来いというので、夕方から大原の古い料亭へ出かけた。
 お茶を飲む作法ぐらいは一通り知っている積もりで気軽に出かけたのだが、「夜咄」とかいう、本格的な茶事…。
 夕暮れから始めて、夜長、ゆっくりとお茶を楽しむ催しとかで、薄暗い茶室で入れ替わり立ち代り様々にお茶が点てられていく。
 食事になって、「飯・汁・飯・菜…」などと、順番が決まっているのには恐れ入った。お許しを願って、ひたすら美味しくいただいてきたが、それを別にすれば、久しぶりの形式美の彼方に広がる深奥の世界にひたらせてもらった。
 今度は、食べる順番を調べていくぞ。ン、こんな無作法な輩は、もう二度とお呼びはないって?




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