【131】 
越中おわら風の盆 
   2007.09.01-02
  
 早朝5時、津を出発して富山まで行ってきた。北陸路に秋を告げる、越中八尾(えっちゅうやつお)「おわら風の盆」…、胡弓の奏でる物悲しい調べに乗って男女が踊るこの催しを、一度、見たいと思っていたのだ。
 伊勢道から東海北陸道を走り、途中、随所で休憩しながらゆっくりと走って、午後3時すぎに到着した。「ゆめの森」指定駐車場に車を置いて シャトルバスで町中へ…。


 すでに それぞれの町内で 町流しが始まっていて、踊り手と地方の何人かが一組になって 町中を踊りながら流していく。流しの人数は、数人から数十人…。
 風の盆は、お祭りというにぎわいとはちょっと違う。盆と言うから、盆踊りの風情といったところだろうか…。でも、この行事には、踊りの優雅さと相まって、歌の文句の粋さや節回しの妙、そして何よりも地方の楽曲の哀調も特筆すべき素晴らしさなのである。


← 昼間は、子どもたちも踊る。
  


 午後5時を過ぎると、踊りはしばらく休憩…。夜に備えて、食事をとったりするらしい。章くんも、駅前通りに並ぶ屋台店をのぞいて、ベビーカステラやコーラを買い込み、資料館などを見学して歩いた。
 「おわら」って何だ…と調べてみたら、『文化9年(1812)の秋、遊芸の達人たちが滑稽な変装をして新作の謡を唄いながら町練りを行い、謡のなかに、”おわらひ”という語をさし挟んで唄ったのが”おわら”に変わったという「お笑い節説」。豊年を祈り、藁の束が大きくなるようにとの思いから”大藁”が転じて”おわら”になったとの「大藁節説」。八尾近在の”小原村”出身の娘が女中奉公中に得意の美声で唄った子守歌が起源だとする「小原村説」等が語源とされています』。
 ついでに、「風の盆」とは…と見てみると、『立春から数えて210日にあたる日が台風の厄日とされてきたことから、風の災害が起こらないことを祈る行事として「風の盆」という呼び名が付けられ、豊作を祈ると共に風災害の無事を願い、この時期に設定しました。』とある。
 

 午後7時、すっかり暮れた山間いの町に、再び胡弓の音が流れ、各町で夜の踊りが始まった。


   ぼんぼりの灯に千人を超えるといわれる踊り手たちが
  幻想的に浮かび上がり、優雅な手舞いで見物の人びとを
  魅了する。                   →

 


   
 町流しの踊り歩く様子を見物しながら町々を通り抜け、八尾小学校にたどり着くと、グラウンドに設けられた演舞場では、各町内ごとに時間を変えて演舞会が繰り広げられていた。
 各町内ごとに 男女の踊り手の衣装が違うのも楽しいが、地方の衣装も、また演奏の方法・調子も 少しずつ違うようだ。それぞれの町内に伝わる踊りや演奏方法というのがあるのだろう。


  ↑ 女の人の帯が黒いのにお気づきだろうか。
    これは昔、女性の衣装を揃えるとき、帯までの費用がなかったため、どこの
    家にもあった 冠婚葬祭用の黒い帯を締めて踊ったことに由来するとか。



  八尾では、各町内で幼い頃から子どもたちに踊りを教えるというから、八尾の人たちはみんな踊りの達人である。25歳になると、踊り手を卒業していくのだと言っていたので、踊っている人たちは、全員25歳以下の若い子たちだ。
 でも地元の人は、25歳という円熟の域に達した頃に踊りをやめていくのは惜しいとも言っていた。少子化の時代、いずれ踊り手が足らなくなって、定年延長かも…。(もちろんOB・OGの皆さんが、自前の浴衣で一般の観光客たちと一緒に踊りの輪に加わるのは自由だ。あでやかな浴衣姿も、風の盆に彩りを添える。)
 ぼんぼりの灯りに照らされて踊る娘たちの踊り姿は、どこかこの世のものとは思えぬ美しさが漂う。夜目、遠目、傘の内…と、女性が美しく見える条件の全てをそろえている風の盆の踊り手さんたち…、哀愁の越中おわら節の曲調と相まって、優雅で幻想的であった。
 
 現在の「おわら風の盆」の成り立ちを、記念館のパンフレットから紐解いてみよう。
 『「おわら節」は、上句七七、下句七五の歌詞とお囃子が交互に掛け合い、下句の七と五の間には「オワラ」と合いの手が入ります。
 …略… 昭和3年、「おわら風の盆」を再構築しようという動きが地元で起こり、日本画家の小杉放庵さんが八尾に招かれました。小杉さんは、まず八尾の冬の状況を歌詞にしました。それが「もしやくるかと 窓押しあけて 見れば立山 オワラ 雪ばかり」です。
 冬の歌詞がきっかけとなって、春夏秋冬を唄う『八尾四季』が誕生しました。春の歌詞は「ゆらぐつり橋 手に手をとりて 渡る井田川 オワラ 春の風」。夏は「富山あたりか あのともしびは とんで行きたや オワラ 灯(ひ)とり虫」。そして、秋は「八尾坂道 わかれてくれば つゆかしぐれか オワラ はらはらと」です。
 さらに『八尾四季』にあわせて、新しい踊りが作られました。振り付けたのは舞踊家の若柳吉三郎さんです。それが女子の「四季踊り」であり、その後、男子の「かかし踊り」も振付けました。
 小杉放庵さんの「八尾四季」という歌詞が、今の「おわら風の盆」につながっているという点から「八尾四季」はぜひ聴いていただきたいですね。「富山県民謡おわら保存会」では毎年、新しいおわらの調の歌詞を募集しているので、歌詞は数千におよびます。』とある。 
 
 阪の町「八尾」の町中を行くと、家々の軒下に溝があり、川水が気持ちいい音をたてて流れている。これが「エンナカ」と呼ばれる側溝で、冬に屋根雪を流し運ぶための知恵である。『残したい日本の音風景100選』にも挙げられている「坂の町に流れる用水音と、もの悲しい祭の音色に酔う エンナカの水音とおわら風の盆」の風景なのだが、この雑踏では妙なる水音を楽しむというわけにはいかず、かすかな水音に耳を澄ます。

 夜の暗さの中、電燈や行灯の明かりに浮かぶゆったりとした舞い姿は、物悲しい胡弓の音と相まって、実に幻想的であった。
 日付けが替わるころ、まだ どこかから胡弓の哀調が聞こえる八尾の町をあとにして、深夜 富山へ入り「ダイワロイネットホテル富山」にて宿泊…。



 



 2日は北陸道で金沢へ出て、少し早い目の昼食。久しぶりに「兼六園」を歩き、越前海岸を南下して「東尋坊」へ立ち寄ったりしながら、夕刻に敦賀へ入った。
 おなじみ「日本海さかな街」をのぞき、「かに喰亭ますよね」で魚尽し…、大満足。



 その翌日、3日は
疲れが出たのか、午後2時ごろまで寝ていて、食事をしてから、またソファーでごろごろ…。見るともなくテレビや録り溜めてあるビデオを見ながら 夜の9時になってしまい、ご飯を食べて、また寝た。 その翌日も…、まだ眠い。
                      



【130】 
志摩市神明 割烹「千福」          2007.08.25
 
「千福」の店主 マルちゃん
店主のマルちゃん

 
志摩市阿児町神明に、その日に安乗や波切漁港に揚がる、いわゆる前ものを素材にしている割烹店がある。季節料理「千福(ちふく)」…、長年の間、松阪で開店していたのだが、より新鮮な材料を求めて、志摩へ移転した。店主の『マルちゃん』の人柄を贔屓にして、松阪時代の客が志摩へと足を運んでいる。かくいう章くんもその一人だ。
 予約を頼んだ電話で「今日はアジが釣れました」と聞き、カウンターに座るやいなや、つくりとタタキを頼んだ。30pはあろうかという大物で、一本釣りしてきたという。
 姿造りの刺身は、盛り付けた尾びれがビクピク…。一切れが大きく、コリコリとした歯ごたえがある。タタキはせっかくの新鮮な大物だから、細かく刻むのでなしに薄造りほどの大きさの切り身を、ショウガ、ネギ、少量のニンニクを混ぜてポン酢で食べた。食べるのに夢中で、写真を撮るのを忘れた。

カツオの造り
← 赤身好きの章くんは、カツオの造りも頼んだ。



 一緒に行った進ちゃんが、「海老のガーリック・マヨネーズ焼き」なる一品を頼んだ。マヨネーズで焼き上げた海老を、ガーリックトーストに乗せて食べるのだ。焦げたマヨネーズの味が海老の臭味を消し去り、焼き海老の風味がガーリックトーストと妙にマッチして、パン好きな章くんの味覚をくすぐるうに汁




 
    ここで、ちょっと口を漱ぐのに汁物を…、「うに汁」 →


   煮立てて開いたウニの姿が、紅葉したモミジに似ているところか
  ら、モミジ汁とも言う。2片の小ムツが、あっさりとした味を添え
  ている。


 次、↓これは
キムチ鍋

 これが全く辛くない。豚のバラ肉と白菜キムチ、取り合わせの野菜を煮立てた鍋なのだが、味付けに秘密がある。
 右側の写真、猫が守っているのは「ラー油」だ。石垣島産の『島ラー油』なる逸品で、その香ばしさは千福特製キムチ鍋を、鍋の底まで一気に空にさせる。






← マルちゃんと2人で店を切り盛りする 奥方のミヨちゃん


 そして、ご飯は「石焼海鮮丼」だ。味ご飯をベースに、カツオ・アジ・サンマ・イカ…などが山と盛られていて、真ん中の卵の黄身を潰しながら中身をかき混ぜる。よく焼けた石の容器の高温に触れると、ご飯も魚たちもこんがりと焼けてそこはかとない風味をかもし出す。石焼海鮮丼




 津からは、伊勢道を走って玉城ICで降り、サニーロードを南下して五ヶ所を経由、桧山路を鵜方へ出る。所要時間は1時間と少々…、「いいものが揚がったら、電話してね」と頼んできたから、これからは月に1〜2度は通うことになりそうだ。





【127】 
2007 京都 祇園祭  −都大路に響く祇園囃子−      2007.07.16-17

八坂神社の四条通の西楼門は、修理工
事中で、白いカバーで覆われていた。 
今年(19年)の秋の完成予定とか。




 台風4号もさしたる被害ももたらさないままに本州の南海上を東へ抜けていった16日、友人が祇園祭の見物がてら、久しぶりに一席設けてくれるというので、京都へ向かった。
 午後4時前に着き、友人宅(三条大橋のたもとで旅館をやっている)へ車を入れて、まずは八坂神社にお参りに出かけた。

  





 祇園祭は、八坂神社のお祭りである。7月1日の吉符入り(打ち合わせ)から始まり、くじ取り式、お迎え提灯などを経て、16日の宵山、17日の山鉾巡行でクライマックスを迎え、種々のあと祭りを繰り返したのち、31日に八坂神社境内の疫神社にて夏越祭を執り行って納めるという、1ヶ月間に及ぶ祭礼である。


← 祭りの期間中、境内では神輿洗い式をはじめ、さまざまな行事が行われている。



 夕食は「たん熊」へ…。
午後5時と、少し早い時間だけれど、食事のあと、宵山見物に繰り出す予定だ。
たん熊

鱧の落とし

卵とじ



宵 山

 
 辺りがようやく夕闇に包まれるころ、それぞれの山鉾の駒方提灯に灯が入り、町に祇園囃しが流れ出す。


                   
第一番、「長刀鉾」 →


 祇園祭の起源は、遠く800年代の昔、平安時代の初期に、京の都を初め全国に疫病が流行した際、疫病退散を祈願して始められた「祇園御霊会」であるという。
 一番鉾に、毎年、この「長刀鉾」が巡行の先頭を行くのは、悪霊を切り従えて退散させようという願いが込められているのだろうか。


 写真では全く伝わらないのが残念だけれど、祇園祭は目で見て楽しみ、耳で聴いて楽しむ祭りである。
 お囃子の鉦、太鼓、笛…、この祭りに集う人々の思いがひとつになって、宵の都大路を流れていく。













  大通りだけでなく、細い路地を曲がっても
 「山」に出くわす。


 




← お囃子の一番賑やかな鉾がやってきた。
「月鉾」だそうです。



「鉾と山」→ http://www.kyokanko.or.jp/3dai/gion_2.html 参照
 
 
  こちらでは、「月鉾」のオリジ
  ナルグッズを販売している。→

 


 「オリジナルグッズって何だ?」と思い覗き込んでみると、「ちまき」って書いてある。
 「お腹も空いてないし、いらないなぁ」と言ったら、案内役の明子(めいこ)さんに、「ちまきは食べるものやなくて、疫病除けのために飾るお正月の「お飾り」みたいなものどすえ」と説明を受けた。
 三条大橋近くにある旅館の娘で、今は女将に納まっている明子さんは、章くんの京都時代の盟友である。金がなくなって腹が減ると、彼女の家に上がりこんで食いつながせてもらっていたのだから、命の恩人でもある。
  
 曳き子と呼ばれる30〜40人ほどの人たちが引く山鉾が、にぎやかに通り過ぎていく。各町内の子どもたちも、おそろいの浴衣で 粽(ちまき)・御札・お守りを販売するお手伝いをしている。町内が…市民が…、一体となって真夏の古都のページェントを楽しんでいるようだ。
 今年は台風4号の影響が懸念され、前日から、提灯が倒れないようにロープで四方をくくる作業などもしたそうである。
 



 コンチキチン〜の祇園囃子に送られて、三条河原を歩いてみた。
 川面に灯りを映す川べりの店は増えたようだけれど、行き交う人々の群れも、川端に座る二人の影も、ン十年前と変わらぬ夏の風情であった。


← 川床や屋台店の並ぶ三条〜四条河原





 
 
 
 
山鉾巡行

  
 明けて17日、今や祇園祭のクライマックスとなった山鉾巡行が行われる。
 巡行は、午前9時、四条烏丸から長刀鉾(なぎなたぼこ)を先頭に、河原町通を経て御池通へ向い、午前中にコースを一巡する。
 山鉾の順番は、室町時代から競争を避けるために「くじ取り式」で決められる。ただし、先頭の長刀鉾、5番目の函谷鉾、21番目の放下鉾、22番目の岩戸山、23番目(さきの巡行の最後)船鉾などは「くじ取らず」と言われて、順序があらかじめ決まっている。
 途中、「注連縄(しめなわ)切り」「くじ改め」など古式豊かな仕儀や、豪快な「辻廻し」などで見せ場を作り、豪華絢爛な一大ページェントが繰り広げられていく。
 章くんは、保険会社の4階に席を取ってもらい、行列を待った。


 第一番の「長刀鉾」がやってきた。この鉾の屋根の上に据えられた長刀の長さはハンパではない。


  「長刀鉾」に乗る稚児は、生き
  稚児である。(他の鉾の稚児は、
  全て人形)         →



 「長刀鉾」の稚児は、先頭を行く鉾としての最も重要な儀式
「注連縄(しめなわ)切り」を行い、結界を破って後に続く山鉾の進行を促す。


 
稚児は、祇園祭の生神(いきがみ)様。1ヶ月以上前の6月8日、町内の10歳前後の子どもの中から、2名の禿(かむろ)とともに選ばれるのだが、それから目白押しの日程をこなさなければならず、八坂神社参拝・市長表敬訪問・記者会見・稚児舞の練習・神事などなど、なかなか大変な役割である。
 
例えば、6月18日に行われた「社参の儀」の仕様を見ると、『稚児が大名(正五位少将十万石)の位を授かる大切な日です。白馬にまたがり大勢のお供を従え、八坂神社へ向かいます。お供は武士の家来役なので、全員裃姿で参列します。稚児は蝶蜻蛉の冠と金烏帽子を身に付け、神の使いへとその姿をかえていきます。禿もこの日は侍烏帽子の冠を付けます。稚児を護る武士の役目を担っているのです。この日から山鉾巡行のお務めを果たすまで稚児は神の使いとされ、地面に足をつける事も許されません。馬上の稚児はそのまま稚児家へと進み、長刀鉾町理事長から祝いの言葉を頂いた後、稚児家主催の「直会」が行われます。稚児達は厄除けの稚児餅を頂きます。』とある。まさに、祭りのシンボル的な存在なのだ。


← 子どもたちに引かれていく花山


 祇園祭の本来の神社行事は、山鉾巡行で浄められた四条寺町にある御旅所へ、八坂神社から「東御座(ひがしござ)」「中御座(なかござ)」「西御座(にしござ)」の神輿3基を召した神々が、各氏子町を通って渡る「神幸祭」である。
 神社の神輿とともに、各町内からもさまざまに飾り立てられた花みこしや花山が出る。
 八坂神社の神々は、この夜から7日間 町中に滞在される。その間は八坂神社はお留守だから、参拝しても無駄である。24日の夕方に御旅所から八坂神社に戻られる「還幸祭」が行われ、 往路とは違った道を練り歩き、夜12時近くに八坂神社本殿にお戻りになられる。
 大神輿は一基3トンもあり、約300人が交代で担ぐ。


    
山鉾について、章くんたちも
     四条→河原町→お池通りへと歩いた。 → 


 



 32基の山鉾は、いずれも豪華絢爛…。28基が重要文化財だとか。


 見所の一つは辻回しと呼ばれる鉾の交差点での方向転換である。鉾の車輪は構造上方向転換が無理なため路面に青竹を敷き水をかけ滑らして向きを90度変える。


 一旦止まった鉾は、音頭取りの掛け声「エンヤラヤー」で再び動き出します。     →





 山鉾の周囲の刺繍を「胴掛け」、後ろにたらしたものを「見返り」と言うが、その美しさ・豪華さも見もののひとつである。


← 菊水鉾の見送りは
 クジャクだ。






 ひとつの鉾には、稚児と禿、その世話方、10数人の囃し方、2〜4人の屋根方、2人の音頭取りらが乗っている。その総
重量は10数トン…、それを棟梁の指揮のもと、車方などの
応援団とともに、30〜40人の曳き手が引っ張り、踊り子
たちが後ろを付いて歩く。


 屋根に鎌を上げたり羽を広げたりして動くカマキリが乗せられた「蟷螂山」は子どもたちの人気の鉾だし、棒振り囃子を踊
る子供たちの姿も愛らしい。


 山鉾巡行が終わると、あとは24日に花傘の10余基が練り出し、京都花街のきれいどころの踊り、鷺舞、六斎念仏、子供御輿、祇園ばやし、稚児など総勢千人の行列が続く「花笠おどり」などを経て、31日の八坂神社境内での疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしまつり)で、全ての行事を終える。
 
 

貴 船


 
午後1時、昼食に貴船茶屋の「右源太」へ。一帯は、貴船川の流れに沿って、20軒ほどの店が川面に床を並べている。
 
座敷の下を川が流れているというだけで、いかにも涼しい。
 川床は、鴨川では「かわゆか」、貴船・高雄では「かわどこ」と読むのが一般的とされる。




← 料理は季節感のある食
 材が吟味されている。


 
 

 食事中の方をパチリ…→


 奈良期に造営されたと伝えられる貴船神社は、雨水を司る水神を祀っているが、縁結びの神様もおわすところとしても知られ、和泉式部も恋の歌を奉納祈願している。
 京都市内よりも、4〜5℃は涼しいといわれ、この日も訪れる客は多かった。
 あたりは深山幽谷のたたずまい…、今度は夜に来ることにしよう。
    





【126】 亀山城址  肉のむかい              2007.07.09


 友人のオフクロさんが亡くなった。その日、大阪にいた僕は、お通夜にも告別式にも出席できなかったので、49日が過ぎた今日、精進落しと激励会を兼ねて、亀山の「むかい」で一席設けた。
 予定の時間より少し早く亀山に入ったので、4月の三重県中部地震で石垣が崩落したという亀山城跡を歩いてみた。


 ← 亀山城に、往時のまま残る「多門櫓」。【拡大】
   三重県に現存する唯一の城郭建築である。
   手前左の土塁はもとからのもので、石垣が崩れたわけでは
  ない。4月の地震での崩落現場は、別のところだ。



 日本史の古い時代から、亀山は上方と東国を結ぶ街道が通り、鈴鹿峠を押さえる交通の要所であった。
 亀山城は、文永2年(1265、鎌倉時代)に伊勢の平氏残党の乱を平定した関実忠によって、伊勢国鈴鹿郡若山に築城された古城に源を求めることができる。 南北朝の時代、吉野へ向かう北畠氏を助けた縁をもって伊勢国司北畠氏に味方。貞治年間(1360代)には五人の子が分家し、亀山、神戸、国府、鹿伏兎(かぶと)、峯の各城を居城とする関五家と呼ばれたが、その宗家の居城として、この地を治めてきた。
 弘治年間(1550代)に関盛信は佐々木六角に攻められ、蒲生定秀の縁を得て和睦。永禄10年(1567)の信長上洛時、その軍門に降った。しかし、盛信は元亀2年(1571)の長島一気に通じ、捕らえられ幽閉される。
 天正10年(1582)に幽閉を許されて信孝の四国平定に参陣するも、本能寺を知るや亀山に戻って息子を還俗させ、蒲生賢秀の娘を嫁に迎えた。以後、蒲生の家臣となって、蒲生氏郷が伊達政宗の抑えとして会津42万石に転封されたときもこれに随臣した。
 豊臣秀吉と柴田勝家の争いの際には秀吉方につき、一時、滝川一益に城を奪われたが取り返している。



 亀山城が現在の地に遷された年は定かでないが、関氏が城主であった時代であることは確かだ。天正18年(1590年)、世は豊臣秀吉の治世となり、関一政が蒲生氏郷の会津への転封に付き従って、陸奥白河(福島県)へ国替えとなった。鈴鹿郡一帯の三万余石と北勢地方の四万石の合計七万石を豊臣秀次が管轄することとなり、秀次の代官である沢善蔵は関宿で治政を担当し、岡本宗憲は亀山城に入って軍務を担当した。
 亀山の地は、これまでの戦乱で荒廃がひどかった。合戦の形も、これまでのように一人ひとりの武士が刀や槍で獅子奮迅の働きをする戦いでなく、鉄砲を使った集団戦が主力となったことも踏まえて、宗憲は天正18年から城の改築にとりとりかかる。亀山の旧館(ふるたち)にあった善導寺の巨刹、あるいは豪商の与助なる者の鍛冶工場の建物を強制的に取り壊し、新城の建築資材に充当すもなどしたという。
 こうして宗憲は亀山新城の築城につとめ、本丸・二ノ丸・三ノ丸を整え、また天守閣を置いて、のちに亀山の「胡蝶城」と賞賛される城の原型を造り上げたのである。丹陵城と呼ばれた若山城(もとの亀山城=亀山古城)は西北方の防備のため残され、いま、ここは住宅地と公園になっている。


   天守台南面の高石垣は、直高14.5メートルもあり、野面石
  (自然石)を牛蒡積みとした中くぼみの扇形勾配で、堅固・優美
  さを備えており、四百余年の風雪に今も耐えている。【拡大】



 岡本宗憲の名前は、秀吉の朝鮮出兵に際しての舟奉行に見られる。15万余名の日本軍将兵の大軍団を無事に朝鮮半島へ送り届けるだけでも大変だが、同時に、武器や弾薬、食糧、建築資材なども輸送しなくてはならない。これを担当したのが、鳥羽水軍の九鬼嘉隆や、藤堂高虎、加藤嘉明ら十将で、岡本宗憲も亀山から兵五百人を伴い、この水軍に所属して輸送を担当した。
 しかし、宗憲は関が原の戦いで西軍に加担して敗戦…、自刃…。


 その後、関が原の戦いで井伊直政の陣中で武勲を立てた関一政が、再度城主となるが、慶長15年(1610)伯耆黒坂(鳥取県)に転封され、元和3年(1617)家中内紛のため改易。しかし、養子(一政の弟勝蔵の子)の関氏盛が近江蒲生で5000石を与えられ、家名を存続している。


← 石垣から崩れ落ちた石が歩経路にごろごろしていた。
  石垣に積まれている石の大きさは、大阪城や名古屋城に比べれば
  もちろんだが、先日訪ねた松阪城に比べてもずいぶん小さい。


 
関氏の移封後、亀山の地は三宅・関・松平忠明・水谷・三宅譜代大名が目まぐるしく交替した。江戸初期の寛永9年(1632)、三宅康盛のとき、幕府から丹波亀山城の解体を命じられた堀尾忠晴(松江城主)が間違えてここ伊勢亀山城の天守閣を解体してしまい、以後、再建を願い出るが許されず、天守が再現されることはなかったと伝えられている。
 寛永3年(1363)本多利次が入城して、城の大修理を行い、天守を失った天守台に多聞櫓を築造した。その後も、石川・板倉重常と続き、延享元年(1744)、次の石川総慶が備中松山(岡山県)から6万石で入封、以後11代続いて明治を迎えている。


  



← 丘陵の上に建ち、白壁の櫓・門・土塀などを連ねる景観が、
 蝶の群れとなって舞う姿にたとえられ、「粉蝶城」とも呼ばれ
 る優美な城であった。【拡大】


 江戸時代においては、亀山城は伊勢亀山藩の藩主の居城であつた。またこの時期の亀山城は幕府の旅館としての役割があり、上洛する徳川家康、秀忠、家光などが本丸を休泊に利用している。このように本丸は徳川氏の休泊に度々利用されていたため、城主居館は二の丸におかれていた。



 
 
    
石垣の上に登って、多門櫓の横から亀山の町を見る →


  正保年間(1644〜47)、天守台に平時は武器庫として、戦時は
 防戦用として利用するための多門櫓が建てられた。
  明治期には士族授産の木綿緞通 (もめんだんつう)工場として
 使用されたため破壊されずに現在まで残った。





 
石垣の上からの展望…。 
水堀跡 【拡大】 すぐ下の西の丸跡は亀山中学


 明治維新以降は、明治6年(1873)のいわゆる廃城令によって、ほとんどの構造物が取り壊され、堀も埋め立てられた。このため現在は、天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁など、一部が残るに過ぎない。
 ただ、多聞櫓は原位置のまま残る中核的城郭建築として三重県下では唯一の遺存例であり、現存する多聞櫓として全国的にも数少ない存在であるため、本丸南東の天守台と多聞櫓本体を併せて、三重県の指定文化財「旧亀山城多聞櫓」に指定。また、二の丸御殿玄関は、西町の遍照寺本堂に移築されている。

  

← 2007年4月、三重県中部地震により崩落した
 天守台の石垣の一部。シートが掛けられている。
 【拡大】


 崩落箇所は1972年の台風被害の補修で新たに積んだ部分のみで、江戸時代初めごろ穴太衆(あのうしゅう) によって築かれた古い部分には一切被害はなかった。

  
 







    天守台からの階段を下りたところに館があって、石碑に
       「史蹟 明治天皇亀山行在所遺構」と彫られている →


 明治天皇の行幸の際、ここにお立ち寄りになられたのだろうか。
 それにしては、保存状態がお粗末な館である。

  



← 亀山市練武館

  





             亀山神社【拡大】 →




 江戸川乱歩は2歳のとき、名張市から亀山へ移り住んでいる。その頃のことを、『…高台に町があった。そこの石の鳥居のお宮さんに、祖母と遊んでいると、下の方からピイッと笛の音がして、おもちゃみたいな汽車がゴーッと走って行った、それがこの世で最初の記憶。二歳、伊勢の国亀山町在住の頃である…』(乱歩打ち明け話)と書いている。
 文中の『石の鳥居のお宮さん』とは、この亀山神社のことではないか。それにしても、2歳の記憶を本に書くとは、さすがは江戸川乱歩である。


  


【拡大】 亀山城裏手は深く落ち込んだ谷になって
 いて、急峻な斜面の下は水堀の名残の池が広がり、
 一帯は公園になっている。 【拡大】



























 この堀の北側一帯の若山が、鎌倉時代、関一族が築いた旧亀山城(現在の亀山城と区別するため、亀山古城と呼ぶ)の遺構であろう。現在の若山は、住宅地と亀山公園となっいる。
 亀山古城の跡を示す石碑,案内板は亀山神社から北東、直線距離にして500〜600mの住宅地の中に建っているが、石碑の背後の丘には遺構は残っていない。案内板にも、亀山古城の城域は特定されていないと記されている。





【秀吉軍の亀山城攻め】 平成18年放映の大河ドラマ「功名が辻」で、武田鉄矢が演じる山内家家臣「五藤吉兵衛為浄(ためきよ)」が、ここ亀山城の攻防戦で戦死(享年31歳)したシーンが記憶に残っている。

 天正10年(1582)年の本能寺の変で織田信長が討たれたあと、羽柴秀吉は、後継争いで対立した滝川一益の配下にあった亀山城を攻めた。秀吉方は翌年2月16日から総攻撃をかけ、戦いは3月3日まで続いた。秀吉方の一翼を担った一豊の奮戦は目覚ましく、場内一番乗り…、後に大名へと出世する足がかりを得た。
 この戦いで、山内一豊の股肱の臣であった五藤吉兵衛は命を落としたのである。

  


 
← 公園に展示されている 蒸気機関車


 亀山はJR関西線(名古屋−港町)が通り、亀山駅から南へ紀勢本線が分岐していく、鉄道の要衝でもある。亀山機関区が置かれて旧国鉄関係者も多く、鉄道の町でもあった。







 古城散策のうちに、いつの間にか時間が過ぎて、約束の午後6時30分になった。
 亀山市東町で、昭和10年ごろから松阪ブランドの精肉を独自の調理法で食べさせる「むかい」へと向かう。亀山城に続く東町商店街の中にあり、徒歩でも7〜8分だ。
 

← 「むかい」の水炊き


 厚手の肉を野菜などと一緒に
 水炊きし、たっぶりの大根・
 人参おろしを加えて、秘伝の
 ダシでいただく。
 鍋も特製の銅鍋だ。

 


← 肉は松阪牛ブランドで
 折り紙つき。【拡大】


 但馬で生まれた子牛を、三重で丹精こめて育て、極上の三重特産和牛として食卓に供している。
 
 

 メニューは、すき焼き、網焼きなどさまざまな料理が用意されているが、中でも「むかい」名物の『肉の水炊き』はサシ(霜降り)も見事な牛肉を昆布だしで味付けした煮汁にサッとくぐらせ、醤油をベースに工夫された秘伝のタレでいただく。
 肉の厚さは、すき焼きと同じ。食感もたっぷりで、ジューシーな肉のうま味を堪能することができる。
 水炊きを堪能したあとの雑炊がまた絶品…。肉の煮汁で炊き上げられていても、そのうま味をしっかり捕らえながら、どこまでもあっさりとしている。2杯もお替りをしてしまった。


 亀山市は、近年、元気である。
平成14年(2002)、三重県のハイテク企業誘致策によりシャープ亀山工場を誘致・建設し、世界初の液晶パネルからテレビまでの一貫生産が行われている。大手家電量販店などでは「AQUOSは世界の亀山モデル」などとというキャッチコピーで売り出され、人気を博している。その税収をもとに、地方交付税の交付を受けない不交付団体として意気盛んだ。
 
しかし、市の中心部である旧東海道沿いの東町商店街は閉店する商店が見られ、大規模な郊外型のショッピングセンターも存在せずに、隣接する鈴鹿市や津市へ買い物に出かける市民が多い。
 幸運と言うべきシャープの進出を文字通りラッキーチャンスとして、町づくり・地域の整備を進め、自治体としての足腰を整えることが、何よりも求められる課題である。



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