【109】京都の秋 2006 その2                      2006.12.05


  - 大河内山荘・常寂光寺・トロッコ列車・ニ尊院・祇王寺・滝口寺・清涼寺・宝筐院-


 午前9時、嵐山の市営駐車場に着いた。すでにたくさんの車でごった返しているかと思いきや、予想に反してこの時間に駐車場に入っている車は10数台ほど…。先日の土曜日の混雑がウソのようである。
 今日のメンバーは、お馴染みヤスエとその娘の沙也加、そしてその友人の鎮西清和(きよか)ちゃんの4人である。
 鎮西という名前を聞いて、章くん、「鎮西八郎為朝の子孫?」と冗談交じりに聞いたら、「ハイ、そうです」と言う。「我が家には清和天皇以来の家計図があって…」と言うから、ホンモノのやんごとないお姫様である。
 日本人なんて、徳川家でも家康から10代もさかのぼれば、観阿弥という諸国を流浪する芸妓人であったという程度で、下々のものでは家柄や育ちなど自称以外のナニモノでもない。しかし鎮西さんは、皇室縁りの名家である。


 そのおひい様に、「そこ、左や…左…」などと、世が世ならば刀の錆となるであろう無礼な口を利きながら、嵐山・嵯峨野散策の第一歩が始まった。
 まずは、天竜寺横の竹林を抜けて、往年の名優、大河内伝次郎が30年の歳月をかけて造った別荘「
大河内山荘」へと向かう。


← 大河内山荘から 嵐山の大悲閣を望む


   大河内山荘から 東山遠望。京都の町並みの
   向こうに 比叡山の山頂が見える ↓
 保津川を見下ろす、洛西の小倉山に、大河内伝次郎34歳から30年間をかけて造営した6000坪の大庭園…。

 「僕も東映に入っていれば、これぐらいの別荘を持てたけれど、プロゴルフアーになろうかと思ったものだから…」と言う章くんの与太話に、「まだまたこれからですわ」と、おひい様はどこまでもお優しい。

 

 大河内山荘のあとは、嵐山駅から
トロッコ列車
乗って保津川渓流沿いの紅葉見物…。片道20分の列車で往復した。


← トロッコ列車。1時間に1本の運行。


 保津川を下る屋形船。トロッコ列車で亀岡へ行き、
この船に乗って下ってくると、3時間かかると聞い
て、今日のところは断念           ↓





 旧JR山陰線の線路をそのまま利用している嵯峨野~亀岡間の20分は、山の紅葉と保津川の渓谷美とを味わうことが出来る。列車は、途中の絶景ポイントで停車してくれるサービス付き。車掌さんの生オケ(往きは『北の宿から』、帰りは唱歌『もみじ』を熱唱してくれたが)は過剰サービス…。お聞き苦しいものを、おひい様のお耳に入れてしまった。
 今、横を走るJR線は、同じ区間を(半分はトンネルだけれど)3分で走る。

 



 トロッコを降りて徒歩5分…、慶長元(1596)年日蓮宗大本山本圀寺16世の日禎上人が隠棲した庵「
常寂光寺」がある。


← 茅葺きの仁王門。
   左 沙也加、右 清和おひい様


         









   
              
            
↓ 常寂光寺 境内 →








 日禎上人に、この小倉山の土地を寄進したのは、保津川の開削で有名な豪商角倉了以である。寺の堂宇が整備されたのは元和年間(1615~1625)。重文の多宝塔は元和6(1620)年に建立された。
 この多宝塔、さらに裏手の山に登り、上から見ると紅葉の海に浮かぶ様が格別に美しい。

  

 
  ↑ ニ尊院の中庭 ↓

 仏がお住まいの浄土のような美しい光射す地…寂光浄土をあとにして
、向井去来の庵「
落柿舎」を過ぎ10分ほど歩くと、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来のニ尊をお祀りする「ニ尊院」に着く。


 
中門前のモミジ ↓  フォトコンテスト応募「二人旅」  









































 
祇王寺へ向かう小道の途中のお休み処で、「にしんそば」を食べた。おひい様にも「山菜そば」をお召し上がりいただいた。


 『入道相国、一天四海を、たなごころににぎり給ひしあいだ、世のそしりをも はばからず、人の嘲をもかへりみず、不思議の事をのみし給へり。たとへば其頃、都に聞こえたる白拍子の上手、祇王、祇女とておとといあり。… (平家物語 巻一 祇王)』

 時の権力者、平清盛に見出された祇王は、また仏御前に心を移した清盛によって捨てられる。21歳の若さで尼となった祇王が、母、妹と3人で身を隠した庵が、この地であった。


『 かくて春過ぎ夏たけぬ。秋の初風吹きぬれば、星合ひの空をながめつつ、天の戸わたる梶の葉に、思ふこと書くころなれや。夕日の影の西の山の端に隠るるを見ても、日の入りたまふ所は、西方浄土にてあんなり、いつかわれらもかしこに生まれて、ものも思はで過ぐさんずらんと、かかるにつけても、過ぎにしかたの憂きことども思ひ続けて、ただ尽きせぬものは涙なり。(同) 』


      
↑ 経を読み、四季を愛でて 祇王が過ごした庵 →


 やがて仏御前も世の無常を感じ,尼の姿となってこの寺を訪れる。4人は、朝夕、仏前に花と香を供えて読経の毎日を過ごし、往生の素懐を遂げたということである。
 小さな庵内の仏壇には,大日如来を中心に祇王・仏御前・母刀自と妹祇女の4人の女性、それに平清盛の木像が祀られている。


   

 その隣り、石段を10段ほど登ると、やはり平家物語に描かれる「滝口入道と横笛」ゆかりの寺、「
滝口寺」がひっそりと佇んでいる。

          
滝口寺の階段 →


← 滝口入道と横笛の像を安置する
  小さな本堂


 『斉藤滝口時頼はその素養を見込まれて、平家の一門に入る予定の若武者であった。しかし、白拍子の横笛の舞を見たことがきっかけで、彼女と相思相愛となる。もとより、親は許すはずもなく激怒…。時頼は出家して「滝口入道」と名乗り寺に入山する。
 
横笛は、入道の所在を聞いて訪ねて来たものの、滝口は「私は出家した身、そなたのことは知らぬ」と居留守を使い追い返してしまう。世をはかなんだ彼女は、出家して法華寺の尼になったとも、大堰川に身を投げたとも伝えられている。滝口入道は、のち高野山に移って高僧となった。』
 

 

 滝口寺から10分、「嵯峨釈迦堂」(さがしゃかどう)の呼称で人々に親しまれている
清涼寺へ…。
 
毎年3月15日夜には、豊作を祈願して参道や境内にたくさんのお店が並び、人々が集うなか、「お松明」とよばれる火祭りが行われる。昼間は、嵯峨大念仏狂言が境内の舞台で催され、夕闇が迫るころ、朗々と続く続経のなかで、三基の大松明に火が点けられて、春浅い空の闇に炎と火の粉が舞い上がる。
 
        
  
  ↑ 本堂(釈迦堂、元禄14年(1701)再建)、
      安置されている釈迦如来像は国宝



← 堂々たる仁王門。
 1776年再建。金剛力士像 は室町後期のもの。



       




 境内の甘味処「大文字屋」で嵯峨野名物「あぶり餅」を食べて休憩。この餅、食べることで病気・厄除けの御利益があるとされている。


           
清涼寺の外塀にかかるモミジ →


 お餅を食べて元気になったところで、西隣の「
宝筐院(ほうきょういん)」へ…。

    

















































 宝筐院は、善入山と号する臨済宗の寺。平安時代に白河天皇により創建され、室町幕府二代将軍足利義詮によって伽藍が復興された。足利氏歴代の崇敬を得て栄えたが、室町幕府の衰亡と共に寺も衰微した。
 現在の堂宇は、明治時代以降に再興されたもので、本堂には、十一面千手観世音菩薩を安置している。
 境内には、貞和4(1348)年、四条畷の合戦で戦死した楠木正行(まさつら)(正成の子)の首塚と伝えられる五輪石塔と、義詮の墓と伝えられる三層石塔がある。南北朝時代のライバルがともに眠っているところは、時の氏神のなせる業を感じて面白い。




 
↑ 境内は 赤・黄・緑の錦絵。


  文字通り、紅葉のトンネルだ →


  















   

 市内へ戻った頃には、辺りにはすっかり夕闇が迫っていた。
 12月も10日近くなって、町はクリスマス・イルミネーションが溢れていた。




         
ホテル・オークラ京都のイルミネーション →


 今年も、あと20日余りである。「今日の反省会を兼ねて、忘年会をしないといけないですわね」と、おひい様、章くんに一日付き合って、かなり下々のペースになってきた。




【108】京都の秋 2006 その1  三千院・曼殊院・詩仙堂・圓光寺、圓徳院  2006.12.02


 イスラエルの24才「ヨニィ」くんを案内して、京都の秋を訪ねた。ヤスエと滋子さんという、2005年版ハワイ旅行の面々がご一緒である。


  ヨニィくん。これで24才、おっさんみたいだけれど、話してみる
 と、とても真面目でかわいい。日本へ来て2年、日常の日本語はペラ
 ペラ、日本文化大好きで、何にでも興味を示す好漢だ。     →

  

 


 ヨニィはふらりと日本にやって来て、今はある団体で英語の指導をしている。ヘブライ語のイスラエル人なのに、何ンで英語が得意なのかというと、お母さんがアメリカ育ちなのである。ユダヤの人たちは、ホントにインターナショナルである。


← 三千院宸殿の縁先から見た中庭


 天台宗五箇室門跡のひとつ三千院は、天台開祖の最澄が比叡山内に修行のための庵を結んだのが、その発祥である。以来、戦火や天災を避けて滋賀県の坂本など様々な場所を転々としたが、応仁の乱のころ現在の地に移された。梶井門跡などと呼ばれて大原の寺院を管理統括してきたが、明治4年、三千院の名称が定められた。


 
                 往生極楽院 →


 往生極楽院は、平安時代の寛和2(986)年、恵心僧都が父母の菩提を弔うために建立したと伝えられる。もともと天台声明(仏教音楽)の修行の地であった、ここ大原の御堂であったが、三千院が敷地を広げていく中で、その境内に位置することとなった。


 間口三間、奥行き四間の小さなお堂に祀られた阿弥陀三尊のお姿は極楽浄土の神々しさに包まれている。船底天井は、かつては極彩色の天上世界が描かれていたのだけれど、長年の間にチリやススがついて真っ黒け…。近年。紫外線スコープなどを駆使して原図を調べ、再現したものを別館に展示している。


     往生極楽院の船底天井の絵の復元画 →





  


 八瀬大原は洛北の地だから、京都の市内よりも冷え込みは厳しく、三千院の紅葉もすでに終盤…。それでも、シーズン最後の土曜日のこの日は、たいへんな人出であった。
 人ごみの中でも、ヨニィの好奇心は怯むことなく、ご本尊薬師如来(秘仏)をはじめ不動明王像や下村観山・鈴木松年らの襖絵、江戸初期の茶人金森宗和作の庭園など、目にするもの全てに興味を示して、片っ端からカメラのシャッターを切り、足が前に進まない。彼は、日本文化大好きイスラエル人なのである。

 ↑ 三千院境内の歩経路

             


     
三千院から下る道の途中に 傘屋さんがあった →

      
  
← 玉泉院の五葉松


 植木屋さんが手入れしていた。葉の間から、ひょこ…ひょこ…と顔を出す。その数、6人。




                   





← 額縁庭園 →




← 五葉松の根っこの部分を額縁で見たところ




 大原をあとにして、一乗下がり松の曼殊院へ…。
  

 
曼殊院は伝教大師(最澄)の創建で、もとは比叡山の西塔北谷にあって東尾坊と称した。平安時代に曼殊院と改め、江戸時代の明暦2(1656)年に現在地に再興された。
 今の曼殊院は桂離宮を造営した智仁天皇の子、良尚親王が造営したもので、桂離宮の美意識が息づく江戸時代初期の代表的な書院建築といわれている。


  
 白壁とモミジの紅の対比が美しい →







 横手にある
弁天茶屋でお昼を食べるつもりが、昼時なので1時間以上の待ちとのこと。予約表に名前を書いておいて、曼殊院の拝観へと向かった。

  








            
曼殊院の庭園 →


 庭園は、大書院を舟、白砂を水の流れに見たて、静かに水面をさかのぼる大舟を表現している。鶴をかたどった五葉の松、霧島のツツジや、さらには常緑の杉と色を変える楓たちが建物と調和して、四季おりおりにさまざまな趣を見せる。
 庭に置かれた「梟の手水鉢」は、中秋の名月の頃の月光を反射して、書院の欄間の月の字くずし・卍くずし・菊花紋といった文様を奥の壁に映したり、天井に第二の着きを宿らすという趣きがあるそうな。
 禅のこころと王朝風の趣向を融合させた枯山水の庭の見事さは、四季それぞれの味わいで定評のあるところだが、この時期の紅葉はまた格別の景観であった。


 1時間ほど寺内をめぐったのち弁天茶屋へ行ってみると、まだ7~8組の待ちであった。なお30分近く待って、やっと「ニシンそば」にありついた。ヨニィは「山菜そば」…、章くん以上に日本的なイスラエル人である。


 次の詩仙堂へは歩いていけばよかったのだが、車で向かったので、駐車場を探すのに戸惑った。とにかく近くまで行ってみようと、住宅地の中の細い道を上っていくと、山門の真ん前の駐車場が空いていた。


             
↓ 詩仙堂の庭園 →

















 詩仙堂(しせんどう)は、京都市左京区にある史跡。徳川家の家臣であった石川丈山が隠居のため造営した山荘である。


 現在は曹洞宗永平寺派の寺でもあり丈山寺というのが正式な呼称だ。詩仙堂という名前の由来は、房内にある中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間にちなんだもの。詩仙は日本の三十六歌仙にならい、林羅山の意見を求めながら漢晋唐宋の各時代から選んだとか。肖像は狩野探幽によって描かれ、詩仙の間の四方の壁に掲げられている。

 詩仙堂は、もとは凹凸窠(おうとつか)という。凹凸窠とはでこぼこの土地に建てられた住居の意味であり、この房の建物や庭園は山の斜面に沿って作られている。 丈山は、詩仙の間を含め建物や庭の10個の要素を凹凸窠十境と見立てた。
 庭園造りの名手でもある丈山自身により設計された庭は四季折々に楽しむことができ京都の紅葉 2005るが、特に春(5月下旬)のサツキとともに、秋 11月下旬のこの時期は紅葉を訪ねる観光客で賑わう。鹿や猪の進入を防ぐという実用性とともに静寂な庭のアクセントになっていて、ししおどしとして知られる仕掛け「添水(そうず)」が、この日も典雅な音を響かせていた。
 造営は寛永18年(1641年)丈山59才の時に行われ、彼は90才で没するまで、ここで清貧を旨とし、聖賢の教えを実として、風雅の道を楽しんだという。
 清貧…? これだけの大庭園を造って、なお清貧と言うのだろうか。


  
 詩仙堂から徒歩3分…、
圓光寺は江戸時代、圓光寺版という刷り物が見られるほど学問の盛んな寺であったことはよく知られているが、寺が一般公開されたのは最近のことである。
 寺内には、牛飼いが牛を見つけて飼い慣らすが、最後にはまた野に放つという一生を、10枚の絵に描いて悟りを教える「十牛の図」が掲げられている。十頭の牛を表す、十個の庭石が置かれている「十牛の庭」は有名で、この日も散り残ったモミジが秋の日差しを浴びて輝いていた。


← 庫裏の前の大カエデはすっかり葉を落としていたが、
  十牛の庭の紅葉は いまだ艶やかであった。 ↓

      











































  

 高台寺のライトアップへ向かおうと東大路を南へ下ったのだが、渋滞で車はほとんど動かない。宮川町あたりで駐車場を見つけようと町中へ…。前を通った南座の今年の顔見世興行は勘三郎の襲名公演で、まねきが掲げられていた。


← 南座顔見世のまねき
   

 今では東山の観光スポットとなった「高台寺」も、長い間一般公開はされていなかった寺である。僕たちが子どものころは、京都の人さえもその名を知らなかったという寺であるが、近年の売り出しぶりは目を見張るよう。
 この夜も、夜間拝観に集まった人は、高台寺の山門から駐車場を蛇行し、階段を降りて、下の一般道まで続くという、たいへんな人出である。
 高台寺へ入ることを諦めた僕たちは、ライトアップの妙をヨニィに見せてやりたいと、圓徳院に向かった。こちらは予想外に並ぶこともなく拝観でき、ライトに浮かぶ紅葉の美に、ヨニィも満足気であった


        
圓徳院 北庭のライトアップ →

  






← 圓徳院内に展示されていた ねねの内掛け


 慶長8(1603)年、北政所ねねは後陽成天皇より「高台院」の号を勅賜され、寺院の建立を発願、その名も号にちなんで高台寺と決められた。
 慶長10年、徳川家康の援助を得て着工、翌11年に落慶、ねねは76歳で没するまでの18年間をここで暮らした。
 円徳院は、ねねの弟、木下家定の居館で、北政所の警護のための武家屋敷であった。今日でも長屋門が当時の趣を残している。後に家定の次男利房が自らの号をとって寺院としたものである。

   



 圓徳院境内にある
 京・洛市「ねね」の店々 →





 京・洛市「ねね」は、圓徳院境内、清水寺から祇園円山公園まで東山の歴史と文化の道を南北に石畳で結ぶ「ねねの道」から、土塀をくぐって、ねねの小径(こみち)の「あられこぼし」の路地を回遊していく一角にある。ショッピングと喫茶・食事、散策を楽しめるホットゾーンでである。


 ヨニィは、日本に住んで大学へ通うことが出来る奨学金を受けるための勉強をしている。来年4月にイスラエルに帰って、その試験を受けるのだと言っている。
 見事にクリアしてまた日本に戻ってくるよう、僕も日本についての理解の一助になればと、「一宿一飯」を教えておいた。「懇切丁寧に京都を案内してもらった恩義には、命を賭けて報いなければならない」と…。


       京・洛市「ねね」の一角にある
             湯葉料理「羽柴」にて  →






【107】 ミズノ・クラッシック in 伊勢志摩               2006.11.03


 「古閑美保の応援に行った」と言うべきか。そうでなければ、昨日は睡眠3時間で上高地往復
500余Kmを走り、帰宅は午前0時…。2時過ぎに寝て、今朝は5時半起床…、仕事だったら絶
対に起きない。「美保ちゃんのためなら…」である。

                  
  8時に賢島CCへ着いて練習風景を見に行ったら、
 ドライビングレンジでいきなり美保ちゃんが打ってい
 るのに出くわした。そのあと、バンカー、アプローチ
 の練習へ移動するのについて歩いた。


← バンカー、アプローチの
 練習風景


     
  いよいよスタート ↓













 5番まで、古閑美保諸見里しのぶベッキー・モーガンの組について歩いた。ここまで、
美保ちゃん±0、諸見里±0、モーガン+1。
 5番のグリーンで、後続の「横峰さくら、ダイアナ・ダレシオ、ローラ・デービス」「宮里藍、金 英、カリー・ウエブ」「アニカ・ソレンスタム、大山志保、ナンシー・スクランプトン」の組を見ながら待機し、隣りの7番に美保ちゃんの組が来たので、また9番までついて歩いた。美保ちゃん、諸見里、ともに7番のパー5でバーディを取り―1、モーガン+2。


  8番パー3、諸見里のティショットはピン1.5mについた。
   グリーンにあがってくる諸見里に、観衆の拍手と
   「ナイスショット」の掛け声。
   諸見里は、きちんと会釈をして、「ありがとうございます」と
   答えていた。
   これからは、彼女の応援もすることにしよう。





 インへターンしていく美保ちゃんの組を見送りながら、途中の16番ティグラウンドで金美賢を待って、1ホール一緒に歩いた。
 金美賢は、一昨年の日韓ゴルフのとき、そのプレーを見て目を見張った選手だ。157cmという公称よりも、なお小さいのではないかというほど小柄であるが、左手を深くかぶせたグリップ、芝生をパッと飛ばして打つ正確なダウンブローなど、印象に残った選手であった。
 彼女は今年、米国女子ツアーで2勝し、1,308,616㌦を獲得して賞金ランキング第5位に居る。


← 16番 セカンドを打ち終えた金美賢、
 非距離のない彼女は、いつもセカンドオナーだ。



 16番の隣の13番グリーンに、上田桃子が上がってきた。僕としては、彼女も「桃尻桃子の待ってろ世界」と題するHPなどを読んで、応援している選手だ。昨日の第2日目に―8を記録して、単独トップに躍り出たのには驚いた。


  がに股を写して、桃ちゃん ゴメンね ↓




















 その2組あとが、古閑美保たちのパーティ。セカンドをややショートして、エッジからのアプローチだ。
← 13番、美保ちゃんのアプローチ。インパクトで、
  カチッと音が出る。

       
← ここへつきました。
 ちゃんと、足を伸ばしてマークし
 ています、若いですね。



 この組についているスコアボードを見ると、古閑美保+1とある。
 ちょっと目を離していたら、いつの間にか2つもボギーを叩いている。




 そのまま13番グリーンの横に座り、後続の組を見ながら、隣りの16番へ美保ちゃんたちが折り返して来るのを待った。


          2組後ろの 宮里 藍たち →



 16番に美保ちゃんたちが現れた。





← 16番フェアウエイ
   モーガンのセカンドを待つ 美保ちゃん

               









        
            2オン2パットのパー →


 16番で、美保ちゃんの組について歩いている、清元澄子元女子プロゴルフ会長の姿を見つけた。清元元会長は、不動裕里・大山志保・古閑美保たち、九州勢の師匠だ。

16番グリーンにて
う~んと ラインを読んで
一生懸命打ったけれど、外れたわ。
単なる、パーだわ!

 ラウンド中、盛んに腰の屈伸運動をしている美保ちゃんの様子を見て、章くん、「美保ちゃんは腰が悪いのですか」と聞いてみた。
 清元さんは、「いえ、どこも悪くはないですよ。からだが心配なのは、内臓が弱い大山志保のほうです。古閑美保は体はどこも悪くない…、悪いのは、頭だけですよ」と笑った。(この話、僕のデッチ上げじゃないよ。美保ちゃん、怪しいと思ったら、清本さんに確かめてみて…。)
 「でも、二人とも調子がいいのは、指導が良いからでしょう」と水を向けると、ハハハーッと相好を崩した。見るからに無愛想なオバサンといった様相だが(失礼)話してみると気さくで、話も面白い元会長である。
 ちなみに、清本さんは1974年に35歳になってからプロ登録した大器晩成型。それから83年までの10年間、当時の女子プロ界は樋口久子現会長がダントツに強かった時代だけれど、8勝を挙げている。1976年には賞金ランキング3位になっているが、その獲得賞金は640万円。このミズノクラッシックの優勝賞金は18万ドル=約2120万円だから、隔世の感がある。




18番のフェアウエイ ↓ 








 美保ちゃん、17番まで1オーバー。18番のセカンドがグリーンに乗ったのを見届けてから、インの最後から2番目のスタートだから、今頃はアウトの7番あたりに来ているであろう金美賢を見に行ったのだが、全てが終わってからスコアーボードを見たら、+2となっているではないか。18番グリーンで、何が起こったんだ。
                            

 9番のティグラウンドへ向かう
  金美賢ちゃんのパーティ
  左は 張 晶。     →



 二人を比べて見ても、金美賢ちゃんがいかに小柄かが解るだろう。アメリカの選手と比べたら、肩までしかない。

               















← 390Yパー4の9番。彼女はセカンドにウッドを
 持った。そして、グリーン右へ見事に乗せた。


 金美賢、この日 ―2で20位タイ。


 こうして、この日の戦いは終了。快晴微風の恵まれた条件下で、7アンダーの単独トップに躍り出たのはレーチェル・ヘザリントン(オーストラリア)。4アンダーの2位タイに、フリエタ・グラナダ(パラグアイ)、ブリタニー・ラング(アメリカ)、川崎充津子、北田瑠衣の4人が続き、3アンダーの6位タイグループにはカリー・ウェブ(オーストラリア)、宮里 藍、横峯さくら、福嶋晃子ら14人がひしめく混戦。
 諸見里しのぶは2アンダーで20位タイ。大会6連覇を狙うアニカ・ソレンスタム(スウェーデン)は3バーディ、2ボギーの1アンダー、27位タイで初日を終えている。

       
 そして我らの古閑美保ちゃんはというと、この日1バーディ3ボギーの2オーバーで、出場76選手中60位タイ…。
 

 ← ということで、終わってから
  清本先生の特訓を受けている。



 … そして3日間の戦いを終え、美保ちゃんのトータルの成績は+6の70位で、ビリから7人目。う~ん、残念…! 頭を鍛えなおして、また 次の試合をがんばれ~!


追 記


 ナント2日目、今大会のベストスコア―8を叩き出だして、上田桃子が単独トップに躍り出た。
 最終成績は、優勝のカリー・ウエブ―14に対して、―7の9位タイで終わったけれど、世界のトッププロを相手に堂々の最終日最終組…しかも首位スタート。震えるような緊張感を覚えたことだろう。滅多にできないこの経験は、彼女の次なるステップへの大きな糧となるに違いない。


← 上田桃子 初日の18番グリーン


11/5 桃尻桃子のホームページより
 本日はたくさんのご声援、ありがとうございました。9位タイという結果に終わり、皆様のご期待に応えることはできませんでしたが、この悔しさをバネにまた一回り大きく成長することと思います。これからも、応援よろしくお願いします。
 また、本日22:00~フジテレビ放送 スタ☆メンにて、上田桃子の特集が急遽放送されることとなりました。3ヶ月前から密着していただき、急成長する上田桃子の等身大の姿が描かれているそうです。是非ご覧下さい。』
 ということで、今、見ていま~す。





【106】 晩秋の上高地  ― 惜秋の旅情漂う神垣内 ―           2006.11.02

   
 午前5時40分出発、生憎の曇り空だが、伊勢道から東名阪を抜け、東海北陸道を郡上八幡で降りて「せせらぎ街道」へ入ったのが8時、「明宝道の駅」でモーニングコーヒーを飲んだ。
 郡上八幡から西ウレ峠を越えて高山市に至るこの道は、今、紅葉の盛り…。道の両側の山肌は、赤・黄・黄金色の衣を纏っている。
  




← 「せせらぎ街道」、道の両側の紅葉 ↑

              
 10時30分、沢渡駐車場からタクシーで入った上高地は、紅葉の盛りを過ぎて、カラマツの落ち葉が地面を黄金色に染めていた。




 「河童橋」から 雲にかすむ奥穂高を望む →


 現在の河童橋は1997年に竣工した5代目、全長36.6m、幅3.6m。初代は明治の中頃に造られたハネ橋で、大正の中頃に架け替えられた2代目から吊り橋となった。
 芥川龍之介の「河童」は、この橋の周辺を舞台に書かれたとか…。


 梓川沿いの小道を歩いて、明神池を目指した。7年ぶりの上高地…、周りの山々も、瀬音を立てる清流も、梢の頂きの色づいた葉たちも、過ぎ去りし想い出を語りかける。




    「落葉松(からまつ)」 北原白秋


    一   からまつの林を過ぎて、
        からまつをしみじみと見き。
        からまつはさびしかりけり。
        たびゆくはさびしかりけり。



 ← 明神池へ向かう途中の小径。(実は、この日
  売店で買った絵葉書、10月中旬ごろとある)

  この日にはすでに、7割がた落葉していた。
                                      


 二 からまつの林を出でて、 からまつの林に入りぬ。
   からまつの林に入りて、 また細く道はつづけり。


 三 からまつの林の奥も、わが通る道はありけり。
   霧雨のかかる道なり、山風のかよふ道なり。





 河童橋から明神池までは3Km少々。ゆっくりと、いろいろな人たちに抜かれながら、1時間をかけて歩いた。


      明神池の手前で梓川を渡る。 「明神橋」 →

  

← 穂高神社奥宮。 恋人同士だろうか、若いカップルが
 おみくじを引いていた。



 明神池はこの穂高神社奥宮境内にあり、神域となっている。「かみこうち(現在の漢字表記は「上高地」だが、本来は「神垣内」)」の地名は、穂高神社とその祭神である穂高見命(ほたかみのみこと)の地であることに由来する。神社内の池なので拝観料500円がかかる。毎年10月8日に例大祭、御船神事が開催される。


 穂高神社の御神池 「明神池」 ↓                      





































                                  
                                 
                                            
 池はひょうたん型で一の池と二の池に分かれており、湖面へ映る木々が美しい。ひっそりと北アルプスの山ふところに潜む湖面は神秘的である。
 明神岳の土砂崩れで梓川支流の沢がふさがれてできたこの池は、かつては三の池もあったが、土砂災害により埋まってしまって、今は一の池・二の池が梓川へと流れ出す清らかな水をたたえている。


  四 からまつの林の道は、
    われのみか、ひともかよひぬ。
    ほそぼそと通ふ道なり。
    さびさびといそぐ道なり。
        
五  からまつの林を過ぎて、
   ゆゑしらず歩みひそめつ。
   からまつはさびしかりけり。
   からまつとささやきにけり。


六  からまつの林を出でて、
   浅間嶺にけぶり立つ見つ。
   浅間嶺にけぶり立つ見つ。
   からまつのまたそのうへに。

   


七  からまつの林の雨は、
   さびしけどいよよしづけし。
   かんこ鳥鳴けるのみなる。
   からまつの濡るるのみなる。



← 帰り道は往路の対岸、梓川の
 穂高岳側の岸辺をたどる。

                                     


               帰路、熊笹の上を渡る歩経路 →


 河童橋の上から振り返った「岳沢カール」↓















  八 世の中よ、
      あはれなりけり。
    常なれど
      うれしかりけり。
    山川に山がはの音、
    からまつに
      からまつのかぜ。



 帰りのタクシーに乗ったら、大粒の雨が降り出した。焼岳の噴煙も、濃い雲の中…。紅葉のシーズンには少し遅い訪問であったが、秋の盛りの華やかさもさることながら、往く秋を惜しむ風情の漂う上高地も、一味違う旅情が感じられて格別であった。
 あと1週間すると、ここに通じる唯一の車道が閉じられ、上高地は来春まで、雪の中の深い眠りに就く。

        
 帰りは松本に出て信州そばの店「榑木野(くれきの)」へ立ち寄った。この店のそばは、全て石臼挽き手打ち生そば…、石臼で挽かれて粉となった命はやがてそば職人の手の中で一つの意志を持つ魂となる。そして、常よりも細めに切り揃えられて、野に育つ蕎麦は、透明度、つや、そして歯ごたえにさえもこだわりを感じる料理へと昇化する。


← 「榑木野」お勧めの海老天ぷらざる蕎麦
   (店のパンフレットより)


 蕎麦は粉粒の大きさによって味が異なる。粒子の細かい粉で打った蕎麦は舌触りは滑らかだが、製粉時に蕎麦は本来持っている甘味や香りが飛んで、味わいには今ひとつ乏しいきらいがある。噛むことによってしみでてくる味わいは粒子の大きな粉で打った蕎麦の方が豊かだと思う。大きな粒子を噛み砕くことによって、粉粒の中に隠されていたそばの味わいがはじけ出て口中に広がるからだ。粒子の大きさは挽き方によって調整できる。
 「蕎麦は奥歯で噛め」と言われている。噛むことで本当の蕎麦の味がわかるという意味である。俗に云う”喉越しの美味”を堪能するのも蕎麦の味わい方には違いないのだろうが、これはいわば感触による美味であって、蕎麦の持ち味を知る食べ方ではない。そば屋で「もり蕎麦」を食べるとき、先ず麺の少量をつゆをつけずに口に運び、じっくり奥歯で噛んでみるとよい。。そこにしみでてくる味わいは、粉の質と粒子の大きさを物語っている。
 「新そばは…」と尋ねると「売り切れました」との答えに、章くんは暖かい「にしんそば」を頼んだ。少し濃いめのツユがニシンに滲みて、コリッとした歯ざわりとともに口の中に広がる。蕎麦は細身で歯切れが良いが、新そばの風味とコシには及ばない。


 中央道、東名、名古屋高速、東名阪、伊勢道と乗り継いで、午後11時45分に帰宅。明日はまた早朝に起きて、賢島CCへ、古閑美保ちゃん、上田桃子ちゃんの応援に行かねばならない。


     

【105】 東山動物園    2006.10.31


 今日も良い天気だ。15年ぶりぐらいの名古屋東山動物園、娘の美砂子と孫の寧音(ねいね、4歳)のお供である。
 表ゲート横の駐車場は満車。植物園横の駐車場へ車を置いて、動物園の裏門から入っていった。だから、入ったらすぐにコアラ館だ。




← 木の枝に挟まって身動きできないコアラ。
 「あれは挟まってるのじゃなくて、寝てるの」と
 寧音からご注意があった。


         





 
      キリン →


 高いところの木の葉を
 食べるのに、首が長く
 なったというが、サバ
 ンナでは地平線の彼方
 まで見通しが利くこと
 も、利点だろう。




 


← 森の住人 ローランドゴリラ


   
ゴリラが発見されたのは20世紀に
  入ってから。
   凶暴なイメージだが、菜食主義者。
   生息地である熱帯雨林の減少などに
  よって数を減らしており、絶滅が危惧
  されている。

                           



            ライオン →


  ライオンはアフリカに住むネコ科の
 動物。だから、ジャレ玉が吊ってある
 のだろうか。
          


                                        




       














← アフリカゾウ
  陸棲哺乳類では最大の
  大きさ。


    


 コビトカバは、1841年にリベリアで発見されたため、別名「リベリアカバ」とも呼ばれていて、カバよりも原始的な特徴を多く残し、カバ類の祖先の形態をほぼ受け継いでいるとか。
 成獣で体長1.8m、体重160kg~275kgと普通のカバの10分の1程度の大きさで、西アフリカに生息し、木の葉や草、果物などの植物を食べる。       →

  


← 脊索動物門ほ乳綱サル目ヒト科


  学名「ホモ・サピエンス」は「知恵のある人」の意味であり、古来より、万物の霊長で、ヒトは他の動物、さらには他の全ての生物から区別されるという考えがあるが、生物学的には特別な生物ではない。
 ここ動物園では、柵の向こうにいるかこちらに居るかの違いだけで、他の動物たちからいえば、ヒトを見ていることになる。


  
   金絲猴 →
 

 中国南西部(チベット)と北西部の極めて限られた高地に生息し、生息数が少なく絶滅危惧種に指定されている。孫悟空(そん・ごくう)の姿のモデルとか。
 エサを取り合う姿は、結構機敏で獰猛だ。

                   




← クロサイ


 鎧を纏った重戦士。クロサイの角は多くの国で富の象徴とされており、特にイエメンでは成人が身につけるべき装束である、ジャンビーヤという短剣の柄にされる。一般的な認識に反し、中国などで漢方薬(催淫剤など)として消費される量は少ないとか。




            インドゾウ →


 ゾウの牙は第2切歯が巨大化したもの。オスのアフリカゾウでは牙の長さが3.5mにまで達することもあるとか。
 アフリカゾウは体長6~7.5mであるのに対し、インドゾウは若干小さく体長5.5~6.4mであり、耳の形も、アフリカゾウの耳は大きく三角形、インドゾウの耳はやや小さく四角形だ。

   


← ツキノワグマ 


 歩き過ぎ…、少しもじっとしていない。木登りや泳ぎも得意だとか。
 今年は、山に木の実などの食べ物が少ないのか、人里に出没するものが多く、長野県では400件を越える目撃情報…、例年の2倍。

                              
  
             アシカ →


 小魚を入れたバケツから、客たちが手づかみでエサを与えるイベントがあった。
 孫の寧音は、金網の上へ手が届かないから、僕が中継してエサを投げ込む。水面へ達する前に、アシカたちは飛び上がって空中キャッチする。
 あとで、「寧音は届かなかったから、エサをやれなかったなぁ」と言ったら、「抱っこしたら良かったのと違う」と叱られた。やっばり、怒っていたのか。でも、僕の手は、エサの魚をわしづかみしていたので、べとべとして生臭かったのだけれど…、そんな言い訳には耳を貸してもらえそうになかった。


 このほか、シロクマ、シマウマ、ダチョウや、ワニやトカゲなどが飼育されている水族館も充実していて面白かったが、ピューマ、マントヒヒ、バッファロー、トラ、ペンギンなど、見逃したのだろうか、居なかった。
 展示の方法も、動物との距離が遠過ぎて、何か物足らない。もう少し、エキサイティングな展示方法を工夫しても良いのではないかと思った。
  

 午後4時、植物園へ…。もう日が翳ってきていて、人影もまばら。奥のほうのお花畑や竹林へは行けずに帰ってきた。


 栄へ戻って食事…。「今度は、いつ行く?」と言われたが、寧音は幼稚園児だから、今日も休ませて連れて行った。
 ズル休みの味を覚えて、「海外へも連れて行け」と言い出すのではないだろうか…。







【104】 錦秋の白山スーパー林道                   2006.10.30
                                  

 天気予報は、全国的に太陽の輝く晴れマーク。紅葉の白山スーパー林道は、まだ走りぬけたことがない。せっかくの晴天…、明日は名古屋だから、今日から出かけて、今夜は名古屋で泊ればよい。
 ということで、東海北陸道を走り白川を目指した。自動車道は途中一部が未完成なので、荘川ICから国道156号線を御母衣ダム沿いに走り、11時前に白川に着いた。


       途中の山々は 紅葉たけなわ →

    






←スーパー林道の馬狩料金ゲート(白川側)
 

        










   
     三方岩駐車場(1450m) →
      標高の高いこのあたりの紅葉は
      終わっていた。


   

 
 岐阜県側の三方岩駐車場や、石川県へ入ってすぐの栂の木台駐車場(1400m)付近の木々はすでに落葉していて、葉をつけていないものが多かったけれど、下るに従って紅葉が現れてきた。
 白山展望台(1350m)や国見山駐車場(1100m)では130%、さらに下がってふくべの大滝(900m)あたりに来ると、100%見ごろの紅葉が視界いっぱいに広がった。

                 






   ふくべの大滝。  晴天続きで
    ちょっと推量が少なくて残念 →




 白山スーパー林道は、森林開発公団が昭和42年から昭和50年に特定森林地域開発林道(スーパー林道)として開発したもの。のちに、岐阜県森林公社と石川県林業公社が整備し、昭和52年より一般に供用を開始した。

 やがて、ここ白山スーパー林道のメインイベント「姥が滝」に差しかかる。標高770mの滝の一帯は、紅葉真っ盛りだ。


     スーパー林道から 滝が見える ↓











  蛇谷園駐車場へ車を置いて、
     急な階段を谷底へ ↓








  10分ほどかかって谷底へ…。途中に休憩場があるほどの下りで、帰りのことを考えるとちょっと恐ろしい。何も考えないことにして谷底へ降り、川べりの小道をしばらく行くと、滝音が聞こえてきた。程なく、見事な滝が現れた。 


 滝の足元には温泉が湧き出していて、滝を正面に見る絶景の無料露天風呂となっている。
 ただ、脱衣場も何もないから、入るつもりのものは大きなバスタオルなどの用具を持参しなければならない。
 風呂場のそばの休憩所に女性用トイレがあるので、女性はそこで着替えるしかないだろう。
 章くん、タオルもパンツの替えも持参せず、温泉好きの身には、至極残念なことであった。













 
 ← 石川県側の料金所「中宮ゲート」まで、
  さらに紅葉の絶景が続く ↓





 「中宮料金ゲート」の手前でUターン。これでもとの岐阜県川へ帰っていけば、片道料金3150円だけでよい。

  



 






        
        





 白川郷へ戻って、遅い昼食を食べた。「飛騨牛朴葉味噌定食」、朴葉の上に飛騨牛の肉と野菜を乗せてコンロの火で焼き、味噌をつけて食べる。パチパチと音を立てて、朴葉の上の肉や味噌が焼けていき、香ばしい匂いが立ち上る。
 






 白川郷を歩いてから、360号線を走って、今は市町村合併で飛騨市になっている古川町をのぞいてみた。
 途中の天生峠辺りも紅葉の名所だけれど、一帯の木々はもうすっかり葉を落としていた。古川から高山へ出て「高山西IC」で東海北陸道に乗り、夜7時過ぎに名古屋へ…。
 いつもの国際ホテルのシングルが空いていなくて、今夜のホテル「ナゴヤプラザイン」へは、初めて泊る。とにかく繁華街に近いところということを第1条件に探した宿だから、他のことには目をつぶらなくてはならない。地下鉄栄駅徒歩4分、名古屋一の繁華街、夜にさまようには申し分のない立地条件の上に、パンとコーヒーのモーニングが付いて5600円。これからは、ここに決めよう。




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