【189】 2010年 新春の北京              2010.01.01-06


 1月1日出発。新春を迎えた北京へ行ってきました。初めての北京なので、手軽なツアーに申し込みました。お定まりのコースを巡り、いろいろな制約があったりするツアーですが、どこか得体の知れない北京! その定番を一通り回ってくれますから、初訪問にはこれが一番いいかなと思いました。
 万里の長城、頤和園、紫禁城…、夜は王府井へもこっそりと足を伸ばし、3日には40年ぶりという北京の大雪を体験して、なかなかに楽しい旅行でした。


 それでは、ことの顛末をご報告いたします。
【以下の各項目は、日程の順にはなっていません。
 また、写真にカーソルを当てたとき、手の形に変わったら、大きい写真にリンクしています】


 
① 中部国際空港~北京


 午前4時30分起床。なぎさ町港から6時の連絡船始発便に乗り、6時45分、中部国際空港へ到着したときには、まだ夜は明けていませんでした。コーヒーを飲んで、初日の出を待ちました。


      
午前7時52分、雲の上に2010年の初日が
     顔を覗かせました。             →



     
明けまして、おめでとうございます。


 午前9時50分、中部国際空港を飛び立った日航機は、ほぼまっすぐに天津を目指し、日本列島を横断したのち、鳥取上空から朝鮮半島を通って、黄海から天津へ入ります。天津からは、バスで北京へ向かう予定です。


← 午後1時05分(現地時間 0時05分、以降は全て現地時間)、天津空港に到着しました。3時間15分のフライトでした。


 
天津空港は、北京オリンピックのときに開港した空港たということです。空港の広さに比べて、あまり大きくない建物ですが、入国手続きなどはそれほど時間はかからずスムーズでした。ここからバスに乗り込んで、高速道路で北京へ向います。


 北京までは、高速道路を使ってバスで2時間少々、新幹線では40分です。


 天津~北京間の、バスの車窓からの景色です。
一帯は平原・沼地で、
大きな木は一本もありません。

【追①、下参照】
川や池には氷が張りつめて
いました。
【追②】

高速道路の料金所です。

前のトラック、扉が開いて
きたのでしょうか。

【追③】
 
公安(警察)が立っていました。
【追④】

 モダンな橋が見えてきて、
「北京堺」の看板がありました。
【追⑤】 

北京の町中に入ってきました。
【追⑥】
これ、1台のバスですよ。
【追⑦】 
東三条通りに入ってきました。
 ホテルはもうすぐです。


【追①】高速道路沿いの木々は、道路建設時に植えられたものです。
    この季節、天津・北京のあたりは、冷気が立ち込めて靄(もや)がかかったような
   毎日が続くそうです。太陽の光も靄にさえぎられて、地表に届きません。
【追②】スケートをしたり、穴を空けて釣りをしたりしていました。
   人影が見えますか。拡大して見てください。
【追③】料金所で、後ろへ回って直していました。後続の車が数珠繋ぎに待っていますが、
    ノンプロブレムです。
【追④】さすがは中国の公安、微動だにしません。
【追⑤】北京市内に入りました。(画面の上が青いのは、バスの前面のガラスの色です。)
【追⑥】
現在、北京市の人口は1900万人。(戸籍人口は1,538万人(2005年末)ですが、
   他に公安機関(警察)に一時住居登録している流動人口が364.9万人いるとのことです)。
    人口では、重慶、上海に次ぐ第3位ですが、中国の首都として政治・経済の中心で
   あることに間違いはありません。
【追⑦】連結バスはヨーロッパでも見ましたが、ここまで長いのは…。ほぼ、2台分の長さが
   あります。これだけ大きくしないと、13億人は運べないのかな。



 午後3時30分、ホテルへ着きました。


     
北京の5泊を託す、「シェラトン北京」です。 →


フロントです 部屋は、キングサイズベッドのツイン

 僕はいつもの調子で、ホテルなんて寝られればいいと言ったのですが、友人は「冬の北京で、暖房の壊れているホテルだったらどーするんだ」などと言って、5ツ星ホテルを選んでいました。
 まぁ、シェラトンですから超一流とはいきませんが、今回の旅では、パサパサの朝食にも、赤茶けた風呂の水にも、お目にかからなくて済みました。ホントは、そこにこそ旅の醍醐味があるのに…と僕は思っているのですが。


 部屋に荷物を置いたあと、このツアー、食事に出ました。このツアー、食事はシェラトンホテル内ではなく、バスで20分ほど走ったところのレストランでとります。

      
第1日目の今夜は、広東料理だとか。→


 1テーブル10人が、次々と運ばれてくる料理をつつきあう形式で、これからあとの昼・夕食は北京料理・四川料理などの違いはありましたが、すべてこの円卓方式でした。


 ホテルへ戻ったあと、周辺を歩いてみました。


← 近所にあった、ハードロック・カフェです。


 中に入らなかったので、どんなものなのかは解りませんが、表のネオンは中国を再認識させる派手さです。
 毛沢東が生きていれば、これを見て何と言うでしょうね。「即刻閉鎖! 再開、文化大革命!」かな。


 ショッピングセンターに入ってみました。


 お値打ちな中国製品が並んでいるかと思ったのですが、日本のデパートに劣らない、キレイで明るい店内に並んでいる商品は、カッターシャツ2000元=28,000円、婦人用ドレス47000元=65,000円といった高級品ばかり。日本のデパートよりも高いものばかりでした。中国の富裕層、恐るべしですね。


    陶器売り場で、きれいなティセットを見つけました。 →
           お値段は、7160元≒およそ100,000円。



 
漢方薬の売り場で「冬虫夏草」が売られているを見つけました→


 冬虫夏草とは昆虫に寄生するコルジリア菌の総称で、漢方の妙薬として珍重されてきました。
 中国では紀元前2000年、殷の時代から冬虫夏草の存在が知られていました。泰の始皇帝(紀元前259~紀元前210)や楊貴妃(紀元後719~756)も不老長寿の秘薬として好んだといいます。
 1722年、北京で布教活動をしていたイエズス会宣教師がヨーロッパの友人に宛てた手紙の中に、「冬虫夏草を買うにはその4倍の重さの銀が要る」と書いています。冬虫夏草がいかに高価なものであったかがわかります。
 僕は、「冬虫夏草」なる名前は知っていましたが、見るのは初めてでした。


 館内の喫茶コーナーで、コーヒーを飲み、アイスクリームを食べました。                   →
 料金は、各フロアーに集金所があって、商品を注文した客は、お買い上げ票を持って集金所へ行き、支払いをして、領収書と支払い完了伝票を貰います。その伝票を売り場へ持ち帰り、商品を受け取るという仕組みです。
 北京のショッピングセンターやみやげ物店などの多くは、この方式でした。


← 帰りがけ、ゴルフ用品店を見つけました。一番
 手前の、緑の一角が店舗です。



 間口一間で営業しているこの店ですが、ひと通りのゴルフ用品は揃っていました。
 ゼクシオのアイアンセットもありましたよ。値段は、国際価格でした。



薄靄のかかったような空にまん丸の月が

シェラトン前のイルミネーション

 夜の北京、さぞかし寒いでしょう…ですって? そうですね、冬の北京の寒さについて、ちょっと書いておきましょう。 
 -15℃の世界と聞いて、寒がり屋の僕はセーターの重ね着や耳を覆う毛糸の帽子、手袋、マフラー、衣類に貼るカイロ…、さらに、足の裏に貼るカイロまで用意して出かけました。
 でも、まず足の裏カイロは熱過ぎ…、厚手の靴下で十分です。昼間は-5℃ぐらいですが、徳利のセーターに防寒コートを着ればこれまた十分で、万里の長城や紫禁城を歩いたときには汗ばむほどでした。
 今日の昼間の気温は-4℃…。夜になって4~5℃は下がっているでしょうから、帰り道の今頃は-10℃ぐらいでしょうか。
 でも、風もない北京の夜は、防寒コートと耳を覆う帽子があれば、少しも寒くはありません。この夜、僕はマフラーを巻いて出たのですが、途中で熱くなって外し、手に持っているのも面倒なので腹に巻いていました。
 コートも着られない、寒風の中のゴルフのほうが、よほど辛いということが解りました。


 ホテルに帰りついたのは、10時30分ごろでした。


② 万里の長城


 中国へ行って、まず第一に見たかったものが、この「万里の長城」でした。「唯一、宇宙からも肉眼で見える」といわれた、人類史上最大の建造物…。中国の人たちは、有史以前の殷の時代から、営々としてこの長城を築き上げてきたのです。
 時に壊され、また築かれて、その形や位置を変えながら、中国五千年の歴史に足跡を記してきたきた長城を、今日、この足で歩いてみます。


 総延長は8000kmにも及ぼうという長城ですから、見るべき箇所はたくさんあるわけですが、今日僕たちが向かうのは、北京から北へ約60kmにある、「八達嶺」です。


   長城は山の中なので市内より気温が低く、午後の暖かい
  時間帯が良いだろうとのことで、昼食を済ませてから
  バスに乗り込み、北京市内を北へ向かって走ります。 →





 ホテルを出発してからおよそ1時間…、道路の両側に急峻な山々が姿を現しました。


← ふと見上げると、山の上に城楼が…。
  
 


    
バスの前方に、道をさえぎるようにして、
    大きな城門が現れました。        →



 「八達嶺」の15kmほど手前にある、「居庸関長城」の関所跡で、切り立った峰をぬって造営された難攻不落の九塞のひとつです。原城は紀元前5世紀に構築されていて、その後、明の光武帝の時代(1366)にモンゴル軍の侵攻に備え大増築が行われ現在の規模となったといいます。
 北京に最も近い関所で、ここを突破されると、都は陥落することになります。




← 次々と現れる城壁や城楼に、期待はいやがおうにも高まります。




 ホテルを出発してから1時間30分、「八達嶺長城」に着きました。




     駐車場から入り口の城門まで、
    5分ほど歩きます。     →


 
 万里の長城はその長大さから「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中国の教科書にも掲載されていましたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認するのはきわめて困難です。
 2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した楊利偉飛行士が、「『万里の長城』は見えなかった」と証言したため、中国の教科書からこの説は正式に削除されました。


  
【今日はここまで。つづきはまた明日に…】


 別サイトに旅行記があります。よろしければ、のぞいてみてください。
 出   発 http://4travel.jp/traveler/akkiy363672/album/10416146/ 
 万里の長城 http://4travel.jp/traveler/akkiy363672/album/10416677/ 
 紫 禁 城 http://4travel.jp/traveler/akkiy363672/album/10419781/  
 王 府 井 http://4travel.jp/traveler/akkiy363672/album/10420298/ 
 頤和園など http://4travel.jp/traveler/akkiy363672/album/10421162/ 




【188】 紅葉の伊勢道路  安乗灯台               2009.12.03


 伊勢道路を走って、志摩へ行ってきました。安乗に所用があったからです。


 志摩へは、近年も何度か出かけていますが、鳥羽からパールロードを走ったり、南伊勢町経由でサニーロードを走って行ったりしていて、伊勢道路を走っていくのは5・6年ぶりです。

 


← 朝熊山の下をくぐる
 五十鈴トンネルの入り
 口です。


  出口の向こうには、
 色づいた木々が… →




 「伊勢道路って、紅葉がこんなにきれいだったんだ…」と
驚くぐらい、道端の木々が色づいていました。↓


 安乗で一件、打ち合わせを済ませたのち、安乗灯台を見に行きました。


 午後4時を過ぎていて、普通ならば上まで登ることができる灯台は、「入場は4時までです」と書かれた看板が掲げられ、外柵の扉に鍵がかけられていました。
 夕闇が迫るあたりには、打ち寄せる波の音が響くばかりで、人影はありません。


 安乗岬は、的矢湾の入り口に突き出た岬で、波の下には多くの岩礁が隠れている、海の難所です。江戸時代から、岬の突端には灯台が設置されていました。それでも、明治44年には日本帝国海軍駆逐艦「春雨」が熊野灘で暴風雨に遭遇、避難のため的矢湾に向かったところ、湾口の暗礁に乗り上げて座礁、全乗組員64名中44名が命を落とすという大惨事を起こすなど、ここでの海難事故は多数に上っています。
 安乗灯台の説明は、2004年に訪れたときのページ【参照】にありますので、ご覧ください。




← 灯台前の広場から見た安乗灯台
 
垣根の向こうに的矢湾が広がり、
海中に立つ灯台が見えます。 ↑
















 

 













← 垣根の中に、トンネルがありました。



 こういう怪しいところは、行ってみなくては済まない章くん、木をかいくぐっていってみました。


← 抜けていくと、灯台の裏手の崖っぷちの道へ出ました。


 ほぼ垂直のがけに1mほどの幅の道がついていて、下っていくと海面へと至ることが出来るようです。


 でも、ただでさえ海へと傾斜している道には落ち葉が積もっていて、滑りそうです。足を踏み外せば、岩礁に打ちつける波間に真っ逆さま…。あたりに人影はありませんから、助けを呼ぶことも出来ません。
 がけから生え出ている草を掴んだりしながら、慎重に下りていったのですが、、革靴ですから足が滑ります。
 「こりゃあ、命が危ないな」と思い直して、引き返すことにしました。


← 崖下の道の途中から見上げた灯台です。


 ところが、崖っぷちの細い道ですから、体の向きを変えるのが難しい。掴んでいる草の茎を離して、向きを変えなくてはならないのですが、手を離すと落ちてしまいそう…。
 強く引っ張ると、草の茎ですから千切れてしまったり、ときどき根っこから抜けくるのもあったりで、不安定なことこの上ない状態です。
 来るんじゃなかったと後悔しつつ、スローモーションのようにゆっくりゆっくりと体を入れ替えました。


← 崖の途中から、海中灯台を撮ってきました。


 降りていくときはまだ好奇心が先行していましたが、帰りはただ落ちないように…とばかり考えて、むしろ恐怖心がつのってきました。章くん、高所恐怖症だったことも思い出してしまいました。
 トンネルの入り口まで来て、気が緩んだのか、足をズルッと滑らせたときには、ホント、青ざめましたね。


← 広場の南端の展望台から灯台をパチリ


 灯台近辺の断崖は高さ20mに及ぶと書かれていました。波の浸食作用によって出来た断崖だそうです。
 それほど、波は荒く、吹き付ける風雨は激しいということなのでしょう。
 周辺は岩礁地帯ですが、たくさんの海草が繁茂していて、魚介類の宝庫であり、海女さんの活躍の舞台でもあります。





【187】 2009 京都晩秋 嵐山・嵯峨野・東福寺           2009.12.06


 京都の紅葉ももう終わりかと思っていたのですが、ネットで見ると嵐山の紅葉が残っているとの情報が載っていました。
 12月初めの日曜日、往く秋の余韻を求めて、嵐山から嵯峨野を歩いてきました。


 このページは、現在、作成中です。
 http://4travel.jp/traveler/akkiy363672/album/10407352/ は完成していますので、よろしければ
 ご覧ください。



【186】 美杉の秋 -君が野ダム・北畠神社-           2009.11.28


 津市美杉町は、津市街地から久居・白山町を経由して車で1時間、奈良県と境を接する山間の地にあります。
 平成18年の大合併までは、一志郡美杉村として、村名の通りの美材を産出し、また古くは京都・大坂から奥津経由で最終的に伊勢神宮にいたる伊勢本街道が通過していた地で、歴史的事跡も多い土地です。もちろん、山あいの風光明媚な地域も多く、特に秋は山々の紅葉が美しい景観を織りなします。
 友人たちと、美杉の秋を訪ねました。


 このページは、現在、作成中です。
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【185】 2009 京都の秋、 三千院・永観堂           2009.11.24


 ドイツ在住の友人が一時帰国…、秋の日本を案内するとなれば、やはり京都でしょう。


 そんなことで、三千院と永観堂を歩いてきました。さすがに紅葉に染まる京都は大変な人出でしたが、それでも勤労感謝の日を交えた3連休の混雑振りに比べたら、ずいぶん楽な拝観だと、永観堂の案内嬢が言っていました。「もう、入場制限までして、凄かったんですよ」と…!


 少し盛りを過ぎた紅葉が、都の秋の深まりを物語っていました。


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【184】 香落渓谷赤目四十八滝曽爾高原           2009.11.22


 伊賀の紅葉の名勝地「香落渓谷・赤目四十八滝」を歩いてきました。山の紅葉は少し遅かったかなというカンジでしたが、山道に積もる落ち葉を踏み分けていく惜秋の風情が、そこここに漂う訪問でした。
 夕刻、曽爾高原まで足を伸ばし、夕日に染まるススキが原に身を沈めてきました。


 このページは、現在、作成中です。
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【183】 大杉谷紅葉クルーズと十六尋滝  2009.11.14



 「午後から晴れ」との天気予報を信じて、雨の中を、日本最多雨地域の大杉谷へ向いました。大台町観光課が募集している「大杉谷峡谷 船上紅葉ツアー」に参加するためです。


 大杉谷は、ほとんど手付かずの原生林が広がり、数多くの滝、渓谷の巨石が次々と現れる秘境…。黒部峡谷、清津渓谷とともに日本三大渓谷、日本の秘境百選の一つにあげられています。
 大杉谷への登山道は、宮川第3発電所と大台ケ原を結ぶ登山道を歩くしかありません。登山道(特に宮川沿い)はアップダウンが激しく急峻な断崖にあって狭く危険なので、十分な装備と慎重な行動が要求されます。
 2004年の水害で登山道の多くの箇所に崩落を生じ、宮川沿いの登山道は現在通行不能です(奈良県から入る、大台ケ原より大台林道までは可能)。 【Wikipedia百科より】
 その大杉谷のほんの玄関口のところをのぞいてこようというのが、今回のツアーの目的です。
 

 午前7時、自宅(津市)を出発。津ICから伊勢自動車道に乗り、勢和多気JCTで紀勢道を走ります。
 雨模様の日でしたから、午前7時30分、まだ薄暗くて車はヘッドライトを点けています。


← 間もなく降り口、大宮大台ICです。






 8時前…、今日のツアーの集合場所 「奥伊勢フォレストピア」に着きました。




← コーヒーを飲みました。コップの水がとても美味しかった。





「奥伊勢フォレストピア」は宮川町が経営するリゾート宿泊施設…、人気の「奥伊勢宮川温泉」は美肌効果に優れているとか。季節の野草風呂や露天風呂などがあり、日帰り入浴客も多く訪れます。
 
 
 午前9時30分、「奥伊勢フォレストピア」のバスに乗って、宮川沿いに上ります。


 「奥伊勢フォレストピア」を出発して40~50分…、「宮川ダム」が見えてきました


 日本有数の多雨地域として知られる紀伊山地を水源とする宮川は、古来より暴れ川として流域の人々に恐れられてきました。
 宮川の作った谷が深いため、上流・中流域では本流の洪水による被害はあまりなかったようですが、橋や渡し舟が流されるなどの被害がありました。
 下流域は宮川の土砂が堆積した沖積平野のため、洪水が起きると被害は甚大で、古くは大神宮諸雑事記に717年(霊亀3年)8月16日の洪水の記録が残されているそうです。




  ダム湖 →


 1952年(昭和27年)2月起工式、宮川堰堤築造工事が着手されました。そして4年の歳月をかけて、1956年(昭和31年)12月、完成。重力式コンクリートダム 堤高:88.5m 堤長231m 相貯水量7,050万立方m(東京ドーム約57個分)、宮川水系への給水と、三重県南部の発電を担って、今日に至っています。


 このダムは、治水・洪水対策の役割を果たすべく、ダムに流れ込んでくる洪水の量で100年に1度の規模を想定して作られているそうです。「平成16年の台風21号来襲時の写真」が 三重県松阪建設事務所ダム管理室ダム管理課より提供されていますので、興味のある方はご覧ください。
 http://www.pref.mie.jp/MKENSET/HP/dam/t21/index.htm


 この湖底には、大杉谷地区の民家92戸が水没しています。


  10時30分、宮川ダム堰堤を出発。ダム湖を走る観光船の
 乗り場(=定期バスの終点…バスセンター)に着きました →



 ここには食堂・みやげ物店・公衆トイレ・観光センターなどの建物があります。平成16年の大水以来、登山道が閉鎖されていますから、訪れる人が少ないせいか、食堂やみやげ物店は閉まっていました。


← 10時46分、乗船開始。3艘目に見えている白い船が、今日、乗船する船です。


 現在、湖面を遊覧しているのは貸切船のみ。大台町営の定期船は休航中です。


 
ひときわ高く、山肌を紅葉に染めているのは国見山… →


 風もなく、湖面は穏やか…。でも、全面オープンデッキの船は、けっこう寒かったです。湖面を渡る風って、冷たいのですね。


← 大杉谷渓谷のシンボル「新大杉谷橋」(吊り橋)、その真っ赤な色から…通称「赤橋」が見えてきました。




  
緑色とのコントラスト
  が、ひときわ鮮やかで
  した。      →



 乗船場を出発してから40分…、11時26分に第3停船場へ着きました。


← 停船場と言っても、河岸にコンクリートの階段を下ろしてあるだけ…といったいでたちです(笑)。
 船は、この階段をめがけてへさきを突っ込み、接岸させます。


 へさきを湖岸の土砂に乗り上げて、ロープを渡して船を固定し、板を渡せば、上陸準備完了です。

 船頭くんの「どうぞ」の合図で、上陸開始…。渡した板は、全然揺れることもなく安定していました。


  水辺から、結構きつい階段を上ります。案内の人の話では、
 「100段ぐらい…」とのことです。           →



← やっと、上の道路まで上がりました。


 船着場から上がってきたところのこの道は、ダム湖の北岸を第3発電所まで車が走る、県道53号です。
 この道を5分ほど歩き、さらに右手の山間に少し入ったところに、「六十尋(ろくじゅうひろ)滝」があります。


 山道を少し歩いて、ちょっと急な石段にかかるころ、大きな滝の音が耳に届きます。激しく岩を打つ、轟音です。


← 見えてきました。その高さが六十尋=90mあると言われる「六十尋(ろくじゅうひろ)滝」です。


 昨日の雨で水かさが増し、水は岩肌を流れ落ちるなどといった生易しさでなく、滝口から放射状に放出されていました。
 滝つぼよりも前方に落ちるせいか、岩に跳ね返る水しぶきもすざまじく、歩経路は水浸し…。たたずんで見ていると、衣類が濡れるような水しぶきでした。


    轟々たる水音を立てて流れ落ちる、豪快な滝です。→


 滝の前の大きな紅葉がキレイに色づいて、白い滝の水、黒い岩肌と、美しいコントラストを描いていました。


← 紅葉のアップです。
  












← 滝口です。水量が多くて、あふれ出ているというカンジですすね。


       左上の岩肌を細かく流れる水の白さもキレイです。 →


← 少し離れて、上流部から滝つぼまでの全景を撮りました。


 ここ大杉谷は、この六十尋滝を皮切りに、下から巨石が横たわる大日嵓、木や岩が苔むしている京良谷、150mを流れ落ちる千尋滝、深山幽谷そのもののシシ淵、そのスケールに圧倒されるニコニコ滝、見上げる巨岩の平等嵓などの名瀑・山峡が現れ、やっと桃の木小屋に到着…。さらにその上には、渓谷随一の七ッ釜滝、滝口から滝つぼまでを歩いて見ることのできる光滝、そして大杉谷最後の堂倉滝と続きます。
 登山道の復旧工事は下から進めることが出来ず、奈良県側から行われていますが、全通するのは5年ほど先とのことです。


       もと来た道を戻ります。大石、ゴロゴロです。→




← 階段を下りて、船に戻ります。
  
 出航して間もなく、湖岸からせり出している大きな岩が見えてきました。
「のぞき」と呼ばれている箇所です。
 ここは、ダムが造られる前、岩の上から流れをのぞくと、素晴らしい景色が川面に映し出されていたことから、一帯を「のぞき」と呼んだそうです。             ↓→
  


 すざまじい力が加えられて、岩が捻じ曲げられたことが、目に見えますね。
 深い山、刻まれた谷、そしてこの岩…。自然の力の大きさをつくづくと感じます。


 やがて船は、大和谷渓谷へと入っていきます。


← その入り口にかかる「大和谷橋」。銀色に輝くその色合いから通称「銀橋」が見えてきました。


 「大和渓谷」「垣外俣渓谷」や宮川ダムの堰堤を湖面上から見たあと、お昼前に遊覧船に乗り込んだ乗船場に帰ってきました。


 ここからバスに乗って、大杉谷の地名の由来となった杉の巨木を見に…、いや、ご神木ですから拝観に行きます。


 ところが、『ご神木こちら→』と書いた看板の横の道は、車が一台やっと通れる細い道…。でも、そこはさすがに地元のマイクロバス…。その狭い道へ乗り入れ、急な坂道をエンジン音を響かせながら登っていきました。大杉谷を、バスターミナルよりも奥に入ろうと思えば、この道しかないのです。


← 道幅の広いところで、対向車の有無を確かめながら進まねばならない道でしたが、紅葉のきれいな道でした。


 バスターミナルから約10分…。県道53号を上った右手にキャンプ村があり、その横の駐車場に車を停めて、さらに5分ほど歩きます。


  杉木立の中にお社が見え、その後ろにひときわ巨大な
  1本の大木が聳(そび)えていました。     →



 「うわぁ、こりゃぁ大きいわ」と、誰もが口々に叫んでいます。大杉谷の地名の由来となったこの大杉は、樹高約40m、地上1.5mのところの幹周りは約9.2mで、大人が6人で囲んでやっと1週する太さです。樹齢は1200年と推定されています。

 

← まッ直ぐに伸びた幹は、
この太さです。



  根っこは、
   もうひとつ立派! →


 樹皮に触れると神霊あらたか、自然のパワーがもらえるといわれています。




   横に人が立つと、その太さがはっきり分りますね。→


 午後2時30分、大杉谷を後にしました。



← 宮川上・中流に
 沿って走る、
 県道31号



 「奥伊勢フォレストピア」に帰り着いたのは3時15分ごろ…。宮川温泉にゆっくりと浸かり、午後4時10分、家路に就きました。


 大杉谷のほんの玄関口だけをのぞいた一日でしたが、圧倒的な自然の力と、訪れる者を優しく包んでくれる優しさを感じた一日でした。
                             
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