【44】韓国チームの健闘を讃えて −FIFAワールドカップ2002−    (6.28)


 中津江村のカメルーン騒動から始まったワールドカップサッカー2002も、明後日の決勝ドイツVSブラジル戦で幕を閉じる。日本では、1ヶ月前までベッカムのべの字も知らなかった若者たちが、にわかベッカムファンとなって巷にあふれた。
 特筆すべきは、韓国チームの健闘であろう。一戦一戦にみせた韓国チームの闘争心・粘り・勝利に賭ける執念は、感動的であった。予選リーグでは強豪ポルトガルを破って1位で決勝に進出し、決勝トーナメントでは敗戦必至という大方の予想を覆してイタリア・スペインを次々と撃破し、堂々のベスト4を勝ち取ったのである。今までにワールドカップで1勝もしたことがなかった韓国チームがここまで勝ち進んだのは、もちろん練磨と精進の賜物であったのだろうが、忘れてはならないのは、開催国として勝たねばならないという選手たちの決意であり、それを支えた韓国国民の熱狂的な応援である。
 日本チームの健闘も特筆に価する。予選リーグの第1戦ではベルギーを相手に引き分けて、ワールドカップ初という勝ち点1を記録し、第2戦のロシアでは歴史的な勝利を収めて、H組の第1位で決勝トーナメントへと駒を進めた。その緒戦、トルコに敗れて日本のワールドカップは終わったが、それが順当というものであり、十分にがんばった結果であった。
 ただ、韓国にあって日本にはなかったものがあったことは確かである。韓国チームには「負けてたまるか」という決意がみなぎっていたし、国土を真ッ赤に染める熱狂の応援があった。それが相まって、「不可能を可能にし、限界を超える大きな力」が生まれたのである。
 今の日本には、どこかに忘れてきた熱く強い思いである。私たちは、国を愛し、民族の文化をいつくしみ、同胞が団結することがいかに素晴らしいことかを、もう一度真摯に考える必要があるのではないか。韓国チームの大健闘に、国旗を振って「韓国人であることを誇りに思う」と叫んでいた女の子を育てた土壌を、畏怖するべきではないのか。日韓を比べると、チームの成績だけでなく、国民の取り組みと意識も、韓国に軍配を上げざるを得ないと思うのは、必要の無い思索なのだろうか。



【43】「ETC」設置の費用は道路公団が負担して、利用者に貸し出しを!(6.22)

自動車
 高速道路の料金所で並んでいる車を尻目に、金も払わずに専用レーンをノンストップで通過していく数台を見た。ETC(自動料金支払い装置)をつけている車だという。「そんな便利なものを、なぜみんなつけないんだ」と言ったところ、「4〜5万円かかる」という話。
 ETCの目的は、料金所をノンストップ! 渋滞をなくするとともに、料金収受の人員を削減できることにある。だとすれば、ETC設置の費用は道路公団が負担して、利用者に貸し出す形をとるべきではないのか。貸し出し時に保障金を預かり、返済の際には返すという制度にすればいい。
 利用者は快適ドライブを得るというが、それは高速道路の建設目的であって、けっして安くない利用料金に含まれているはずである。それを、ETCは利用者が好きでつけるのだから、費用は各自が負担を…というのならば、ETCを取り付けるものはよほどのお人よしか、論理を理解していないアホということになる。
 現在でも渋滞している料金所なのに、私たちがノロノロと通過する間に2台しか通過する車がないETCの専用レーンをつくり、渋滞に拍車を掛けている道路公団の身勝手さにはあきれかえる。渋滞解消やコストの削減に対して、自分たちの血と汗を流そうという姿勢もなく、利用者に重ねての負担をさせて当然であるとしている。こんな論理が通用すると考えて、何の疑問も持たない体質なのだから、解体して出直すしかなかろう。


【42】瀋陽総領事館への北朝鮮住民亡命事件 その2   (5.16)

 中国側は、「日本領事館員の了解のもとで拘束連行した」と言い、日本側は本庁から調査員が出向いて、「要請したことも、了解したこともない」という調査結果を公表した。しかし、「日本領事館員の安全を守るために立ち入った」というコメントから、「日本の要請によって…」と転じた中国の発表も説得力はないが、日本外務省の発表も、「(調査報告にはなくて、中国側から指摘され)駆け込んだ人は英文の亡命希望を領事館員に見せていた」などと次々と新事実が出てきて、いまいち信憑性に欠ける。わざわざ外務省から小野正昭領事移住部長ら調査団を派遣して、ことの真実をつぶさに調べたわけである。結果は、日中両国の威信にかかわる真実を示す重大な責任を持っていた。それが、報告にない新事実があとからポロポロと出てくるようでは、その責務を果たした調査であったといえないし、更には日本側の対応自体の信頼を損なってしまう。
 阿南惟茂駐中国大使が、この事件が起こる4時間前に会議の訓示で「亡命者は追い返せ。人道問題になっても、政治のゴタゴタよりましだ」と発言したという問題が生じているが、十分な根拠のある報道なのだろうか。事実とすれば、人智に悖る発言といわねばならないが、「不審者には十分注意せよ」という訓示ならば、大使として当然の訓示である。『そんなことは言っていない』で片付いてしまうような報道ならば、報じたほうの見識を疑う。話題の事件の関連だから、とにかく小耳に挟んだ程度のものでも、しっかりとした裏付けもとらないままに記事にしたと言われても仕方のない軽さである。
 阿南大使は、第二次世界大戦終戦時の阿南惟幾陸軍大臣の子息である。父の生き方をもって息子の今を云々するつもりはないが、玉音放送に先駆けたその自決こそが終戦時の各地陸軍の暴走を食い止めたとも言われる生き方を貫いた人であった。今、阿南大使の訓示が、「亡命者をできるだけ排除せよ」という意味合いを帯びるものであったとしたら、日本の戦後外交の指針がそうである以上むべないことというべきであるとしても、父子の世代でこれほどの違いを日本という国は生じていることに愕然とする。父は命を賭けて日本の国のかたちを守ろうとし、子は世界の中でできるだけ紛争の渦中には巻き込まれまいとする国の施策を守ろうとしている。


 この問題の教えるものは何であったろうか。ひとつに、国家や民族の誇りを持って生きることを、日常の中でいつも思い考える大切さに気づかされたことだろう。
 国を守り、民族の矜持を保つことは、智に働き情に掉さす場合が多いことを覚悟せねばならない。日常の中に緊張した精神を持ち続ける苦労もせねばならない。だが、日々にその覚悟と緊張を持ってこそ、人は生きるという意味を全うすることができる。経世の諸事にも、的確な対処をなすことができるのである。主権を侵されても排除できない…国の誇りを辱め、人道上の支援に手を差し伸べることもできない…自らの人格を切り売りしているような生き方は、人として生きるうえで恥ずかしいことである。
 この国は、今、大きな曲がり角に差し掛かっていることも、この問題から改めて知らされた。ここで改革を成し遂げなかったら、日本は経済破綻から政治崩壊をたどり、行き場のない国民は貧しくとも品位ある国家を選ぶことはなく、国民投票の結果として合衆国日本州への道を選ぶことになるのだろう。日本は米国の一つの州となることによって、憲法改正も経済の自己責任徹底も食料自給や社会保障の問題も容易に解決するし、対中国におびえる国防もペンタゴンの指示を待てばよいということになる。
 ヨーロッパ諸国がEUとしてクローバーリズムに対処しようとしているように、もはや世界的な激流を受け止めるには、国家としての規模は小さ過ぎるのかも知れない。日本にはもうひとつ、地理的にも歴史的にも必然性のあるアジア諸国との連携をもって、35年になるASEANを核として更なる発展強化を図り、南アジア・西アジアを含めた政治的経済的連合機構を実現していく道がある。このほうは、国家と民族の独立を掲げ、発展途上にある国も多いアジア諸国の要請を受けて援助や指導に手を貸し、新しい地域世界の実現を図らねばならない。中国や北朝鮮とも、独力で渡り合って大同団結を図らねばならない。このやっかいすぎる隣国を抱えて、日本にそれを実現する政治的土壌と経済の底力そして何よりも「志」はあるだろうか。
 このことはまた別の機会の論を待つとして、日本はここで改革を成功させなければ、国家として世界の舞台に立つ機会はもう訪れないことを繰り返しておきたい。
 小泉首相は改革を叫んで1年を経てきたが、その改革はとても失敗したら腹を切る覚悟を持っての、本気であるとは思えない。2010年に上海は、人口も規模も東京を抜く大都市になる。このことは、中国がアジアにおいて不動の位置を占めるにいたることと同義である。
 他のアジアの諸国も経済危機を乗り越えてV字型の経済復興を成し遂げ、安い人件費と建国の情熱をもって、日本のあとを追っている。欧米ヘッジファンドによって壊滅的な打撃をこうむった数年前、アジア諸国は、マレーシアのマハティール首相などのように、日本が中心となって経済共同圏を構築することを求めていたのに、日本は米国の意向に応じてアジア共同体を視野に入れることはなかった。
 不良債権の処理が進まない国内経済の建て直しに必死で、米国の意向を汲まざるを得なかったことも事実であったろう。世界の激流は、年を追うごとにその流れを加速度的に速めている。日本がここで改革に足踏みしていれば、これからの10年は、失われた10年の痛手の何倍かの致命傷をもたらすことだろう。
 アジア共同体を主導する国家と成りえるのか、それとも米国日本州として極東防衛を担うのか…、いや中華人民共和国日本省として中国語を国語とする国になるのか…、正念場であることを肝に銘じることである。


【41】瀋陽日本総領事館 北朝鮮住民亡命未遂事件    5.11

 中国瀋陽の日本総領事館に亡命を求める北朝鮮の家族5人が駆け込み、領事館敷地内において中国の武装警官に拘束され連行されるという事件が発生した。

 本来、不可侵であるべきはずの領事館敷地内に武装警官が入り込んで、亡命を求める人を拘束・連行したのである。TVの映像を見られた人は、中国人の武装警官が明らかに領事館の門内に入って、2人の女性と1人の女の子を引きずり出すシーンを目の当たりにされたことだろう。そしてさらに大きな問題は、このあと中国警察の数人が日本領事館の建物の中に踏み入り、館内に逃げ込んでいた2人の男性を縛り上げ連行していることである。
 中国側はこの警官の行動を、「領事機関の公館の不可侵を定めたウィーン条約に違反している」とする日本政府の抗議に対し、同条約が「公館を保護する接受国側の責務を規定している」点を指摘し、「連行は総領事館と館員の安全確保のためで、同条約にも違反していない」とコメントしている。 しかし、日本館員が要請してもいないのに敷地内で亡命希望者を取り押さえ、さらに2人の男性の拘束には建物の中に立ち入り日本館員の制止を聞かずに連行していくという行為は、明らかに日本の主権を侵害している。逆の立場になれば、日本国内の中国大使館に、ロシアへの亡命希望の他国人が駆け込んだのを、日本の警察が踏み込んで逮捕連行してもよいということなのか。世界のどこにあっても、大使館・領事館は、その国の主権が認められる聖域なのである。
 主権侵害に対して、日本政府は断固たる抗議をし、中国の謝罪と、日本の主権下において中国警官に拘留連行された5人の身柄引き渡しを要求しなければならない。

 領事館敷地内で起こった身柄拘束に対して、瀋陽日本総領事館員はこれを不当であるとして排除すべき行動を何もしなかったと指摘されていることについてだが、韓国通信社のニュースは「一部目撃者は、日本総領事館にいったん入った2人を中国武装警察が強制的に連れ去る前に、館関係者と警察側が協議していたと主張している」と報じ、治外法権が認められる所での中国当局の行動の問題性とともに、日本領事館側の対応も「非人道的だ」として、「日韓の外交摩擦に発展する恐れが強い」としている。
 日本は過去に、「命のビザ」と称され、ナチス・ドイツの迫害から逃れるユダヤ人難民に通過査証(ビザ)を自らの判断で発給し、約6000人の生命を救った元リトアニア領事代理の杉原千畝氏など、素晴らしい外交官を輩出している。それが、国家の主権を踏みにじられる事態を目前にして手をこまねいていて、亡命を求めて駆け込んで来た人々を領事館の敷地内で拘束されても保護することができないなど、なんともお粗末である。今回の出来事は、TVで放映されて全世界に流れた。映像は、中国の横暴とともに、立ち尽くす日本の外交官の不甲斐なさを赤裸々に映し出している。外交官には、国を代表する使命感と気迫がなくてはならない。
 戦後50余年、日本人は誇りをどこかへ置き去りにしてきた。理不尽な横暴にもあいまいに笑い、白黒をつけずに物事を処理してきた。独立国として国を守ることよりも、経済の繁栄を優先してきた国であった。辱められても、フトコロさえ痛まなければよしとする卑しさを、恥ずかしいとも思わずに半世紀を過ごしてきた国民であった。瀋陽総領事館の館員たちは、毅然たる気概を忘れてきた民族のなれの果てなのかもしれない。

 日本総領事館でこの事件が起こった8日、すぐ近くのアメリカ総領事館でも北朝鮮住民2名が亡命を求めて駆け込み、9日にも1名が駆け込んでいるが、アメリカ総領事館ではこれらの亡命者を全て保護している。もちろん中国警察が踏み込むことはない。日本総領事館とアメリカ総領事館に対する、中国側の態度の違いは何であろう。
 中国にとって、日本は恫喝しやすい国であり、強硬に出ればすぐに引っ込む、御しやすい国なのである。今日までの日本の外交が、この中国の姿勢をつくってしまったことも、残念ながらある部分で事実だろう。
 歴代首相の靖国神社参拝問題にしても、もともとは社会党訪中団が「靖国参拝をどう思いますか」と提言したことから生じた問題であって、中国側はこれを持ち出せば沸騰する日本の国内世論と右往左往する政府関係者の姿を見て、切り札として有効であることを知り、トウカセン外相は「やめなさい」と日本語で断じ、コウタクミン主席は「絶対に許すことはできない」と怒りをあらわにする。
 東京裁判史観のもと、戦犯とされた人々であったとしても、日本のために命をささげた英霊に対して、国の指導者が鎮魂の参拝を捧げるのは当然ではないのか。夷荻を打ち、他民族を征服殲滅して国を形づくってきた中国の古来の覇王たちに対して、中国人民は敬意を捧げないのか。いや、そんな理屈を並べる以前に、「中国の指導者たちよ。日本の問題に口出しするのはヤメナサイ」と言うべきであろう。
 「君子は、和して同ぜず」と言う。人間として信頼し合ってなお、問題点はうやむやにすることなく、堂々と論じ合うべきだという教えである。古の中国の偉人がこう諭しているのだから、言うべきことは堂々と言うことが肝要である。

 TV映像は、中国の非道を、全世界に報じている。だからこそ、この問題にきちんとした、そして断固とした対応をするかどうか、日本の姿勢を全世界が見つめている。

 追.
 この項を起こしいてる今、午前7時、新たな中国側の反論が入った。「総領事館と館員の安全確保のため」に立ち入ったと言うのでは、何の説明にもならないことに気づいたのか、いわく「中国警官の立ち入りは、副領事の同意のもとに行われた」と。
 日本の副領事が外交官として、亡命を求める人を拘束することに同意を与えるとは考えられないが、中国側が新たに主張する「同意のもと」という立ち入りは、2人の男性の拘束に際して建物に立ち入ったことの正当性を論じたものにすぎない。
 正門を入ったすぐのところで、飛び込んだ2人の女性と女の子を押さえ込み引きずり出した際には、中国武装警官は日本側の誰とも接してはいない…、そんな時間も機会もなかったからである。すなわち、「同意のもと」という中国側の主張は、日本総領事館の敷地内に立ち入り、亡命者を拘束連行したという行為の正当性を裏付けるものではないのである。
 仮に、日本館員の誰かが、ありえないことだが2人の男性の拘束に同意を与えていたとしても、日本総領事館の敷地内に許可なく立ち入り、2人の女性と1人の女の子を押さえ込み引きずり出した無謀さを正当なものであるとする説明にはならない。
 世界に放映されたこの問題に、説明をしなければならない中国の苦心が垣間見られる。しかし、上の反論に整合性はなく、日本の対中国外交にとっても、対等外交へ転換をなすことのできる試金石ではないか。



【40】 日本経済に対する責任感のない銀行は、整理機構へ!        (4.27)

 米有力格付け機関スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)は、日本の長期国債格付けを「AA」から「AAマイナス」に1段階引き下げた。これによって日本国債の格付けはイタリアの「AA」を下回って、先進国の中では最低水準となった。
 S&Pは、小泉政権が政治と産業の改革を推進すると期待していたところ、「今後数年間、財政赤字は高水準で続くであろうこと」「金融庁は特別検査までを行ったのに、不良債権問題対策は不十分だったこと」「年金問題などの社会政策への取り組みや、産業分野などの規制緩和が不十分で、改革は進んでいない」などの現状であることを、引き下げの理由として挙げている。
 外国から見ても、小泉内閣の改革は進んでいないということだ。内外に問題は山積し、日本経済は今や壊滅状態であるというのに、掛け声ばかりの小泉改革は、例えば解体廃止を約束した石油公団や道路公の処理も、族議員と官僚の抵抗にあって、いつの間にか独立行政法人などといった名前ばかりが変わったものになり、そのままの組織で生き残りを許してしまっている。
 世論の批判をかわそうと、「郵政3事業の民営化」を絶叫したところが、『参入する会社は、全国に10万個以上のポストを設置すること』などと、法整備に無理難題を盛り込まれて、頼みの綱のクロネコヤマトに、「設備投資に莫大な資金がかかりすぎる」と撤退を宣言されてしまった。


 再三の格付け引き下げに対して、無策の財務大臣は「日本の潜在力を正当に評価していない」と言い放つ始末だし、経済通も「日本に対する最大債務者であるアメリカの会社が、何を言うか」(田岡朝日新聞客員)などと能天気に構えている。日本経済を低迷させている張本人の銀行は、不良債権を処理する気持ちもない。
 銀行は公的資金注入の際に不良債権の早期処理を約束したはずである。ところが、不良債権はこの1年で4割も増えていて、昨年3月、17兆8800億円あった大手行の不良債権残高は、今年3月末、24兆円強になっているのだ。今、多額の処理をして大幅な欠損を出し、経営責任を問われることは避けたいというのが銀行経営陣の本音で、いずれ景気がよくなれば、自然に解消されるものだといった対処しかされていないのが実情である。
 日本に銀行制度を築いた松方正義は、『「多数人民ノ共同資本」からなりたつ銀行は、本来、債権者と債務者との間に立って金融の「疏通」を図り、両者間の「商業ノ便益」を考慮すべき立場にある。そのために「実際ノ営業」は確実を期し、充分な社会的信用を得て、社会の建設に寄与しなければならない』と述べている。
 今さら言うまでもなく、金融機関は自由主義経済の要諦である。経済の血液である通貨を動脈に送り出す心臓のような存在であって、個人や企業からの預金を、設備投資や事業資金が必要な企業に貸し出して利益を生む。この金融システムの機能によって経済は発展してきたのである。
 ところが、今や日本の銀行は、国民を犠牲者にする空前の低金利政策で延命保護を受け、その一方で貸し出しは渋りに渋って、無理やり融資を引き揚げている。
 銀行は「貸し渋りはしてない」と主張するが、金融庁が今年1月に発表した金融機関の「預金・貸金動態」を見ると、預金はメガバンクなど7行で約214兆円。これは昨年3月比で約11兆2000億円増(5・51%増)であり、一方、貸出金は約205兆円で9兆3800億円も減っている。数字は、預金は増えているのに貸出金は減っていることを示しているのだから、銀行の貸し渋りは明白である。堅実ではあっても経営基盤の脆弱な中小企業は資金繰りがつかずバタバタ倒れていて、帝国データバンクが発表した昨年度の企業倒産は、17年ぶりに2万件を突破した。
 では、銀行は預金を市中に回さず何に使っているのかというと.政府が発行する赤字国債を買っているのである。これほど大量の国債が出ているのに長期金利が上がらないのは、都銀が国債を買いこんでいるからで、国内銀行の国債投資残高は、01年末で66兆円を超す異常な数値に膨れ上がっている。的確な審査能力のない日本の銀行は、企業の血液ともいうべき融資を行うことなく、リスクの少ない国債を買いあさっているのだ。経済に対する責任の自覚も持たず、企業努力もしない銀行の存在価値はなく、むしろ日本経済にとって銀行の現状は百害あるばかりである。
 もう10年も前にカリフォルニアへ旅行したとき、両替に立ち寄ったバンクオブアメリカの女子行員は、「窓口業務は午後7時まで、ATMは24時間働いています」と言っていた。今、公的資金で生き延びている日本の銀行は、午後3時で窓口を閉め、ATMも午後8時まで。しかも、客が自分の金を自分で操作して出金や送金をしても、100円余の手数料を取る。そして銀行員の平均給与は、同年代の他企業就業者と比べて、今なお高水準である。


 先日の金融庁による特別検査は、たるみきった銀行に渇を入れ、ウミを出す最後のチャンスであった。「融資先を厳しく査定し、ダメな取引先への引当金の積み増しや、法的整理をさせ、自己資本不足になったら経営トップの責任を問うた上で、公的資金を注入する」という方策が設定されていたはずであった。厳しい検査で不良債権と無責任な経営トップを一括処理すべきであった。
 ところが.現在の金融機関の融資残高は約300兆円あるが、そのうち今回の検査は大手13行が抱える100億円以上の大口融資先149社、約27兆円分のみにつてい行なわれただけである。そして結果は71社、7兆5000億円分について査定区分を下げ、昨年9月末に比べて不良債権額が4兆7000億円増えた(総額は7兆8000億円)という。一説には、「日本の不良債権は100兆円以上」と言われている現在、これで解決にメドがついたというのはあまりにもお粗末過ぎる。
 企業が決算期を迎える3月には、国民年金基金などの資金を60兆円も放出して株式市場に介入し、株価を吊り上げる工作をしている。それまで8000円台であった平均株価は11000円を回復し、含み損を大きく減らして、企業の決算はかろうじて大幅赤字を縮小している。こんな小手先のインチキで、経済の現状を覆い隠していてよいのだろうか。
 柳沢金融担当相は「思い切った処理をしてもらった」と言い、「不良債権は1年以内に半減、3年で最終処理させる」と、聞き飽きた言い訳をまだ繰り返している。
 こんなことをしていては、日本の金融システムが市場からも海外からも信用されなくなるのは当然である。今回の国債の格下げは、この結果を踏まえたものだったのだから、こうした銀行のあり方と日本の金融政策は外国からも何らの評価がなされていないということが判明したといえる。


 こう見てくると、銀行が景気の足を引っ張っているのは明白だ。日銀が未曽有の金融緩和策をとっているのに、市中にカネが出回らず、潰れなくてもいい企業まで潰されている。それでいて、本当に潰れるべきゼネコンや流通が、政府と銀行の思惑によって生き残り、それがさらに景気の足を引っ張るという悪循環を繰り返しているのだ。
 金融庁は責任を持って自らの手で不良債権の実勢調査を徹底的にやるべきである。判明したものは現在価格で強制的に買い上げ、処理機構の権限で買い手を探して処理することである。一時的な避難所としての国民銀行を設置してもよい。
 未曾有の通貨危機に見舞われたアジア諸国が、今日、V字の景気回復を成し遂げてきた要因のひとつは、国家による金融機関の不良債権処理にあった。現在価格では莫大な欠損を計上しなければならない銀行側は、経営責任を厳しく問われなくてはならないし、倒産も覚悟しなければならないかも知れないが、政府が本腰を入れて受け皿を作って、影響を食い止めればよい。その結果、銀行の幾つかが潰れても、真に健全な銀行がこれを引き継いでいけば、経済の基盤は整備され、活力がよみがえる。
 「AAマイナス」が実情である日本経済にとって、責任ある処理を断行することは、それほど猶予期間のある話ではない。口先ばかりの改革を、もう国民は信用しない。和歌山・新潟・徳島の補選・知事選にも、小泉自民党は勝利できまい。日本の現状を、人々は敏感に感じ取っている。



【39】 健全な国へ 政権交代を                        (4.15)

 ひとつの政権が長い年月にわたって続くと、そこにはどうしても歪みや澱みが生じる。生まれながらにして欲と業を背負った人間の宿命なのであろうか、権力の座に就いたものはおしなべて名誉と富を求める。手にした権力を私のために使うとすれば、たちどころにその政権や人は卑俗なものとなる。アメリカの大統領が三選を禁じられているのは、この趣旨によることはよく知られた事例である。

 日本の昨今のかたちを見ると、長すぎる自民党政権の弊害が顕著に見られてならない。まず第一の弊害は、政権運営に対するおごりであろう。野党やマスコミなどの批判勢力が健全に育っていないこともあって、少々の間違ったことはごり押しで通ると、政治を私物化することに慣れてしまっていて、自らを律する心を失っている。内部告発によって出納帳の一部が明らかにされた、内閣官房機密費の存在を頑として認めない態度などは、その顕著な例であろう。福田官房長などはまだ、「あれは加藤紘一幹事長(当時)の私的なメモ」と言っているが、私的に支出された項目も多い官邸機密費を『存在しない』と否定してきた面々は、秘書費用流用疑惑を否定した辻本議員の“嘘以上のものではないのか。
 旧態依然の政治を繰り返していれば少なくとも政権維持は安泰といった、責任感も緊張感もない政権からは、進取の精神も意欲ある国づくりのビジョンも見えてはこない。小泉改革は、そんな自民党政治に対して国民が抱いた最後の期待であったのだが、コブシを振りかざした当初の改革への意欲は、現実との妥協に粉砕されて、特殊法人は名前と機構を変えただけで予算も人員も削減の実はあがらず、外務省改革をはじめとする中央省庁の改革さえも何らの進展も見せてはいない。不得意な経済問題…不良債権の処理、産業構造の改変などは、今に至ってもまだ出口の見えない迷走のままだし、第一に政界の浄化さえも進んではいない。結果を急ぐわけではないが、国民に対して進行しているという状況を明確に説明できないことが、改革の進んでいないことを物語っている。

また、長すぎる自民党政権は、政官業の癒着を産んだ。政権にすりより支えることによって、保護と安定を求めた産業界は、輸入された世界の先端技術を、勤勉さと高い教育によって築かれた国民性によって、世界に冠たる経済大国を築き上げたけれども、常に自らの創意工夫と努力を注いで新しい道を切り開くことをしなかった結果として、より大きな規模を持つグローバルな世界経済と台頭する新興国との競争になすすべもなく右往左往している。例えば全国で25万社といわれる多すぎる土建会社は、自民党の集票マシンとして大きな力を振るい、公共事業という利益を分かち合ってきたわけであるが、もはや、癒着という旧体質では解決できないところまできている。独自のビジョンを持って自らの技術を磨き、真の競争に勝ち抜く覚悟と努力を持つしか、生き残る道はないことを知るべきであろう。

世界に誇る優秀な…と形容された官僚組織についても、自民党の方しか見ない価値観の偏ったものになってしまっている。彼らの最大の価値は、自民党にとって都合のよいものとイコールになってしまっていて、自民党の権益を守る政策を実現していれば、自組織の権益も保護されるという図式が出来上がっている。政権が移ることがあれば、官僚組織も一党の利便ばかりを図ることはなく、その判断も政策実現への努力も、中立公平なものとならざるを得ない。いっとき、村山社会党政権が出来上がったことがあったけれど、社会党は政権担当の組織も能力もなく、むしろ官僚が統制する傀儡政権であった。健全な政権を担当できる野党の育成が急がれる。

 こうした政治の停滞は、国民のあきらめと政治不信につながる。健全な野党やマスコミが育たなければ、人々は政治に対する情熱を失う。今、国会ではその成立に多くの議論のあるべき「有事立法や個人情報法」が、国民の意識と離れたところで成立しようとしている。憲法の改正を含めて、日本の戦後体制の整備は確実に行われなければならないが、この「有事立法や個人情報法」については自由主義や市民生活について多くの問題を含んでいる。国民の間にほとんど議論がないのが、国民の政治に関する無関心さを象徴しているようで不気味である。
 「有事立法」はシビリアンコントロールが確立されているかどうかの検証を尽くすべきだと思われるし、「個人情報法」については人権保護と情報公開やニュースの取材についての兼ね合いが詰められるべきだろう。この法律が成立したら、内部告発文書は証拠としての効力を持たず、公表したものは罪に問われるということになったりしたら、日本は再び大きな闇の部分を持つことになる。もっと議論を積み重ねなければならないのではないだろうか。
 情報を政権が支配する仕組みであってはなるまい。永遠に与党としての立場や考え方から、仕組みをつくろうとするのは、独善でありおごりである。政権が交代する可能性を持たせれば、情報を操作される側に立ったときをも考えての仕組みづくりを心がけるであろう。

戦後の日本の復興において自民党政権が果たしてきた役割は評価されるし、日本の国民各層を代表する政党としての存在であることも確かなのだろうけれど、今日の政官業の癒着と不祥事、それに対応する自民党幹部の言動と対応、国民の間のあきらめと政治不信などを見ると、この状況を招いた自民党政権の責任は大きいし、わが国の政治の歪みや澱みを是正してこの国のかたちを正すために、健全な野党の育成と政権の交代が望まれる。


日本は、今 その3        
                         

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