その2
日本は、今

【38】辻元清美の証人喚問 「知ってることを、全部ぶちまけまっせ!」     (4.1)

 今日はエイプリル・フールである。辻元清美女史の話題を追いかけてみたい。本屋で立ち読みした週刊誌には、「ウソつきの辻元清美、他人のウソを追求する資格なし(週刊新潮)」「アホの清美、復権なし(週刊現代)」など、エイプリル・フールだからかと思ってしまう活字が躍っている。つまずいたものを、世の中はここまで鞭打ち、食い物にするかと、エイプリル・フールだからということにしなければ救われない思いがしたのである。
 週刊誌は、この間までは「鈴木宗男」と書けば何割かの増販であったという。今は「辻元清美」を誹謗すれば、3割アップということか。しかし、「選挙で借りた金の残金整理に誠意がない」とか、「取材の記者を自室まで入れて、トイレの写真を撮らせた」などということを、この時期に書き立てることの卑しさに辟易する。弱り目だからといって石持て追うがごとき振る舞いは、強いものには何も言えないくせに、弱いと見れば寄ってタカっていじめる、島国根性の情けなさであろう。
 六公四民といった過酷な年貢を徴収されて、食うや食わずで搾取されつづけた江戸時代の農民達は、身分制度では工商の上に位置して、自分達よりも低い身分のものがいるという悲しい差別意識で日々の過酷さを耐えたというが、この週刊誌を作って売るものも買って読むものも、どこかでそれに似た哀れな自分を感じているのではないだろうか。自分達は、搾取されつづけた封建時代の水呑み百姓の頃から、少しも進歩していないことに気づいて、愕然とした寂しさを感じていることだろう。
 辻元清美女史は、敢然と証人喚問の招致に応じることである。「知っていることを、全て喋る」と宣言して、出席を快諾すればよい。
 先日の辞任の際には、「私だけやない。○○さんも、△△さんも…」と言ったけれども、引かれものの小唄みたいにボソボソとしていたから、「自分のことになると歯切れが悪い」とか、「他人を巻き込む自爆テロ!」と言われて、表面に出てこなかった。例のごとくテンポよく、もっと正々堂々と証拠も挙げて、「○○さんも、△△さんも、してるやないですか」から始まって、「公明党の裏献金」「官邸機密費問題」など、政界のタブーを全て引きずり出し、「秘書の給料を流用した私も間違ってましたけど、こいつらもっと悪いでっせ。みんな、辞職しましょう」とやるべきである。
 「お父さんはばくち打ちで、借金取りに追いまくられていた家に育った私は、怖いものなんか何もない」と言う辻元さんに、「証人は、聞かれたこと以外答えてはいけない」などといった国会のルールも意味はない。辻元清美が知っている政界の悪事を、洗いざらいぶちまければいい。社民党は、自民党からいくらか金を貰っているかということも含めて…。政界に激震を走らせることができるジャンヌダルクは、あなたを置いて他にない。立場がヤバクなったら、「4月1日に原稿書いたもんですから!」…と。


【37】辻元清美議員、辞職。  これを、社民党の復権に!          (3.26)
 
 
 民社党の辻元清美議員が、今日、国会議員を辞職した。秘書費用を流用したことを批判されての辞職である。本人としては、国から支給された費用を、事務所全体の経費へ活用しようとしたのだが、支給を受ける本人からの還元を寄付金として処理していなかったから、法律に触れるとされたわけである。前回も指摘したように、秘書費用を他に流用している議員はたくさんいる。合法的な処理をしているかどうかの問題であり、辻本議員の場合はうかつと言うか無知と言うか、処理に手抜かりがあったわけである。

 この問題をめぐっての社民党の対応は、いかにも冷徹である。審査委員会の結果を報告する正副委員長の口調も他党のことのように断定的で、身内のものの過ちに対するいたわりは感じられない。さらに他党に先がけて議員辞職論が党内から湧き上がったことを見ても、組織防衛意識が働く社民党の議員達の目は、いつも国民でなく、支持基盤の組織や団体を見ている。この対応からも、機関としての国会議員という社民党議員の素姓が伺われたし、議員暦も浅く、年若い辻元議員に対する、社民党内部からの嫉妬ややっかみは根深いものが有ったということが理解される。土井たか子党首、福島瑞穂幹事長の言動も、常に純粋な正義の味方であらねばならない社民党の立場を考慮した、国民の視線を意識した態度なのかも知れないが、党内の辞任要求を抑えきれずに矢面てに立たされていた。組織代表である社会主義政党の宿命であろうか。

国民の多くは、今回の辻元議員の問題を、少なくとも鈴木・加藤問題に比べれば、殺人とカキ泥棒ぐらいの違いがあると思っている(のは、私とその友人の数人かも知れないが、)。ただ、辻元さんの場合は、法律に触れる部分があったということと、彼女を守るべき周囲の対応が鈴木・加藤両氏と大きく違ったということだろう。

秘書費用を事務所経費に流用したことと、国費を投じた事業を自分の周囲のものに独占させ、利益の還元までが計画に入っていた利得疑惑、有力国会議員の威光をちらつかせて斡旋した事業の何%かを還流する仕組みをつくり上げ、何億という資金を政治活動に還流させていた疑惑。前者は処理に手違いがあったから糾弾されて議員辞職。後者は疑惑の範囲に踏みとどまったから道義的責任を自発的に取って所属政党からの離党。問題の本質は、どちらが根深いか、一目瞭然ではないか。

 社民党が、国民の意思を代表し、正義を標榜する政党でありたいのなら、辻元議員の私憤を晴らすなどといった瑣末な次元の問題にすりかえられることなく、鈴木・加藤の問題を見事に追及して見せることである。55年体制の片割れである社民党は、どこまで行っても裏取引が身についていて、威勢のよい言葉の裏では自民党と馴れ合いっているというイメージと、明日のない先細りの弱小政党にはもはや国政における何らの力もないとする批判を払拭して、社民党ここにありを顕示する大きな機会である。辻元議員の復活と社民党の復権をかけてこの問題へ取り組み、政党の威信を見せることこそ、今、社民党がやらなければならない課題であろう。



【36】 選挙・政治活動を公費で! − 辻元清美女史の疑惑に思う −   (3.23)  

 社民党 辻元清美政審会長の進退が揺れている。公設秘書の給与をピンはねしていたという疑惑が、週刊新潮に指摘されたものである。「辻元清美の秘書費用のピンはねを、週刊誌にやらせる」という話が、数日前に永田町を走ったということだから、政治の世界は魑魅魍魎の跋扈する陰湿な世界である。
 辻元議員の失脚は免れまい。ちょっとカン高か過ぎるが、歯切れ良く鋭い舌鋒で、政界浄化の急先鋒といった役割を演じてきた彼女だけに、こんな問題でつまずくのは誠に惜しい思いがする。
 政治家が責任を問われるのは、刑法、公職選挙法、政治資金規正法、議員証言法に違反した場合か、政治倫理審査会でクロの判定が出されたときか、あるいは、政治的道義的責任を問われた場合である。辻元議員の場合、給与として支払いを行なってはいたのだけれども、寄付として事務所費に還元させていたというもので、違法ではないが非常識と言われても仕方のないやり方であったということなのだろう。
 彼女ほどの人が、なぜこんなことをしたのか。ひとつには、秘書給与として国から支給される費用の一部を議員事務所の運営費として還元させるのは珍しいことではないからである。いま、政策秘書の給与として国から支給される額は、1千万円を越える。しかし、加藤紘一氏の元秘書のように自分で稼ぐ金額は別として、秘書としての給与をそのまま受け取っている人は多くない。あたりを見回したところ、みんなやっていることなんだからということで、辻本氏としてもガードが甘くなろうというものである。
 相次いで金にまつわる不祥事が噴出する。政治に金がかかるということであり、現状では、政治家は金を作らねばならないという業を背負わされている。たくさんの金を作ってくるものがある面で評価されているのは事実であって、現在の選挙・政治の形が続く限り、鈴木宗男・加藤紘一問題は、日本の政治が抱える、拭い去れない恥部である。
 日本が近代国家として世界に列し、近代政治制度を確立するためには、自民党に代わる政権担当政党を育てることと同程度に大切なこととして、議員の選挙・政治の資金を公費でまかなう制度を整備しなければならないことを挙げなければならない。
 政権が交代するということは、国の仕組みを糺す上で重要な機能を果たすものである。このことはまた改めて論じてみたいが、一党独裁の国は健全に発展した例がない。日本を、共産党独裁国家と比べるつもりはないが、あまりに長すぎて、しかも近い将来に交代する可能性のない自民党政権は、日本の国のさまざまな仕組みにとって大きな齟齬をきたしている。政権に擦り寄る、多すぎる土木建築業や政府任せの銀行などの産業界にも、いわんや自民党ばかりを見ながら仕事を進めている官庁官僚にも、偏向した甘えこそあれ緊張感はない。
 また、議員が活動するための費用は、国がこれを支給することとし、個人や政党が独自に資金を集めることを禁止するべきである。私的に資金を集めるところに利権や斡旋利得が生まれ、癒着のよどみが生じる。選挙にも、供託金と支給される公費以外の金は使えないとするべきだろう。そうすれば、人物本位で政治家を選ぶことができる。今のままでは、地盤・看板、そして何よりもカバンに詰まった札束がなくては選挙に打って出ることはできない制度となっている。高潔な人格を持ち、高邁な理想を掲げる人物が、政治の世界に登場することは望めない制度である。
 辻元議員は自らの責任をとることによって、政治に金がかかることを指摘して制度の改革を提言し、政界を浄化することに取り組んでほしいと思う。自らの進退は潔く、それをもって政治の浄化に大きな一石を投じ、再生の手がかりとしてもらいたい。


【36】 宗男ちゃん、いい加減にしなさいッ!                (3.11)


 やんちゃ坊主の言い訳である。
 「地元の要請に応じて努力しました」…ムネムネ会の大合唱によって外交部会を一方的に取り仕切り、開かれたこともない人道支援委員会の方針に添って、「ムネオハウス」を初めとする土木建築工事を進め、利益の還元まで計画に入っていて、「私は、良かれと思って善意でやった」と言い切るのですから恐れ入る。努力の仕方も、ちょっと間違っていましたね。
 「私の発言、言いぶりが威圧的だとか、影響を受けたとかいうならば反省すべき点があるなと考えています 」…本当に反省しているのなら、形に表すことが大事です。”離党”っていうのでは、党に対してご迷惑をかけたから行なうけじめですよね。世間に対しては、どんな形を示してくれるのでしょうか。
 「大統領に会ったかどうか、記憶にございません」。冗談じゃ、ネェ。”怒!”。団体旅行に参加したオバチャンのひとりを思い出せと言っているんじゃないんだよ。なんぼみんな同んなじ顔をしているコンゴでも、大統領と会ったかどうか覚えていないなんて、普通の社会生活するのも無理なんじゃない。
 参考人質疑なんて、チャチなものである。辻本清美ちゃんの「あなたはウソの総合商社」は笑えたけれど、やっている・言っているに決まっている宗男ちゃんに、なんで「私は誠心誠意、政治に邁進し」なんて言わせているんだ。詳細な調査資料も新材料も持たない議員の質問では、宗男ちゃんはアッカンベーである。おっかさんに来てもらって、「宗男ちゃん、いい加減にしなさいッ!」と一括してもらうのが一番よいのではないか。




 "戸塚ヨットスクール事件"  −懲役6年の実刑判決


 体罰で訓練生を死亡させたとして訴えられた"戸塚ヨットスクール事件"に対し、最高裁は、戸塚ヨット側の上告を棄却した。発生から19年、これにより2審の判決どおり、校長の戸塚 宏氏が懲役6年、他のコーチ3人が懲役3年6ヶ月〜2年6ヶ月の実刑が確定した。

 教育が「体罰」というものにどう向き合うのかが問われた裁判であったと思う。1審で執行猶予つきの判決が出たとき、支持する人は多かったはずである。今、最高裁の上告棄却を聞いて、裁判所として人間を死に至らしめたことに対し、「無罪」というわけにはいかないのかも知れないが、これが裁判所の限界だろうなというのが率直な感想である。
 裁判所に世の中を変える力を期待しても無理なのであり、また裁判所とは世の期待に応えてはいけないのであろう。起こったことを法規に照らして是か否かの判断をする、ただそれだけに徹しなければならないところなのである。その判断がおかしければ、法がおかしいのである。

 さて、「体罰は暴力であって、生徒の人格を損ね、権利を侵害する」とするのが、戦後教育における一貫したスタンスであった。しかし、子どもだから、体罰で済むのではないかと思う。子どもはいっさい叱ったり罰したりはしないのだというのならば別だけれど、子どもだからすぐに社会的な制裁を受けさせることもなく、その場限りの体罰で済まそうというのである。悪いことをしたら、子どもであっても罰を受けるのは当然であって、子どもだから許されるというのは、子どもの人格を否定している。子どもだから甘やかすのでは、物事の是非を正しく判断できる子どもに育て上げることを放棄していることになる。子どもに対して、悪いことをすれば罰を受けるということを教えるのは、大人の義務であろう。
 進歩的知識人の皆さんは、「体罰」は無条件で否定されねばならないという。それに対して、ひとことも反論できない(反論の必要もないと思っているのかも知れない)今の教育界も情けないが、約束を守らないものは廊下に立たせる、人に迷惑をかけるものは絶対に許さないという不文律の中で、子どもたちは規律を守り明るくたくましく育つものだ。約束を守らないことが悪いことだということは、子どもたちは知っているのである。なのに守れなかったことを、「なぜお前は守れないのだ。説明してみろ」と問われても、それに答を出すほうが、「1時間廊下に立っとれ」と言われるよりも、子どもにとっては苦痛ではないか。
 体罰を受けるときに子どもの心がいかに痛むかを理解していないと言う人権主義者は、非道を行なう子どもを止めようと叱りつけて身体を張る教師の心の痛さを理解してはいない。そのとき殴られたとしても、子どもはあとになって感謝しこそすれ、恨みに思うことはない。それを教育委員会に報告するとか、やれ裁判所に提訴だとかいうのは、子どもの心に恨みを引きずらせ打算を植え付ける、大人の浅はかな知恵である。
 戦後の教育を主導した優しいだけの人権主義は、耳障りのよい言葉ばかりを並べて、体罰は子どもの人権を侵害していると言う。悪いことをした子どもを、諭して善導せよと言う。それは、子どもを知らないもののセリフである。子どもたちは、もっとたくましく、もっとしたたかだ。
 子どもは、悪いことをしたときに、叱られるのは当然だと思いながらやっている。叱らない・叱れない大人に不信感を抱く。子どもはイタズラを小出しにする。大人の顔色を見ながら、こいつは叱れないと思うと、イタズラはエスカレートする。大人が子どもを叱れない今、子どもたちは大人全体をナメている。この時代の子どもたちは不幸である。


 誤れる人権教育を受けて育った、今の親たちも、同時に不幸である。誤った価値観を持って現実を生きねばならない彼らは、自分たちが半信半疑の人権主義の中で育ってきているので、自信を持って子どもに正対することができない。「ほめて育てる教育」などというものが、子どものためになると思っているのが不幸である。やるべきことをきちんとする、年齢に応じた自分の責任を立派に果たすことができる、そういう基本を身につけさせたうえでの「ほめて育てる教育」であるのに、悪いところには目をつむり、良いところを見つけてほめそやすのでは、立派な人格を持った子どもに育つわけがない。
 学力にしても、責任を自覚し豊かな人間性を身につけてこそ、初めて確かな学力を修得することができ、花開くのであって、自分のやらなくてはならないこともできない子どもに、揺るがぬ学力をつけようと思ったところで、本末転倒した話である。学校においても、子どものしつけの行き届かぬところで、学習指導などできはしない。

 戸塚 宏氏は、戦後教育が内蔵する疑問に対して、身をもって立ち向かったのだと思う。そして、今の彼が、妥協せず自分を偽らずに出した結論が、現在の姿なのであると思う。彼は、目の前にした子どもの弱さに迎合するわけにはいかなかった。登校拒否・校内家庭内暴力を繰り返す子ども達を、そのまま家に返すわけにはいかなかった。俺がやらずして誰がやるのだと思ったことだろう。死ぬかも知れん、その結果、罪に問われるかも知れぬとも思ったことだろう。しかし、彼にとっては貫き通さねばならないことだったのである。ここまで、教育のかかえる矛盾に子どもたちに、立ち向かえる指導者はそうはいない。
 戸塚 宏氏は、「頭で考えて解からないことは、本能で判断すると、正しい道がわかる」という孟子の言葉を引いて、体罰とはそういうことなのだと言っている。


 最後にもうひとつ、家庭内暴力に荒れる息子を金属バットで撲殺した父親の事件が思い出される。息子が壊した家庭の荒れようにも驚いたが、父親は教育相談所やカウンセラーを訪れて相談をしていたという。『今は子どもに逆らわず、自由にさせて上げなさい。事を荒立てず、親が耐えるのも治療の一つで、子どもを見守ってあげなさい』というアドバイスに従って、子どもの一層の反抗にも耐え、親を土下座させて殴る蹴るの暴力にも無抵抗であった。暴力を振るいながら、子どもは泣いていたという。親の態度を情けなくクールに感じていたのだろう。もっと激しく自分にかまってほしかったのである。なお、進歩的知識人のカウンセラーは、『もっと子どもを認めて自由に…』と助言していたという。結果、万策尽きて思い余った父親は、息子を金属バットで撲殺することになる。なぜ、教育は、『身体を張り、命を賭けて、子どもに立ち向かえ。逃げるな!』とおしえないのか。


 いま、世の中は、優しいだけの誤れる人権教育で子ども達を育ててきた50年間を、痛烈に反省しなければならないのではないか。悪いことをすれば、叱られ罰を受けるのが当然であることを教え、正義を是とし不正を否とする価値観を、きちんとした形で子どもたちに教えなければ、この国の将来はない。「体罰」を是とする教育理論を確立するときにきている。




【34】田中真紀子前外相、鈴木宗男議員の参考人質疑に思うこと  (2/21)

 田中真紀子前外相と鈴木宗男議員に対する参考人招致が20日、衆院予算委員会でおこなわれた。このところ多忙を極めていて、この問題についてのコメントが遅れてしまった。その後の展開も踏まえて、この問題を検証してみたい。

 田中真紀子前外相の主張は、一貫している。以下、少し長くなるが、東京新聞の記事から要点を挙げておく。
 『外交を空転させた思いはない。もし私が外相に着任した時に一連の不祥事が完結していれば、外交だけに専念できた。しかし、外務省機密費問題のほかプール金問題など、十億円の公金横領とか、私の時でも七つくらい事件が起きている。限られた時間、体力で、案件が突然出てくれば、入れるべきものを入れないこともあった。
 NGO「ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)」のアフガン復興会議出席拒否に、鈴木宗男議員の名前が出たのは間違いない。委員会質問で「鈴木議員が外務省に圧力をかけたのか」との質問が出るので、職員七人プラス、私と野上氏が出席して勉強会をやったが、その席上で鈴木氏の名前が出た。首相官邸は、(後日、作文した)外務省の情報をうのみになさっているとしか思えない。
 政府見解については、予算通過をかかえて、棒をのむ思いで了とせざるを得なかった。人事については、官邸主導で外相が官邸にいるのかと思った。いろいろな案件で、あってはならないことを官邸がお墨付きを与えている。外務大臣なんか必要なく、官邸の後ろ盾があれば、何でもできるということだ。現状ならば、外相のポストは廃止した方が分かりやすいのではないか。
 (機密費の首相官邸への)上納金はないと申し上げたが、歴代の官房長官、首相がないとおっしゃっているので、ないと今も申し上げざるを得ない。(ということは、有ったと言っている訳である!)
 内閣官房予算の執行など、私の在任中、ずいぶん具体的に外務省改革をした。(改革の成否は)これを本当に実行し、第三者機関がチェックし、情報公開するのかにかかっている。
 小泉首相は、「聖域なき構造改革」などと言っているが、自分自身が抵抗勢力であるということに踏み切ってしまったのではないか。今の政治は、派閥から羽交い締めにされ、政・官の癒着、国会が役人にコントロールされていると、(私は)感じている。』

 概ね、以上のような内容である。言うべきことはきちんと言っていて、論理は一貫しいてるし、今までの姿勢と変わっていない。自民党幹部の反論も、江藤派会長の江藤隆美氏が、「まぁ、特殊な方の言われることですから…」と言うのが精一杯で(しかし、政治家たるものが、こんな情緒的な批判を臆面もなくよく言えるものである。恥ずかしいとは思わないのだろうか)、論理的な反駁はできていない。
 まさに、彼女でなくては出来なかった、外務省という伏魔殿の扉をこじ開け、利権体質にまみれた中央官庁の姿を、国民の前に引きずり出した功績は大きく、臆せずおもねらず日本の立場を主張した外相としての姿勢とともに、歴史に残る外務大臣であったと評価される。

 鈴木宗男議員に対する、各党委員の質問は、疑惑の当事者に向かって解明を目的とした質問という意味では、いかにも不出来である。
 『浅野勝人(自民) 特定のNGOのアフガニスタン復興支援会議への出席をやめさせたとか、NGOに対する外務省のカネの使い方を指摘したと言われているが、どういう経過か。 
 鈴木 特定のNGOに言及したことはない。(カネの使い方は)「草の根無償資金は海外でのみ使える」と言った。
 浅野 PWJ統括責任者の大西健丞氏は「鈴木氏に度々呼びつけられた」と言っているが本当か。
 鈴木 私の方から呼んだ事実は一回もない。
 浅野 大西氏に「こんな行儀の悪いNGOへの支援は考え直さないと」などと言ったのか。
 鈴木 言ってない。具体的にNGO等に言及したことはない。』

 以下、各党の委員とも、噂に上っていることを一つ一つ並べて、言った・言わないの問答である。参考人や証人の招致の場合いつも思うことだが、疑惑の解明のために呼んでいるのだから、疑惑の証拠を用意するのが、呼んだほうの責任というものではないのか。具体的・客観的資料を用意して、この件について説明してみよと質問すべきであろう。その資料が用意できない政党は、質問を辞退するべきである。そうでなければ、何の根拠もないのに、ただ噂だけで忙しいこの俺を呼び出したのか…と叱られても仕方がないことになる。
 国会あるいは委員会でのの内容は、参考人や証人への質疑を含めて、馴れ合い漫才かと思うほど手ぬるい。先日の国会の小泉首相に対する代表質問では、各党の委員は、おしなべて田中真紀子外相の更迭の理由を糺していたが、全て「外務省の問題を国会審議停滞の原因にしてしまった責任を取り、この事態を打開するために協力いただいた」という紋切り型の答弁で押し切られている。『鈴木宗男議員の関与という疑惑があって、解明に取り組んだ田中外相が、疑惑者が抵抗したため生じた混乱の責任を取らされて辞任というのでは、疑惑解明に手をつけるものは全て辞任しなければならないことになる。被疑者の抵抗は当然で、混乱は常に予想されることだからである。この矛盾を、小泉首相はどう説明するか』と問うべきであろう。
 ただ、佐々木憲昭衆院議員(共産)が、北方4島への人道支援事業に関する入札参加条件を決める際、鈴木宗男衆院議員が地元業者に有利になるよう働き掛けたとの疑惑を、外務省の内部文書とする資料を示しながら追及し、この問題が新たな政治的火種となった。この解明も、「私の直接関与しないところで行なわれたことで不徳のいたすところ」と何ら解明に至らない釈明をし、お詫びと最悪しばらくの離党ぐらいで玉虫決着といったところか。


 問題は、この日本という国の後進性にあると痛感した。巨悪を許すのは、政治家・官僚・経済人・学者など全ての人々を含んで、国民一人一人の内に正義に対する倫理観が熟成されていないことと、社会の仕組みが、悪を許さないという構造と精神によって組み上げられていないことによる。
 以前、この主張の中で、小泉構造改革は、日本の社会構造を構築しなおすことと同時に、いやむしろそれ以上に、古い体質を有する日本人の精神構造を変革することにこそ、その意義を見出さなければならないと提言した。
 今回の問題は、今の日本の社会構造の中にある、古い体質…利権構造がその本質であろう。鈴木宗男議員の問題に限って言えば、戦後の自民党政治そのものであり、依然としてもたれ合う政・官・財界の関係ということだろう。

 今の政治のしくみは、法案や政策を国会に提出する前に、各省庁に対応する自民党政調会の部会に諮り、了解を得なければならない。部会の次は、政調審議会、総務会に回され、それぞれに長年在籍する政策通とされるいわゆる族議員が、それぞれの思惑で法案を添削し骨抜きにしたりする。そこで何があっても職務権限の外だから、罰せられることはない。
 国会に提出すれば、委員会の与党理事によって、国会の通過が図られる。鈴木宗男議員は外交部会のベテランであり、衆院の外務委員会で理事をつとめた。こうして外務省への大きな影響力を持つことになる。
 鈴木問題に限ったことでなく、これが今の政治である。先日、小泉首相が提案した事前審査制の問い直しは、自民党の構造問題を改革しようという試みである。

 この問題の根は深い。戦後の日本の政治のあり方や社会の体制が問われ、近代政治の行なわれない日本の後進性が問われているのである。今こそ我々は、利権・談合・癒着・密室政治…などといった旧体質の社会勢力と決別し、正義の行なわれる社会の実現に向けて、一人ひとりが責任ある確かな一歩を踏み出さなければならない。



【33】 食品表示の偽ラベルは 氷山の一角!    (2/19)
  
 1月の23日に雪印食品の虚偽表示が発覚してからこのかた、日本国中がこの問題に揺れ動いた3週間であった。輸入牛肉を国産のラベルに張り替えて、国産牛肉の政府買取制度に便乗、在庫の処分を図ったというものだが、虚偽の表示をして買い取らせたから詐欺ということになったのだろう。
 日本の牛肉がいつの間にか豪州産や米国産に早変わり。かと思えば輸入肉が国産肉に変身…、産地を偽られたと熊本の畜産家が賠償請求を出すなど、ドタバタ劇が続く。
 しかし、事件を聞いたとき、こんなものは、外務省疑惑と同じで氷山の一角だと思った。そのあとから、佐賀のスーパーや熊本のトマトにまで偽ラベルが見つかって、一挙にお笑いネタのようになってしまった。農協ぐるみの偽ラベルというのもあったそうだから、もう何でもありの様相である。
 牛肉の表示などは、まったく当てにならないことを露呈したわけだが、従来から食品の表示については、数多くの虚偽表示が指摘報告されていた。今、巷では、大沼産コシヒカリと○○○は全くのウソ…などと、公然たる噂が流れているし、先日、長野県で乗ったタクシーの運転手さんは、「その工場でポリに詰めている水が、『六甲のおいしい水』として売られているんです」と笑っていたが、公然たるウソが罷り通っている世界であることが恐ろしい。
 虚偽表示については従来から、例えば有機栽培と表示されごていねいに栽培した農家の名前まで書いてある大豆について、あるテレビ番組のリポーターが産地を訪ねたところ、その名前の農家は実在したのだけれど、出てきたおじさんは、「うちでは大豆は作っていません」と宣言するというオチであった。スーパーで売られている大豆の袋に書かれた名前の農家が実在しないという、全くのでたらめ表示もあると聞く。
 食品の偽表示というのは、こんな世界の出来事なのである。もとから、疑ってかかるのが当たり前で、偽表示だったと言われて、「あっ、やっぱり!」という世界なのだ。今回の雪印食品も虚偽ラベルまでならば、「あっ、やっぱり!」なのだけれども、政府買取制度に便乗して国の金を騙し取ったというので、詐欺事件として大騒ぎになったのだろうというのが、私の認識なのである。。
 … ちょっと逆説的な言い方になってしまったが、偽ラベルが当たり前である状況は、世の中の仕組みが間違っていることなのである。
 管轄するのは、狂牛病で勇名を馳せた農林水産省なのか、後手後手行政の尻拭い専門である厚生労働省なのか解からないが、その行政責任をはっきりさせなければならない。見つかっても罰金50万円以下という法律の手ぬるさも、間の抜けたおとぼけ振りであるが、管轄責任のある監督官庁の面々は、狂牛病の国内での発生を許してしまうようなチェックの甘さがあり、発覚してからも抜本的な対抗策を講じきれなかった無能ぶりであるが、それは、偽装を見逃す薄い危機意識とあいまいな責任体制に起因する。
 この問題の再発を防止するには、やはり監督官庁の監視と責任を強化するしかあるまい。しかし、日本の官庁の意識の低さは、本当に救いがたい。今更、外務省や財務省の体質や政策を繰り返して論じるまでもないが、ここはひとつ、外部からの人材を招いて人事を構築する制度と、監督・処分権を持った監察組織を常備して、綱紀粛正と意欲喚起を図らねばならない。


【32】田中真紀子外務大臣 更迭!
  
                    (1.30)

    ー 惜しまれる 小泉純一郎の誤謬 ー  改革は頓挫  − 

 午前0時、NHKニュースが、田中真紀子外務大臣更迭を伝えた。一瞬、我が目を疑ったが、次には、小泉改革の底の浅さを見た思いがした。これで、小泉内閣も急速に支持を失い、早晩総辞職を余儀なくされることだろう。
 アフガニスタン復興支援会議へのNGO(民間活動団体)の閉め出しに、鈴木宗男議員の関与があったことを問題としたことについて、田中外相は何の責任を問われなければならないのか。国会答弁に持ち出して混乱させた方法が悪いというのであれば、いつの場合も真相は全て藪の中である。白日の下に引き出さなければ、常にうやむやで巨悪は惰眠をむさぼるばかりではないか。
 外務に特定の議員が関与し、ODAという莫大な援助資金の運用に力を持つという現状を追求し、公明正大なかたちに戻そうとする指摘に、抵抗があって混乱を生じた責任を取らせるというのでは、正義を行うものは常に首をとられることになる。
 「この時期、国会審議が混乱して問題処理が長引けば、2001年度補正予算案審議だけではなく、02年度予算案審議にも重大な影響を及ぼす」ともっともらしい理由を挙げているが、要は小泉首相の胆力の無さがここに至って暴露されたということだろう。外務省の改革をはじめとする省庁改革に腰が引け、道路建設や特殊法人の解体にも権益を守ろうとする抵抗勢力と妥協を繰り返して、いっこうに具体的成果を挙げることのできない小泉首相に対して、ここまで国民が80%を越える高い支持率を与えつづけてきたのは、ひとえに小泉ならば、政界の黒い疑惑を一掃し、中央省庁の権益を解体して、正義が行なわれるガラスばりの…国民が納得する政治を実現してくれるであろうという期待感がその基盤であった。
 竹中経済財政政策担当大臣のめったに当たったことは無いけれど流暢な経済論、やればやるほど悪くなる塩川清十郎財務大臣の財政、実直さだけでここまできた坂口力厚生労働大臣の事後処理専門政治、今までが悪人イメージの大臣が続いたので悪いことだけはしないだろうということで任命された巨大利権省庁国土建設省のあたくし大臣、狂牛病にかかっているのではないかと思われる武部勉農水大臣、森山真弓法務大臣・遠山敦子文部科学大臣・川口順子環境大臣は3人官女みたいなものだし、2代目のひ弱さで守旧派の恫喝にぶっ飛んでしまった石原伸晃行革担当大臣、…、自衛隊の地位向上にかかる成果は評価される中谷元防衛庁長官、ええっとあとは、そうそう銀行への公的資金投入は絶対にしないといった数日後に投入した柳沢金融大臣、片山総務・平沼通産・村井公安・尾身南北大臣などはまあいいとして、何事も評論家としてのコメントしか残さない父角栄の宿敵福田赳夫の息子の官房長官などなど、この人たちは居なくても別に困らないなぁという内閣にあって、唯一、外務省改革を鮮明にして妥協せず、対外的には日本の外務大臣としては珍しく言うべきことを言って、目に見える奮闘をしてくれていたのが田中真紀子外務大臣であった。
 小泉純一郎に、何かの具体的な成果を期待して、国民は政治を預けたわけではない。経済通でもなく、外国に太いパイプがあるでなく、郵政民営化だけの政策に特徴があったわけでもない。ただ、小泉ならば政治の世界で正義を行なってくれるであろうという一点のみで、これまであまりに党利党略私利私欲にばかり走った政治を見せつけられてきた国民は、大きなうねりとなって彼を総理総裁に押し上げ、今日までの無為無策ぶりをも、苦笑しながらガマンしつづけてきたのであった。彼が、政治に正義をもたらすであろうと信じればこそ…!
 野上次官、坂田利夫…ン鈴木宗男議運委長か、その両者の首と外務大臣の首とでは、あまりに軽重の差がありすぎるけれど、3者の首をとって一件落着とするのでは、従来の馴れ合い…くさい物には蓋をの政治と何ら変わらない。問題の本質的な解決にもなっていない、NGOやODAの活動(その資金運用)に特定の議員の関与はあるのか無いのかについて、何の究明も行なわずに、真相の解明に手を触れた当事者の首をとることが、小泉政治の手法であることを示したわけである。
 もはや、国の将来を賭した構造改革を、この小泉首相の手で行なえるとは思えない。改革に際しては、繰り返して指摘してきたことであるが、全ての人々の私利私欲を排除して既得権を剥奪し、政界の再編成を為してでもやり遂げる強固な意志が必要とされる。今回の問題に見せたような、本質に手を入れず問題をあやふやにし、改革の同志の首を取って旧勢力との妥協を図ろうとする小泉純一郎に、改革のイニシアティブは取れない。
 ポスト小泉は…といきたいところだが、ちょっと先走り過ぎか。しかし、見渡しても人物がいない。今の日本、大人物が出てこの国を救う以外、再生の道が無いような気がしてきた。
 日本の政界に真の正義が行なわれるには、田中真紀子総理大臣の誕生を待たねばならないのだろうか。そうなると、髭が温かそうな野上次官は極寒の外務省カナダ大使館所属グリーンランド特別出張所の全権所長、田中真紀子の首を取ったと橋本派では功労者とされているであろう坂田利夫議員は、ODAの利権供与でアフリカが得意だから、今も激しい戦闘の続くソマリアへ常駐政府特使として単身赴任ということになるだろう。


【31】 外務省改革の好機、ガンバレ田中外務大臣!        (1.25)

 田中真紀子外務大臣が、「アフガン支援会議へNGOの一部団体が参加できなかったのは、鈴木宗男議員からの圧力があったからだと、野上外務事務次官が言っていた」という旨の発言を、衆院予算委で行なった。これに対して、野上外務事務次官は、「言っていない」と言い、外務省の幹部職員が、田中・野上の会談内容なる文書を作って、『これこの通りで、野上次官は言っていません』と公表したりしている。テープを公表したというのならば、職務規律に触れるかどうかの問題は別としてもまだ説得力があるが、ことが問題になってから作文したものを公表して、この通り言っていないというのでは、何の根拠にもならないことぐらい、どうして解からないのだろう。
 繰り返される外務省のゴタゴタは、全てが外務省疑惑の隠蔽に集約される。この疑惑を解明して、外務省の綱紀を粛正し、省内改革をしようとしている田中外相に対して、疑惑を炙り出されては困る野上次官を頂点とする外務官僚の抵抗という図式である。
 田中外相の個々の事績については、さまざまな議論はあろう。ただ、歴代の外務大臣に比べて、ことさら劣る大臣であるということは決してないし、むしろ、信念を持って、是は是、否は否と明確に言うことのできる、今の日本の外交にふさわしい大臣であると評価される。
 田中外相の外務大臣としての業績を批判する最大の材料は、外務省職員の掌握ができず、外交が滞っているという論議である。この批判は、基本的に成立しない。田中真紀子が改革しようとしているのが外務省職員の綱紀の粛正であり、外交機密費の疑惑解明であり、積年に渡って外務省が培ってきた体質の改善であるのだから、彼らの現在を否定することから始めなければならない問題である。獅子身中の虫を退治するのだから、虫の抵抗は必至である。
 その点を考えれば、今日まで、妥協せず、うやむやにせず、初志を貫き、自民党の中にもあからさまな妨害をする抵抗議員を抱えながら、「アーミテージ副長官には、大臣が会う必要はない」と対米対等外交を貫き、「アメリカのNMD(ミサイル防衛)計画は、よく考える必要がある」という発言は欧州各国を初め世界の国々に支持されてきたし、さらに、今までの歴代外務大臣が口にも出せなかった、沖縄米軍の地位協定をアメリカに掛け合い、パウエル国務長官にその見直しを約束させてきた外交姿勢は立派である。地位協定の改正なくして、対米対等外交はない。抵抗姿勢をあからさまにし、省内の既得権益を死守しようとしている官僚に取り巻かれながらも、今日までの田中外相の対応は、並みの大臣にはできないことであったと言わねばならないだろう。
 『外務省の構造改革をすすめることのできる大臣は、田中真紀子をおいてほかにいない。77億円もの領収書の要らない機密費(国民の血税である)を野放しにしてきた大臣・内閣は今まで何をしてきたのか。報告する必要もない金ならば、不正が生じるのは必然である。この体制にメスを入れる意欲を持ち、それを断行できるのは、田中真紀子だけである。

 うち、21億円が官邸機密費として内閣官房に横流しされ、野党対策などに使われてきた。これにメスを入れようとしているのだから、福田官房長官をはじめ首相官邸サイドが真紀子大臣の首を取ろうとする理由がここにあるが、真紀子はこれに立ち向かっている。』とは、先に紹介した渡辺正二郎氏の著書の中の一説だが、田中外相の置かれている状況は、こうした困難さの中なのである。
 今日までの状況を見るに、外務省を能動的に機能させようとするならば、幹部人事を外務大臣主導で行なうことが必要だろう。事務次官・官房長・審議官・主要国の大使の首を、全てすげ替えることが一番である。できそうもないことのように思われるが、そもそも省内の人事権は大臣にあるわけだし、大臣が代わればその手足となって国務を遂行するメンバーは、必要部分をその大臣が任命する形を恒常的なものとすればよいのである。今回、首が飛ぶ次官や官房長は、次の大臣にはその手腕が認められれば、是非にと就任を請われることになる。そうすれば、官僚は省内の既得権益や前例云々を第一として仕事するのでなく、自分の手腕を見せることを第一として職務に励むにちがいない。この際、官邸機密費疑惑が云々されている官邸サイドから口をはさむのは、自らの立場を鑑みて自粛するべきであろう。

 少なくとも、外務省幹部が今のメンバーではその言動は見苦しく、外務省疑惑の敢然解明も期待できないし、外交業務が機能しないことも明らかだ。責任を明確にして、人事の刷新を図ることが必要であろう。
 同時に、今回の騒動の元となった、鈴木宗男議員の圧力はあったのかどうかを、明らかにしなければならない。今回のアフガン支援だけにとどまらず、鈴木宗男議員のNGOやOGAへの関与は、多額の支援金がらみでさまざまに取り沙汰されている。対ケニヤや北方領土への政府援助に絡むキナ臭い話を全てまな板の上にならべて明らかに答えることが、自らのためにも最良の方策である。「日本一汚い政治家」とまで言われた揶揄に対して、潔白を示すことが、政治家としての将来に必要なことであろう。
 この際だから、鈴木宗男議員の関与、野上事務次官の発言の真偽について、清廉な調査メンバーを組織し、この問題を取り巻くたくさんの第三者も現存することだし、それらの人々の証言を丹念に拾い上げて事実を究明し、誰もが納得する結論を示してもらいたい。ことは言った言わないの痴話げんかのようであるが、この問題の究明は、きちんとした形で結論を出すことができれば、やりたい放題の政界や外務省の浄化改革につながる好機とすることができるようである。
 大島自民党国対委員長も、田中外相に注意などと言っていると、取り返しのつかない歴史上の汚名を残すことになる。小泉首相の昨今の動向も、守旧勢力との妥協を繰り返すばかりで、威勢のいい口調と少し乖離が見える。抵抗勢力の恫喝には、「君たちには、自民党を割る覚悟はあるのか」と決意の程を示すことだ。特に、外務省改革にかかわると、とたんにトークダウンするのは気がかりである。具体的な改革事項になると、腰が引ける習癖が顕在化しているということか。そろそろ、一つの成果を挙げないと、国民は飽き始めている。
 臭いものに蓋をして、また諸悪を生き延びさせていては、国民の信頼はいつまでたっても得られない。ゆめゆめ国事多難な折りから、穏便に…などと言わないように!




明けまして おめでとうございます。  その2     2002.1.1 20.55
 新しい年にあたって ー 自己責任の覚悟を持ち、凛として生きよう −

 予定では、今ごろは世界最大の客船「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」に乗って、カリブ海で新年を迎え、大海原を舞う海鳥たちを眺めているはずだったのだが、ちょっと…風邪を引いてしまって、ストーブで焼くスルメを噛みながら、テレビを眺めている。クルーズの予約時点では、風邪は引いてなかったろう…というのは、現実的でスルドすぎる指摘である。

 新しい年を迎えた喜びの中に、何か不安と憎悪に似た怒りを内在させて、平成14年が明けた。貿易センタービルの崩壊に象徴される、民族・東西・文明の間に積み重ねられた怒りと憎悪は、人間が生きていくうえで宿命的に背負わなくてはならない業(ごう)のようなものであろう。人は、知恵のりんごを齧った瞬間から、業を背負って生きねばならない定めである。
 そして同時に、人は知るべきである。人間の命は、犬猫や鳥・虫たちの命と、何ら変わることない価値しかないことを! むしろ、動物たちは同種の間で争うことはあっても、殺し合うことはないから、人間の命は人間同士で殺し合うその分、軽いと言うべきかも知れない。人は万物の霊長である…とは、人間が勝手に定めた独善であり、人の命は地球より重い…とは、政治の方便以外の何者でもないことを、もはや人々は知っているだろう。アフリカのサファリで、腹を空かせたライオンの前に立つまでもなく、パレスチナやアフガニスタンでポケットに手を突っ込んで歩いているだけで、我が命のなんと軽いことかを実感できる。
 人の命の尊さが否定され、社会の安全や安定は保証されることなく、世界の姿も定まらないこの時代、人はどのように生きればよいのであろうか。自己責任の時代である。自らの生きる道を自ら開き、その結果に対しては厳とした責任をとる生き方を確立しなければならない。
 世界では、中東問題を初めとする民族間の抗争が激化し、ユーロ経済圏の成立のように良い悪いは別にしてセクトナショナリズムが進行するだろう。そして、「すべてのイスラムは銃を取りジハードに立て」と、宗教すらを対立の材料とする。転じてわが国内の状況は、利権エゴの抵抗によって遅々として進まない改革、まだまだ増える倒産と失業…。護送船団方式、共同責任は時代遅れ。ペイオフと言われなくても、自分のことは自分で守る時代なのである。
 考えてみれば、それが人間本来の姿であった。人は、より多くの人がより安定して暮らせるようにと、さまざまなルールを作ってきた。しかし、ほとんど全てのルールは、人間を幸せにはしなくて、それに気づいた人間は、時に、ルネッサンスや革命・戦争を起こしてまでも、「レッセ・フェール・エ・レッセ・パッセ」と、保護より放任を求めたのであった。
 この時代を生きようとするとき、人は心に「刃」を持たねばならない。刃を奮って人生を闘い開く覚悟が求められるとともに、刃を心に乗せて忍ぶこともまた求められる。だが、名人達人は耐え忍ぶことを忍耐と思ってはいない。ヘボなプロゴルファーはシャッターの音に憤慨するが、大阪上本町ガード下の屋台では、オバチャンも客も電車の轟音など平っちゃらである。、
 世の大人たちよ、真に自らの信じる道を、自信を持って歩こうではないか。自らの信念を語ろうではないか。物言わぬことは、信じるものがないことと同じである。
 青少年諸君、学問することの大事さに目覚めよ。目の前にあるもの何にでも全力で取り組み、その中から自分が信じられるものをつかめ。真実は教えられるものでなく、自分で見つけ手にするしか得られない。
 時の歩みは、残酷なほど正確で平等である。巡り来た平成14年、新しい人間社会のあり方を求めながら、私たちは、毅然とした自己責任の覚悟を持ち、凛として生き抜かねばならない。



明けまして おめでとうございます  その1
    2002.1.1 3.45

今年の目標
@ 憲法改正
 現憲法は、敗戦直後に占領軍によって提示されたもので、その状況からして国民の総意に基づくものとは言えない。
 また、制定されてから57年を経ている今、その内容を再検討し、改めるべきものは改めるのが当然である。
 「平和憲法」の名のもと、手をつけるべきでない不磨の大典とする考え方は、そろそろ訂正するべき次期に来ているというべきだろう。
A 小泉改革の遂行
 族議員や利権集団による阻止、地位や既得権を守ろうとする官僚機構の抵抗、そして、道半ばの今を評価することによって、存在意義を示そうとする評論家や学者の無責任な結論によって、改革が挫折することが気がかりである。
 改革の成功=国民の幸せ…という方程式は成立しないことも知っておくべきだろう。長い歴史のスパンではこの等式は恒等式に間違いないのだろうが、今を評価すればそれは成立しない。
B 三重県・津市の教育プログラムの作成
 学力低下必至の新指導要領が、今年4月から実施される。例えば理科は従来の年間135時間の授業時間数が70時間になる。算数(数学)・国語・社会などもこれに然りである。
 文部科学省は、新設される総合学習の時間にも草花を育てたり動物を飼ったりするというのだが、楽しい体験を主目的とする総合学習に、学問としての教科指導ができるわけがない。
 児童生徒の学力低下を招かない唯一の道は、県市町村が学習すべき事項・内容・方法・教材を基本的に提示する、教育プログラムを作成するしかない。そのための研究体制…かねてから提案してきたことだが、「三重県教育研究会」を組織していくことが必要である。
C 企業秘密
D 北部スコットランドの田舎に眠る、神が造りたもうたいくつかの珠玉のリンクスコースで、ゆっくりゴルフをしたい。
 以上、ささやかな今年の目標である。


【28】 面白かった「アラビアン・ナイト(千一夜物語)」  (12.31)
       − 物語り文化伝承の大切さ −

 風邪を引いて寝込んでしまい、ここ数日はゴロゴロしていた。このページへの書き込みも滞っていたのだけれど、年賀状の作成も遅れてしまって、元旦に着かなかったらゴメンナサイ。
 NHKの海外ドラマ「アラビアン・ナイト」をビデオにとって、布団の中から見た。物語は、妃に裏切られたことから女性不信に陥ったシャーリヤル王が、一夜をともにした女性を翌朝には命を絶ってしまうため、聡明な大臣の娘シャラザードは自ら進んで王のしとねにおもむき、王を飽きさせない物語を毎夜語り継ぐ。
 ドラマはおなじみの「アリババと40人の盗賊」や「アラジンの魔法のランプ」などが登場し、テレビの画面も愉快な場面が次々に繰り広げられ、昨年放映された「クレオパトラ」よりも面白く見られた。
 さまざまな物語を聞いた王は、話の中に繰り広げられる人々の姿や教訓に心を動かされ、ついには人を信じる心を取り戻すという物語だが、このドラマを見終わっていま、物語り文化の大切さを感じている。
 昨今は、小中学校で国語の時間数が削らされたり、学習する漢字の数も減少する一方である。世の中の活字離れや、核家族化による口承伝承の断絶も懸念されているが、昔話や民話、戦争中や祖父母の若い頃の話は、勧善懲悪や世の中のルールを教え、子ども達の心を勇気付けたり優しさを養ったりしてきた。
 語り継がれてきたお話をたくさん聞き知っているということは、心の中に入れ物をたくさん持っているということではないだろうか。いろいろな場面に応じてその場にふさわしい袋を取り出すことができるし、さまざまな人のそのときの気持ちに合わせた中味を取り出すことができる。
 今年2001年を迎えた当初、物質文明の発達にどこか取り残された感のあった精神文化に目を向けようとして、21世紀は「心の時代」といわれた。いま、今年が終わろうとしているとき、人間生活の原点のひとつが物語り文化にあったことに、改めて気づかされたことも何かの啓示であったのだろうか。
 アラビアンナイトの時代から1000年ほどの年月が流れているが、…この物語は10世紀頃から13世紀頃の間に中核が整えられたとされている…、この間、積み重ねられた歳月の重さに比して、人々は決してより幸せになってきたとは言えまい。そういえば今年、世界の注目を集めたアフガニスタンもこの地であるが、イギリスの東洋学者でコーランの英訳者E・H・パーマー(〜1882)はアラブの人々の特性を、「勇敢で義侠心に厚く、保護を求める者をかばう。事の理非曲直を問わず同族のものを助け、命を賭けて守る」と書いているのは、今の中東事情を説明するに十分な記述である。
 今年も、多発テロに象徴されるように、世界には激動の歴史が刻まれていく。アメリカには悲しみや憎しみに沈み、中東紛争の行方も見ない中、ヨーロッバはユーロ切り替えが断行され、南米パキスタンでは着任早々の暫定大統領が辞任した。物語の中に描かれる人の心の不可解さではないけれども、人の幸せとはいかにも難しい。しかしそれでも、来るべき新しい年が、人々にとって幸せな年でありますようにと祈りつつ…。


【27】犯罪の多発する日本について思う  (12.17)

 今日も強盗事件のニュースがテレビで報じられている。日本の犯罪件数は、犯罪白書を見ると、昭和52年から一貫して増え続けていて、毎年最高件数を更新している。最も多いのは窃盗だが、近頃は、ピッキングや居直り強盗殺人など外国人による犯罪が目立っている。
 日本は、犯罪と衛生については安全な国であった。女性が深夜一人で出歩いている姿も不思議ではなかった。外国では考えられない光景だが、それだけ日本の治安は良かったわけである。また、伝染病汚染などもほとんど絶滅していてるが、近年は雪印乳業の食品汚染や狂牛病問題など、その面でも安全とは言い難い状況である。治安や衛生管理の体制が確立されていたというよりは、四方を決して狭くない海に囲まれていたことが幸いであったというべきではないかと考えられる。

 さらに問題なのは、犯罪に対しての検挙率が大幅に落ちていることである。平成12年度はその前年度より10%も落ち込んでいて、近年の窃盗犯の検挙率は50%に大きく及ばない。わが国の犯人検挙率は世界に誇る高率であったことも、またはるかな昔話なのである。
 それこそ、四方を海に囲まれていて、国境を越えて車や走って逃げるというわけにはいかないのである。それが、泥棒の半分も捕まらないというのはどういうことなのか。ここにも、組織の緩み・士気の弛緩という、お役所の抱える問題があると思われる。
 近年に多発した警察の不受理や捜査の不完遂はその象徴的な事例であるが、日本的なお役所組織の馴れ合いによる身内のかばいあい、人事のマンネリ化、全体が低下すれば、個々の不成績も問われないという横並び評価、そして、責任体制の不備が挙げられるだろう。成績を下げれば、これは警察だけではないが、その責任は厳しく問われなければならない。
 組織内だけの管理体制や人事交流でなく、部外からの導入を図って、組織に緊張感を持たせることが必要である。また、教育のあり方を問い直すことを基本として、社会の構造を改革し再構築しなくては、日本は住むこともできない国になってしまう。


【26】自衛隊の行動基準を明確に  (11.27)

 米軍などの後方支援のため海自の補給艦「とわだ」がインド洋に向け広島県の呉基地から、救援物資をパキスタン・カラチ港に運ぶ掃海母艦「うらが」と、これらを護衛する護衛艦「さわぎり」も神奈川県の横須賀基地から出航した。
 テロ特措法案などの審議では、「自衛隊野戦病院での医療行為は戦闘行動かどうか、近くにいる他国の部隊を助ける場合、近くとは何メートルか」などといった“神学論争”が目立った。小泉首相は、「そこは常識で考えるべきだ。ある程度は現場にまかせる」として、国会の論戦に終止符を打った。
 「アメリカ軍の居るところが、すなわち戦闘地域ではないのか」といった論争には、田中外相に「あなた、指輪を買いに行かせたのですか」と繰り返す質問同様、何を能天気なことをと聞く方の程度を疑ってしまうが、しかし、政策として自衛隊をどう使うかという運用については、「常識的にやってくれ」というわけにはいかない。政府として、国としての考えを明確に示しておかなくては、自衛隊の行動に迷いが生じる。たとえば、自衛隊の輸送機が、輸送支援のために某国へ派遣されたとき、「危険になれば引き揚げる」ことになっているが、危険の程度に応じて行動を判断する何段階かの基準を設けて、現場における行動を明確なものにしておくことは、軍務の要諦である。また、そうして指揮官や実務を担当する自衛官の負担を軽減してやるのは、政府の役目でもあろう。
 イラン・イラク戦争中の1988年7月、ペルシャ湾で警戒行動していた米海軍のイージス巡洋艦「ビンセンス」が、近づいてきたイラン旅客機を撃墜、乗員乗客290人が死亡した。何度かの警告に旅客機が応答せず、敵対行動とみなされたからだが、ROE通りに行動したビンセンスの艦長はまったく責任を問われなかった。
 この度の派遣に、隊員のそれぞれはただ黙々と任務を果たすのみと出航していった。自衛隊は今後も、外国へ派遣される機会が増えると思われるが、多少とも危険があるからこそ、自衛隊が行動するわけである。国としての行動基準を政府の責任で作成し、それに基づいた行動の結果責任をすべて政府が負うことが、本来の意味でのシビリアンコントロールであろう。


【25】「田中真紀子は外務大臣としての資質がない」という寝言!

 時々聞く、「田中真紀子は外務大臣としての資質がない」という寝言を。先日も、ニューストーク番組の女子アナが、「資質が問われますねぇ」と言っていたのには、唖然とさせられた。なんとも、おこがましい発言である。マスコミの思い上がりを象徴している。

 連中は、なぜ田中真紀子のたぐいまれな資質を育てようとしないのか。ものおじしない、我流を曲げない、思い込んだら命懸けの行動力を評価しないのだろうか。圧倒的な国民的人気を持つ、彼女のキャラクターは生まれついてのもので、余人の真似のできるところではない。政界の古強者を相手に、臆するところなく発言できるのは、貴重な存在であることに気がつかないのだろうか。
 河野・高村などの元大臣たちに資質が備わっていただろうか。中国外務省の出先機関職員だったような元大臣、土下座外交とまで言われてもなおあいまいな笑顔を浮かべるだけであった元大臣。そして、狂牛病問題をここまで深刻にしてまだなりゆきの処理しかできない大臣。さらには、自党の利益のみに走って選挙制度をもはや変えようという政党。党利党略から、日本の将来にかかわる構造改革に手を貸そうともしない与野党、利権に群がる議員たち。この連中の資質は、どうなんだ!
 今、外務省は不祥事続出である。外務省だけが、特に悪質な官庁というわけではあるまい。田中真紀子であるからこそ、その体質を糾弾し、膿を出して、外科的処置をしようとしているのである。他の大臣は、くさいものに蓋をして手を突っ込もうとしないから、汚れ物が出てこないだけのことだ。三重県庁にしたって内部留保金が2億円も発覚して、幹部職員が束になって返済したというのだから、国交省・通産省…などの各省庁、裏の裏の裏あたりまで金銭が流れ溜まっていることだろう。千景ちゃんも平沼のおっさんだって、知らぬ顔を決め込んでいるじゃない。真紀子大臣の意志力だからできるんですよ。
 「指輪を買いに行けと言った」なんてリークを、上級国家公務員が垂れ流して恥じるところはないのだろうか。今の上級国家公務員には、こんなのしかいないのか。しかも、それを国会の質問に取り上げるおじさんも居て…。町内会の与太話と変わらない。自宅の犬の散歩を仰せつかっている秘書官も、風呂で背中を流している秘書官だって、今までにたくさんいましたよ。なぜ田中真紀子だけが取り上げられるのか、恣意的なものがあるのだろう。
 国連総会に出席させないイジメ…、国会議員の品位の陰湿さをあらためて見せてもらった。暴走族のおネェチャンだって、そこまでは恥じ入るだろうに…。しかも、代理出席が、国を借金漬けにして何の責任も感じていない元大蔵大臣とは、日本に人はいないのだろうか。
 真紀子大臣、燕雀のさえずりに耳を貸すことはない。目の前の寸景しか見えない愚衆が評価しなくても、千年の歴史がそれを評価する。どうせ鉄砲も撃てない日本外交は誰がやっても大して変わりはしない。外務省積年の塵芥を一掃してほしい。他の誰にもできない、外務省発中央省庁の大掃除を、存分に敢行してほしい。


【24】アフガニスタン「カブール」陥落                    

 北部同盟が、タリバン勢を駆逐して、アフガニスタンの首都「カブール」を制圧した。ブッシュ米大統領が、北部同盟のカブール制圧に懸念を示した翌日の陥落である。ブッシュの懸念はパキスタンに対するポーズであったのか、北部同盟が意地を見せたのか。それらのいずれもが交じり合ってのカブール陥落なのだろうが、世界の情勢は複雑怪奇である。
 かつて、寄せ集めのならず者部隊である北部同盟は、略奪・暴行を行って、市民の嫌われ者であったと聞いていたのだが、北部同盟を迎える人々の表情が明るく好意的であったのは意外だった。「ギブミー、チョコレート」の類で、官軍に対する媚びのポーズであったのだろうか。
 タリバン政権下で、生活の隅々まで抑圧されてきた圧迫感が、解放されたことは事実であろう。「今何が一番ほしいか?」と問われて、「ひげそりだ!」と叫んでいた男の笑顔が印象的であった。女は仕事をしてはならない、男は髭を剃ってはいけないと、タリバンはイスラムの教義に厳格であっただけに、人々の日々を規制してきた。まさに、宗教というものの難しさであろう。
 「カブール」陥落以後の困難も想像するに余りある。中東の政治と資源をめぐる西側諸国とロシア・パキスタンの思惑・利害…。ここは、アフガニスタンの国民の平穏な生活を第一に、世界の真の平和を目指す方策を探ってほしいとは誰もが願うところであるが、歴史や文明においてまで東西の岐路にあるアフガニスタンは、安穏とは程遠い宿命にあるのだろうか。対英独立戦争から内乱・対露戦・内乱と半世紀を戦乱下に過ごし、国民の半数近くが難民として漂白の日々を余儀なくされてきた人々である。運命とはいえ、その過酷さに深い思いを抱かざるをえない。国連のリーダーシップのもと、国民の望む建国を進めてほしい。
 思えば、政治を行う者に恵まれない国の民の不幸は計り知れない。ひるがえってわが国を見てみると、政治を行う者に恵まれたとは言えないけれども、やはり、アメリカというパートナーに恵まれたことの幸運は、否定することのできない歴史の事実であった。大国のエゴ、西側世界の盟主としての専横など、何かと批判の対象になることは多く、国内的にもさまざまな問題を抱えている国であるけれども、民主的で開かれた、誰にでも機会のある平等な、誰をも受け入れることのできる懐の広い、そして何よりも明るい国である。この国に、運命を委ねたことを、今は幸運というべきであろう。そしてこれからは、わが国も国際社会の舞台において、自らの役割を立派に果たし、他国の幸せに寄与できる国にならなければならない。


【23】『アメリカよ、お前って、案外、普通だなぁ』とタリバンが言っている? (11. 5)

 アフガニスタンでの戦闘が泥沼化しそうである。アメリカ軍はもうちょっと強いと思っていたのだが、タリバンの戦闘意欲と実戦力は予想以上の手強さであったということか。
 日本には織田信長の石山本願寺攻めという古事がある。南無阿弥陀仏を唱えて殉教に燃える一向宗徒が立て篭もる石山寺を、信長は三方の陸と背後の海上を封鎖し、食糧の補給を絶って攻略したのだが、それでも足かけ4年の歳月を要したと聞く。「宗教は無色透明の間はよいが、これが正義を唱えだすと厄介である」とは、アイルランド紀行にあった司馬遼太郎氏の言葉であるが、確かにそうなると宗教ほど残虐なものはない
『イスラム教では、神(アッラー)のために闘う「聖戦(ジハード)」という槻念がある。もともとイスラム教は教祖のムハンマドが異教徒と闘うこと(聖戦)によって確立したものであるから、後世の信徒も、それにならって常時異教徒と闘いつづけ、イスラム教を世界中に広げることが求められている。つまりジハードヘの参加はイスラム教徒の義務なのである(だからサラセン帝国は一挙に広がっていった)。そして、ジハードにおいて死ぬことは殉教者になることで、殉教者として死ぬことは、イスラム教徒にとって最高の功徳となる.イスラム教の聖典である「ハデイース」はジハードについて次のように教えている。
 「たとい一日でもアッラーの道の戦に身を投ずることはこの世とそこにあるすべてのものより良く、(中略)人がアッラーの戦いで朝な夕な歩む一歩の方が、この世とそこにあるすべてのものより良いのだ」「我々のうちで殺される者は天国に入るであろう」「アッラーの御為めに殺された人たちを決して死んだものと思ってはならない。彼らは立派に神様のお傍で生きておる」「聖戦に匹敵する行為は何であるかお教え下さい。それは見当らない」「天国に入ることになる人は、たといこの地上に何を持っていようと、現世に帰ることを誰一人として望まないが、ただ殉教者だけは別で、彼は神から与えられる恩寵のことを知っているため、現世に戻り、さらに十回も殺されることを切に願うのだ」
 日本人はこんなものを読んでも、「ただの紙の上の教えじゃないか」と思うだけかもしれないが、熱心なイスラム教徒は、これをそのまま本気で信じているのである。彼らの最大の関心事は現世のことではなく、死後天国に行けるかどうかである。殉教は天国へのパスポートだから、現世で生きつづけるより、殉教者になって天国で生きるほうが何倍もいいと信じているのである。タリバンがなぜ強いかというと、彼らはイスラム神学校出身者の集西で、熱心な信徒以上に、イスラムの教義を強く信じ、死をいとわないどころか、死(殉教)を望んで戦うからである.』(立花 隆 「自爆テロの研究」 文芸春秋11月号)
 アメリカとしては、この戦いをキリスト教対イスラム教の構図にすることと、第二のベトナム戦争にすることだけは何としても避けねばならないが、ここでひるむわけにはいくまい。最初、アメリカの圧倒的(であるはずの)戦力に及び腰であったタリバンも、一般民衆を巻き込むことを恐れて市街地攻撃を避け、山間や洞穴のタリバン陣地に向けてミサイルを撃つだけのアメリカに余裕を見せて、「ビンラディンは渡さない」と言うようになった。
 ここは大国アメリカ…、舐められっ放しでは終われない。イスラム教国家を初めとする世界世論に対して、「テロ撲滅は、キリスト教対イスラム教の戦いではない」ことの理解を得るとともに、同盟支援国の全面協力を取り付けて、圧倒的な戦力の差を見せつけねばなるまい。そして同時に、この争いの根底にあるパレスチナ問題の解決に、正面から取り組み、世界の評価を得ることが必要であろう。


【22】テロは弱者に許された権利なのだろうか                (10.25)


 米英軍のアフガニスタン攻撃に対して、批判的な声が高まってきている。テロは弱者の権利なのだろうか。いや、目的のために手段を選ばない…、宣戦布告もなく、一般市民を無差別に巻き込み、姿を見せないテロという戦いには何の権利もありはしない。正面からの戦いには勝ち目がないからという理由でテロ組織を認めるわけにはいくまい。今回の米国多発テロに対しては、西側諸国はもちろん、イスラム諸国もテロ否定を強く打ち出しているように、テロは否定されるべき非合法的な存在・手段である。それがやはり世界の正義なのである。

 ソ連軍の侵攻に対するアフガンゲリラの戦いは、正当な権利であった。ベトナム戦争時のベトコンや、「誰がために鐘は鳴る」の舞台となったスペイン解放の共和軍にも、反体制の戦いではあってもそこには正当性があった。神出鬼没の戦いを得意としたけれど、彼らには姿と形があり、戦う相手は戦闘集団であったということが、彼らのゲリラ戦の正当さを保証しているわけである。

 が、オサマビンラディンを初めとするアルカイダ一派とか、これを保護してジハードを叫ぶタリバン勢は、その戦いの方法において誤謬がある。中東問題とか、アラブ諸国へのアメリカ軍の駐留とか、石油利権への干渉などといったさまざまの不当と主張する問題があるとしても、だからといって、テロが許容されるわけもないし、テロ集団に対してその勢力を殺ぎ(そぎ)殲滅することに、躊躇することがあってはならない。ここで米英軍の進攻を批判するならば、もはや世界はテロに対する抑止力を失う。 

 民間機を世界貿易センタービルに突っ込ませ、6000人に及ぶ民間人の命を奪った行為を見逃すわけにはいかない。テロは許さないということを、世界は共通の認識として明らかにするべきである。中東問題や石油利権の問題は、また別の次元で解決への努力をする問題であろう。


【21】 アフガニスタン難民への日本からの救援物資           (10.22)

 国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)からの要請を受けてアフガニスタン難民救援のため、自衛隊のC−130H型輸送機6機で救援物資【テント(10人用)315張、毛布200枚、ビニールシート75枚、スリーピングマット20枚、給水容器400個】をパキスタンに運んだ。この任務にあたったのは自衛隊の空輸隊員約140名と運航支援隊員約20名である。国会中継でも取り上げられ、社民党の辻本女史が「鳴り物入りでパキスタンへ運んだテントが、実はパキスタン製であったということをご存知でしたか」と叫び、中谷防衛庁長官が「存じております。それを日本から運ぶということが大切なのであって、自衛隊員は一生懸命やっております」と答え、「一生懸命やっているというような情緒的なことを言っているのは甘い」と叱られていた。
 辻本議員のトーンの高さに文句をつけるつもりはないが、あの金切り声で問題点を連呼されれば精神衛生上良くないなと思いつつ、日本の救援のお粗末さに疑問を持った。新聞等でも報じられている通り、飛行機の燃料費だけでも往復3000万円、民間に任せれば2000万円までには確実に抑えられるといい、航空各社は@航空法などに準拠 A運航の安全確保 B内容が武力行使に当たらないの三原則が確認できれば協力すると表明していた。
 政府としては、福田康夫官房長官が四日の記者会見で説明していたように、「日本政府がやっている姿、主体性を見せる」必要があったということだろう。アメリカから言われた「Show the flag」を、「旗を見せろ」と訳した英語力のお粗末さには恐れ入るが(正しくは、立場を明確に・旗幟を鮮明に…といった意味)、自衛隊に運ばせることに意味があったのだ。
 それにしても、テント(10人用)315張、毛布200枚、…とは、あまりにも少ない。飛行機の燃料代3000万円でパキスタン国内で買い求めれば3000張りは買えるという報道もあったが、韓国の2000張り・イギリスの1500張りなどに比べて、金と物しか出さない日本としては意外な少なさである。
 10月8日の米英軍のアフガニスタン攻撃から半月、9月11日の米国での同時テロ発生からはすでに40日余が経とうとしているが、いまだ参議院で審議中の自衛隊法改正は早くて10月末の成立。自衛隊の出動は命令・準備・編成に数週間はかかるから11月後半となるだろう。出動しても、非戦闘地域しかウロウロ出来ないのだから、ホントのところ何の役に立ちもしない。こんな自衛隊の姿をさらして、国際舞台に通用すると考えているのだろうか。行き着くところは憲法改正を行わねばならないのだが、国民にもきちんと説明して改正に取り掛かる時期であろう。
 このように戦闘には邪魔になりこそすれ何の貢献もできない日本が、テント315張りでいいのか。現地では国連の係官が「少なすぎて、披露できない」と荷物を解こうともしないという。憲法の制約があって自衛隊員を戦闘地域に派遣することは出来ないという説明に理解を得ようとするならば、日本の経済規模から言って、テントは世界一の数…3000張りでなくてはなるまい。それでなくては、米国を支援する日本の姿は、世界の人々に見えない。

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