【165】 新緑 赤目四十八滝    2009.05.10

 
 今日も良いお天気です。新緑を訪ねて、名張市の深山幽谷「赤目四十八滝」へ行ってみました。
 家を出たのが午後1時過ぎ、途中、ちょっと寄り道をしたりして、赤目渓谷の駐車場へ着いたのは、午後3時を過ぎようかという時刻でした。


← 駐車料金800円を払い、茶店の横を抜けて入山です。
 

 「オオサンショウウオ飼育センター」が受付になっていて、入山料
 300円を支払います。
  渓谷に足を踏み入れると、途端に川面を吹き抜けてくる風が肌に
 冷たく、この日は30℃近い暑い日でしたが、心地よい散策になり
 ました。
  一番奥の「岩窟滝」までは約4km。片道1時間30分から2時
 間ほどの行程ですが、今日はすでに午後3時を過ぎていますから、
 途中で引き替えすことになります。
 
最初の滝「行者滝」です →
 

← 途中、歩経路は整備されていて、歩きやすいです。
  【拡大】
 
 
 
霊蛇滝 →
 【拡大】



 『赤目』という地名は、役の小角(えんのおづぬ)が滝に向かって行を修めていると、不動明王が赤い目の牛に乗って出現したという伝説に由来しています。
 赤目四十八滝の『四十八』とは数が多いことを意味しますが、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時代、四十八願をたて五劫(ごこう)の思惟(しゆい)をこらし修行を成就したしたことから、この名がつけられたとも言われています。
 滝の名前には、「不動滝」「千手滝」「大日滝」など、仏名に因んだものがたくさんみられます。これは、赤目の自然景観を一大曼荼羅図(まんだらず)に見立て、大日如来(毘盧遮那仏…びるしゃなぶつ)を中心として、千手観音、不動明王、吉祥天、役の行者などを並べていることから名付けられたもので、四十八滝を全周することで諸願が達成されるともいわれています。


← 赤目5大瀑布の一、「不動滝【拡大】 
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 高さ15m、幅7m、滝壺の深さ10m。滝参りとは、不動明王にちなんで名付けられたこの滝にお参りすることをいい、現在は歩経路が整備されていますが、明治の中頃まではここより奥は原生林で、入ることができませんでした。
 

 織り成す渓谷美の上に広がる新緑が、目に鮮やかです →

 

               
               


← 浅瀬に遊ぶ人もいました。【拡大】
 
 
 巨大な柱状節理
 高さ10数m
 あります【拡大】


 

 


← 赤目五瀑の二「千手滝


高さ15m、幅4m、滝壺の深さ約20m。滝、岩、樹木、滝壺が調和して、絵のような美しさです。
 今日は水量が多くてひとつの瀑布ですが、いつもは途中の岩で水流がいくつもに分かれています。「千手滝」の名は、岩を伝って千手のように落水するところから名付けられたとも、また、千手観音にちなんで名付けられたとも言われています。







       
赤目五瀑の三「布曳きの滝【拡大】 →


 高さ30mから落ちる滝は、一条の布をかけたような美しさです。全国各地に同名の滝がありますが、この布曳滝はその代表格。滝壺の深さは約30mもあり、固い岩をえぐった水の力には感心させられます。
 

← 龍ヶ滝 【拡大】

 
 龍が横たわるように川は蛇行し、水しぶきが白い腹のうろこを思わせるようでした。




 「陰陽滝」、大小の岩の間を 流れ落ちます【拡大】 →




 ときに岩の間をほとばしり、ときに岩の上をすべるように流れ、また時には轟音とともに断崖を流れ落ちるなど、赤目渓谷は千変万化に流れを変え、千差万別の表情を見せてくれます。


 赤目渓谷は、「日本の滝百選」「森林浴の森100選」「平成の名水百選」に選ばれ、「遊歩百選」に推薦されています。


← 七色岩 【拡大】


 岩の向こうに(岩の上に生えているように見える)、マツ・モミ・カエデ・サクラ・アカギ・ウメモドキ・ツツジの7種類の植物が自生していて、若葉、深緑、紅葉などと色合いを変えていくことから、七色岩の名前が付けられたとのことです。


 「サンショウウオセンター」からここまで、ゆっくり歩いて1時間30分、時刻は午後5時です。


 ここから最奥部の「岩窟滝」までは、案内図によると40分。しかし、山深い渓谷はすでにあたりが薄暗く、受け付けで「山道には照明はありませんから、6時までには戻ってください」と言われているので、ここで引き返すことにしました。

 
 帰りは1時間。6時に入り口受付に戻ってきましたが、途中でまだ登ってくる人と行き違ったのには驚きました。僕も、もう少し奥まで行けたかな…と思ったりしましたが、また紅葉の季節に訪ねることにしましょう。


      
帰り道で写した夕焼け。良いお天気でした →


 帰り道の途中、白山町二本木のそば処「空木」に寄って、天そばとニシンそばを平らげてきました。




【164】 滝谷しょうぶ園(奈良県)    2009.05.09


 薫風に誘われて、奈良県宇陀市室生区滝谷にある「滝谷しょうぶ園」をのぞいてきました。
 入り口に「テッセンまつり」の幟(のぼり)が出ていましたが、まだ開花は5分の1ぐらい、あと10日まどで見ごろとのことでした。


 受付のお姉さんは、「遠いところを来ていただきましたが、まだテッセンも咲きそろっていません…。テッセンならば来週以降に、ハナショウブならば6月中ごろに来ていただければ、盛りかと思います」と言って、7月15日まで有効の『招待券』を渡してくれました。


 「はい、また出直してきます」と言ったのですが、それでも園内のテッセンはそこそこ咲いていました。




  園内には、テッセンのほかにもいろいろな花が
 咲いています。



















← 高台から園内を見渡しました。


 ハナショウブの盛りのときには、この園内が600種100万本の花菖蒲で溢れます。

 また、6月半ばに出かけることにします。




 
【163】 法隆寺 初夏    2009.05.05
      
 連休も残すところはあと1日…。今日は、またまた法隆寺の百済観音さま、中宮寺の如意輪観音さまのご尊顔を拝すことを思い立って、斑鳩を訪ねました。


   
雨模様でしたが、さすがに人出は多かったです →
三経院 【拡大】



 法隆寺は何度も訪れている章くんですが、金堂、五重塔を囲む回廊の更に西にある、「三経院」「西円堂」らを拝観したことは実はありませんでした。
 三経院は、聖徳太子が勝鬘経・維摩経・法華経の三つの経典を注釈されたこと(三経義疏)にちなんで、西室の南端部を改造して建てられたもの。また「西円堂」は橘夫人の発願によって行基菩薩が建立したとされる八角のお堂で、いずれも国宝です。


    
「西円堂」の縁側から、金堂、五重塔を望む →


 聖徳宗の総本山である法隆寺には、この「三経院」「西円堂」らを含んで、現存する木造建築物では世界最古といわれる建造物だけでも、19棟の国宝と29棟の重要文化財が甍(いらか)を並べています。わが国の『世界文化遺産登録第1号』たる所以ですね。


 斑鳩(いかるが)の名前の由来は、この地にイカルという鳥がたくさん飛んでいたことに由来するようです。その斑鳩の地に法隆寺が建立されたのは、607年(推古15年)のことで、推古天皇と聖徳太子が用明天皇の病を治すために、薬師像を祀る斑鳩寺(現法隆寺)の建築を進めたことが始まりとされています。
 しかし、その法隆寺は、創建から64年後の670年に火災で焼失したと日本書紀に記されています。現在の法隆寺は672年から689年にかけて再建を始めたものとされています。


← 高さ31.5m、わが国最古の五重塔(国宝)です。
 
 
   
法隆寺のご本尊を祀る金堂(もちろん国宝)
    

 面長で、どこか西欧の面影を宿すご本尊の金銅釈迦三尊像は、この日も静かな微笑を湛えて、参拝する衆生を迎えてくれていました。
 堂内には、諸像が安置されているほか、天井には天人と鳳凰が飛び交う天蓋が吊るされ、周囲の壁面には有名な飛天図が描かれています。
 世界的にも知られていた12面の壁画ですが、昭和の大修理の最中の昭和24年(1949年)火災につつまれ、あらかた焼失してしまいました。現在の壁画は、昭和42年に再現されたものです。


 西院伽藍の東端に並ぶ「綱封蔵(こうふうぞう…寺宝を保管する蔵)」「食堂(じきどう…現存する日本最古の食堂、もともと法隆寺の社務所であったものを平安時代から荘の食堂として使用)」の奥に「百済観音堂」が完成して、百済観音や玉虫厨子などの寺宝を収納しています。


← 平成10年に完成した「百済観音堂」


「百済観音」という名称について(出典、フリー百科事典「ウイキペディア(Wikipedia)」)


 このお姿、このお名前から、僕はこれまで「百済観音」は朝鮮からの渡来仏であろうと思っていた。が、その出自は不明…。いつとはなく法隆寺に寄宿された御仏であるそうな。以下、引用を記します。


 『 近世から明治時代まで、法隆寺ではこの像を観音ではなく「虚空蔵菩薩」と呼んでいた。これは虚空蔵菩薩を聖徳太子の本地とする信仰に基づくものと思われる。 明治19年(1886年)、宮内省、内務省、文部省による法隆寺の宝物調査が実施された際の目録には「朝鮮風観音」とあり、この頃からこの像を「観音」と見なす説のあったことがわかる。この「朝鮮風観音」という名称については、確証はないが、当時奈良地方の文化財を調査していた岡倉天心の発案によるものかと推定されている。前述のとおり、この像が明治30年(1897年)、当時の国宝に指定された際の名称も「観世音菩薩」であった。しかし、法隆寺側では「虚空蔵菩薩」の呼称にこだわりをもっており、明治38年(1905年)4月14日、住職佐伯定胤名で当時の奈良県知事あてに「観世音」から「虚空蔵」への名称訂正願を提出しているが、寺側の願いは聞き入れられなかった。その後明治44年(1911年)になって、寺内の土蔵から本像の宝冠が新たに発見され、その宝冠の正面に阿弥陀如来の化仏(けぶつ、小型の仏像)が刻まれていることから、寺側でもこの像を「観音菩薩」と認めざるをえなくなった(菩薩像の頭上に阿弥陀如来の化仏があれば、その像は観音菩薩像であることを示している)。
 この像の通称として20世紀以降著名になる「百済観音」という呼称はさほど古いものではなく、大正6年(1917年)の『法隆寺大鏡』の解説が初出であるとされている。和辻哲郎の『古寺巡礼』は大正8年(1919年)に刊行されたものだが、『法隆寺大鏡』の記述に影響されてか、この像を「百済観音」と呼んでいる。考古学者の濱田青陵(濱田耕作)は大正15年(1926年)、『仏教芸術』誌上に「百済観音像」を発表し、後に発表した随筆集に『百済観音』という題を付けた。このようにして、本像について「百済観音」という名称が次第に定着していった』とある。


  
東院伽藍の中核をなす「夢殿」 【拡大】  →
   この日は春のご開帳期で、秘仏「救世観音」を
   拝観することができました。薄暗い堂内でたた
   ずまれる御仏は、今日もふくよかな微笑を湛え
   られていました。



 東院伽藍は聖徳太子のお住まいがあった地と伝えられています。太子はこの地で、ご一家とともに敬仏修学の日々をお過ごしになったのでしょう。
 聖徳太子の死後、その子「山背大兄王」らは蘇我蝦夷と対立し、蘇我人鹿によって攻められて、一族は斑鳩寺でもろともに首をくくって自害し、斑鳩上宮王家はここに途絶えます。
 

 東院伽藍の東に隣接する敷地に、尼門跡「中宮寺」があります。


  
鐘楼の横を右に曲がると、小さな門が見えます。 →


← 耐火耐震造りの本堂


 中宮寺のご本尊は、いわずと知れた「如意輪観音」(章くんが学生の頃は弥勒菩薩と伝えられていましたが…)。
 東洋のモナリザと称される微笑(ほほえみ)を湛えられ、今日もこの世の衆生の救済にお心を砕いていただいているようでありました。


 法隆寺を出て車に乗り、寺の東の畑中の道を「法輪寺」へと向かいました。
 雨はまだ降り続いています。歩くには、ちょっと強すぎる雨脚でした。


     
雨に煙る「法輪寺三重塔」【拡大】 →










 「発起寺(ほうきじ)」までの700mの往復を、雨は相変わらず降りつづいていましたが、傘をさして歩いていくことにしました。
 道端の花々が色とりどりに咲き乱れ、周りの里山の新緑が目に鮮やかでした。


← 発起寺三重塔(三重塔としては日本最古、国宝)


 聖徳太子が斑鳩の地を馬で駆けた飛鳥時代は、日本が大化の改新から律令国家へと国家の体裁を整えるための準備期でありました。また、法興寺(飛鳥寺)、百済大寺、そしてこの法隆寺(斑鳩寺)、さらに京都の広隆寺などが建立され、揺籃期の生き生きとした仏教文化が花開いて、後世の白鳳・天平文化へとつづく時期でもありました。
 斑鳩の里を散策するときこころが和むのは聖徳太子の遺徳を感じるからであり、こころが沸き立つのは日本が興るあのころの息吹を呼吸することができるからなのでしょう。



天王川公園(津島)の藤


【162】 藤 三景               2009.05.04


  天王川公園(津島)、曼荼羅寺(江南)、藤の回廊(名城公園)


 「高速道路1000円」とかで、この連休は各地から大渋滞の知らせが届いている。…この政策が日本の産業を育成し将来を開くものだとするならば、恒久的に利用料金は低く抑え、何よりもトラックなどの産業流通に関わる車の料金をこそ軽減しなければならない。ところが、1000円は今年と来年だけの暫定措置で、土・日の乗用車の、しかもETC装着車のみというのだから、政権交代必至とささやかれる選挙対策であり、運輸官僚が天下っている高速道路会社とETC会社の便宜を図ったものであることは一目瞭然である。…、これについて述べるのはこの項の目的ではないので別に譲るとして、とにかく渋滞を回避して出かけてみようと計画した。
 1週間ほど前に、テレビで「天王川公園(津島)の藤が満開」と報じていた。その話を友人たちにすると、てんでに『江南市の曼荼羅寺の藤のほうが立派』とか『名城公園の藤の回廊のほうが見事』とか言うので、今日、その3箇所の藤を訪ねた。
津島神社の東大門 【拡大】



天王川公園(津島)


 午前6時30分、出発。遊びに行くときの章くんの朝は早い。伊勢自動車道から東名阪へ…、この時間、渋滞の情報はない。
 「弥富IC」で降りて155号線を北上すること10分、右側に「津島神社」の案内板が見えた。「天王川公園」は神社から歩いて5分、まずは神社にお参りしてから、藤見物に出かけることにしよう。


 「津島神社」は、欽明天皇元年(西暦540)に祭神「スサノオノミコト」がご鎮座され、その後、弘仁元年(810)正一位の神階と日本総社の号を、一条天皇の正歴年中には天王社の号を賜わって、全国に約三千の天王社の総本社としての社格を誇る。


← ご神池。周りのツツジが満開だった。【拡大】


 「津島神社」から徒歩5分、大きな人工池をを設(しつら)えた「天王川公園」の一角に、長さ275m、面積5034uの見事な藤棚があり、藤が盛りのこの期間中、夜間はライトアップされている。


  ↓ 藤棚の下に遊歩道が作られ、見事な藤の花を
    見上げながら、散策することができる【拡大】 →




 園内には、九尺藤(キュウシャクフジ)を中心に、12種類114本の藤の木が植えられているとか。


 
白野田藤(シロノダフジ)【拡大】


 ゆっくりと時間をとって歩けるならば、各木には名前の表示もあるので、探してみるのも一興かと…。
 
 


 全体としては少し盛りが過ぎていて、花弁を散らした房が多かったようだが、花期の遅い白藤などは大きな花を咲かせていた。
 藤棚の真ん中を流れる水路は、散り落ちた花びらが敷き詰められて、水面を覆っていた。
【拡大】
 

 池を囲んでたくさんの屋台が並んでいて、ベビーカステラはないかと探したが、まだ午前9時半…みんな開店準備中である。


曼荼羅寺(江南)


 155号線に戻ってそのまま北上し、新幹線、名神高速、東海北陸道の下をくぐって県道64号線に乗れば、あとはひたすら真っ直ぐ…。自動的に県道144号線に乗りかえると、すぐにお寺の前に着く。
 この日は近所のお店や事業所、工場は臨時の駐車場になる。それで、お寺の前をダラダラ行くと、呼び込みさんが「こちらへ」と旗を振ってくれる。


← 境内にはたくさんの屋台が並んでいた。もちろん
 「ベビーカステラ」を買って、ほおばりながら歩い
 た。【拡大】 
  
境内の藤

 



 「曼荼羅寺」は浄土宗の古刹で尾北地方における最も格式の高い霊場とされている。寺域は1300坪、檜皮葺の正堂を中心に庫裏、大書院、小書院、曼陀羅堂、地蔵堂、鐘楼、宝蔵、続いて中門、南門(矢来門)が甍を連ねている大寺だ。
 昭和45年、寺域の一部約10,000uを江南市に提供。市は、宝蔵、八幡社、稲荷社、放生池、さらに休憩所の藤華庵などを整備し、さらに隣接地約3,000uを購入して東屋や屋外ステージを整えて、昭和60年、現在の曼陀羅寺公園(13,000u)が完成した。
 園内には12種類約60本の藤が植えられて「曼陀羅寺の藤」として評判を呼び、近隣はもとより県外からもたくさんの観光客が訪れている。(江南市HPより一部引用)
境内は、たくさんの人でにぎわっていました。【拡大】

 
 
 










 
 
     ただ、ここもちょっと盛りが過ぎていて、散り落ちた
     花びらが地上に敷き詰められていました。 【拡大】

  

 屋外ステージでは、美しい衣装をまとった尾北の美男美女が舞台に上がり、カラオケ大会が開催されていた。章くん、申し込もうかと思ったけれど、出番を待って並んでいる人の多さを見て断念した。
 まだ整備が進んでいる途中なのだろうか、多くの藤棚は枝が伸びきっていなくて、空が見えているところも多かった。あと数年もたてば、見事な藤の名園が出来上がることだろう。
 
名古屋城本丸天守閣。【拡大】
手前に本丸御殿が建立される。



 
 
藤の回廊(名城公園)


 22号線に戻って南下、いつもはすし詰め状態のこの道も、今日は渋滞もない。午後1時前、名古屋城に到着した。



 お堀の石垣の上に陣取って、弁当をパクついた。どこの食事処も混みあっているこの時期、風に吹かれて弁当を広げるのは最高の食事である。




 連休最中で、人出はさすがに多い。天守閣に登るのには、100m10分ほどの行列に並んだ。
 

    
天守閣から、名駅方向をパチリ 【拡大】
 
 

 1階・2階…と展示を見ながら、天守閣へと向かう。各階とも、人で溢れていた。


← 本丸御殿表玄関の襖絵。玄関は虎の間とも呼ばれ、二室の襖・壁・障子の腰には金地に虎と豹が描かれている。【拡大】

 
 
 大天主閣の見物を終え、東門から出て、名古屋城の東北に広がる名城公園の藤を鑑賞に向かった。
660m続く、藤の回廊 【拡大】

 公園内の一角、城の北堀に沿って660mにわたり、藤棚が設えられている。いわゆる「藤の回廊」と呼ばれている一帯である。


 でも、やはり花期には少し遅くて、ほとんどの棚で花を散らしていた。
 

 名古屋市の広報を見ると、名城公園は名古屋城を中心として、二の丸、三の丸、旧陸軍練兵場跡(北園)までの区域を含む、総面積76haという広大な総合公園だとしている。(名古屋城も公園に含んでいるのだ)だから、歴史の宝庫、緑の拠点、スポーツ・レクリエーションの場として市民に親しまれているとあり、今日もゲートボールを楽しむお年寄りの姿が見られた。


←藤棚の彼方に、名古屋城の天守閣が見える【拡大】


 天王川公園(津島)、曼荼羅寺(江南)、藤の回廊(名城公園)ともそれぞれに木々の大きさや枝ぶりは見事であり、藤棚を世話する人たちの熱意もひしひしと伝わる整備振りであった。
 ただ、3箇所とも、訪れる時期が少し遅くて、花の盛りというわけにはいかなかったのが残念だった。




【161】 京都の桜 2009            2009.04.03-04


【 第1日目の4月3日、銀閣寺口から乗ったタクシーの中へデジカメを忘れてきました。交番へ届けを出し、京都タクシー忘れ物センターへも問い合わせたのですが、このページを書いている12日現在、まだ出てきていません。それでこの報告記は、第1日目は写真なし、その後はケイタイ写真です。】



 4月3・4日と、京都の桜を訪ねてきました。毎年、同じような桜を見るのですが、年々歳々それぞれに違って見えるのは不思議ですね。

 3日、花が早い醍醐寺からスタートです。朝8時前に駐車場に入り、開門前の境内をひと回り…。今年は開花は早かったのですが、その後は冷え込む日が続いたせいか、木々は満開の花をつけて、まだほとんど散ることなく咲き誇っていました。


 午前9時開門。今年も、章くんお気に入りの宝蔵院の枝垂れは艶やかな姿を見せていました。その前の巨大な染井吉野は8分咲きです





 三宝院、五重塔などを拝観して醍醐寺をあとにし、毘沙門堂、山科疎水へと向かいました。こちらも7〜8分の開花状況…。
 毘沙門堂では屏風の騙し絵に今年も笑い転げ、山科疎水では菜の花とのコラボレーションを愛でながら、あたりを少し歩いてきました。お昼過ぎ、京都市内へ…。


 南禅寺口へ車を停めて「順正」で昼食。この日は暑くて『湯豆腐』という雰囲気でなく、『ゆば会席』を頼みました。この「順正」は、素晴らしい庭を見ながら食事ができます。


 京都疎水を遊覧する屋形船は3時間待ち…。蹴上インクラインを上って、荷有荘の裏手から南禅寺へ降りました。方丈を拝観し、三門へ登って、春たけなわの京都の町を一望…。


 そのあとは哲学の道を下から歩いて銀閣寺口へと向かいます。途中のお菓子屋さんで一服…。疎水に垂れる桜は、やはり7〜8分の開花でした。
 そして、たどり着いた銀閣寺口で、桜の花びらをアップでパチリ…。ここから乗ったタクシーの中へ、デジカメを忘れてきました。それで、この旅の報告はケイタイ写真です。
 
 
 ちょっとお茶してから、ようやく暮れてきた町を歩き、清水寺のライトアップへ…。                    

 

 仁王門をくぐると正面に「随求堂」があり、ここでは『胎内くぐり』を体験することができます。ご本尊の大随求菩薩は、「信仰者のあらゆる求めに随(したが)い、御利益をくださる万能の菩薩」とされる大変功徳の高い仏様とのことですが、残念ながら普段は公開されない秘仏となっています。そこで本堂の地下に通路を巡らし、ご本尊の真下にある「ハラ」という梵字が書かれた石に触れることにより、諸願成就を願うというのが胎内くぐりの趣旨です。
 壁伝いにめぐらされた大数珠を左手に触って、漆黒の闇の中を進むと、やがて青白く光る大きな石があり、それに触って願い事を唱えると満願叶うというわけです。


 音羽山の中腹の参道から…。


 京都市内の光に清水舞台のシルエットが浮かんでいました。


 秘仏ご本尊のご開帳、ライトに照り映える花の雲と、この夜の清水は盛りだくさんの趣向で訪れる人たちを迎えてくれました。


 
 二年坂・三年坂を歩いて、円山公園へ…、円山の枝垂れは、相変わらず妖艶な姿でたたずんでいます。  

中天に懸かる半月が、桜の花の間から見えていました。


   京都の桜は歴史という衣装をまといながら、なお、心憎いばかりの演出がなされていますね。例えば、円山の枝垂れ桜…、明るいうちに見る姿よりもライトアップされたそれは、10倍も艶やかに見えます。他所のように、雪洞や電灯をつければ夜桜だというような認識でなく、どの角度からどのような光を当てれば一番効果的なのかを研究し尽くし、見るものの心を奪うという工夫や努力がなされています。


 それにしても、この人の波…賑わいはどうでしょう(笑)。甘い桜の香りに包まれながら、人々の喧騒のなかに、京都の春は更けていきました。




 明けて4日、午前9時にウエスティン都ホテルを出発し、満開との情報を得ている嵐山「天龍寺」の枝垂れを見に行くことにしました。

 2日目に嵐山へ行くのならば、都ホテルでなくて、もっと西寄りのホテルを取ればよかったのですが、どこへ行くという当てもないままに訪れた京都でした。朝、ホテルで見たテレビが「天龍寺の桜満開」と報じていたので、急遽、天龍寺・嵐山…と思い立ち、途中で乗った京福電鉄の{トロッコ列車にご乗車の方は、嵯峨野駅でお乗換えください」という車内放送で、「そうだ、トロッコ列車に乗ろう」と思い立ったような次第です。行き当たりばったりでしょう(苦笑)。


 今日は土曜日、嵐山の周辺はすでに大渋滞であろうと予測し、京福電鉄嵐山線天神川駅の近くに車を預けて、電車で嵐山に入ることにしました。


 市内では路面を走る京福電鉄嵐山線。
 見えているのは「嵐電天神川」駅。



 終点「嵐山駅」のひとつ手前「嵐電嵯峨」駅で降りて5分ほど歩き、トロッコ列車に乗ろうと「トロッコ嵯峨」駅に向かいました。
 時間は10時10分、しかし次の10時50分は津の列車はすでに満員! その次の11時50分の乗車券を買い、嵯峨野を散策しながら「トロッコ嵐山」駅まで歩きました。


            
その途中「野宮神社」の奥に、
             このように苔に覆われた庭があります →



← 竹林を抜けると「大河内山荘」
 です。
  その前を右に折れて、「トロッ
 コ嵐山」へ…。でもまだ30分ほ
 どの時間があったので、「常寂光
 寺」へ行ってみました。ポツリポ
 ツリと雨が降り出しました。


        
常寂光寺山門左手にある枝垂れ桜です →



→ この寺は紅葉で有名ですが
 春・夏・冬にも四季折々の表
 情があり、しかも秋の喧騒か
 ら離れで、静寂なたたずまいでした。



 11時53分、「嵐山」駅からトロッコ列車に乗車して、「亀岡」間の20数分を往復してきました。
 章くんが乗ったのは、窓のないオープン座席。乗車する前ぐらいから弱い雨が降り出し、オープン座席はちょっと寒かったです。 それでも嵐山の山肌には桜の群生が見られ、ピンクのパッチワークを見るようでした。


 亀岡から折り返したトロッコ列車を「嵐山」駅で降りて、嵐山(亀山)公園を散策し、展望台へ登ってみました。


    嵐山公園展望台から見上げた、対岸(嵐山)の桜の群生 →


 トロッコ列車から遠望した嵐山山肌のピンクは、この桜たちだったのですね。


← 見下ろせば桂川(保津川はこのあたりでは桂川と名前を変える)の流れが望まれます。保津川を下ってきた船が嵐山を見上げるために停泊し、その船に飲み物やみやげ物を積んだ売店船が横付けしていきます。


 この画像を見た友人から、雨に煙る嵐山は『一幅の山水画』を見る思いとメールが来ました。そう、まさに艶やかな一枚の絵…。
 朝日に匂う山桜が日本男児の象徴ならば、雨に煙る桜たちの健気でたおやかな様は、和服和傘の日本女性を思わせるいでたちです。


 そういえばこのの2日間も、和服をまとった若いお嬢さんが多く見られましたが、日ごろ着慣れていないのがひと目で見て取れて、少し残念でした。


 嵐山公園を歩いて、桂川河畔へと降りてきました。


                  渡月橋界隈を上流から… →


   雨は小降り。ただ、そのせいか人出は少し少ないよう。





 時刻は午後1時30分…、桂川河畔の茶
屋へ上がって食事にしました。


← 小雨混じりの肌寒さが、「湯豆腐」を注文させました。




 そして、天龍寺へ…。大方丈・小方丈をめぐり、長い廊下を渡って多宝殿へと向かいました。堂前の枝垂れ桜を見るためです。


        
多宝殿前の満開の枝垂れ桜 →


 庭に下りて、庭園から裏山をめぐる歩経路を歩きました。山の中腹から桜越しに見下ろす伽藍が雨に煙っていました。


← 天龍寺の西側に聳える亀山の中腹から、桜越しに伽藍をパチリ…。写真には桜ばかりが写っていて 伽藍の屋根がどこにあるのかわかりませんね(苦笑)。


 午後4時30分、嵐山「老松」でわらび餅と抹茶をいただき、嵐山を後にしました。



 
【160】 鳥羽志摩パールロード   2009.03.21


 春うらら…である。昨日・今日と、日中の気温は20℃を越えた。ポカポカ陽気に誘われて、午後1時出発、「鳥羽志摩パールロード」を走ってきた。


  パールロードの鳥羽側の入り口である浦村大橋を
 過ぎて間もなく、伊勢湾の湾口を望む。     →

 
 
 鳥羽から入ると、間もなく『浦村かき』の看板が道端の旅館・割烹・休憩所に掲げられていて、表で牡蠣を焼く煙が立ち上っている。


  その1軒へ寄って、焼き牡蠣をほおばってきた。
   
1個100円、6個500円。醤油も何もつけず、塩水のまま
   焼き上げるから、かすかな塩味がある。 牡蠣好きには、磯の
   風味があって、堪えられない美味なのだろうが、章くん、半焼
   の生臭みが鼻について、2個でダウン。      【拡大】

 

 展望台の少し手前に、「海の博物館」なるミュージアムがあったので寄ってみた。
 鳥羽志摩の漁業の歴史や漁の様子が示され、船の模型などが展示されている。

← カツオの1本釣りの様子


←  鳥羽神島の漁師が作った
 潜水艇。個人が作ったものと
 しては、もちろん日本唯一。
 中に入ることができる。





 鳥羽展望台へ着いたのは午後4時を過ぎた頃…、天気がやや翳ってきていて 海の色は少し黒ずんでいた。


 はるか東に広がる太平洋を望むと、水平線は湾曲していて、地球が丸いことを目で見ることができる。   【拡大】


 午後4時30分。安乗灯台を見に行こうと思って、安乗の集落に入っていったら、道がわからなくなってしまい、漁村特有の狭い道に迷い込み、諦めて引き帰した。
 
 


 午後5時30分、志摩神明の割烹「千福」へ寄る。


                  
カツオのたたき →


 カツオの造りとたたき、たこ天…などを頼んで、「お勧めは?」と聞くと、土色ピンクの活きた魚をぶら下げてきて「オコゼが入っています」。早速、半身を造りに、あとの半身を煮付けにしてもらった。

オコゼの煮付け【拡大】

 オコゼといえば、普通は押しつぶされたような顔のオニオコゼを指す。背びれに猛毒をもっているから、安易にさわるのは禁物だ。ウロコはなく、普通は黒色だが黄色や赤褐色のものもいる。今日のオコゼ君は赤みを帯びていた。
 昔はたくさんとれたオコゼも最近は少なくなったという。白身で脂肪が少なく淡白…。味はいたって美味で、活け造り、空揚げ、味噌汁など、オコゼ料理が看板になるほどの高級料理となっている。
 見た目のピンク色は薄造りの身もピンク色で、春の彩であった。煮付けも、活きていた新鮮なものだけあって、身が撥ねている。口に含むと、コリッとした歯ざわりがあった。 


 石垣島産の『島ラー油』の香ばしさが味を引き立たせる「千福特製キムチ鍋」は、章くんのお気に入りの逸品…。最後に「ちらし寿司」を頼むかどうか大いに迷ったのだが、もうかなりお腹が張っていたので、食べずに帰ってきた。
 帰りがけ、松阪市のカラオケスナックに寄り、12時前に帰宅…。この項を記している今、ちょっと小腹が空いてきている。ちらし寿司…、迷ったら食べてくるべきであった。



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