本殿の裏を通って、中苑の蒼龍池に出ます。
桜の木の下は休憩所。腰掛けて、お茶をいただくことができる【拡大】。
この池には、甲羅に草を生やすミノガメ、本州にはここでしか生存が確認されていない南石亀などが生息しているとか。
この「神苑」は面積が約1万坪、明治から昭和にかけての名造園家である7代目小川治兵衛(植治)が20年以上をかけて造った名園で、国の名勝に指定されている。
そのまま歩経路のままに歩いていくと、東苑の栖鳳池(せいほういけ)に出る。
池の周りの紅枝垂れも、ちょうど見ごろであった。
← 池の中央を東西にまたぐ泰平閣 (橋殿)を、
桜越しにパチリ…【拡大】。
右の建物は、池に面してお客様をお迎えする
迎賓館として使われている尚美館 →
←【拡大】 苑内は、春の紅枝垂れ桜、初夏の杜若・花菖蒲・睡蓮、秋の萩、冬の雪景色など、四季折々の風情が楽しめる。
添え木が組まれた上で咲く紅枝垂れのかわいさは、
さながら花笠のよう →
←【拡大】 この尚美館を舞台に、毎年、4月初めの桜の時期 この池を囲んで、「紅枝垂れコンサート」が催される。夕闇に包まれる中、ライトアップに浮かぶ紅枝垂れに囲まれての演奏会は、なかなかに幻想的である。
平安神宮を出てから、岡崎公園の外堀…琵琶湖疏水を歩いた。琵琶湖から汲み上げられた水は、ここ岡崎の貯水場へ流れ出て、京都の産業や市民の飲用に供されている。
両岸に植えられた桜は大きく育ち、毎年春には
見事な花をつけて花見の名所になっている。
【拡大】 →
← 水面に落ちた花びらが、風のまま、
流れのままに、水紋を描いていた。
【拡大】
水の上から、疎水べりの桜を見る
「屋形船」がやって来た。 【拡大】→
手を振るご婦人の団体に、歩道から「沈みそうですよォ〜」と声をかけると、「あなたも乗りなさいよ。4時30分が最終よ〜」とお誘いいただいた。
琵琶湖疏水が京都盆地へ落ちる岡崎貯水池。蹴上インクラインの下部終点だから、琵琶湖から疎水をたどってきて、蹴上から台車に乗ってきた舟は、この舟溜まりで再び水の上に浮かび、賀茂川から宇治川、淀川へと運行されて行く。
← 岡崎の舟溜まり【拡大】
15分間閣で運行されている屋形船は
ピストン操業だ。
今 帰ってきた この舟に乗る。 →
←【拡大】 琵琶湖疏水は、明治23年に完成した8.7kmの第1疏水と明治27年に完成した鴨川運河を合わせて20kmのルートである。
現在は、京都市の水道水の全量を賄うという大役を果たしつつ、市民の散策道として親しまれている。
舟から見上げる桜は、
水面に垂れ下がる枝が迫ってきて、
また格別の美しさだ。 【拡大】→
夷川舟溜まりでUターンして、全行程
25分。両岸には、見事な桜並木が
続く。 【拡大】 ↓
最終の屋形船がやってきた。
もうすぐ船着場だ。
船から下りた後はインクラインを上って、琵琶湖疏水の蹴上出水口へと向かった。
10日前に歩いた道である。両側の桜は、すでに5割がた、花を落としていたが、桜には… いや 旅にはというべきだろうか…、そのときそのときの旅情や感懐がある。
←【拡大】 すでに花もまばらな桜並木。訪れる
人の影もほとんど見られなかった。
琵琶湖第1疏水の蹴上出水口
【拡大】 →
九条山の下をトンネルで抜けてきた疎水は、ここ蹴上で地上へ抜けて、全て地下を流れてくる第二疎水と合流し、京都盆地へ流れ落ちる。
← インクライン上の蹴上舟溜まり 【拡大】
琵琶湖から疎水をたどってきた舟は、この舟溜まりで写真にある台車に載せられて、距離にして582m、高低差33mを降りていった。
今は運用されていないこのルート…、施錠した鉄柵に囲まれて立ち入り禁止になっている舟溜りには、舞い落ちた桜の花びらが吹き寄せられて、水面をおおっていた。
南禅寺の境内を高架水路(水路閣)によって抜けていく疎水に沿って、哲学の道へと歩いた。
まだ8割の木に花が残っていた 【拡大】 →
← 「これが、Mr.西田が歩いた道かぁ」と
友人は感激していた。【拡大】
この水路も、琵琶湖疏水の分線である。
銀閣寺前からタクシーに乗って岡崎公園へ戻り、車に乗り換えて祇園白川へ…。
夕闇が迫って、カメラのピントが甘くなってきたので、【拡大】写真へのリンクは中止(苦笑)。
ボンボリに灯がともり、宵闇の祇園白川…、京都らしい情緒が漂います。
祇園白川のカフェ「ポナペティ」。
ロールケーキが、染み渡る美味しさでした。→
ぶらぶらと歩いて、円山公園へ…。夜桜見物の
人々で、相変わらずの賑わいだ。
二代目のこの桜、剪定中で切られたのか、折れたのか…。枝振りがちょっと情けないのは、かつての妖艶な姿を知るものとしては、やはり寂しい。【拡大】
八坂神社の献灯ちょうちん。お考さんのも、
佳つ乃さんのもありましたよ。 →
時刻はもうすぐ9時、ちょっと小腹が空いたので、四条通りを先斗町へ…【拡大】。
天気予報の通り、8時ごろから、京都は雨になりました。
← 一陣の風とともに、おびただしい桜の花びらが舞い落ち
ます。 【この小さな写真では、よく分かりませんね。
拡大写真をどうぞ】
![]() |
![]() |
![]() |
---|---|---|
ピンクと緑とのコントラスト 【拡大】 |
紅白の桃も満開 |
ユキヤナギの白さが美しい 【拡大】 |
![]() |
![]() |
![]() |
みんな、ウワ〜とかキャー 【拡大】 |
紅枝垂れのスコール 【拡大】 |
百花繚乱… 【拡大】 |
← ひととき
われを忘れて…。
【拡大】
帰り道、圧倒的な紅枝垂れの下をくぐってきた章くんには、道端で見かけたひっそりと咲くシロヤマザクラに ほっとした気分でした。
原谷苑を下ってきたところの交差点にお巡りさんが →
この日の京都は、いたるところの街角にたくさんの警官の姿がありました。中国の温家宝首相が、今日、京都入りするためだそうです。
章くん、いつもは締めたこともないシートベルトをカチッと留めて運転…。
西大路へ出て、金閣寺から少し南へ下がると、桜で名高い平野神社があります。
← さすがに花は散り始めていて、
路上に降り積もっていました。
【拡大】
平野神社の大鳥居
【拡大】 →
この鳥居の前にも警官が立っていて、「今日は何時まで?」と問いかけると、「自分たちには時間が知らされていません。4時か、5時か、夜になるか」と言っていました。警察官もたいへんです。
← 神楽殿の左の枝垂れ桜【拡大】
陽光に輝いて、きれいな
ピンクでした【拡大】→
平野神社は、794(延暦13)年、際桓武天皇が奈良より勧請し、て創建された神社で、その歴史は平安京の歩みとともにしている。ご本殿は、四棟の春日造りの社殿が並ぶ。
北から今木大神(生気、元気をいただく神)、久度大神(くど=かまど…で食物の神)、古開大神(邪気を祓い元気をよみがえらせる神)、比賣大神(生成、生産力の象徴の神)が祀られている。
いずれも、宮中祭祀と深くかかわっていて、王宮鎮護の神社であったと考えられる。
黒ずんだ塀に、白い牡丹桜が垂れていた 【拡大】→
← 境内にはたくさんの屋台が
軒を並べていた 【拡大】。
しかし、さすがに花期の終わった今は閑散としていて、宴のあとの風情であった。
【119】 大和郡山城 2007 桜の城の春 − 桜便り 第5弾 − 2007.04.10
吉野から大和郡山へ向かう166号線の左手に、大坂夏の陣で活躍した後藤又兵衛にちなんで名づけられた又兵衛桜(枝垂れ)がある。
又兵衛は戦いに破れ、ここ大宇陀の地で僧侶になって、姓を後藤と名乗っていたとか。桜の立つ場所は後藤家の屋敷跡だそうだ。
この又兵衛桜の樹齢はなんと300年というから驚きである。普通、桜は100年ももたないというのだが、この桜は今も毎年美しい花を咲かせている。
枝垂れ桜の周りには桃の木が数十本植えられて
いて、桜と同時期に開花する。 【拡大】→
途中、道端の柿の葉すしの店で遅いお昼を済ませて、郡山城へ着いたのは午後4時になろうとしているころであった。
駐車場がない。ぐるりと回ってみると、近鉄電車の線路沿いに空き地があって、4〜5台の車が止まっている。迷わずその横へ駐車して、お城へ向かった。線路を渡ったら、もう城内である。
← 城の周りの歩経路。一帯にたくさんの桜が植えられ
ていて、桜まつりが開催されていた。【拡大】
大和郡山城は、織田信長が大和地方を治める拠点とするため、明智光秀に検分させ、城主として筒井順慶を封じて築城させたものである。
その後、1585(天正13)年、大和大納言豊臣秀長が姫路より入城し、紀伊・和泉・大和を領する百万石の城として整備拡張を行った。これによって郡山城は、本格的な城としての体裁を整えた。
本丸南側の石垣 【拡大】→
江戸時代に入って、幾度も城主が替わったが、1724(享保9)年、甲府から柳澤吉里が15万石で入封し、以後、柳沢氏は信鴻−保光−保泰−保興−保申と代々居城して幕末を迎えている。
← 本丸西北門の石垣【拡大】
郡山城の桜は、大納言豊臣秀長が入城した際、多武峰の談山神社を城北に遷座、その堂宇とともに多武峰にあった桜の木も城内に移したのが、その始まりと伝えられている。
柳澤吉里は入城してから桜の補植につとめ、以来、郡山城は桜の名所として、毎春桜の開花は藩士や町民たちの楽しみであったとか。
場内に移築されている 旧奈良県立図書館【拡大】
今は 郡山の市民会館として使用されている→
明治になって城郭は全て取り払われたが、1880(明治13)年、旧藩士たちが本丸に藩祖柳澤吉保を祀る柳沢神社を建てて、その周辺に旧藩邸の桜木を移植し、さらに数百株を補植した。
この頃から毎年、かがり火をたき春の宵の桜の風情を楽しむようになったとある。
← 追手門から堀沿いに向櫓広場へと上る歩経路【拡大】
その後も市民の手によって桜樹の植え替えなどが行われていて、桜の季節には、近隣府県からも観桜の客が押し寄せる盛況を見せている。
花に埋まる城内。 右下の茶色は天守台を取り巻く数珠。
石の少ない大和では、石垣を築くのに多数の石仏や墓石が
使用された。その慰霊法要のため設けられている【拡大】→
深く広い濠…10mを超える、見事な高石垣だ。その向こうには、満開の桜越しに天守郭が見える。
秀吉の補佐役として、どちらかというと温厚なイメージの強い秀長であったが、百万石の領主として、また大和の国でこれまで権勢を振るってきた大寺院を威圧するためにも、大城郭を築く必要があったのだろうか。
← この石垣は、当時秀長の家臣であった
若き頃の藤堂高虎の手による【拡大】。
伊賀上野城の高石垣に似て見事である。
【拡大】は、各写真をクリックしてください。
城内に、小さな石に刻まれた句碑があった。
『菜の花の 中に城あり 郡山』
蕉門の俳人、森川許六の作である。許六は彦根藩士、
槍剣・漢詩、特に絵画に優れていた。
この句も、一面の菜の花畑から見える、桜咲く郡山
城の情景を詠んでいて、絵画的である。
当時、お城の桜は、周りの田畑のどこからも、仰ぎ
見ることが出来たのだろう。
今でこそ、金魚の生育数日本一は愛知県弥富町に譲っているが、かつて郡山市はダントツの日本一であった。
1724(享保9)年、甲府から入封した柳澤吉里が、たいへんな金魚愛好家であって、そのせいで藩士や領民に金魚の飼育をするものが多かったという。
郡山市では、毎年8月の第3日曜日(日曜日が5回ある場合は第4日曜日)を 「金魚すくいの日」と定め、「全国金魚すくい選手権大会」を開催している、
小さなポイに熱き思いを乗せた「第1回全国金魚すくい選手権大会」が 開催されたのが平成7年8月。今では大和郡山市の夏の行事としてすっかり定着し、大会も11回を重ね、 これまで約1万6千人の選手たちが熱戦を繰り広げてきた。
競技は3分間で金魚を何匹すくえるかを競い合う。ちなみに去年の優勝は、小中学生の部49匹、一般の部35匹。優勝商品はハワイ旅行だ。
【118】 吉野山 春満開 − 2007年 桜便り第4弾 − 2007.04.10
吉野に着いたのは、午前9時を少し回ったころ。名にしおう吉野だから横浜や福岡ナンバーなど遠くから来た車も見受けられるが、まだ台数も少ない。ただ、このシーズンは下千本から中千本への町中の道は通行止。まずは、中千本へと通じる外周道路を登っていった。
← 中千本への外周道路…。 ↑
両側の桜もしっかりと開花している
【拡大】
吉野の桜は、吉野町の小中学生が卒業するとき、それぞれ1本ずつの苗木を山に植えると聞いたことがあって、人々の手厚い世話が加えられていることがうかがえるが、圧倒的に多いのはシロヤマザクラと呼ばれる文字通りの山桜である。
だから、花と一緒に紅色の葉芽を出し、満開時には山全体が赤味を帯びる。
なぜ、吉野山には桜の木がかくも多いのか。それは、修験道信仰と深くかかわっている。1300年前、吉野に分け入って修行を積んだ役小角は、感得した蔵王権現の姿を山上が岳の桜の幹に刻んだとある。以来、桜の木はご神木として修験道信仰とともに、吉野の山へ献木植樹されてきたのだ。
(吉野町ホームページより抜粋)
中千本の駐車場に車を入れて、「竹林院」を訪ねた。この小房は吉野朝時代、第100代後小松天皇の勅命で「竹林院」と号し、当時は金峯山律寺4院のひとつに数えられていたが、吉野朝以後は、真言宗豊山(ぶざん)派、廃寺、天台宗と変転して、現在は修験宗の単立寺院である。
「群芳(ぐんぽう)園」と呼ばれる中庭は、
「当麻寺 中の坊」、大和小泉 「慈光院」の
庭と共に、大和三庭園のひとつに数えられて
いる。 →
中千本界隈を歩いてみた。展望ポイントから上千本を仰ぎ見ると、山肌一面が桜色に染まっている。
↑ 山肌一面の桜 【拡大】
上千本を仰ぎ見ると… 【拡大】→
もうずいぶんと昔、中学生のころ…、近鉄電車の駅に貼られていた山一面の桜に染まった吉野のポスターを見て、「いつかはこの景色を見に行かなくては…」と思い続けてきた。
ここ数年、5〜6回は訪ねて来ているけれど、いつもちょっと早いか遅いかで、これが吉野の桜かと唸(うな)るような景色には ついぞお目にかかったことがなかった。
しかし 今年のこの展望…、まさにあのポスター写真の風景が目の前に広がっていた。
蔵王堂へ降りる道の途中に、葛きりを生産販売している「八十吉」がある。店の一部にテーブルと椅子を置いて、抹茶と葛きりを供している。
平うちの葛きりを黒みつでいただく。結構な勾配の坂道をたどりながら、ここまで小1時間、歩いてきた。火照った体に、冷たい葛きりがありがたい。その滑らかな喉ごしと、しっかりとしたコシに 思わずお替り…。
金峯山寺 蔵王堂(きんぷせんじ ざおうどう)は、役小角の開山により、平安時代に聖宝理源大師が蔵王権現像を安置したといわれている。
その威容は、東大寺大仏殿に次ぐ大きさの木造建築物として知られていて、現在の建物は1591(天正19)年に再建された室町末期を代表する建造物である。
春の会式が営まれていた 【拡大】→
蔵王堂の左手の急な石段を下ると、南朝妙法殿がある。
桜の雲の中に浮かぶこの舎殿は、南朝四帝と南北朝時代以後の戦乱によって死亡した多くの霊を祭るため、昭和38年に建立されたものである。
駐車場に戻って車に乗り、奥千本の金峰神社を回ってみた。まだ、花はちらほら…。車で通り過ぎて、上千本の「花之倉展望台」へ立ち寄った。
ここからの俯瞰は、まさに一望千里…。中千本から下千本へと続く桜の群生を眼下に納め、かなたには奥大和から紀伊の山々が幾重にも重なり合っている。
一目千本とうたわれた吉野の桜とは
まさにこの光景か。 【拡大】→
上から垂れ下がった枝の右の花芽が、蔵王堂と重なっている。
展望台を少し下ると、中千本の群生する桜林の中へ踏み込む。
← 桜の間から、蔵王堂が見えている。【拡大】
![]() |
---|
↑ 中千本の桜 【拡大】 |