【128】 
松坂城本居神社伊勢寺岩内瑞巌寺松風   2007.07.26


 お昼、松坂での用件が1件終わった。あと、5時から多気町で1件、市内へ戻って6時30分からの会合である。4時間少々の時間があったので、市内と周辺を回ってみた。
 

 まずは、松坂城。成立過程や歴史については、本居宣長の人となりを含めて、『2005年秋 松坂城』に記しているのでここで繰り返すのはやめて、風景を眺めながら散策することにしよう。


         
@表門入り口に建つ「松坂城」の碑 →
   




 
@ 表門入り口に建つ「松坂城」の碑
 
A 郷土資料館
 B 本丸郭の石垣
 C 天守閣跡
 D 鈴屋遺蹟保存会正門
 E 鈴屋
 F 本居宣長記念館
 G 本居神社







 それでは追手口(表門)から、いざ出発…。
  




← 表門の坂を上がっていくと、すぐの右手に
 A「郷土資料館」がある。 




 
「郷土資料館」に
 展示されている、

 機織(はたおり)機→






 なぜ松阪城跡内にある郷土資料館に機織機が展示されているのかというと、江戸時代、松阪は「松阪木綿」と呼ばれた良質の職布を生産したからである。近郊の「機殿神社」に伝承されている御衣奉職行事からも、この地では機織が盛んであったことがうかがわれる。
 松阪商人は、江戸時代の前半から中期にかけて江戸へ進出して活躍した。江戸の町には伊勢屋の屋号を掲げる店がたくさんあったし、越後屋呉服店・三井両替店の三井高利、丹波屋次郎兵衛、小津屋清左衛門など、多くの高名な商人が松阪出身であった。その商品が「松坂木綿」である。
 松坂市の東部から多気郡明和町にかけては、伊勢神宮にかかわって、古代に大陸からの渡来人が住み着き、彼らは高い紡織の技術を持っていた。
近世になって一帯で綿の栽培が始まり、伝えられてきた機織の技術とあいまって、良質の木綿が生産されるようになったのである。
 「松阪木綿」は品質が良く、「松阪縞」と呼ばれた模様がもてはやされて、江戸を始め全国で売れ筋の商品であった。




← B本丸郭の石垣。城内には、各郭の石垣が
 多く現存している。


  











  
  
       
櫓の石垣の上から、郷土資料館を俯瞰 →
 

 

 C 松阪城は、蒲生氏郷の創建時、本丸天守台に三層の天守閣がそびえ、それをとり巻いてそれぞれの郭に敵見、金の間、月見等の櫓が配されていた。氏郷は会津へ転封となり、その後、服部采女正一忠(秀次事件に連座して切腹)、古田兵部少輔重勝(ここで江戸期となる)と城主が変わり、元和5(1619)年、紀州徳川家の領地となった。紀州藩松阪城代が置かれたが、天守閣は江戸初期(1644年)の台風で倒壊…。以後、再建されることはなかった。



 

 本丸跡を抜けて、城の南面に位置する隠居丸跡へと足を運んだ。ここには、「鈴屋(本居宣長の居宅)」が移設されている。

  


← 隠居丸への石段と門(鈴屋遺蹟保存会正門)D
 この門を入ると「桜松閣(鈴屋遺蹟保存会旧事
 務所)」と「鈴屋(本居宣長旧宅)」がある。


 
 










         門を入ると左手に大銀杏 →




 















← 門の右手(写真の正面)が
 「桜松閣」の玄関 





 宝暦13(1763)年、宣長は松阪日野町の旅館「新上屋」に宿泊中の賀茂真淵との対面を遂げる。この会見中、かねてより尊敬していた真淵に古事記研究の志を告げ、真淵もこれを激励するなど、二人の対話は夜の更けるのも忘れて続いたという。宣長の古事記研究への情熱に火が点された、後に「松阪の一夜」と称される出会いであった。同年末、宣長は真淵に入門している。

  


← 桜松閣の玄関。
「鈴屋」の坪ノ内



 
手前に続くのは「鈴屋」の塀である。

 
 
  

 
 
 
 宣長は、天明2(1782)年、53歳のときに2階の物置を改造し、四畳半の簡素な書斎をつくっている。この小部屋が「鈴屋」で、宣長は研究に疲れると36個の小鈴を連ねた柱掛鈴を振って、その音を楽しんだという。
 のち、家屋全体を「鈴屋」Eと呼ぶようになった。


            
2階 書斎「鈴屋」への階段 →

 
 
 
← 城の裏門へ通じる木戸
 
 
 
 この石垣の下を
 左へ降りれば
 裏門(搦め手)→



  

  
  

← 石段を降りていくと、裏門跡の横、希代(きたい)丸跡の石垣を背にして、「本居宣長記念館」Fがある。




  
館内に展示されて
  いる本居宣長像→






 宣長に教えを請うものは全国に散在し、東は陸奥の国から、西は日向の国まで、弟子は489人にものぼったという。


  
しきしまの 大和ごころを ひととわば
      
あさひににおう  やまざくらばな
 

 
宣長の奥墓は松阪市山室山にあるが、その墓は数本の山桜に囲まれている。
  


← 搦め手から見上げる、二の丸の高石垣




  この搦め手から出ると、道路を挟んだ向かい側に
 「本居神社」Gがある。

 






 本居神社は、明治4(1871)年、山室山の宣長
奥墓の横に祠を建てて祀ったのが初め。このころ
は「山室山神社」と称した。
 明治15(1882)年、殿町の急奉行所跡地(現在
の市役所地)に遷宮。さらに大正4(1915)年、
現在地へ遷宮し、昭和6年 社号を「本居神社」
と改称、平成7年 さらに「本居宣長の宮」と改
称している。
 国学者も通り宣長を祀ることから、学問の神様として信仰を集め、受験シーズンには多くの参拝者で賑わう。


← 殿社は切り妻平屋の質素さだ。
  学問一筋の本居宣長らしいというべきだろうか。
 
 
 
           絵馬の願文も学問一筋である ↓

 

 
    
『算数が得意になりますように』
           …なんて、思わず応援したくなる。  →


    この子は、高校合格のお礼に来たようだ。
     『津高合格ありがとうございました。これからも学業に
      はげみますので、よろしくお願いします。
      軽音楽部で成功しますように。歌手になれますように。
      100位以内の学力でありますように。』
     … この子、歌手になっただろうか。
       ちょっと 願い事が多すぎたかも…。     →
 
 
 
社務所では、「学業成就のお守りや絵馬」とともに、「知恵集めのくまで」なんてものも販売しているとか。




   同じ敷地内の「松阪神社」         →
    氏子組織などがしっかりしているのだろうか、
   鉄筋の社殿に青銅葺きの屋根と、こちらのほうは
   かなり立派である。





 お城をあとにして、松阪港を見に行った。

  

 松阪港は、セメントや砂・砂利などを積んだ大型貨物船が出入りする港で、中南勢の産業に大きな役割を果たしてきた。
 去年(平成18年)12月30日、中部国際空港を結ぶ高速船が就航した(片道2100円)。
  乗船場は切符売り場と待合室、小さな売店だけで、コーヒーでも飲もうかと思っていた章くんは残念…。
 




     車で海に落ちるといけないからだろうか、
    写真中央の看板には、赤字で「立入禁止」と
    大書してある。
     その横には車が並び、たくさんの人が釣り
    糸をたれていた。            →





 転じて、山を目指す。松阪市内から西へ車で15分ほど走ると、「伊勢寺」という地名の集落がある。昔は、伊勢の寺というほどの大きな寺があったのだろうか…。


 周辺に新しく通された道路を避けて、伊勢寺町を通る旧道を走ってみると、道端に方形の石積みの上に立つ古寺を見つけた。 




← 寺は石垣の上にある  
  
  



 正面に、人の背丈の2倍ほどもあろうかという巨大な石灯籠 →


 その横に寺の由来を記した案内板があった。
 表題は『伊勢寺(奈良時代)跡』とある。  






 内容は『…、7世紀の創建。平安時代にかけて寺域を拡大して、大規模な伽藍が整備されたと考えられる。…』と。


  
  
  
  

 やはり、古来から伊勢の寺と呼ばれる大寺があったのであり、それが地名の由来となったのだ。


 ただ、今日 訪れたこの寺は、最近に参拝する人もないかと思われる小寺であり、本堂の造作もそれほど手を入れていない質素さで、歴史のどこかに忘れられたようなたたずまいであった。
  
  


 さらに西へ向かい、伊勢山上の山ふところに入った。
  

← 松阪の市街が、眼下に広がる。
  
  





  


  
            伊勢自動車道を越える →

  





 鉢が峰と観音岳の山間いを流れる観音(岩内)川のほとりに立つ瑞巌寺を訪ねるためだが、やがてあたりは、ちょっとした深山の景色になってくる。観音川は境内の真ん中を流れ、背後には観音岳が迫る。付近は古くから密教の修行の場となっていて、神秘的な雰囲気が漂う。  


  瑞巌寺への入り口。石垣に刳られた穴をくぐっていく→



鏡池と弁天堂 











← 入り口を抜けると、観音川の水をせき止めて作った鏡池、小高い山に三重の塔、伊勢湾を借景に弁天堂や数々の神仏がまつられる庭園などが、自然の地形を利用して配されているが、これらは観音様のお告げで造られたとか。

  


← 池の横の参道を上って、本堂へ向かう。

  
  











      
観音川にかかる橋は、凝った造り。
       橋の傍らに観音像が置かれていた。 →

 



 瑞巌寺の開基は弘法大師と伝えられ、元は真言宗の寺であったが、戦乱や大地震で荒廃していたのを、江戸中期に知恩院から来た門超上人という僧が復興し、以後、浄土宗の寺として栄えてきた。
 でも、近年の寂れようは ちょっと淋しい。章くん、実は小学校の遠足に、この寺を訪れている。樹木は整えられて、池には鯉が泳ぎ、確たる寺院であった記憶があるのだが…。


← 瑞巌寺横の参道。 ここも、石垣の間に刳られた
 坑道をくぐって、本堂前に出る。


 
 
            
瑞巌寺 本堂 →


 川の崖上に建てられた本堂内に仏さまの姿はなく、正面に丸い穴が開いている。よく見ると対岸の崖にお顔だけが浮き出ている仏さまが拝めるが、この仏さまこそ、寺が守る弘法大師作の十一面観音の姿…だというのだが、実はこの日、蜂の群れが本堂を守っていて、異形のもの(章くんのこと)が近づくのを阻んでいた。
 だから、章くん。観音様のお姿を拝んでいない。もう一度、出直すしかないなぁ。




 そろそろ5時近くなった。多気郡多気町で次の約束がある。


← 松阪から南へ伸びる 国道42号線。
 
 
 櫛田川を越えると間もなく、道の左右に大きなビルが立ち並ぶ。シャープ電気の多気工場だ。      →
 





 そして夕刻、6時30分。今日の会合は、愛宕町の季節料理「松風」。


   巨大な味噌樽を利用した「樽部屋」が名物 ↓

















   樽部屋は狭くて お二人様用…。この部屋の
  利用は、近日また 出直すことにしよう。




 参考  松阪観光協会ぶらり松阪路、 「本居宣長記念館HP」、 ようこそ宣長ワールドへ
     浄土宗寺院紹介

       




【124】 
桑名 
六華苑諸戸屋敷
 その1          2007.06.29

 
 桑名での仕事が昼過ぎに終わったので、午後、桑名が生んだ豪商「諸戸清六」が残した邸宅「六華苑」を訪ねてみた。
  
  
 遠く飛騨大日岳に源を発して、白鳥・郡上八幡・美濃・岐阜と流れてきた長良川と、岐阜・福井県の境を画する両白山地の南限の山間いから流れ出て「徳山ダム」の騒動を横に大垣・海津と濃尾平野の西南部を下ってきた揖斐川が合流するところ…、あと伊勢湾へと注ぐ河口部まで5Kmほどのところに、尾張宮宿(現名古屋市熱田区)から海路7里を渡って来た「東海道、七里の渡し」の桑名宿船着場がある。


       
「七里の渡し」の付近地図 →
            
は桑名城址(現、九華公園)、  は六華苑、 は諸戸屋敷

  

←「七里の渡し」、桑名宿船着場跡にある大鳥居


 旧桑名城址(現、九華公園)の外堀が揖斐川に出るところに大きな水門があり、その横に鳥居がある。
 この大鳥居は、旅の安全を祈って水神を祭ったものと思いきや、ここより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称されるもの。伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられている。
 
 
  
 中部山岳の木材と濃尾平野の米穀、そして東海道の賑わいが交わるこの地に、諸戸氏の邸宅は建てられている。ここ「七里の渡し」の船着場から、揖斐川の堤防沿いに北西へ徒歩10分ほどのところだ。




 二代目諸戸清六の邸宅「六華苑」の表門(長屋門)→
 徒歩2分の隣接地に、駐車場がある。  


 ここ「六華苑」を造営した諸戸清六は、実は2代目清六である。明治39年、穀物取引で成功した初代清六(1846〜1906)の死去にともない、諸戸家の財産は2つに分けられて、家屋敷は次男清太が相続(西諸戸家)、家業は早稲田大学在学中であった四男清吾(1888〜1969)が呼び戻され、18歳で二代目清六を襲名して引き継ぐこととなった(東諸戸家)。
 家業をますますの隆盛に導いた二代目清六は、明治44年、結婚して23歳になっていたこの年、鹿鳴館などを担当して当時の建築界の重鎮であったコンドルに設計を依頼し、この新居を完成させたのである。
 諸戸家の歴史を紐解くには、初代清六を語らずして一歩を踏み出すことはできないが、初代についてはこの紀文のそのAに紹介することにして、まずは「六華苑」を探訪することにしよう。 





@ 駐車場 45台駐可
A 入り口(長屋門)
B レストラン
C 洋館
D 日本家屋
E 一番蔵
F 内玄関(受付・抹茶)
G 番蔵棟
H 高須御殿
I 離れ屋





  

← 門をくぐって石畳の道を行くと正面に洋館が見えてくる。
 右側の生垣の奥にはレストランがある。

 

← 道ばたの街灯もレトロだ。   

  













       洋館の全容が見えてきた。
        圧倒的な存在感を持つ、4階建ての塔屋が印象的 →


 
  明治44年着工、大正2年に竣工した。  
前庭の芝生と飛び石
 
前庭の水路 植え込みに2羽のアゲハが 洋館の向こうに和風建築が
続いている。         
 
池のほとりには
見事な五葉松が数本…


 ← 洋館のベランダから、
  西へ続いている、和館の
  縁側をパチリ…。
    当時の洋館建てには
  和館を結合させるのが普
  通であったとか。




 洋館・和館から成る建物は、和洋の様式が調和した明治・大正期を代表する貴重な文化遺産である。桑名市は諸戸家から建物の寄贈を受け、敷地を買い上げて管理補修にあたり、1993(平成5)年から一般に開放している。1997(平成9)年、国の重要文化財(建造物)に指定されている。
 また、庭園は2001(平成13)年に国の名勝に指定されている。その庭園の鑑賞はのち程ということにして、建物の中に入ってみることにしよう。



 
建物への出入り口 「内玄関」 

← 入ってすぐ左が受付・事務室、正面に抹茶をいただく
 休憩所がある。


  右手には陳列棚があって
  諸戸家所蔵の美術品が
  展示してある    →







 まずは右手(西側)の和館を拝観した。



 庭に面して、板廊下があり、その内に畳廊下、さらに内側に部屋が連なっている。  
























 廊下の突き当たり、西の端に土蔵(一番蔵)がしつらえられていた。
 この土蔵には、接客用調度品が収納されていたという。


   奥から、東のほうを振り返ったところ。
   廊下の向こうに、洋館の赤絨毯が見える。























 洋館へ…。


 玄関。 入り口のステンドグラスを通った光がやわらかい。


 入ってすぐ右手が 客間…。




















 明治の元勲、山県有朋や大隈重信もこの屋敷を訪れているから、このソファーへ腰掛けたことだろう。


 この客間が、各部屋の中でも一番凝った造りとなっている。
 天井の薔薇模様は、設計者のコンドルが好んで用いたデザインで、イギリス王室の象徴である薔薇を多用していることは、コンドルがイギリス人であることを改めて思わせる。


 暖炉はアールヌーボーの様式を取り入れたもので、屋根に突き出た煙突もなかなかにハイカラだ。
 カガミの位置が高いのは、欧米人サイズのものを直輸入して、そのまま使用しているから(解説書より)らしい。


 センターテーブルは1910年イギリス製、応接セットは1880年デンマーク製とあるが、平成5年の改修時にアンティーク品を購入したもので、当時使用していたものではないとか。
     
     
      
客間から続いている食堂  →

  











← 食堂の窓から見える、前庭。





 
         階段を登って、2階へ… →




 2階は、書斎や寝室などプライベートな部屋がある。 


















← 書斎。 正面のドアからサンルームへ


 
 


  1階ベランダの上に同じ大きさで造られている
 このサンルームは、いっぱいの陽光を浴びながら
 庭を眺める、絶好の設計となってる。


  奥の右手は、寝室…。

この電燈は、当時のものとか。










     サンルームから眺める前庭 ↓    
  





   

















 サンルームの西端から、和館と西奥の庭を望む↓




  洋館の東北に戻り、塔屋の2階窓から
  表門からのエントランスを望む   ↓















     館内のトイレは、創建当時から全て
     水洗であったという。     ↓
 


 




 水道設備もなかった当時、洋館の全てで水洗トイレを使用していたというのは驚きだが、ここには初代諸戸清六の偉業があった。
 桑名はもともと伊勢湾の上に揖斐・長良川が運んだ土砂が堆積してできた沖積平野であり、両河川は今も河口部へは海水が遡上している汽水河川であることからもうかがえるように、井戸水には塩分が含まれていた。
 良水を得ることは桑名の人々の悲願であったが、財を成した初代諸戸清六は独力で上水道の敷設を計画し、東方(ひがしがた)丘陵に地下水を集めた貯水池を造り、桑名の町内に上水道を給付したのである。
 この水道は明治37(1904)年に竣工し、町中に55箇所の共用水栓を設け、町民に無料で開放…。近代的な水道施設としては、全国で7番目のものだという。

桑名市東方に残る貯水池遺構
(桑名市パンフレットより)

 施設は、大正13(1924)年に桑名町に寄付され、昭和4(1929)年まで使用されていたが、その後、市域の拡大と共に水源地も新しく開発されてこの水道は廃止となり、設備はほとんど取り払われて、遺構として残存するのはこの煉瓦造りの貯水池のみとなった。
 

 それにしても、個人で水道施設を造り市民の生活に供するとは、諸戸清六の…明治の人の…豪快な胆力には恐れ入る。敬服の念のなかに、何かしら爽快さを覚える壮挙である。  
  
  
 表へ出て、庭園を散策…。
 

← 池の対岸から


 池の南西からのショットがないので、
パンフの写真を拝借…。




















 前庭を横切って、建物の西側に回ってみた。
  
  
  西南部には山水の日本庭園がある。

                             


   和館の西の端、一番蔵の前に
   巨大な石の手水鉢が置かれていた。





 和館の西側を北へ回って、内庭を逍遥…。


  和館の裏手…、一番蔵の屋根が見える














  
   
 


 内庭は、南を和洋館、東を内玄関棟、北を四〜七番蔵と続く棟で囲まれた坪ノ内である。
 茶匠松尾宗吾の意匠による、茶庭の趣が濃く、中にある離れ屋は囲炉裏が切られ、水周りはステンレスの設備が整えられていたから、今も茶会などに活用されているのだろう。




 二番蔵と母屋の間の渡り廊下を横切って、建物の表へ出た。


← レストランの前に植えられたバラが、
 思い思いの花を咲かせていた。


 内玄関に入って、再度、受付へ行って申し込み、抹茶をいただいた。
 その席に座っておられた、「桑名歴史案内人」のカードを付けたご婦人に、諸戸家のさまざまな事柄を伺った。


 「『諸戸屋敷と庭園』へは、もういかれましたか?」と尋ねられ、本日はここ六華苑と九華公園ぐらいを訪ねてみようかと思っていた僕は、「諸戸屋敷…?」と何の予備知識もない。
 「ここ六華苑は二代目が建てられたお家ですが、初代の清六さんが建てられた『諸戸屋敷』がこの裏にあります。今、6月中は庭園も一般公開していますから、ぜひご覧になっていってください。一見の価値は十分にありますよ」と教えていただいた。


 予定していたわけでなく、ひょんなきっかけで訪れた諸戸屋敷…。その旧宅で、僕は、初代の並外れた見識と規格外れの豪放さを目の当たりにすることになるのだが、その報告はまた近日ということで…。




【125】 
桑名 六華苑
諸戸屋敷 その2 + 九華公園      2007.06.29

 
 『六華苑』でお抹茶をいただきながら、「諸戸さんのお屋敷は、この『六華苑』じゃないのですか?」と不勉強振りを曝(さら)す章くんに、「ここは2代目が建てたお宅…。初代のお屋敷は一味違いますよ」と「桑名歴史案内人」のネームプレートを胸に掛けたご婦人は自信たっぷり…。
 日本の山林王、日本一の大地主と桑名市のHPにも紹介されている初代諸戸清六が起居した『
諸戸屋敷』…、初夏には菖蒲池に赤・白・紫・黄色の花々が咲き乱れ、秋は邸内の紅葉が見事だとか。
 と、章くん、ここで朝から何も食べていないことに気づいた。今日は桑名で10時からの会合…、午前中に用事のあるときには朝食を取らないことが多い。会合はお昼に終わるから「六華苑」のレストランで食事をしようと思っていたのだが、レトロな洋館を見てそのまま足を踏み入れてしまい、食事はあとまわし…。『諸戸屋敷』のことをうかがい、「入館は4時までですから」とご注意をいただいたのが3時30分…、食事をしている時間はない。
 駐車場から車を出して、六華苑の北側の道を西へ回る。走ること2分…、『諸戸屋敷P』の看板を見つけて車を入れたのだが、六華苑のアスファルトに白線の区画がきっちりと引かれた駐車場と違って、砂利を敷いただけで区画もない。草ぼうぼうで1台の車も停まっていない…、いいのかなぁ。

 
 
 駐車場の横にあったレンガの塔→
   これ、何か解りますか?
   正解は 帰りに明らかになります。




 
← 駐車場から出て、赤レンガの塀伝いに歩きます。



 屋敷の中をのぞきながら塀の前を東へ歩き、左に曲がって正面に立った途端… 驚愕!
屋敷の正面。大門と本屋。【拡大】
この道の左に運河が流れている。


 車がそのまま入っていける正門の威風もさることながら、その右横に続いている本屋の豪壮なことはどうだ。間口15間、桧造りの総二階建、柱の太さは1尺5寸角もあろうかという威風堂々とした構えである。
 
圧倒的な壮大さに ホントの財産家とはこういうものかと、章くんはなぜか深く恥じ入ってしまった。そこらあたりの金持ちとは、わけが違う。
 この前の道は私有地である。道を隔ててその左側は運河が掘られていて、伊勢湾から積荷を載せた船が家の前に着いた
諸戸屋敷の前を流れる運河
【拡大】

 濃尾・伊勢平野、さらには江州(滋賀)から集められた米穀は赤レンガ倉庫に収められ、やがて相場の立った消費地へと船積みされていく。「五万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」
赤レンガ倉庫
と、
岡崎ッ子は家康生誕の地にある岡崎藩の格の高さを誇ってきたが、ここ諸戸家も玄関先まで船が着いた。


 人は、桁違いのものを目の当たりにすると、なぜか笑ってしまう。笑うしかないということか。
 30年ほど前、中日クラウンズにジャック・ニクラウスが特別招待選手で来たとき、章くんは4日間競技の全ての日にニクラウスについて回った。彼が3番アイアンで打ったボールの弾道の美しさに、章くん、思わず笑った。
 日本のプロのロングアイアンのように低い弾道のボールでなく、ビシュッと打たれたボールは途中からグーンと舞い上がり、まるでショートアイアンで打たれたかのような高さからストンと落ちて、和合の小さなグリーンにぴたりと止まった。それからしばらくの間、章くん、どんなにきれいなアイアンショットをしても、「こんなものじゃダメだ」と思い悩んで、ゴルフの調子が悪かった。


 話がそれてしまったが、章くんが笑うしかなかったという、初代諸戸清六の豪快さ…、その彼の生い立ちを、解説書やパンフレットから抜粋して簡単に紹介しよう。
 初代諸戸清六は江戸後期の弘化3(1846)年、桑名郡長島村の庄屋の家に生まれた(幼名を民治郎という)が、父清九郎が商売に失敗して身代を潰してしまう。一家は近在を転々としたが、やがて船馬町に落ち着くと船宿を営んだ。父親が早世したため、元治元(1864)年、清六は家督を継ぐこととなるが、そのとき受け継いだ財産といえば布団・衣類・道具と約二十石積の船一隻、そして一千両を越える莫大な借金であったとか。
 しかし、清六は母の米屋を手伝い米相場などを手がけて、約二年で借金を返済した。20才そこそこの清六が短期間で巨額の金儲けをしたのには秘密があった。
 清六は船頭や老農から教えられた情報をもとに、伊勢・美濃・尾張地方の翌年の天候を殆ど間違いなく予想して、米相場を張ったのである。巨額の資金を得た清六は、知遇を受けた大隈重信の勧めもあって鈴鹿山脈や丹沢山地の山林数千町歩買い集め、明治21年には日本一の大地主といわれていた。晩年には東京の恵比寿、渋谷、駒場などに宅地30万坪を取得していたという。
 『諸戸屋敷』と称されるこの邸宅と庭園は、室町時代にこの地で勢力を張った豪族矢部氏の邸宅(「江の奥殿」と呼ばれていた)跡であるとか。江戸時代の貞享3(1686)年、豪商 山田彦左衛門が隠居所として買い求め 造作築庭したものを、明治17(1886)年に清六が買取り、新たに庭園を増築して現在に至っている。


 予備知識はこれぐらいにして、お屋敷の中へ足を踏み入れよう。  
 
@ 本 屋

 本屋の受付で、入園券(500円)を求める。太い格子戸や欅の一枚板など、見るからに堅牢で豪壮な本屋は、明治22(1889)年、「諸戸店」開業時に店舗として使用された。清六は、玄関外の脇に三尺ほどの縁台を置き、せんべい布団に座っているのが常であったという。
 また解説には「自室には東海道線の時刻表を飾り、いつでも出かけられる支度がなされていた」とも書かれていて、彼の行動力がうかがわれる。



 
諸戸庭園パンフレットより【拡大】 ↓

@ 本屋
A 大門
B 玉突部屋
C 御殿玄関、車寄せ
D 推敲亭
E レンガ蔵
F 藤茶屋
G 菖蒲池、八つ橋
H 神祠
I 御殿、池
J 環濠(堀)

 
 

  
A 大門  明治27(1894)年ごろ、
          御殿の建築とともに建てられた →

  


← ゆうに車が出入りでき
 る大門をくぐって邸内に
 入ると、左右にモミジの
 並木が続く。



 
 
 その向こうに芝生が張られ庭石が配された小山が見える。「御殿」と呼ばれる客殿の玄関前の車廻しになっているのだ。

 
 
C御殿玄関
   
【拡大】
  







← B玉突部屋  御殿奥の洋館(非公開)とともに、来客を迎えるための建物である。
 


 
 明治23(1890)年、妻を亡くし商売も上手くいかずに気落ちしていた清六は、家相に詳しい佐野常民子爵の勧めを受けて、この御殿の着工を決意した。

           
玄関前の車廻し中央の築山に据えられている砲弾。 →
                日露戦争に米穀を供出したので、戦勝記念に
                下賜されたものとある


  


← 間口3間半、床は寄木張り。当時の外務大臣大隈重信の指図のもと、外務省の玄関を模している…とか。 ↓














 部屋の前の階段まで行って、玄関の間をのぞき込むことはできるが、上がり込んではいけない。




 玄関前の生垣の間に設けられたくぐり戸を抜けて、庭園へと足を踏み入れた。 
すぐにに小さな流れがあって
水が落ちている
【拡大】
竹垣の門 門をくぐると左手に
推敲亭が見える

 
D推敲亭は、江戸時代、この屋敷が山田氏のものだったころから、菖蒲池を見晴らす傾斜地にあった草庵である。3畳に小さな出床を設け、3面に障子を巡らせた開放的な造りで、狭さを感じさせない。名前の由来は、月を眺めながら詩歌を推敲したという伝承がある。傾斜地の石組みの上に、載せかけるように建てられている。 
 手前の石灯籠は、京都五条大橋の欄干擬宝珠を戴く「橋杭灯籠 (擬宝珠灯籠)」。


 ここで章くん、にわか雨に降られた。このまま進むにはちょっと大粒すぎる。推敲亭の縁側に腰掛けさせてもらい、パンフレットを読んだり、前に広がる菖蒲池の景観を眺めたりしながらパチリパチリとデジカメのシャッターを押していた。
 と、管理室の女の子が、ビニール傘を持ってきてくれた。お礼を言いつつ、まだ勢いを弱めない雨足に、さらに10分ほど推敲亭に座らせてもらっていた。この屋敷の入館は午後4時まで…。4時を過ぎた今、園内に他の人の影はない。


   
推敲亭から眺めた G菖蒲池の眺望【拡大】 →
       
左手に「藤茶屋」の入り口が見える。


 推敲亭から池へ下がっていく地形に沢飛石が打たれ、山間の渓流のような趣をかもしている。江戸時代には花菖蒲ではなく杜若(かきつばた)が植えられていたらしい。
 今年の菖蒲はあらかた終わっていて、ちらりほらりと花が残っている程度…、庭園の公開も明日までで、今年のシーズンももう終わりだ。

  

← 本屋から庭に突き出た形の「伴松軒」。
  推敲亭の右上に位置している。



 4畳半に1間床を加えた茶室で、露地は巨石を配し高低差を付けた大胆な設計である。 ↓













 雨足も弱まったので、傘を差しながら、庭内をめぐる。

  

 


← 石が敷き詰められた歩経路【拡大】














 菖蒲池の置石の上から
  振り返った「推敲亭」【拡大】 →


  










← 庭内の石畳【拡大】


 切石と玉石による延段で、新潟の大地主である伊藤家の庭園(現北方文化資料館)を参考にしたといわれている。
  



              
Eレンガ倉庫の裏側 →



庭は苔むしている















 やがて行く手に、大きな藤棚に囲まれた小屋が見えてきた。
 江戸時代、桑名藩主もよく藤見物に訪れたという「
F藤茶屋」である。 
 

  
部屋から藤棚を見たところ
前方正面が菖蒲池、その対岸に推敲亭





  
藤棚の下から部屋を…。【拡大】
貸してもらった傘が写っている。
  
















 茶屋の縁側に腰掛けて、ちょっと休憩…。あたりは
静か、雨上がりの緑がみずみずしい。






← 藤茶屋の前から、推敲亭をパチリ




     菖蒲池を渡る 八つ橋【拡大】















 八つ橋を渡ると蘇鉄山があり、その向こうに鳥居が立っていて、小さな祠が見えた。諸戸家の氏神をお祭りしているのだろうと写真は遠慮したのだが、あとで解説書を見ると市指定文化財…、菅原神社、伏見稲荷、玉船稲荷、住吉神社、金比羅神社を祀っているとある。水運・海運の祭神は諸戸家が舟を利用して商いをしていたからだろう。




 ← 【拡大】このあたりの敷石は畳1畳ほどもあろうかという青石。
  この石は、志摩の桃取島(鳥羽市)から取り寄せたという。





 溝渠から水を引く
 水路に掛けられた
 青石の橋。 ↓
 でっかいよ【拡大】














   
屋敷の西側と北側に掘られて
  いる溝渠。その外側にレンガ塀
  がある。          →


 池庭へ水を引くこととと防備のため造られていた。通常は塀の外に溝を掘るものだが、清六の発想は、塀を乗り越えた賊が水路に落ちるというものであったらしい。
 揖斐川と結ばれているので、入ってきた魚を1ヶ月に1度さらえて、使用人と食したとか。
 
 


← I 御殿 【拡大】


 木造平屋入母屋造で西本願寺をモデルとしている。庭がよく見えるように、柱は少なく床が高い。

  
  
 





 
 32畳敷の座敷 →。 天井は格天井、壁面は群青地に金で霞をたなびかせた絢爛豪華ないでたちである。



 


       
御殿前の池庭【拡大】 →


 推敲亭と菖蒲池が山田氏所有の江戸時代からあったのに対して、この御殿とその前の池庭は、初代諸戸清六が明治23年から手がけ、数年をかけて完成した。
 ここはもと水田であったのを埋め立てたもので、海抜0以下の低さとか。そのため流れ込む揖斐川の干満の影響を受け、池の水位が上下して、刻々と変わり行く景観を味わう「汐入りの池」であった。干潮時には池の周りに白砂を敷いた浜辺が現れるなど、満干で景観が違う工夫が凝らされていた。現在は水門が閉じられているため水の変化はないが、再開の計画があるとか聞いて楽しみにしている。
 御殿の庭は、松と石を配して、菖蒲池の江戸期の庭園とは全く趣の異なった造りとなっている。鳥羽や志摩から運んできた見ごたえのある大石や青石などが置かれて幽玄な趣があり、中央の雪見灯籠辺りの雰囲気は、酒田の本間家別邸「鶴舞薗」を参考にしたとか。


【拡大】手前に白砂を敷いた岸辺が見える。
 水位が上がると、この岸辺は水没して池が
 広がる。



池にかぶさる松の木の
太さも、半端じゃない。



 日本一の大地主となった明治21年、清六は日本中の大地主10数名を選んで、造園だけでなく、思想・処世・人生観などについて教えを請うための旅に出ている。
 日本一になってこその謙虚さであろうか。その謙虚さが、清六を日本一にしたのかも知れない。


 庭園をあとにして、本屋の受付に傘を返しに行った。受付の後ろに焼き物の展示棚があり、その上の壁に初代諸戸清六の遺訓が貼ってあった。
 『 … 1. 飯は熱いものは食する二時間がかかるから、冷や飯をひと口ほどの握り飯にして、仕事の合間に手早く食すべし』…、時間を惜しんで働いた清六の基本姿勢であろう。
 『 … 1. 仕事のある間は、飯など食うべからず』…、その通りだ! 章くん、今日は朝からまだ何も食べていない。やらなきゃならないことがある間は、飯など食わない…章くんは、日本一の大地主になる可能性があるんじゃないか。
 『 … 1. 人に接するには、へりくだり、つつましやかに振る舞うこと。驕りや誇りは、一銭の金も生み出さない。』…という一項に来て、章くん、日本一の金持ちになることをあきらめた。
 20代のころ、得意先の学校の先生を捕まえては「勉強が足らんわ」と言い放ち、30代では教育図書の値引きを違法だと言う全国図書教材教会と新聞紙上で大喧嘩…、相手を黙らせてしまった。40歳のとき、取引先の信用金庫の専務理事に「今月の返済が足らんのは貸手責任ろや。いちいち電話して来んと、自動的に貸し越しといたらええんや」と言って、「飯田さんは絶対に謝らんなぁ」とあきれさせ、50歳代では初対面の自民党県連の幹事長に「この組織は腐っとる」と言いたい放題…、横にいた政調会長に「あんたはホントに恐いモンなしやな。わしゃもう知らんわ」と匙を投げられてしまっても、全然反省がないのだから、清六の道は踏襲できない。


 駐車場へ戻ると、往きに「何だ、こりゃあ」と思った、レンガの塔が待っていた。しかし、今や『諸戸屋敷』の全てを知り尽くした章くんに死角はない、
 初代諸戸清六が、私費で上水道を造って桑名の町の人々に市民に無料で給水していたという話は、その@に書いたが、この塔はその貯水塔であったらしい。諸戸家のものでなく、町の人々に給水する施設であったとか。


 セフレへの… いや 成金への道をあきらめた章くんの、桑名探訪はつづく。


 午後5時、
九華公園に到着。駐車場の横に「柿安」のレストランがあるのだが、『飯はあとにしろ』という清六翁の声がどこかから聞こえてきて、明るいうちに公園の見物を済ませることにした。


 九華公園は、もと桑名城の城跡である。関が原の戦いの翌慶長6(1601)年、本多忠勝が10万石で入封して城下の町割(都市計画)をするとともに、城郭の拡張整備を行なった。
 元和2(1616)年、忠勝の孫である忠刻は徳川家康の孫娘である千姫と結婚し、千姫は桑名城内に住んでいた。
しかし翌元和3年に本多家は姫路城に移封となり、松平(久松)定勝、寛永12(1635)年に松平(久松)定綱、宝永7(1710)年に松平(奥平)忠雅、さらに文政6(1823)年に松平(久松)定永が城主となり、幕末を迎えている。慶応4年=明治元年(1868)の戊辰の役・蛤御門の変で新政府軍を相手に奮戦するのは、この松平藩である。




 桑名城(扇城)は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができ、堀は海水で満たされていた。
 天守閣は四重六層の勇壮なものであったが、元禄14(1701)年の大火で消失し、以後は再建していない。
 明治維新、桑名藩は幕府方についたため、官軍に城の一部を焼かれ、明治4(1871)年に城は取り壊された。
  
             
「三重県指定史跡 桑名城跡」の石碑 →


 園内に松平定網公(鎮国公)と松平定信公(楽翁公・守国公)を
まつる「鎮国守国神社」がある。松平定信は寛政の改革を成し遂げ
た名君だが、なぜ定信を祭っているのか…。
 後日、城主の系図を紐解いて始めてわかった。寛永12(1635)年に
入封した松平(久松)定綱は定信の先祖であり、文政6(1823)年、奥
州白川藩から移封した松平(久松)定永は定信の嫡男である。
 定永は、定綱と定信を国と家の守護として「鎮国守国神社」にま
つったのだが、定永の桑名入封後も、定信(1759〜1829)は高齢であったので桑名に出向いたことはなかった。


← 「鎮国守国神社」の横にある稲荷社


 清六の弟子になりそこなった章くん、お稲荷さんに願掛けして一攫千金を目論んだのだが、「こらキツネ、賽銭あげるんやから、十億倍にして返せよ」と相変わらずの傲慢さだから、お狐様も迷惑なことだったろう。
 願掛けしている章くんの横を、浴衣姿の若い相撲取りがパンクしそうな自転車をこぎながら通り過ぎていった。名古屋場所が近いからか…。

 
 
 二の丸跡まで渡ることもあるまいと思い、本丸跡を通って辰巳
櫓跡へ登ってみた。


            
本丸跡の菖蒲園。対岸は二の丸跡 →

  







← 吉の丸から本丸へ戻る橋の
 途中に設けられた東屋。

 
 辰巳櫓から撮ったもの。辰
 巳櫓には、大砲が据えられて
 いる。


  
 







 辰巳櫓から本丸跡を突っ切ると、「柿安」の裏手に出る。
さあ、ご飯だ、ご飯だ…! 肉鍋を頼んで待つことしばし…、この柿安新館は肉類を中心としたフードセンターを開店している。章くん、館内の青果売り場でスイカの8分の1カットを買ってきて、かぶりついた。それを見て、ウエイトレスの子がスプーンを貸してくれた。こうして章くん、本日初めての食事にありついたのである。


 諸戸清六の成功の秘訣は何だったのだろうか。清六の事跡をたどってみて思ったことは、月並みだけれど、「ひとつのことに一生懸命に取り組んだ」ということだろう。彼が残した『遺訓』を読んでも、愚鈍なばかりに月並みである。その月並みなことを愚鈍に貫けるかどうか、それこそが諸戸清六の最大の偉業なのだ。
 もうひとつ、彼は人間が好きであった。夜行列車で出かけるとき、1等の客に話し相手が居ないと2等車両へ出かけ、そこでも面白い話が聞けなかったら3等の乗客の中へ入っていって、いろいろな話に興じたという。彼の情報の源でもあったのだろうが、仕事だとか思っていてはとても続くものではないし、また生の話を聞けるものではない。彼が見ず知らずの人の心の中へ入っていって、打てば響く付き合いができたからこその付き合いであった。
 人間に対する興味… それこそが、尾張・美濃・伊勢・江州の毎年の気候状況を言い当てて外すことがなかったという清六の、、世の中を分析する情報の源泉であったのだろう。




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