【209】 信楽の松茸        2010.11.07


 今はドイツにて余生を送られている、高校時代の恩師が、何年ぶりかで帰国された。久しぶりに、当時お世話になった同級生3人が、なつかしの母校に顔をそろえた。
 「やぁ、元気だったか?」、恩師はすでに80歳を越えておられるが、矍鑠(かくしゃく)としておられた。
 「積もる話は道中ということにして、君、運転を頼めるか」と僕の車に乗り込み、「信楽へ行ってくれ」との仰せである。
 日曜日の夕方ということで車は結構混んでいたけれど、名反国道を壬生野で降り、伊賀上野を抜けて、1時間もかからずに信楽へ着いた。「信楽駅だ。駅を探してくれ」とのお言葉で、ナビを頼りに駅にたどり着くと、そこからは「そこを曲がれ」「ここを曲がれ」とのご指示に従って数分…、『松茸一筋』の看板が見えた。「魚松」という魚屋のような名前だが、関西テレビでも松茸の名店と紹介されたという、歴(れっき)とした松茸一筋の店である。

 先生が日本に居られたころ、よく通ったという松茸店…。今日行くことを先生が電話されていて、出迎えてくれたご主人も、「先生、お元気そうで…」と懐かしそうであった。


← 玄関を入ると、いきなり松茸の山


 信楽の松茸はそろそろ終わりで、今は京都の丹後や和歌山、山陰から、毎日仕入れているのだとか。


 
「今日の分は、どちらにしましょうか」と持ってきてくれた
 松茸…。右が京都の丹後、左が和歌山産だそうです。  →



 「お任せします」と言う僕たちに、「例年は小箱で送られてくるのですが、今年は豊作で、大きなダンボールいっぱいが、毎日、送られてきます」と、ご主人の説明であった。 




← 焼き用にそろえてくれた松茸


 











 炭が熾るのが待ち遠しく、みんなでコンロに息を吹きかけて発火を促す(苦笑)。まだ火力不足だろうと言っているのに、気の早いのが傘を割り、茎を裂いて、網の上に並べはじめた(大笑)。          →


 焼けたものを口に近づけると、薫り立つ松茸の匂いともに、ほおばると口の中にも香りが広がり、シャキッとした食感とあいまって、日本の秋がそこにあった。
 4人で2皿に盛られた松茸は8本ほどか。食べても食べても、食べきれない。「足らなけりゃ、玄関で見たようにいくらでも追加はあるから」と、先生は冷やの枡酒を傾けながら鷹揚である。


 「もう、要らん」とそれぞれが言ったころには、追加したコンロの炭も下火になって、「じゃぁ、そろそろすき焼きにしようか」という会話が聞こえたのか、女の子が大皿に持った近江牛を運んできた。


← まずは、砂糖と割下で味付けした肉をほおばる


 さすかは近江牛…。トロリととろけるような松阪牛に比べて、重厚な食感があり、程よく味付けされた肉そのものの味が口の中に広がっていく。


 もちろん、すき焼き用の松茸も用意されていて、ひととおり肉の味を賞味した後は、松茸をすき焼きの煮汁で煮あげていただく。香り松茸と言われるごとく、すき焼きの味のうちにも松茸の香りが色濃く漂い、煮てあってもシャキッとした食感は健在だ。
 最初に運ばれてきた皿には、一人200グラムほど以上の肉が盛られていたと思うのだが、「足らん」と言うのがいて、また2人前を追加した。


 松茸と牛肉でお腹いっぱいになった面々は、松茸ご飯が食べられず、折に入れてもらって持ち帰ることになった。
 「じゃあ、勘定を…」と言ったら、先生が「もう、済ませたから」と宣(のたま)う。「おいおい、逆だろう」と言い合ったのだが、もはや手遅れ…。今更受け取ってくれる先生ではない。先生が帰独されるまでに、改めてご招待することにして、ここはご馳走に預かることにした。
 僕たちは、『幾らぐらいかなぁ?』と思いをめぐらせたのだが、帰りがけに玄関で「家で松茸ご飯を炊くことにするよ」と買い求めた松茸が、2本で1万7千円であった。


 有り難きは、師の恩である! 
                 



【208】 草津「あたか飯店」守山「クラブ・ハリエ」        2010.10.27


 久しぶりに、草津の友人に会うため、午前10時に自宅を出ました。まだ時間があるからと、新名神を避けて柘植から水口へ抜ける地道を走っていったら、約束のお昼0時に5分ほど遅れてしまいました。
 久しぶりのあたか飯店は改装したらしくてちょっと様変わり…、味も少し様変わりしたような…

           フカヒレスープ →


← エビの甘酢あんかけ


 章くん、そのほかに、鶏肉の冷蒸し、酢豚、、豆腐の蟹肉ソース、八宝菜…と頼んで、2時間半ほど何だかんだと話し込みながらつまんでいたのですが、結局、食べきれずに残してしまいました。


 食後は、杏仁豆腐…? ゴマ団子…? と言ったのですが、いいところがあるからそれは場所を変えてという、草津在住の友人の提案に後をついていくと、約10分ほど走って、守山の「クラブ・ハリエ」に案内してくれました。
 言わずと知れた、近江八幡に本店を構える「たねや」の洋菓子部門の支店ですが、ここ守山店にも和洋両方の菓子が置いてありました。


      クラブ・ハリエ 守山店 →


 店内ではバームクーヘンとヨーグルトにフリードリンクのセットを頼んで、章くんの好物「組み立て最中の『ふくみ天平(てんびん)』」を友人がお土産にと持たせてくれました。


 まさに、『朋有り 遠方より来る 亦 楽しからずや(有朋自遠方来 不亦楽 )』( 論語 学而
 第一)、でありました。



【207】 木曽駒ロープウェイ 千畳敷カール


【206】 食べ歩き2題  
和食処「藤吉郎」名古屋 夜めし「伍味酉
 
 
10月2日(土) 
和食処「藤吉郎」


 ホントは教えたくない、僕の秘蔵の和食処である。旨い魚が食べたくなったら走っていく。
 本マグロ定食は、右の写真の本マグロに、小鉢、汁椀、デザートがついて、定価1000円也。
 8月の初めに同級生のヤスエを連れて行ったら、その後、僕の知らない間に、彼女の友人や他の同級生などを連れて、もう6回も通ったという。


← クロダイの煮つけ、700円。コリコリ…。


 水曜日が定休日なのだが、最近、おじさんが体を壊して、臨時休業が多くなった。僕も、休みを覚悟で走っていく。前もって電話をすればいいじゃないかと言われるだろうが、「臨時休業」の看板を見てガッカリすると、次に行ったときの美味しさが倍増するのだ。(笑)

 
 
10月1日(金) 
名古屋 夜めし「伍味酉」


 久しぶりに、夜10時を過ぎてから、名古屋へご飯を食べに走っていきました。
 午前0時ごろに栄に着いて、車を駐車場へ預け、繁華街を歩いてみました。花の金曜日…、夜中なのに大賑わいです。

← そうか、今日、中日ドラゴンズの優勝が決まったんだ。


 あちこちにドラゴンズのユニフォームを羽織って怪気炎を上げている一団がいました。


 いつもの、プリンセス通りの「伍味酉」に入りました。鶏料理にバラエティのある、居酒屋です。


         名物 伍味焼き(冷製) 480円 →


 焼いた鶏胸肉・ねぎ・ごま・しょうが・秘伝のタレの五つが醸す味の良さが売り物で、伍味焼きというとか。


← 鶏屋へ来ても、マグロの刺身は欠かせない。840円


 味は、鶏屋なんだから、無理を言ってはいけない。








 本家 手羽先の
 唐揚げ  →



 名古屋といえば「手羽先」!…かな。伍味酉の看板商品です。秘伝の甘辛だれに絡めた、人気の一品です。
 ただ今、キャンペーン中とのことで、1つ50円でした。


← 名古屋コーチン親子丼 950円


 お腹が空いていたんです。甘味の味付け…、
ペロリと食べてしまいました。






 いも娘
 480円→



 何か足らんなぁという感じでした。そうか、デザートかと思いついて、裏漉しした焼きサツマイモにアイスクリームを添えた「いも娘」を…。


 午前2時、名古屋の夜は、まだまだにぎやかでした。





【205】食べ歩き2題 
                        
 2010.09.23
  
鶏鳴厨房「てんか鶏」(松阪市)、 サンマルク(鈴鹿市白子)のランチ


9月23日(木)  鶏鳴厨房「てんか鶏」(松阪市)


 今日も午後4時過ぎ、「何か食べなきゃ」と車を走らせていて、松阪の下村町で「てんか鶏」と書いた大きな看板を見つけました。矢印の角を曲がって、細い道をクネクネと行くと、それらしい建物が見えました。
 これかな…とクリーム色の洋館建ての家の扉を押すと、中はとてもお洒落な空間でした。章くんたちは、入って右手の掘りごたつ席に上がったのですが、左手には網焼きのガステーブルが置かれた大部屋があって、のちほどのぞいてみると、もうもうたる煙が立ち込めていました。





  まず頼んだのは、鳥肝の刺身と鶏ユッケ →


 刺身は新鮮そのもの。油のタレよりも、あとで頼んだわさび醤油のほうが食べやすかったのは、章くんが日本食党だからでしょうか。
 鶏ユッケは、味がよく滲みていたし、申し分のないまろやかさでした。


てんか鶏・フォアグラソテー サムゲタン お寿司ロール


 てんか鶏フォアグラソテーは、イタリアンのような味わい。香り高くコクのあるフォアグラソースと鶏の旨みがあいまって、良い味をかもし出していました。
 ご存知サムゲタンは、一羽丸ごとの内臓を取り出した鳥の体内に、さまざまな食材を詰めて煮込んだもの…。グラグラと煮立っている石鍋に入れて運んでくれ、目の前で煮込んだ鶏をおしゃもで潰してくれます。栄養豊富、グリコーゲンたっぷり、暖かくて体はホカホカと、申し分のない逸品です。
 そして最後に、お寿司ロール。手軽かなと思って頼んだのですが、さすがに食べきれず、パックを貰って詰めてきました。
 店の雰囲気も、お店の人の対応も上品で、帰りがけには、「お味はいかがでしたか」と尋ねられました。「一品ずつよく吟味され、それぞれに工夫された手が加えられていて、とても堪能しましたよ。また、お邪魔します」と言って帰りました。

  
9月21日(火) サンマルク(鈴鹿市白子)のランチ


 お昼に何を食べようかと迷いながら車を走らせていて、鈴鹿に来てしまいました。優待券を貰っていたのを思い出して、午後2時過ぎに、サンマルクのランチに行くことにしました。7月末に夕食に出かけたときに、以前よりもとても味が良くなっていて、良い印象が残っていたからです【参照】
コーンスープ

オードブル3種

ビーフストロガノフ

 ランチコースのメインは鶏肉だったのを、ビーフに替えてもらって平らげてきました。ランチだったからか、前回のような濃密な味には出会えなかったのは残念…。
 3時が過ぎて、他のお客さんの姿も見えなくなりました。パンフレットには、ランチ4時までと書いてありましたから、まだ休憩時間にはなっていなかったと思うのですが、夕食の設営準備でしょうか、ギャルソンはテーブルのクロスを替えたり、食器類を並べ替えたりし始めました。
 そんな中でも、きめ細かな気遣いを心がけてくれていたのでしょうが、最後に味の良かった紅茶パンをお願いし、焼きあがってくるまでビーフストロガノフをひと口残して待っていたところ、「お済ですか?」と聞いてくれます。「まだ、パンが届くまで…」と言ったのですが、更に5分ほどして、一向に口にしようとしない皿を見たからか、また「お済ですか?」と訪ねてくれます。『パンを待っていると言ったのに』と思いつつも、2度目は「ちょっと待って」と言いにくく、皿を引いてもらいました。
 忙しそうな様子、食器や皿を並べる音など、ちょっとざわざわしていて、残念な雰囲気でしたね。




【204】 ポンペイ展  名古屋市博物館   2010.08.25(水)


 テレビが、「今日午前中、8万人目の来場者が…」と伝えている。名古屋市博物館で開催中の「ポンペイ展」もあと5日になった。最終日に近づくほど混雑するだろうから、思い立ったが吉日と出かけた。
 
              名古屋市博物館の鍔時計 →




 ポンペイは、イタリアのローマから南へ260km、今は地中海の水位が下がり、海岸線が後退しているので、内陸部に位置しているが、ローマの属州として繁栄していた当時は、人口2万人を擁する港湾商業都市であった。
 西暦79年8月24日、町の北西 10キロメートルにあるヴェスヴィオス火山が突如大噴火。押し寄せた火砕流や有毒ガスがポンペイの人々の命を次々と奪っていった。降り注ぐ火山灰は、僅か1日足らずで5メートルの深さに積もり、町全体を覆い隠した。








   ヴェスヴィオス火山の火山灰は北西
  からの風に乗り、南東に位置していた
  ポンペイを飲み込んだ。     →
   (地図はウィキペディアより)



 ポンペイが人々にその姿を再び現したのは18世紀半ば、以降、今に至るまで発掘が続けられている。地中から次々と現れるローマ時代の遺品の美しさに世界が驚愕した。
 その美しさの秘密は、実は町に降り積もった火山灰にあった。火山灰には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収する性質があった。この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたのであった。


        再建されたポンペイのフォルム →
              (絵ハガキから)
 後ろに見える、ヴェスヴィオス火山が噴火した。


← ウェヌス像 (絵ハガキから)


 パロス島(ギリシア)産大理石、彩色の痕跡、前1世紀 
 高さ90.4cm (台座を含まない)、最大幅43.5cm、奥行27.0cm
 ポンペイ、I, 2, 17、中庭に面した壁がん
 ナポリ国立考古学博物館蔵



 ウェヌスは、ヴィーナスと英語読みしている愛と美の女神。ポンペイでは、このウェヌスとヘルクレス、ディオニュソスが3守護神とされていた。この《ウェヌス像》では、着衣の部分にほどこされた彩色が保存されていて、往時の華やかさを想い起こさせてくれる。


          剣闘士の小像(絵ハガキから) →


 この《剣闘士の小像》は、素焼で作られたもの。当時、年の初めの縁起物として、こうした像を贈る習わしが普及していた…とある。








← イルカのモザイク(絵ハガキから)


  白色石灰岩と黒色大理石のモザイク片が埋められて
 イルカが描かれている。浴室の床に敷いたものか。
 158.0×232.0cm 



 住居には中庭や庭園があり、その周囲には食堂や応接空間、寝室などが配置され、彼らは中庭や庭園を眺めて来訪者と歓談したり、くつろいだりしていた。
 食堂には宴会で使用する食事用のベッドが(当時の宴会は寝そべって飲食し会話した)、応接空間にはテーブルやいす、金庫などの豪華な調度品が置かれていて、夜には優美な装飾の施されたランプや燭台が各部屋を灯していた。
 また、一部の富裕層の住宅には水道が引かれ、個人用の給湯付浴槽も備えられていた。


  「イナクスとイオの家」出土の銀食器群より →
              (絵ハガキから)



 「イクナスとイオの家」から出土した銀食器は、多くの種類の器が4客1セットで発見された。
 「饗宴」は、富裕層にとって自らの財力を誇示する場であった。その饗宴の場には、当時の最高級の工芸品といってよい食器が集められていた。器の表面には、バラやツタなどの草花、鳥や動物などが華麗に表現されている。


 豊かな生活を楽しんでいたポンペイに、突如、最後の日が訪れる。
 ポンペイを一瞬にして火山灰の下に埋もれさせたヴェスビオス火山は、1944年にサン・セバスティアーノ村を埋没させた噴火を最後に、小休止に入っている。


← カール・ブリューロフ(ロシア)作、
 「ポンペイ最後の日」(1830-1833年)

 (ウィキペディアより)


 1880年には山麓から火口まで登山電車(フニコラーレ)が開通した。これを記念して作られた歌(いわゆるコマーシャルソング)がナポリ民謡『フニクリ・フニクラ』である。この登山電車は前述の1944年の噴火で破壊されたが、のち1990年に復旧・再開された。


 今、塩野七生著「ローマ人の物語」を読んでいることもあって、1世紀の後半に突如として火山灰に埋もれ、それゆえに今日まで当時の様子がそのまま伝えられているというポンペイ展を見てみたかったのである。
 ヴェスヴィオス火山が噴火した紀元79年は、日本で言えば景行天皇の御世だが、まだ神話の時代で景行天皇の実在性には疑問が出されている。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半かと…。
 日本では、日本武尊が活躍し、八岐大蛇(やまたのおろち)か跋扈していた時代、ローマ世界では上下水道が町に敷かれ、劇場や公共浴場等を楽しむことのできる快適な都市生活が築かれていたのである。
 古代ローマ帝国は、アウグストゥスが実権を握った紀元前27年から五賢帝の時代に繁栄を誇り、98年に帝位についたトラヤヌス帝の時代には、ほぼヨーロッパ全土を支配下に置いた。現代のヨーロッパ世界の礎ともいえる古代ローマの繁栄が、名古屋市博物館に展示されていたのである。

 
 
 
 お昼過ぎ、名古屋高島屋の13階「とり五轍(ごてつ)」にあがって、評判の親子丼を食べた。


 東京人形町「玉ひで」のプロデュースによるという親子丼 →


 東京「玉ひで」は親子丼発祥の店と言われていて、かの池波正太郎も常連で、ベストセラーシリーズの鬼平犯科帳にも「軍鶏鍋屋五鉄」の名前で登場する超有名店である。この店の「五轍」も、それをゆかりとしたものだ。
 お昼を過ぎていて、店には客が2~3組…。待つほどもなく運ばれてきた一膳は、これぞ親子丼と言うべき一品であった。
 お椀の蓋を開ける、とみりんの良い香りがふわーっと辺りに拡がり、椀の中には照りが増した黄金色に輝く卵の海に、名古屋コーチンが鎮座している。ちょっと甘めの割り下とトロットロの卵とのバランスが程好い…。やわらかく、それでいてしっかりと火の通っている安定感が口の中に広がる。名古屋コーチンのコリコリとした歯ざわりも心地よく、程好い鶏肉の旨味が香りよく馴染む。
 

 腹ごしらえも整った後は、閉店セールの「名古屋駅前マツザカヤ」へ繰り出すことになる!


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