【100】 小泉首相 所信表明演説(2005年9月)          2005.09.26


 自民党大勝の選挙を受けて、今日午後、小泉首相は衆院本会議で所信表明演説を行い、まず郵政民営化関連法案を今国会で成立させる決意を強調したうえで、郵政後に取り組む重要課題として、政府系金融機関の改革や国と地方の税財政を見直す「三位一体改革」、国家公務員の総人件費削減を列挙、「こうした構造改革を断行し、政府の規模を大胆に縮減する」との方針を表明した。
 「郵政民営化」は、多くの国民の支持を大きな支えとして、郵貯・簡保の入り口とともに出口としての政府系金融機関の改革に取り組むこと。「年金問題」は、長期的な視野に立ち、与野党が胸襟を開いて協議をしようとよびかけ、「イラク派遣」は、イラク国民の要望と国際社会の動向を見て判断するとした。
 改革への決意を、首相の言葉の節々に大きな拍手を送る小泉チルドレンの前で淡々と述べた小泉首相であったが、靖国神社参拝についての言及はなかった。


 小泉首相が叫ぶ構造改革の必要性を、財務省がちょうど本日発表した2003年度の「国の財務書類」をもとに、改めて検証してみよう。
 それによると、まず国の一般会計と特別会計に特殊法人などを加えた連結ベースの資産額が、839.8兆円に上るとある。同年度の名目国内総生産(GDP)501.6兆円の約1・7倍に相当し、補助金や正負貸付金を大盤振る舞いしていることが判り、日本の「大きな政府」ぶりが鮮明になった。
 財政投融資資金による地方自治体への貸付金(約73兆円)や、住宅金融公庫への貸付金(約57兆円)のほか、日本政策投資銀行など政府系金融機関への貸付金の額が多いことと、現在31ある特別会計や特殊法人、独立行政法人が国の資産を膨らませ、「大きな政府」の要因になっていることがわかる。民営化や独立行政法人化を急ぎ、無駄遣いを減らすことが急務である。
 一方、資産と負債の実態を示す国の貸借対照表によると、一般会計ベースでは負債が資産を288.7兆円上回る「債務超過」となっている。前年度より25兆円も悪化し、民間企業ならすでに破たんしている危機的な財政状況が、改めて浮き彫りになった。さらに今回はその年に国の業務や事業を行うため必要だった費用を調べる「業務費用計算書」も初めて公表し、03年度は77.4兆円の費用に対し、財源となる税収や印紙収入などは46.3兆円にとどまって、単年度で約31兆円もの財源不足だったことがわかった。
 日本の構造改革は、喫緊の課題であることがお分かりだろうか。2008年問題(1998年に当時の小渕内閣(宮沢蔵相)の発行した大量の国債(10年債で40兆円)が償還を迎えるこの年、国債の市場が暴落する恐れがあるという問題)を契機として日本の国家破産が起こることが懸念されている。日本の場合、外国からの借金ではないから、過年のアルゼンチンのように、ある日突然に円が紙くずになることはないが、政府が発行する国債を個人も金融機関も買わなく(買えなく)なって、政府が「国債の額面を半分にします」などと宣言することになる。今のまま、2008年…2009年…と進んでいけば、現実の問題となる懸案なのである。


 このように、構造改革はぜひ必要な重要課題であり、小泉首相には大きな与党勢力をバックに強力な指導力を発揮してほしいと思うのだが、もうひとつ、政治の結果責任についても、ひと言触れておきたい。
 これからの改革断行に際して、その結果に対して誰が責任を負うのかをはっきりさせることが必要であろうし、さらには、日本の国をこれほどの借金漬けにしたものの責任はどうなのかということもはっきりさせるべきではないのか。
 民主主義というシステムは人類がたどり着いた英知のように言われているが、この制度の下では(特に日本の政治体制の下では)誰も責任を問われない。政治や行政を行うものは全てひとつの機関の歯車であって、行った施策について、個人の責任は問われないというわけだ。社会保険庁の犯罪は官庁全体の責任という理屈だから、同様の論理で、あらゆるところで腐敗が生じている。
 はっきりと、政治と行政の長たるもの…すなわち担当の大臣が責任を取って当たり前であろう。民間企業で企業なり社員なりが明らかな過ちを犯した場合、社長以下経営者の責任は厳しく問われて、多くの場合、引責辞任を余儀なくされる。
 政策や行政に、明らかな誤りや不正があった場合は、該当省庁を所管する大臣の罷免と議員辞職は当然で、そこまでの責任は取れないというのならば、大臣就任要請を断るべきだろう。小学校低学年の理科・社会科を廃して生活科などという幼稚園の延長教科を設けた鳩山邦夫文部大臣、総合学習を配して学力低下を招いた遠山敦子文科相、赤字国債を垂れ流すだけで任期内目標の景気回復を実行できなかった宮沢喜一蔵相…は、引責の議員辞職をして当然であろう。
 明確な責任体制を確立しなければならない。個としての責任をはっきりさせなければ、やりたい放題…、より正しくより効率的にすすめようという緊張感もなくなる。上手くいったらもうけもの、失敗しても自分の責任じゃないとしたら、手を抜いて当たり前になってしまう。
 今の日本の議会政治は責任の所在が極めて曖昧だ。政治に背骨を通そうというのならば、政治責任、結果責任を、しっかり問う体制を確立しなければならない。


 絶対的な大与党という強力な政権基盤を国民から託された小泉首相は、責任をもって改造諸策を断行する義務がある。今さら、8月15日の靖国参拝に逡巡するなど、笑止の沙汰というべきだろう。
 日本人の民族性は、自己の哲学をもたない。他人の意見や命令に、左右され、流され、屈しやすい。だからこそ、小泉純一郎に時代を託したとも言えるだろうが、ならば、中韓関係を損ねないためにというような理由で躊躇を示す世論をリードする形で、「靖国参拝は、日本の政治家の責務だ」ということを明確に示すべきであろう。
 戦後60年を経ても、この国の戦後は終わっていない。中曽根内閣が、「戦後政治の総決算」を掲げたけれども、問題は何も解決できず、靖国にしろ、財政構造にしろ、初等教育の瓦解にしろ、むしろ問題を後世に投げかけてしまった。
 私はかつて、「小泉純一郎は、日本のゴルバチョフになれるか」と書いた。小泉首相は、大与党勢力を背景に、財政改革…外交姿勢…政治倫理…等々の諸懸案について議論を尽くし、小泉純一郎の責任において、日本という国の進むべき道を明確にするべきだろう。時代は、日本の新しい姿を要求している。



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